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2019年12月29日日曜日

鳥飼玖美子・刈谷夏子・苅谷剛彦 (2019) 『ことばの教育を問い直すー国語・英語の現在と未来』ちくま新書


2019年は言語教育史においてのちに激動の1年と語られるはずである。思えば自分が院生の頃から謳われていた「大学入試改革」「外部検定試験の活用」が実現化しかけていた折に、諸メディアで英語教育が話題として大きく取り上げられ、インターネット上で高校生や現場教員が意見を発信し、文部科学省前でのデモ活動に繋がり、最終的に11月1日に「延期」という結論に至った。これほどまでに言語教育が世間の身近な話題になったこともなかなかないだろう。高校現場では文部科学大臣からの「メッセージ」がA41枚で全生徒に配布され、生徒たちの様々な反応を突きつけられ、英語教師は何を思ったのだろうか。

また門外漢ではあるが、国語・数学の記述試験導入への準備も進められていた中で、つい先日(1217日)文部科学省から見送り表明の一報があったのも記憶に新しい。「採点ミスの完全な解消」「自己採点と実際の祭典の不一致の改善」「質の高い採点態勢の明示」が課題となり、無期限での導入見送りが発表された。これを受けて、国語教育関係者は今後何を目指し、どのような力をつけようとするのだろうか。

英語教育・国語教育を「言語教育」という括りで捉えれば、一連の騒動は「言語を教える」という営みについて再考する良い機会となる。言語教師は、何を、どのように、何のために教えているのか。そして現状の言語教育に改善の余地はないのか。現状を反省して相対化するには、理論が必要である。このような状況にいる現場の言語教師に、ぜひ本書『ことばの教育を問い直す』を薦めたい。言わずと知れた英語教育の大家である鳥飼玖美子氏、及び近年話題の新書を出されていた刈谷夏子・剛彦氏が対話形式で各々の視点から問いを出し合い、答えを出しあうという構成をとっている。

以下、自分が読んで印象的だった「①省エネモードの言語使用」「②大村はま実践」「③国語・英語連携の探究活動の可能性」を中心に紹介したい。①はいわば現状の認識であり、②・③はその解決策としての提案である。本書の忠実な要約ではなく、自身の言語教育観を相対化するための試みであるため、かなり大幅な言い換えや省略が含まれていることをあらかじめ断っておく。


◻️ 省エネモードの言語使用(第1章:刈谷夏子氏)

AI vs 教科書が読めない子ども達』を引くまでもなく、現代の国語力は危機的に陥っている。刈谷氏は「省エネモード」として以下の特徴を挙げている。

・パッと思い浮かんだ常識的な、通りの良さそうな言葉で間に合わせる。いつもそれを繰り返しているので、ほとんど自動的、反射的にことばを使っている状態。
・自分の内心の深いところ、考えの微妙な部分とはあまり関わりなく、するっと滑らかに送り出せばいいという姿勢。
・ことばの選択に多少の違和感があっても気にせず、とりあえず、なんとなく、使えれば十分。というよりは、ことばに違和感を持つこともあまりない。
・汎用性の広い便利な言葉を繰り返し使っている。「すごい」「やばい」「無理」等。
・仲間内で簡単に共感できる短い表現をもっぱら愛用する(仲間と思っていない人とはあまりかかわらない)・
・本離れが加速し、長い文章を読む機会が減っている。
・周囲と摩擦を起こさず、期待にうまく沿ってことばを使っていこうとする。(p.23


この省エネモードの問題は、このようにことばを主体的に使わない人たちに対していくら教員が頑張って教えても、結局彼らは自身への関連性を見いだすことができずに身につきにくいという点(p.26)である。例えばバドミントンを楽しいと思っていない人に対して体幹トレーニングを強要しても身につかないのと同様、多くの教育関係者が同意するであろう根本の教育原理だ。だとすれば、レディネスを高めるためにも、教師が生徒に対してできることは、省エネモードから脱する言語使用を経験させ、ことばを主体的に使う必要性を実感させることであろう。

省エネモードの言語使用は一言で言えば、「ことばへのこだわり」がない状態である。刈谷氏はこの状態の母語を比喩的に「普段着のことば」(p.26)と言い表している。誰からも教えられなくても、自分の身体から湧き上がってくることばで、使っている本人は特に意識する必要がない。ちょっとコンビニに行くのに着ていくレベルの服であればそれで良い。国語教育は必ずしもそのような子供たちに「ヨソイキの服」を着させることを意図する必要はなく、「どこへ出ても恥ずかしくない普段着を持つ」べきと喩えられている(p.28)。

この比喩自体が素敵な言い回しなので自分なりに補足したい。 なぜ「ヨソイキ」の服を着させる必要がないかというのは、あくまでもことばが発話者の心身情況に応じて創発的に生じるものだからであろう。ヨソイキの服は式典や礼式の日だけ着て、必要がなくなればすぐに脱いでしまうこともできるものである。式典が終わってすぐにネクタイを外したり、ボタンを一つ外すことも容易に想像できる。そのようなヨソイキのことばを咄嗟の場面で使うことはなく、単元が終われば忘れ去られてしまうのだろう。そうではなく、最低限身なりを整えた、それでも気張る必要のない服装で十分である。

まとめれば、普段省エネモードで生活している子供たちに、多少なりとも言葉へのこだわりの面白さを実感させ、様々なジャンルの言語使用を「ある程度」主体的にできるようにさせることが現実的な国語教育の目的と言うことができる。

ちなみに、英語授業で行われるスピーチの定型表現やインタビューの発話は「ヨソイキ」ではないと言い切れるのだろうか?英語授業で「1対1」的な訳語を教え、その訳語通りで答えなければ減点する教師も省エネモードの言語教育をしてしまっているのではないか?(この点については後述。)


◻️ 大村はま実践の哲学


ことばを、いつも自分にしっかり引き寄せて、自分の脳や心、思考や精神、感情とぴしっと対峙させて、「この言葉でいいか」と必ずちょっと考えてから使う。違和感があったら見逃さず、自分を覗きこむようにして探り、選び取り、なめらかさを望むよりは、引っかかりや摩擦をバネにして、自分の体重を乗せるように、体温を移すように、誠実に丁寧に使っていく。そうであってこその「ことば」なのだ……。(p.30

大村はま実践については大学院の初等国語の授業で「実の場」「単元学習」などの用語は聞いたことがある程度だったが、この引用を読むだけでも、大村はまがどれだけ素晴らしい教育者なのかが伝わってくる。鳥飼氏も述べている通り、ぜひ大村はまの実践を「言語教育」という文脈で再解釈し、英語教育者も勉強できるような環境があればと思う。

残念ながら大村はまの実践の具体については本書はそこまでカバーしていない。あとがきでも書かれている通り、筆者たちが大村実践を理論化することは目指しておらず、あくまでも刈谷氏の体験談に対して、両者が意味づけを行う程度にとどめている(これが本書の好感度を高める点でありつつ、同時に物足りなさを感じさせるかもしれない。より詳細を知りたい方は『新編 教えるということ」などが参考になると思われる。)来年時間ができたら早速手に取りたいと思っている。

第3章では刈谷夏子氏が大村実践の要素を3つ紹介している。「いきいきとしたことば・生徒・教師」(pp.71-76)だ。教科書に書かれている「ヨソイキ」のことばをいかにいきいきとした表現に見せるか。生徒の目を輝かせ、教師自身もそれを楽しめるかどうか。当たり前のことを言っているかもしれないが、外部検定試験導入の際にこれらの論点は出ていただろうか。「実現可能性」「教育格差」ばかりが論じられていたが、いきいきとことばを使う姿が果たして想定されていたのだろうか。当時の言語教師はいきいきと仕事に取り組んでいたのだろうか。

◻️ 国語・英語連携の探究活動の可能性

刈谷剛彦氏が探究活動に関する新書を出していた(『教え学ぶ技術』)が、本章では探究活動に生かせそうなアイデアも提案されている。たとえば大村はまの「花火の表現比べ」だ。

大村が中学生に授けた基礎ともいうべき知恵は、並べ、比べる、ということでした。自分の経験や知っていることの中から、近いもの、どこかに共通点のあるもの、ふと思い出したもの、正反対のもの、全く関係のなさそうなもの……とにかく、並べてみて、比べてみる。すると考えるという行為にグッと具体性が生まれます。(中略)大村は74歳で教室をさる半年前の夏、隅田川花火大会を報じる四紙の新聞記事7つに出会い、それが一年生の「花火の表現比べ」という単元になりました。天候、花火の上がった夜空の光景、音、観衆のようす、橋の上の混雑、川面、など観点別に表現を比べた学習でした。並べれば、そこには必ず何かしら気づくこと、見えてくること、考えたいことが生まれる。それは生徒たちを 主体的な読み手にする契機となりました。(p.151

この活動の面白さは、ただの新聞記事の読解という活動が、比較対象を設けることによって文体論的な視座を含んだ学習活動になるということだ。「筆者はなぜAという表現を(Bという表現を使うこともできたはずなのに)使ったのか」とか、「どうしてこの筆者は他の全員が述べているこの点を述べていないのか」という問いにつながり、その中に生徒が「探究したい問い」を見出す可能性もある。

本書ではさらに翻訳比較の活動(「心」の訳、『星の王子様』のtameの訳語など)が紹介されており、翻訳活動や翻訳鑑賞自体が探究的な学びの一例になることが示唆されている。

しかし、鳥飼氏は英語教育における翻訳は容易ではないと述べています。同時通訳に従事された鳥飼氏ならではの、鋭い翻訳考に基づいた意見です。(本書を通じて最も印象に残った箇所でもあります。)

翻訳を英語教育に導入することは、実のところ容易ではありません。翻訳論の視点から明確に言えることは、言語が異なれば「等価」にはなり得ないのが当然です。言語は必ず文化を内包していますから、一見、容易に翻訳できそうでも意味内容が違ったりします。(中略)
そのように考えると、外国語教育の授業で「翻訳」に挑戦し、「どう訳すのか」の翻訳論に終始してしまうと、外国語そのものを学習する時間が割かれてしまいます。それで、世界の多くの学習者が文法訳読法では外国語が使えるようにならないと批判したのです。日本でも同じです。 (pp.176-177

一方で「英語の授業は原則英語で」の方針にも問題はあります。

学習指導要領改定以来、英語教員研修で「英語でどう授業をするか」が中心課題になっている感があります。留学経験者で英語に自信があり研究授業の立役者となる教員がいる一方で、なぜ英語で授業なのだ?と反発する教員もいれば、諦めの境地の教員もいます。何れにしても「英語で授業をする」ことが目的化しており、何が最も生徒のために良い授業なのかが置き去りにされないかという懸念があります。
「英語で英語を教える授業」が、授業を理解できない生徒を増やし英語嫌いが多くなる、教師の英語力と生徒のリスニング力に合わせ授業内容が浅薄になる、などの弊害が明らかになってくると、今度は「訳読」への回帰が強調されるでしょう。ただ、「訳す」授業についても慎重な議論が必要だと思います。(p.178

今回の民間試験の導入が見送りになったことから、現場ではおそらく「訳読回帰」のような現象が一部で見られるかもしれない。例えば、入試があるからなんとか4技能を育成しようとしていた教員が、その必要は(しばらくの間)なくなったと判断し、授業改善以前の文法訳読に終始する授業を展開しても不思議ではありません。今の時期だからこそ、普段の指導における「訳」使用については慎重な姿勢が求められるのだと思います。また、英語教師が「訳」に対してどのような信念を抱いているのかを明らかにする必要もあります。彼らが「訳」を指導(評価)するという営みにおいても、その行為に影響を与える「規範」が存在します。もしその「規範」が従来的な「1対1」の静的等価規範(あるいは「省エネ的な規範」)であれば、いくら訳活動を取り入れたところで上のような面白い実践に繋がることはありません。「1対多」の訳出を可能にするような動的等価の規範が広まることが重要だと思います。

昨日、某予備校主催の入試研究会に行ったところ、近年の難関大入試は「多義語の解釈」を問う良問が増えたという分析であった。単語テストで「1対1」の訳出に慣れきった生徒には負担で、良質な言語活動や解釈を経験してきた受験生が得をするようにできているというのは良い傾向だと感じた。

◻️ 感想および普段の実践の反省

ぜひ多くの言語教育関係者に本書を手に取ってもらいたい。少なくとも英語教師にとっては随所に「まさにその通り!」と言いたくなる記述が散りばめられている。さらに、読んでいて耳が痛くなるほど、冷静な言葉で自分の実践の至らなさも指摘されるように思えた。しかし、本書で使われていることばはどれも現場の教員を応援するような温かさにあふれている。読み終わった後に「どうしよう」ではなく「やってみよう」と思えるような本だ。また、この本をきっかけに、国語教育と英語教育の連携が進めば面白いと思う。学習指導要領の改訂で国語科の科目名が大きく(英語科の比ではなく)変わり、各校の国語教育のあり方が問われていると思う(cf .文学国語を扱うか否かなど)。

上では言及しなかったが、「演繹と帰納の往還」(第5章)などのエピソードも大変面白く読んだ。本書自体が具体と抽象を行ったり来たりという構造になっていることも面白い。また、アメリカではadversity score(逆境スコア)がつけられ合否判定に使われる(p.213)というのは驚いた。エンパワーメントの教育としては大変画期的である一方、そのスコアの付け方の恣意性は問題にならないかと疑問もあった。

あえて本書を批判的に捉えるなら、大村実践を中心に据えた割には、その実践についての語りに紙面を割いて欲しいと感じた。少なくとも、帰納と演繹や、英語スピーキング(定型表現からの脱却)にまつわるエピソードもあればぜひ知りたいと思った。大村はま氏の実践に関する書籍が新書レベルではなかなか見つからなかったたため、もう少しエピソードの数が多いと読者の演繹・帰納の往還も活性化されたのではないか。

働き方改革が進む中、「省エネ」自体悪くないかもしれない。しかし、言語教育の授業の諸要素(教材、指導、ことばかけ、評価)に「省エネモード」が見え隠れするならば、私たち教員も彼らと一緒に「普段着」でぬくぬくしているだけなのかもしれない。英語表現にkick them out of the comfort zoneという言い方があるが、省エネ言語使用というぬくぬくした状態から一度蹴り出して、ことばにこだわりを持たせる必要がある。というよりも、もしかしたら元々子供たちはことばに興味があるにも関わらず、省エネ言語教育により、徐々に言語を省エネモードで使うようになるのかもしれない。年間指導全てに取り入れることができないとしても、部分的に教師がことばにこだわりを持ち、いきいきとしたことばを体感する場面を設定する必要があると感じた。これに関する具体的アイデアは後日記事を書きたい。




2016年1月18日月曜日

内田樹の「翻訳」観:身心文化学習論で得た学び

こんにちは。mochiです。

大学院の授業で「身心文化学習論」という授業を半年間受講しました。この授業では、「身体」という語の成り立ちを学んだり、芸術や感性という視点から教育の諸現象について考えたりすることができ、大変収穫の多い授業でした。

期末課題として、授業内容を自分の研究に関連させてレポートを書くことになったので、自分の研究テーマである「翻訳」を、授業テーマの「身体」と絡めてレポートを書くことにしました。当初の予定では修士論文のデータをそのまま用いるつもりでしたが、ふと内田樹先生の翻訳に関するインタビュー記事を思い出し、急遽内田先生の翻訳論をテーマにすることにしました。

以下がそのレポートの改訂版です。今回の発表では英語教育以外の方々(初等教育、音楽教育、演劇教育など)に聞いてもらうためのものだったので、比較的専門用語は出さないように配慮して作成しました。

M-GTAを用いてストーリーを作りましたが、実質的には内田先生の翻訳の核心を明らかにしたというよりは、とりあえずその翻訳論を分かりやすい形にまとめなおしたものとご理解ください。

最後に、授業で議論になった箇所も示しておりますので、どうぞお読みください。




内田樹の「翻訳」観の分析
―他者性と身体性の観点から―
1. 背景
2. 内田樹の語りの分析
2.1. I. 他者としての原著者の認識】
2.2. II. 原著者への長期的接近】
2.3. III. 原著者と翻訳者の身体同期】
3. 考察
参考文献


1. 背景                                                          
 日本の英語教育は、殊に「訳」が槍玉に揚げられることが多い。たとえば、高等学校の現行の学習指導要領にも「授業は英語で行うことを基本とする (文部科学省, 2009) と明示されており、日本語を使用することは否定的に捉えられている。これは筆者が学部生だった頃の話だが、模擬授業などで訳す活動をすると、先生から「どうして訳の活動をするのか」「ここは英語だけで行えるのではないか」とコメントを頂くことがあった。そのためか、教育実習などでも「訳活動はしない方が良い」という雰囲気が漫然とあったことを覚えている。
では、どうして「訳」が否定的に見られているのだろうか。それは従来の英語教育が訳をすることに終始してしまい、音声としての英語を聞いたり話したりする指導に結びつかなかったという批判によるものである。近年の英語教育は音声言語を用いたコミュニケーションを重視し、近年ではセンター試験にリスニング試験が導入されたり、4技能型(聞く・話す・読む・書く)のテストが開発されたりしてきた。それにともない「訳」の使用は「音声コミュニケーション」と対置されるものと見なされ、次第に英語授業から姿を消すようになった。
 しかし海外の応用言語学では、近年「訳」を見直す動きも見られ (Cook, 2010; Laviosa, 2014) 、日本でも再評価の潮流がある。日本の英語教育学では、「訳」を概念的に整理するために、「英文和訳(置き換え訳・訳読)1」と「翻訳」に分類されることが多い (柳瀬, 2011; 杉川, 2013; 染谷他, 2013; 山田, 2015; 柳瀬, 印刷中) 。「英文和訳」は辞書や文法書等の訳出公式に従って、英語表現を機械的に日本語に変換する訳出を示す。それに対して「翻訳」は、発話者の心身状況・場面・含意を理解した上で、それらを日本語において再表現する訳出を示す。このうち「英文和訳」は学習のための作業であり、文法項目の習得や読解力の評価のための手段として用いられることが多かった。しかし「英文和訳」は、従来否定されてきた意味での「訳」であり、本稿で焦点化したいのは「翻訳」である。
 本稿は、「翻訳」者の語りを分析し、翻訳行為が必ずしも言語間の変換作業に留まらない、身体性を伴う言語行為であることを確認する。本稿では内田樹氏の翻訳の語りを分析する。その理由は、内田氏が「身体」「他者」に関する著書を多く出版しており、そのような観点から翻訳を捉えている可能性があるためである。語りの分析を通して、「翻訳」が英語教育に貢献しうる点を論じる。



2. 内田樹の語りの分析
内田樹氏は自著で何度か翻訳に関して論じている。今回は、『街場の文体論』と『学校英語教育は何のため』の2冊から、自身の翻訳経験について語っている箇所を選定して分析した。分析手法は、修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチ (木下, 2007) である。その結果、【他者としての原著者の認識】【原著者への長期的接近】【原著者との身体同期】という3カテゴリーに分類することができた。その過程をまとめたのが図1である。以下は、内田氏の語りの引用およびストーリー提示である。【 】内はカテゴリー名、「」内はデータの引用を示す。



1. 内田氏の翻訳プロセス


2.1.I. 他者としての原著者の認識】
 内田氏は翻訳をする際に、【他者としての原著者の認識】をすると述べている。「他者」はしばしば哲学において「理解不可能な存在」を示す (柄谷, 1992) 。内田氏はフランスの現代思想家であるエマニュエル・レヴィナスのテクストを翻訳することが多いが、そのテクストを「手も足も出ない巨大な岩みたいなもの」と表現した。その理由は、翻訳のターゲットが「自分の手持ちの価値観や度量衡を以っては理解できないもの」だからである。翻訳者である内田氏は日常生活で日本語を用いて生活しており、レヴィナスの思想は「日本人としての母語的現実の中にいる限り絶対に実感することのできない」ものであると考えている。
 読んでも分からないテクストであるから、内田氏は一度日本語に訳すことにした。しかし、何頁訳しても、「自分が訳した日本語の意味がさっぱりわからなかった」。そのようなレヴィナスのテクストを「しばしばこちらの理解を拒絶する」存在と述懐していた。つまり、他者である原著者=テクストを理解しようとしても、拒否をされてしまう段階であり、この段階では「意味がさっぱりわからなかった」のであった。ここでいう「意味」は必ずしも文法書や辞書の知識で解決するような狭義の意味ではないことが伺える。


2.2. II. 原著者への長期的接近】
 【I】では原著者=テクストの他者性を体験し、テクストに理解を拒絶されるという段階を経た内田氏であった。しかし、テクストに向き合い続けることで【原著者への長期的接近】を続けることになる。内田氏は、テクストを読んでも「意味がさっぱりわからない。それでも毎日訳す。」と語っており、その作業を「ほとんど写経」と喩えている。「写経」という喩えから、理解を拒否する原著者=テクストと向き合うという作業がすぐに終わるものではなく、また先の見えない作業であることがわかる。別のインタビューでは、前節で述べた「手も足も出ない巨大な岩みたいなもの」を理解しようとする過程を、「こつこつと手にしたノミで打ち砕くようにして突き崩してゆく」という比喩を用いて説明している。
 この段階では、テクストの言語的特徴を分析するだけでなく、原著者に徐々に接近することが必要となる。したがって、原著者の「生活習慣」「信仰している宗教」「食文化」「自然環境」を知り、少しずつ原著者に接近しようとする。この作業を通して、「ホロコースト期のユダヤ知識人の固有の信条や屈託がだんだん身にしみてくる」。
 

2.3. III. 原著者との身体同期】
 【II】のように原著者への接近を志し続けることで、【原著者との身体同期】が起きるのが第III段階である。この段階は、【II】で用いられた「こつこつ」「じわじわ」と起きるものではない。むしろ、「ある日気づくと」起きているものであり、「岩がぱかっと割れるように腑に落ちる」段階であるため、このIII段階が突然起きるものであることが暗示されている。そのような第III段階の兆候として、「身体の同期」という以下のような現象を挙げている。(以下、引用文中の下線は発表者によるものである。)

センテンスの終わりが予感される。もう、そろそろフィニッシュだな、と思ったときにぴたりとピリオドがくるということが起きる。あるいは、ある名詞が出たときに、この名詞にレヴィナス先生が先行する形容詞は「あれ」かなと思うと、その通りの形容詞がくる。そうすると、なんかうれしくなるわけですね。

上の語りにおいて、「センテンスの終わり」や「先行する形容詞」が自分の期待と一致するという現象は、原著者と翻訳者の言語感覚が近づいている現われであり、これを「身体の同期」と内田氏は呼んでいる。ここで「同期」という語を用いているのは、決して翻訳者が原著者を完全に理解することがないという前提を有しているためである。あくまでも異なる「翻訳者」と「原著者」という2名がいて、その2名にはそれぞれ歴史・文化的な背景を有した身体を有しており、その身体が同期する(あるいは、「リズムが合う」)という言い方に留めている。内田氏のこの前提は、以下の語りにも表れている。

こつこつやっているうちに、岩がぱかっと割れるように腑に落ちる。それは他者を理解できたというよりは、翻訳者自身が別人になったということなんだと思います。そして、外国語を学ぶことの意義って、最終的にはそこに尽くされると思うんです。

また、「身体が同期」するときの感覚は「自分の知らなかった感覚」であることが以下の描写からうかがえる。その感覚を日本語で再表現する過程が、内田氏のいう翻訳である。

身体が同期すると、自分の身体の内側に自分の知らなかった感覚が生じます。前代未聞の感覚だけれど、それが「僕の身体で起きている出来事」である以上、言葉にできないはずはない。現にそうやって自分の身体で起きている出来事を、思考にしろ感情にしろ、赤ちゃんのときから語彙を増やし、修辞や論理を学んで、言葉にできるようになったわけですからね。赤ちゃんにできたことが、大人にできないはずはない。


3. 考察
 内田氏の翻訳プロセスをまとめると、翻訳者は第一にテクストに向き合うことで、【他者としての原著者の認識】をすることになる。それを契機として、【原著者への長期的接近】を続けていき、ある日突然、【原著者との身体同期】が起きる。ここに、第1章で述べた翻訳の性質が見られる。すなわち、翻訳行為がただ単に外国語の表現を辞書や文法公式に当てはめて日本語に変換するという作業に留まらず、1人の翻訳者という固有の身体を有した存在が、「言語」のみならず「身体」や「他者性」を孕んだ言語使用を行うという姿が見える。
 もちろん、このようなプロセスが浮かび上がったのは、そもそも内田氏が向き合うテクストが難解な哲学書であったことや、内田氏自身が「他者」や「身体」に関して考え続けてきたということが挙げられる。そのため、これを一般化して翻訳のプロセスと結論づけることは当然避けられるべきである。
しかし、英語教育では一つのテクストに向き合い続ける機会がそもそも設けられていないのではないか。最初に述べたように、英語教育学は伝統的教授法を批判することで、「訳」という活動自体を避けるようになったが、「翻訳」の存在までも否定する必要があるのだろうか。たしかに、テクストの「他者性」を体験し、長期的に原著者に接近し、最終的に身体が同期するまで向かい合い続けるようなことは英語教育では求められておらず、そもそも教育内容に位置づけられてこなかったのだろう。その一方で、内田氏の辿った翻訳プロセスが英語教育としての教育的意義を有していることも否定できない。たとえば、内田氏が第I段階で述べた「自分が訳した日本語の意味がさっぱりわからなかった」という体験は、多くの英語学習者が経験しているのではないだろうか。そのような学習者は、文法書や辞書の訳文公式に当てはめるという「英文和訳(置き換え訳)」で止まっており、そこでそのテクストを「理解」したと思っている可能性がある。しかし、そのテクストをまだ理解しきれていないと感じ(第I段階)、そのテクストと向き合い続けることで(第II段階)、原著者と身体的にリズムが合う(第III段階)という体験をする可能性も、教師の働きかけや教材の種類次第ではありうるだろう。発表者の考えでは、内田の語りがこれまでの英語教育の盲点にあった身体性・他者性の存在を示唆しており、現行の学習活動を批判的に検討することにつながるものである。

NOTES
1   「英文和訳」は英語から日本語への変換のみを指すのではなく、概念語として機械的な訳出すべてをさす。したがって、「独文和訳」や「仏文和訳」などもこれに該当する
2   本論で用いた「コミュニケーション」は、いわゆる音声言語を用いたコミュニケーションを指す。この意味での「コミュニケーション」は訳読式教授法 (Grammar-Translation Method) には含まれていなかった。

参考文献
Cook, G. (2010). Translation in Language Teaching: An Argument for Reassessment. Oxford University Press: London
Laviosa, S. (2014). Translation and Language Education: Pedagogic approaches explored. Routledge: New York
内田樹 (2012) 『街場の文体論』ミシマ社: 東京
内田樹・鳥飼玖美子 (2015) 「悲しき英語教育」. In 大津由紀夫・江利川春雄・鳥飼玖美子・斉藤兆史 (2015) 『学校英語教育は何のため?』ひつじ書房:東京
柄谷行人 (1992) 『探究 I 』講談社:東京
杉山幸子 (2013) 文法訳読は本当に『使えない』のか」Studies in English linguistics and literature (23), 105-128
染谷泰正・河原清志・山本成代 (2013) 「英語教育における翻訳 (TILT: Translation and Interpreting in Language Teaching) の意義と位置づけ CEFR による新たな英語力の定義に関連して)」.語学教育エキスポ2013発表資料, http://someya-net.com/99-MiscPapers/TILT_Symposium2013.pdf
文部科学省 (2009) 『高等学校学習指導要領解説 外国語/英語編』http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2010/01/29/1282000_9.pdf
柳瀬陽介. (2011). 山岡洋一さん追悼シンポジウム報告、および「翻訳」「英文和訳」「英文解釈」の区別. 英語教育の哲学的探究2 , http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/12/blog-post_736.html
柳瀬陽介 (印刷中) 「『訳』に関する概念分析」『中尾佳行先生御退職記念言葉で広がる知性と感性の世界英語・英語教育の新地平を探る189210
山岡洋一. (2010). 「英文和訳についての覚書」.『翻訳通信』93, http://www.honyaku-tsushin.net/

山田優 (2015) 外国語教育における『翻訳』の再考:メタ言語能力としての翻訳規範」『外国語教育研究』13. 107-128

<議論になった箇所>

■ 身体的に同期するという現象は、内田先生のように長い間テクストに向かい合っているからこそ起きること。学校英語教育ではそれが可能か?

 ⇒仰るとおりです。その意味では、限られた時間数内で英語教育が目指せるのは第II段階が限界なのかもしれません。要するに、ある文章を読み終わって、「とりあえず訳して終わりましょう」という悪しき習慣にするのではなくて、その文章を翻訳する過程で、「なぜ筆者はこのような表現を使ったのだろう」「もし筆者が日本語ぺらぺらだったら、どんな日本語にするかな」といった思考を体験させることに意義があるのではないかと考えています。

さらに言えば、段階Iのような【他者性の体験】は翻訳困難性の体験とも近いかもしれません。日本語に訳したつもりなのに、その訳文の意味がよくわからないということも実際に起きます。そこで、「上手く訳せない」というもどかしさを体験させることに、学習者の言語能力の成長が見込めるのではないかとぼんやり考えています。


 ■ 内田氏の段階IIやIIIは、別に翻訳でなくても良いのではないか。英語で精読するという学習方法でも代替可能ではないか。

⇒これについても仰るとおりです。今回のレポートは否定的に捉えられることの多い「訳」の教育的意義を見直すということを主眼にしておりましたので、そもそも訳特有の意義という感じがしないのもご指摘の通りです。 では、翻訳独自の意義は何か。私の意見としては、(1)母語に関する気づき(大津先生の「ことばの気づき」)、と(2)ぴったりの日本語表現を探すために英語を読み直すという過程(読むことの指導)が当てはまると思っています。

 (1)の意義を主張するには、そもそも英語教育の目的を「英語技能の獲得」のみに狭めるのではなく、より広い「ことばの教育」の一環として捉えることが必要となるでしょう。 また、翻訳自体を教育目的に据えるなら、翻訳技能を育成することにも意味があるケースもあります。(学校教育ではあまりないでしょうが、他国ではそのような場合もあります。)



他にも多くの貴重なご意見をいただきました。  ありがとうございました。

大学院生活で学べる期間もあとわずかですが、最後までできるだけ吸収できればと思います!

2015年12月21日月曜日

Anthony Pym 教授の講演会に参加して

こんにちは。mochiです。
2015年もあと10日ですね。
今年も本当に色々なことがあって、充実した経験を積ませて頂きましたが、同時に反省すべき箇所も多かったなと思います。

とりあえず修士論文を書き終えて、4月からの教員生活に向けてできることを一つずつやりたいと思います。

今回は研修ノートです。

2015年12月14日 (月) 、立教大学異文化コミュニケーション学部主催2015年連続講演会に参加させて頂きました。

講演は、翻訳論の大家であるAnthony Pym 氏が話されていて、テーマは"Where Translation Studies lost the plot: creating knowledge when everyone can translate"でした。

ちょうど自分の修士論文のテーマと関心が重なっており、大変刺激を受けてきました。ここに、講演の要点と、自分の感想をまとめたいと思います。


■ 要旨 (公開されている英語版アブストラクトのまとめ)

・翻訳学は1972年の設立当初 (Holmes のmap) 、翻訳の技術と言語学習のためのテストとしての訳に関して研究するものとしていた。

・ただし、翻訳学が学際性を帯びて、外国語学習での訳使用に関して無視をするようになったため、コミュニカティブアプローチが訳を退け、翻訳を専門性の高い行為とするようになった。

・ところが、機械翻訳の進展によって翻訳の全営化が起き、誰もが翻訳を行えるようになった。また、機械翻訳の推敲によって良質の訳文を作れるという結果もあり、これからは、訳行為は必ずしも専門家に限られる行為ではなくなる。


■ 翻訳学と言語教育の断絶

・応用言語学の大家であるNunanの書籍は20億部以上売れるのに対して、翻訳学の本の市場はとても小さい。


・Holmes(1972) は、翻訳学の設立当初から外国語教育における翻訳の技術とテストについて研究すべきとしていた。しかし、翻訳学が西洋で自立した学問となるにつれて、言語教育との接点が次第に薄れていった。


■ 翻訳学の「二項対立」

・翻訳学は「直訳と意訳」「同化翻訳と異化翻訳」「形式的等価と動的等価」のような二項対立的思考で止まっていたのではないか。

・近年の翻訳学では、この二項対立を脱するための提案もなされている。(Translation Solutionsの議論など)


■ 今後の方針

・外国語教育でもcommunicative translation が重要になるのではないか。
→この概念に関してはあまり説明がされなかった。参考になるのは、House (2008) などであろう。英語教育で翻訳活動を行う際には、形式的等価や訳語の正確さといった観点のみならず、その文が伝えるべきメッセージを十分伝えているか、といった観点も評価規準に入れるべきだろう。

・Malmkjaer の言葉を借りれば、 “Isn’t translation communicative?” である。

→当然、Pym氏の立場は “Yes! (Why not?)” である。ただし、現場で教える身としては、文法訳読式教授法のように、 “un-communicative translation” が歴史的になされてきたという反省も怠ってはならない。そのために、訳活動を行う場合は、「なぜその文を訳すのか?」「誰がその訳文を読むのか?」といった細かい場面設定も踏まえたタスクとして開発する必要があるだろう。

・機械翻訳の教育的使用も考慮されるべきである。たとえば、機械翻訳で出された文を下訳(叩き台)にして、より良い訳文を作成するというタスクも考えられる。

⇒後述。


■ 講演会の感想

以上が講演会のまとめです。
最後に、この講演会を踏まえて考えたことや学んだことを載せます。

(1) 翻訳学の学際性

西洋で翻訳学が自立した学問として成長する中、日本でも翻訳学が自立した学問体系となるような努力が積み重ねられています。今年の日本通訳翻訳学会の年次大会でも、翻訳者や通訳者の地位が不当に下げられてはならないという趣旨の発言がシンポジウムでされていました。(東京オリンピックに向けて翻訳や通訳のボランティアが増える中、専門職としての翻訳者・通訳者の位置づけに関しては、今後も問題となりそうです。)

しかし、教育学がそうだったように、翻訳学も「科学 (Wissenschaft) 」になることだけを目指してしまうと、西洋のTranslation Studies のように、他の分野との連携が薄くなっていくのかもしれないと感じました。翻訳学が単一の学問に固執するのではなく、翻訳という複雑な行為を多くのアプローチ (言語・文化・社会…) で分析し、その応用を議論していくべきだと思いました。

(2) 「翻訳」と「英文和訳」の二項対立性の克服

Pym氏によれば、翻訳学は「直訳」と「意訳」という伝統的な二項対立法から抜け出しきれていません。(「同化翻訳と異化翻訳」、「明示化と暗示化」、「形式的等価と動的等価」…。)

考えてみれば、英語教育学で馴染み深い「翻訳と英文和訳」という分類も二項対立的に語られることの多い概念だと思います。ただし、個人的にこの分類は、訳されたプロダクトのみならず、訳プロセスや訳文の機能、訳行為の依拠するコミュニケーションモデルなどの多くの観点から総合的に判断されるべきであり、必ずしも静的な二項対立的区分ではなくて動的な分類法として考えるべきだと考えております。

このような多重的観点から、中高英語教育における「訳」が一概に否定されるのではなく、場面によっては学習効果があるのではないかと思っており、今後もこの点について考えを深めたいと思います。

(3) 英語教育学と翻訳学との対話

講演会後に質疑応答の時間があり、その最後に英語教育との連携に関して以下のような質問をさせて頂いた。「post-editingを英語教育で実践するのはもちろん面白いが、日本語を日本語で書き換えるという活動に止まってしまうと英語学習とは呼べないのではないか。」

というのも、自分が実践したときもそのような問題意識があって、去年フリースクールで『映画名探偵コナン』の英語版教材を用いたpost-editingの実践を行った際に、不自然な日本語を自然な日本語に言い換えるという作業で終わってしまうのではないかという疑問が残ったためでした。授業は盛り上がったのですが、生徒さんの何人が英語の学びとして授業を受けてくれたのかと考えると、たしかにクエスチョンマークが消えませんでした。

Pym教授の答えは、「もちろん英語学習だよ。翻訳しているじゃないか。」というシンプルなものでした。時間が限られていたこともあり、それ以上の議論ができなかったのが大変心残りです。英語教育学の人と話していて一番焦点になるのが「日本語に訳したものについてあれこれ指導したら、それは日本語学習ではないか」という点なので、もう少し納得のできる説明ができないかと考えています。

そもそもお互いの「コミュニケーション」や「言語学習」の考え方が異なっているため、かみ合わないような気もします。翻訳活動が他者(原著者と読者)を意識したコミュニケーション活動であり、そこに「英語」学習も絡むような活動を提案する必要があると感じました。

※そもそもPym氏は大学での英語教育を念頭に入れていると考えられるので、中高英語教育を前提とする自分ともまた前提が異なっているのだと思います。

2015年11月16日月曜日

日本翻訳ジャーナルの記事に紹介して頂きました!

こんにちは。 mochi です。
某看護学校での非常勤勤務も無事に終えて、あとは修士論文に向けてまっしぐら!のはずが、ほとんど筆が進まずに悩んでおります(笑)。

学部の卒論の二の舞にならないよう、もう少しこれから研究時間を割きたいです。

さて、突然ですが、先日学会で口頭発表した内容について、『日本翻訳ジャーナル』の記事でご紹介いただいたので、ここにリンクを掲載させていただきます。(なお、編集者の方の許可は頂いております。)

日本翻訳ジャーナル イベント報告


『日本翻訳ジャーナル』は、一般社団法人日本翻訳連盟(JTF)の機関誌です。翻訳に関する行事の案内や興味深い記事も多かったので、興味をお持ちの方はぜひご覧ください。

そこで、今年の9月に青山学院大学で開催された日本通訳翻訳学会第16回年次大会の紹介記事で、自分の拙い発表に言及して下さいました。学会では、

英語教師志望者の「英文和訳」と「翻訳」:プロダクトとプロセスの観点から

という題目で発表をさせて頂きました。当日は自分の方が多く学ばせていただき、足を運んでくださった皆様には心より感謝申し上げます。

手前味噌で恐縮ですが、当日配布したスライドを共有させて頂きますので、よろしければご覧ください。





論旨としてはざっと以下の通りです。


(1) 私たちが用いる「訳」という言葉には、「翻訳」と「英文和訳」が混ざっている。


(2) 英語教師も授業場面によって、「翻訳」も「英文和訳」もすることがある。


(3) 実際に英語教師志望者に中学校検定教科書の英文を「翻訳」してもらうとより日本語らしい文になり、「英文和訳」してもらうとぎこちない日本語になった。そしてこれらは言語類型論のIモードとDモードという分類で分析することができた。


(4) また訳した人たちにインタビューをすると、物語の世界に入り込んで訳そうとしていたことが明らかになった。


(5) しかし、「翻訳」文の中には、まだぎごちない箇所もあり、今後英語教員養成課程で「翻訳」指導を行うことで補完できるのではないか。


(具体的な訳文データやインタビューデータは、当日配布資料のスライドをご覧ください。)






以下、簡単な振り返りと自己批判を。

(1) については、日本の英語教育に関する議論の際にもこの分類は便利だと思います。ただ、これらの分類が必ずしも万能ではありません。何を以って「翻訳」とするか、といった操作的な定義は、どうしても主観による部分が出てきてしまいます。本発表はスコポス理論に基づいて暫定的に区別を引きましたが、やや強引だったかもしれません。


(2) は、英語教育学では馴染み深い「和訳先渡し」授業を取り上げて、訳文も学習者にとってはインプットの一つであると主張しました。そして、学習者の実情や単元目標によっては、訳文の言葉遣いを教師が調整したり、教師自身が訳出したりすることも時に必要なのではないかとしました。

(もちろん現場で毎回そのようなことをする時間はないかもしれませんが、たとえば授業で英語の歌を作るときなど歌詞を先生が訳す場合もあるのではないでしょうか。)


(3) は、従来の「翻訳」「英文和訳」の定義にはない、認知言語類型論の枠組みを用いた分析になっています。この部分については、修士論文でさらに明確に分析できればと思います。


(4) は訳者のナラティヴを用いて、訳文プロダクトには反映されなかった訳者の思いをできるだけ汲み取ろうと試みました。まだ分析の目ができていないのですが、物語世界に視点を内置しようとしている姿を紹介できたのではないかと思います。


(5) の主張は暫定的なものです。この点については、後に先輩の先生方からもご指摘を受けました。今後は、データの解釈を進めて、そのデータから言えるリーズナブルな主張になるように気をつけようと思います。



ということで、まとめて言うと「途中段階」という恥ずかしい発表になってしまい、また言語学も生半可な理解で通してきたため、多くのご指摘も頂きました。(ご指摘・ご質問下さった皆様、本当にありがとうございました。)


ただ、これまでの学会発表の中で一番手ごたえがあったというか、少なくとも、自分の言いたいことがこれまでの中で一番伝わった、という気持ちになれました。

来年度からは学会に参加できる時間もなくなっていくのでしょうが、時間を見つけて、翻訳や英語教育関係の学会には顔を出しておきたいものです。




ちなみに、来月に開催されるJALT Hiroshima のmini-conference で、大学院生活最後の発表を行わせて頂くことになりました。(と、さりげなく宣伝。笑)

A Proposal of Teachers' Questions Using a Translated Text


発表テーマは「翻訳発問」にしました。M1の頃にためていたネタだったのですが、翻訳を題材にして、翻訳論的視点(等価理論や文化翻訳など)から発問を作ってみたらどうだろう、という提案ができればと思います。


当日は、自分が模擬授業を行った後、皆様と「翻訳発問」や英語教育における訳活動に関して議論させて頂ければ幸いです。


また、当日はたくさんの興味深い発表が準備されているそうですので、どうぞお時間のある方はお越しください。




最後になりますが、「日本翻訳ジャーナル」の皆様、特に記事執筆者の三宅様には、心より感謝申し上げます。


2015年6月29日月曜日

「朗読とピアノの夕べ」の感想

6月26日 (金) 、尾道市なかた美術館で開催された「朗読とピアノの夕べ」に参加してきました。翻訳家の新柴田元幸先生とピアニストのトウヤマタケオさんのコンサートで、柴田先生はご自身が訳された翻訳作品の朗読をされて、それにトウヤマさんのBGMが合わさって1つの世界が出来上がり、とても迫力がありました。

私は、ピアノや朗読に耳を傾けて心が安らぐ一方で、この2時間で「朗読」の考え方が大きく変わり、また、普段読まないアメリカ文学へ親しみが湧きました。

朗読された作品は、「ヒアカムズサン」 (Monkey vol.6 に掲載) 、「謎」(イギリスとアイルランドのマスターピースに掲載)、「ウインド・アイ」、「靴紐に寄せる惜別の辞」(Monkey vol.1)でした。(本当はもう1つ、バイトリニストの話も聴いたのですが、タイトル名が思い出せませんでした。)

■ 朗読のしやすい英日翻訳

「ヒアカムズサン」は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の語り手の雰囲気に似たものが出ていて、この作品で一気にアメリカ文学の世界、あるいは柴田先生の世界へ引き込まれました。私が「朗読」と聞くと、静かな語り口でゆっくりと読み聞かせ、重要な場面で強く速く読む、というものを考えていました。ところが、柴田先生の朗読は全体的に勢いがあり、畳み掛けるように次々言葉を出していくという感じでした。私には、日本語の朗読作品を聴いているのに、あたかも英語の音を聞いているような不思議な感覚がしました。

途中に質問タイムがあったので、「先生の朗読を聴いていると、(リズムやその他の読み方が)日本語なのに英語のように聞こえる瞬間が何度かありました。」と感想を伝えたうえで、「先生の今日の朗読は勢いがあって速く読まれていたのですが、たとえば同じ作品をゆっくりと落ち着いて読む、ということはありえたのでしょうか。それとも、今日のような読み方以外考えられなかったのでしょうか。」と質問しました。

それに対して柴田先生は、「静かに読むと、皆さんが寝てしまうと大変なので(笑)」と仰った上で、「私の読み方の好みが半分ありますね」、「もう半分は、この作品には読まれ方があって、今回の作品は強く読むほうが良いと思いました」と仰っていました。(正確な引用ではありませんのでご容赦ください。)これを聞いて、ご自身が翻訳された文章を朗読するときのリズムは、もしかしたら翻訳されているときにもある程度決まっているのかもしれないなと感じました。

さらに先生のお話で興味深かったのが、「英語に比べて日本語は朗読しにくい言語だ」という言葉でした。確かに、英語がアクセント言語で強-弱のリズムがつけやすいのに対して、日本語は読んでいて切れ目が分からなくなったり、途中で意味が伝わりにくい平坦な読み方になりがちかもしれません。『翻訳夜話』ではリズムを意識した翻訳、という話が何度か出てきました。私も自分が訳した文章を声に出して読んでみると、自分の訳文が「声に出して読みにくい」(朗読しにくい)文章になっていると気付くことがしょっちゅうあります。

先生のお話を伺って、自分で訳した文章を推敲するときに、「声に出しやすさ(朗読しやすさ)」というのも観点に入れてよいかもしれないと感じました。そのために必要な場所に読点を入れたり、長い言葉遣い(長すぎる名詞句など)を避けて、切れ目を意識しながら訳したりする必要があるように思えます。


■ 作品を演出するということ―言語教育における可能性

「ウインド・アイ」は、ブライアン・エヴンソンという作家の作品で、主人公が不思議な世界を体験するものの、周りの大人には理解してもらえず、主人公の目に映った世界と他者の目に映った世界のずれというものが現前化された作品です。

ストーリーとしては一番好きな作品だったかもしれません。また、トウヤマさんのピアノと、詰まった音のギターのBGMが、ストーリーをさらに引き立てていました。この作品の書籍版を手に入れたいと思って探したのですが、未だ見つかりません。

柴田先生の朗読はこのストーリーを一段と引き立てました。それは、読むときの間の取り方、ジェスチャー、イントネーションなどが、わざとらしくあざといものではなく、全てが丁度良かったからです。今回のコンサートには、バイトでお世話になっている塾長と塾のスタッフとして勤務しているネイティヴの先生と3人でいったのですが、ネイティヴの先生(日本語もとても達者です)が帰り際に、「最初は聞きながら目をつむって、イメージしようとしたけれど、私には少し難しかった。でも、目を開けて聞いていると、先生の表情がとても豊かで、想像がしやすくなった」、”His facial expression communicated a lot."と言っていました。もしこれらが、「あざとい」と感じられるような仕掛けだったら、communicated less (worse) になっていたかもしれませんが、本当に「丁度良かった」のです。

このように、自分の好きな作品を、自分が「仲介者」(翻訳者・朗読者)として他人に伝える、というのはとても面白い経験になるかもしれません。どこでジェスチャーを入れるか、どこで沈黙を用いるか、読むときの表情はどうするか...。そしてBGMを入れるなら、ストーリーの前半部と後半部ではBGMを変えるか変えないか...。これをするには、自分が相当にそのストーリーの世界にもぐりこむ必要があるかもしれません。もしかしたら言語学習者にはこれらの作業は難しすぎるのかもしれませんが、どこかで、自分の本当に好きな作品に出会えたなら、その作品を演出するという機会が与えられても良いかもしれません。(ただし相当な時間数を使うので、プロジェクト型学習や授業後の個人指導なども検討すべきでしょうが。)


■ おまけ

最後の「靴紐に寄せる惜別の辞」という作品は最も好きでした。その理由は、「他在の存在から自己意識へに回帰する」「世界(普遍)と形態(個体)の弁証法」といったヘーゲル的解釈のせいかもしれません (笑)。それほど長い作品ではなかったので、私はこの作品の英語版を見つけて読んで、自分なりの日本語に翻訳してみたいと感じました。

Monkey という柴田先生が編集されている雑誌(翻訳+文学)のVol. 1 に載っているそうなので、ご興味のある方はお読みください。自分はVol. 3 と 6 を買って読んでいますが、相当に面白い作品だらけで、読み応えがあります。オススメです。



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MONKEY Vol.6 ◆ 音楽の聞こえる話柴田元幸

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2015年4月27日月曜日

佐川光晴 (2012) 『おかえり、Mr. バットマン』河出書房新社



このブログではこれまで新書を中心に紹介してきましたが、今回ひょんなことからとても面白い小説に出会いました。小説の紹介をしたことはありませんが、挑戦してみたいと思います。

来月に学部生の前で翻訳論の話しをさせて頂く機会があり、その準備の一環で手に取ったのですが、これがめっぽう面白かったです!翻訳家が主人公なので、翻訳家の仕事の裏側や悩みなどが主人公やキャラクターの台詞を通して伝わってくるのも面白かったですし、ストーリーにもどんどん引き込まれました。(特に今の自分には訴えかけるものがあったのかもしれません。笑)個人的に、英語を学んでいる高校生にも読んでもらいたい、そんな本です。

自分の関心から、まとめは翻訳論に関する部分が大きくなってしまいました。ですが、何度も言った通り作品としても面白く、あっという間に読めました。ぜひ興味がある方は読んでみてください。


おかえり、Mr.バットマン
おかえり、Mr.バットマン佐川 光晴

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■ あらすじ

翻訳家の山名順一は今年で48歳。妻の遼子は英語の教師で、忙しさから家事も子育ても順一に任せきり。次第に夫婦の仲は冷えきっていく。息子の順平が大学に合格して家を出てから、順一は遼子とろくに会話もせずに翻訳の仕事をしていた。そんな順一に、ひょんなことから仕事が舞い降り、冷え固まった山名家に新たな風が吹き込む・・・。

■ 本作品を読んだ感想

本作で山名順一の語りを借りて登場する翻訳論はもちろん面白かったのであとで紹介することにして、私は純粋に物語としても楽しんだ。特に、本作品が順一の寂しさ・喪失感を扱っているにもかかわらず、物語の根底には温かさが流れている。言い換えるなら、山名家の家庭の冷え冷えした感じと、主人公を取り巻くキャラクターとのリズミカルな会話、そして主人公や作家たちの翻訳・創作への熱意が感じられる、そんな作品のように感じた。

物語は現在の視点と回想が組み合わされており、少しずつ順一の家庭の過去が明らかになっていき、順一の語りと本音のずれのようなものが徐々に浮かび上がってくる。そんな順一の前に現れる若い美女のアガサ、翻訳仲間の田中、既に亡くなったが順一の敬愛する作家のフィリップ、・・・。彼らとの対話から順一の本音が浮かび上がっていく。

物語後半は急展開で、ある種突き放された感じを受けるかもしれない。しかし、決して居心地の悪い感じではなく、きちんと、読み終わった後に満足感を与えてくれる。そういった作品である。



■ 翻訳家=コウモリ

作中で翻訳を職業とする山名の翻訳観が面白く感じた。エッセンスの部分のみ引用。

そうした状況でも、山名順一は翻訳の醍醐味を味わっていた。まずは原作を注意深く読みながら小説の世界に入っていく。ところどころ日本語に置き換えつつ、英語で読み進めていくうちに物語が体の隅々にまでしみとおり、やがて英文と並行しておぼろげな日本語訳が頭にあらわれてくる。かたやアルファベット、かたや漢字・ひらがな・カタカナの三週混淆と、文字もちがえば文法もちがう二つの言葉が頭の中で響き合う。自分がどちらの言語で読書をしているのかが曖昧になって、英語からも日本語からも解き放たれながら、同時に英語と日本語の両方を味わい尽くしているような感覚がつづく。
山名はその状態を「こうもりの愉楽」と呼んでいた。こうもりが鳥と獣の性質を併せ持つように、翻訳家は母語と外国語のどちらにも通じている。つまり、翻訳家はこうもりであり、こうもりにはこうもりにしかわからない喜びがあるのだ。 (p.36)

イソップ童話では、こうもりは鳥と獣のいずれにも取り入ろうとする卑怯者として描かれている。しかし、間違っているのは鳥や獣のほうではないのか。こうもりは鳥であり、獣でもある生きものとして、自分なりに宙を舞っているにすぎない。それなのに、鳥なのか獣なのかはっきりしろと二者択一を迫ってくるから、こうもりはその場しのぎを承知で相手に合わせて返答をした。それを卑怯と決め付けるのは、言いがかりもいいところだ。翻訳家はこうもりとして、一つの言葉だけに囚われている連中には不可能な動きで、広い世界を飛び回る。 (p.37)


この引用箇所のほとんどは、野崎『翻訳教育』のあとがきにも紹介されていた。(私が本作品を知るきっかけになったのもこの本である。)

よく日本人が英語を学ぶとき、「1対1の関係から離れろ」といわれることもある。しかし、いきなりそのような芸当ができれば苦労はない。私が初学者としてドイツ語を学ぶときも、まずは1対1の関係から入らざるを得ない。しかし、その時点では日本語と英語のどちらかの世界に縛られており、ある意味がんじがらめになっている状態なのかもしれない。

それがいつしか、両言語間をコウモリのように飛び回り、自分が一方の言語で読み取った世界をもう一方の言語で伝えなおすことができる。そのような存在が翻訳家であり、学校で解く「英文和訳」と大きくかけ離れた仕事である。

すでに亡くなられた駿台予備校の伊藤和夫先生の『英文解釈教室』の序文に、「英語⇒物事⇒日本語」の話しが紹介されていた。伊藤先生の「訳」は、英語を日本語へ移し変える作業というより、英語で読み取った世界を日本語で語りなおすことである。この「訳」の力がつくと、次第に私たちもコウモリのように自由に飛び回ることができるのかもしれないし、その楽しさは翻訳作品と原著を読み比べたり、実際に翻訳体験をしたりしていれば頷けるものだろう。

ただ、急いで付け加えると、コウモリもやがては飛べなくなってしまう。コウモリが飛び続けるには、作中で主人公が見せていたように、面白い日本語表現を見つけたらメモをする習慣や、原文を無我夢中で読みふける経験、そして原著者の世界を何とかして日本語読者に伝えたいという熱意が不可欠だろう。主人公が原著者(フィリップ)に抱いた敬意と愛情は、翻訳をする際にとても大事なことを教えてくれる。



と、このように口だけでは語ることができても、実際にすると難しいのが翻訳であるが、(そして自分はつくづく翻訳が苦手と実感するが笑)、この「翻訳家」を「コウモリ」というメタファーで表す本作の翻訳論は、大変面白かった。

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