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2013年9月16日月曜日

平田オリザ(2012)『わかりあえないことから—コミュニケーション能力とは何か—』講談社現代新書

コミュニケーション能力論は、昨年度「コミュニケーション能力と英語教育」という学部での授業を受けて以来興味がある分野でした。
本書の存在も知ってはいたのですが、いざ読もうとなるまで長くかかってしまいました(反省)。
読み始めると、塾講師としての経験や他の教育批評書と関連する部分が多く、様々な考えを巡らせながら読むことができました。特に、以下で示すダブルバインドやランダムのプログラミングはとても鋭い指摘だと思い、一種の感動を覚えました。

以下は自分が特に重要と思う部分をまとめたものですが、いつも通り拙い説明ですので、興味を持たれた方はぜひ本をお読みください。また、ブログ記事に関するご指摘・ご質問などは歓迎しておりますので、コメント欄までどうぞお気軽にお寄せください。



わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書 2177)
わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書 2177)平田 オリザ

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■ コミュニケーション能力のタブルバインド


今日コミュニケーション能力が求められることに多くの人が同意するでしょう。しかし、コミュニケーション能力とは何かについて共通の理解がないために、議論が進まないという現実もあります。

平田氏は今日求められるコミュニケーション能力には2つの基準があり、若者たちはダブルバインドに苦しめられていると指摘します。

結論から先に行ってしまえば、いま、企業が求めるコミュニケーション能力は、完全にダブルバインド(二重拘束)の状態にある。
ダブルバインドとは、簡単に言えば二つの矛盾したコマンド(特に否定的なコマンド)が強制されている状態をいう。[...]現在、表向き、企業が新入社員に要求するコミュニケーション能力は、「グローバル・コミュニケーション・スキル」=「異文化理解能力」である。[...]しかし、実は、日本企業は人事採用にあたって、自分たちも気が付かないうちに、もう一つの能力を学生たちに求めている。あるいはそのまったく別の能力は、採用にあたってというよりも、その後の社員教育、もしくは現場での職務の中で、無意識に若者たちに要求されてくる。
日本企業の中で求められているもう一つの能力とは、「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力だ。(pp.16-17)

氏の定義では「異文化理解能力」は「異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見出すことができる。そして、そのような能力を以て、グローバルな経済環境でも、ぞんぶんに力を発揮できる。(p.16)」ような能力です。現に学校現場でも「さぁ、自分の思ったことを発表してみましょう」といった声かけはなされているように、「自分の考えを相手に伝える」ことが異文化理解能力です。

それに対して、日本では相手への思いやりが必要不可欠で、時には自分の意見を出すのを留めて全体の調和を目指す風潮があり、これが後者の「日本社会における従来型のコミュニケーション能力」です。

これら2つが同じように重視されていたとしたら、子どもたちはどのようにふるまえばよいのでしょうか。ある時は「思ったことははっきり言いなさい」と言われ、また別の時には「周りのことを考えて今は黙っておきなさい」という雰囲気を出される。相反する二つの要求をうまくやりすごす子たちは大丈夫でしょうが、「ダブルバインドが繰り返されれば、それが統合失調症や引きこもりの原因となる(p.19)」と氏は述べています。このような文化的背景にも不登校のような現象の理由が隠れているのかもしれません。

このような現状に対して、教育者はどのような対応が求められるのでしょうか。難しい問ですが、本書の末尾では「ダブルバインドをダブルバインドとして受け入れ、そこから出発した方がいい。(p.149)」とあり、今後むしろどのようにしてダブルバインドの中で生き抜く子に育てるかという点に課題を焦点化しています。

ちなみに、中原徹氏の『国際的日本人が生まれる教室』にも同趣旨の記述が見られますので、引用しておきます。彼がアメリカのロー・スクールへ留学していたときに感じたアメリカのスタンダードと日本のスタンダードについてです。

米国で米国人と議論をする際には、どんどん意見を交換します。日本人から見ると、邪悪な雰囲気の中、喧嘩をしているように感じるほどです。しかし、米国では、これが適度な議論の雰囲気であり、最後に多数決を通じてか、またはリーダー(意思決定者)が意思決定をすれば、それで議論は終わりです。[...]反対に、日本では、すべての人が相手を気遣っていますので、相手を気遣わずに自分の意見をぶつけ過ぎると、気配りのできない人間とみなされ、意見が採用されないどころか、人格的にも疑問符をつけられかねません。それぞれが自分の主張を明確にし、常に会議ではっきりとした結論を出して終わるというよりは、一定の方向性の空気を作り、全員一致に持っていく努力をします。
私個人の意見としては、どちらが正しいというよりも、場面に応じて両者のバランスを取ることが大切であると思います。(p.44)

現に世界で活躍されていた中原氏がこのように感じていることからも、日本とアメリカにはスタンダードの違いあるのがわかります。さらにアメリカ式が世界では標準的であることも併せて述べています。

したがって日本の学校教育では、世界規模で使用範囲の広い米国式スタンダード(平田氏の「異文化理解能力」に相当)を体得させるべきと論じています。(中原氏の実践や教育哲学はうなずける部分も多く、ひとえにTOEFL賛成派としてくくるのは乱暴だと感じました。機会があれば、本書に関するレビューも掲載したく考えております。小学校英語や大学入試TOEFL導入へ興味をお持ちの方は、どうぞ本書もお読みください。)

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■ コミュニケーション教育の際に気を付けるべきこと


このような背景があり、全国各地の学校でコミュニケ―ションの取り方の練習が行われています。英語科でも1分間スピーチやディベートなどのよりコミュニケーション的な活動が多く取り入れられています。
そのような中で気をつけるべきと指摘されている点を3つにまとめます。

・伝えたいという気持ち

「では1分間スピーチをしましょう。最近のマイブームについて。どうぞ」と教師が放り投げて、子どもたちがしどろもどろする姿を見ているという光景。英語の授業でよくありそうですが、そこに「伝えたいという気持ち」がなければ「伝える技術」は身につきません。
現に毎日顔を合わせている生徒たちが、今更授業の時間でみんなの前でマイブームについて話さなくても、ほとんどの人たちは知っているわけです。
では、どのようにしたら「伝えたい」という気持ちを持つのでしょうか。平田氏はここで「伝わらない経験」の必要性を説きます。

表現とは、他者を必要とする。しかし、教室には他者はいない。
わかりあう、察しあうといった温室の中のコミュニケーションで育てられながら、高校、大学、あるいは私の勤務先のように大学院性になってから、さらには企業に入ってから、突然、やれ異文化コミュニケーションだ、グローバルスタンダードの説明責任だと追い立てられる。[...]
今の子供たちには、この「伝わらない」という経験が、決定的に不足しているのだ。[...]おそらく、一番いいのは体験教育だ。障碍者施設や高齢者施設を訪問したり、ボランティアやインターンシップ制度を充実させる。あるいは外国人とコミュニケーションをとる機会を格段に増やしていく。とにかく、自分と価値観やライフスタイルの違う「他者」と接触する機会を、シャワーを浴びるように増やしていかなければならない。(pp.24-26)

さらに、氏は「演劇」が大きな役割を果たすと期待しています。私自身の経験していますが、演劇では自分が自分である必要がなく、筆者の言葉を借りれば「常に他者を演じることができる(p.26)」わけです。よって、他者がいない教室環境から、人為的に「他者」をつくり出すことが可能となり、伝わらない経験、伝えたいという気持ちが生まれます。


・コミュニケーションは人格教育ではない。

本書を読んでいて、「おとなしい子たちはどうすればよいのだろう」と思いました。現に大学での話し合いの授業でも、おとなしい子たちは頭の中で思考を深めていてもそれを周りに出しません。これが小学校や中学校の段階では、「将来就職で不利になってしまうし発表させたいけれど、その子に表現を押し付けるのも悩ましい」と考えてしまいそうです。
現に氏も同様の質問を受けたことがあるそうですが、以下のように答えたそうです。

世間でコミュニケーション能力と呼ばれるものの大半は、スキルやマナーの問題と捉えて解決できる。だとすればそれは、教育可能な事柄となる。
そう考えていけば、「理科の苦手な子」「音楽の苦手な子」と同じレベルで、「コミュニケーションの苦手な子」というとらえ方もできるはずだ。そして「苦手科目の克服」ということなら、どんな子どもでも、あるいはどんな教師でも、普通に取り組んでいる課題であって、それほど深刻に考える必要はない。
コミュニケーション教育は、ペラペラと口のうまい子どもを作る教育ではない。口べたな子でも、現代社会で生きていくための最低限の能力を身に着けさせるための教育だ。
口べたな子どもが、人格に問題があるわけでもない。だから、そういう子どもは、あと少しだけ、はっきりとものが言えるようにしてあげればいい。
コミュニケーション教育に、過度な期待をしてはならない。その程度のものだ。その程度のものであることが重要だ。(pp.30-32)

コミュニケーションができないからといって、その子の人格まで否定するわけではありません。あくまで技能の一つとみなし、気長に教育すべきではないかというものです。

※友人とこの部分について話した時、「コミュニケーション」を「理科」や「音楽」と同等に扱うことに疑問を感じました。アナロジーとしてはわかりやすいのですが、「なるほど!音楽の感性とコミュニケーションは同じ程度でよいのか」と合点しても良さそうですが、現に氏が前半述べたようにコミュニケーション能力が今日重視されていることを鑑みれば、やはりこの書き方は誤解を招きそうだと思いました。(本書を読んだ際の唯一の疑問点でした。自分の解釈へのご指摘ありましたらコメント欄へお願いします。)


・発表のみならず、理解面も―弱者のコンテクストを理解する能力

上までは発表面でのコミュニケーション能力が論じられてきましたが、もちろん理解面もあります。氏はリーダーに求められる能力の一つに、弱者のコンテクストを理解する能力を挙げています。

社会的弱者は、何らかの理由で、理路整然と気持ちを伝えることができないケースが多い。いや、理路整然と伝えられる立場にあるなら、その人は、たいていの場合、もはや社会的弱者ではない。
社会的弱者と言語的弱者は、ほぼ等しい。私は、自分が担当する学生たちには、論理的にしゃべる能力を身につけるよりも、論理的にしゃべれない立場の人びとの気持ちをくみ取れる人間になってもらいたいと願っている。(p.183)

ここでいう「弱者」とは具体的には誰を指すのでしょう。例えば子どもたちは論理的思考力が発達していません。外国人で日本語をまだ使いこなせない状態であれば、こちらから相手が何を言おうとしているか汲もうとする必要があります。
これは、明らかに日本従来式のコミュニケーションなのだろうと思います。英語は書き手責任の言語で、言い手がわかりづらい表現を使えば発信者の責任になりますが、日本語は確かに読み手責任であるため、文章の読み手や聞き手も想像力を働かせて相手が何を言おうとしているのかを考える必要はあります。
先程のダブルスタンダードも、このような言語的特性が影響しているのかもしれません。


つらつらと述べてきましたが、他にも「対話と対論の違い」「冗長率の操作」といった重要概念も本書では紹介されます。これらを踏まえた上でコミュニケーション教育に取り組む必要があるのでしょう。

(平田氏は特に演劇に力点を置いて後半議論していますが、より一般的に気を付けることという旨でまとめているため、演劇関連の話題は書けませんでした。氏の主張を正確に理解するためには、ぜひ本書をお読みください。)


■ ランダムをプログラム(教育界への示唆)


最後に、話をコミュニケーションに限定せず、教育界にとって重要と思われる示唆を1点紹介したいと思います。

『反教育論』(1)の記事でも紹介した通り、現在は流動性知能(正確な知識)を試験では重視します。「流動」という言葉が意味する通り、この類の知識は「短期的な記憶」とも言えます。氏もこれを問題視しており、「たくさん覚える」「早く覚える」教育から「よく覚える」という教育への転換を主張しています。

以前、小学校理科のブログ記事で自分が「対流」という概念をアイスコーヒーとミルクが勝手に混ざる様子から覚えたという話をしましたが、これも「よく覚える」の例ではないでしょうか。小学校理科の用語を用いれば「原体験」を重視した教育です。氏もこのような体験型の教育に同意していますが、その問題点も以下のように挙げています。

だが、こういった教育方法には、当然落とし穴もある。
教える側には、なんだかんだと言っても、発達段階に応じて教えておかなければならない知識や技術というものがある。しかし、こういった体験重視の教育では、教え漏れや遅滞が起こる可能性が高い。
せっかくキャンプ場で星座の名前を教えようと思っていても、空が曇ってしまっては台無しだ。
こういった体験型、双方向型、ワークショップ型の授業のファシリテーター(先導役)を志す学生たちには、「一回のワークショップで教えなければならないことなど、何もない」と教えている。そのくらいの覚悟がないと、自分の作ったプログラムに縛られて、「あれも教えなきゃ、これも教えなきゃ」と焦ってしまうのだ。ワークショップでは、子どもの反応に応じて、柔軟にプログラムを変えながら、「あ、ここではこれが伝えられた」という程度でかまわない。(pp.72-73)

偶然性を授業に取り入れるのは、ライブ感が出て盛り上がるし、児童生徒の素朴な疑問から授業展開ができるため、より充実したものになるかもしれません。しかし、偶然性にあまりに左右されすぎると、本来教師がねらいとして定めた部分が教えられない危険も出てきます。

自分も塾などで授業を行う場合は、できるだけねらいは持っていますが、その場で出された質問などはできる限り拾って膨らませようと心がけます。(もちろんうまくいかないことがほとんどですが、)そのような回では生徒さんも納得してくださっていることが多いように思えます。

授業にランダムをプログラミングするには、教師自身の腕も必要になりますが、これからますますこのような授業づくりが求められるようになるでしょう。(自分はまだまだできていないので、今後も頑張らなければ・・・)



■ 感想


非常に面白く読みました。コミュニケーション教育に携わる英語科の自分であれば、このようなことは意識しておくべきだと思います。例えば、言語活動を行う前に「児童生徒は本当に伝えたいと思っているのだろうか」と内省してみることも、技能を磨くうえでは必須なのでしょう。
特に最後の「ランダムのプログラミング」は今後の自分の授業実践の課題ととらえて、精進していきたいです。(ただし、急に児童生徒に任せるのでは向こうも困ってしまうと思うので、まずは教師として一人前に説明・主導できるようになるのが先ではないかと個人的には思いますが、同時に伸ばすことが不可能だとも思わないので、今後も意識していければ良いです。)

また演劇に関する氏の論考も興味深かったので、引き続き以下の著書などを読めればと考えています。


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