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2015年12月21日月曜日

Anthony Pym 教授の講演会に参加して

こんにちは。mochiです。
2015年もあと10日ですね。
今年も本当に色々なことがあって、充実した経験を積ませて頂きましたが、同時に反省すべき箇所も多かったなと思います。

とりあえず修士論文を書き終えて、4月からの教員生活に向けてできることを一つずつやりたいと思います。

今回は研修ノートです。

2015年12月14日 (月) 、立教大学異文化コミュニケーション学部主催2015年連続講演会に参加させて頂きました。

講演は、翻訳論の大家であるAnthony Pym 氏が話されていて、テーマは"Where Translation Studies lost the plot: creating knowledge when everyone can translate"でした。

ちょうど自分の修士論文のテーマと関心が重なっており、大変刺激を受けてきました。ここに、講演の要点と、自分の感想をまとめたいと思います。


■ 要旨 (公開されている英語版アブストラクトのまとめ)

・翻訳学は1972年の設立当初 (Holmes のmap) 、翻訳の技術と言語学習のためのテストとしての訳に関して研究するものとしていた。

・ただし、翻訳学が学際性を帯びて、外国語学習での訳使用に関して無視をするようになったため、コミュニカティブアプローチが訳を退け、翻訳を専門性の高い行為とするようになった。

・ところが、機械翻訳の進展によって翻訳の全営化が起き、誰もが翻訳を行えるようになった。また、機械翻訳の推敲によって良質の訳文を作れるという結果もあり、これからは、訳行為は必ずしも専門家に限られる行為ではなくなる。


■ 翻訳学と言語教育の断絶

・応用言語学の大家であるNunanの書籍は20億部以上売れるのに対して、翻訳学の本の市場はとても小さい。


・Holmes(1972) は、翻訳学の設立当初から外国語教育における翻訳の技術とテストについて研究すべきとしていた。しかし、翻訳学が西洋で自立した学問となるにつれて、言語教育との接点が次第に薄れていった。


■ 翻訳学の「二項対立」

・翻訳学は「直訳と意訳」「同化翻訳と異化翻訳」「形式的等価と動的等価」のような二項対立的思考で止まっていたのではないか。

・近年の翻訳学では、この二項対立を脱するための提案もなされている。(Translation Solutionsの議論など)


■ 今後の方針

・外国語教育でもcommunicative translation が重要になるのではないか。
→この概念に関してはあまり説明がされなかった。参考になるのは、House (2008) などであろう。英語教育で翻訳活動を行う際には、形式的等価や訳語の正確さといった観点のみならず、その文が伝えるべきメッセージを十分伝えているか、といった観点も評価規準に入れるべきだろう。

・Malmkjaer の言葉を借りれば、 “Isn’t translation communicative?” である。

→当然、Pym氏の立場は “Yes! (Why not?)” である。ただし、現場で教える身としては、文法訳読式教授法のように、 “un-communicative translation” が歴史的になされてきたという反省も怠ってはならない。そのために、訳活動を行う場合は、「なぜその文を訳すのか?」「誰がその訳文を読むのか?」といった細かい場面設定も踏まえたタスクとして開発する必要があるだろう。

・機械翻訳の教育的使用も考慮されるべきである。たとえば、機械翻訳で出された文を下訳(叩き台)にして、より良い訳文を作成するというタスクも考えられる。

⇒後述。


■ 講演会の感想

以上が講演会のまとめです。
最後に、この講演会を踏まえて考えたことや学んだことを載せます。

(1) 翻訳学の学際性

西洋で翻訳学が自立した学問として成長する中、日本でも翻訳学が自立した学問体系となるような努力が積み重ねられています。今年の日本通訳翻訳学会の年次大会でも、翻訳者や通訳者の地位が不当に下げられてはならないという趣旨の発言がシンポジウムでされていました。(東京オリンピックに向けて翻訳や通訳のボランティアが増える中、専門職としての翻訳者・通訳者の位置づけに関しては、今後も問題となりそうです。)

しかし、教育学がそうだったように、翻訳学も「科学 (Wissenschaft) 」になることだけを目指してしまうと、西洋のTranslation Studies のように、他の分野との連携が薄くなっていくのかもしれないと感じました。翻訳学が単一の学問に固執するのではなく、翻訳という複雑な行為を多くのアプローチ (言語・文化・社会…) で分析し、その応用を議論していくべきだと思いました。

(2) 「翻訳」と「英文和訳」の二項対立性の克服

Pym氏によれば、翻訳学は「直訳」と「意訳」という伝統的な二項対立法から抜け出しきれていません。(「同化翻訳と異化翻訳」、「明示化と暗示化」、「形式的等価と動的等価」…。)

考えてみれば、英語教育学で馴染み深い「翻訳と英文和訳」という分類も二項対立的に語られることの多い概念だと思います。ただし、個人的にこの分類は、訳されたプロダクトのみならず、訳プロセスや訳文の機能、訳行為の依拠するコミュニケーションモデルなどの多くの観点から総合的に判断されるべきであり、必ずしも静的な二項対立的区分ではなくて動的な分類法として考えるべきだと考えております。

このような多重的観点から、中高英語教育における「訳」が一概に否定されるのではなく、場面によっては学習効果があるのではないかと思っており、今後もこの点について考えを深めたいと思います。

(3) 英語教育学と翻訳学との対話

講演会後に質疑応答の時間があり、その最後に英語教育との連携に関して以下のような質問をさせて頂いた。「post-editingを英語教育で実践するのはもちろん面白いが、日本語を日本語で書き換えるという活動に止まってしまうと英語学習とは呼べないのではないか。」

というのも、自分が実践したときもそのような問題意識があって、去年フリースクールで『映画名探偵コナン』の英語版教材を用いたpost-editingの実践を行った際に、不自然な日本語を自然な日本語に言い換えるという作業で終わってしまうのではないかという疑問が残ったためでした。授業は盛り上がったのですが、生徒さんの何人が英語の学びとして授業を受けてくれたのかと考えると、たしかにクエスチョンマークが消えませんでした。

Pym教授の答えは、「もちろん英語学習だよ。翻訳しているじゃないか。」というシンプルなものでした。時間が限られていたこともあり、それ以上の議論ができなかったのが大変心残りです。英語教育学の人と話していて一番焦点になるのが「日本語に訳したものについてあれこれ指導したら、それは日本語学習ではないか」という点なので、もう少し納得のできる説明ができないかと考えています。

そもそもお互いの「コミュニケーション」や「言語学習」の考え方が異なっているため、かみ合わないような気もします。翻訳活動が他者(原著者と読者)を意識したコミュニケーション活動であり、そこに「英語」学習も絡むような活動を提案する必要があると感じました。

※そもそもPym氏は大学での英語教育を念頭に入れていると考えられるので、中高英語教育を前提とする自分ともまた前提が異なっているのだと思います。

2014年12月15日月曜日

第6回国際表現言語学会に参加して

あと少しで2014年も終わりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

12/14 (日) 、文教大学で開催された「第6回国際表現言語学会」に参加してきました。(表現言語は英語で performing language と訳されるそうです。)

本学会の存在を知ったのもつい最近のことでしたが、自分のような新参者も学会に溶け込みやすく、とても充実した一日を過ごすことができました。

記憶の新しいうちに、本学会で学んだことを整理しておきます。



■ 語学教育としての演劇

パネルディスカッション「言語教育の実践とドラマの融合」では、平田オリザ先生・原口友子先生・塩沢泰子先生による議論がありました。(個人的に、平田オリザ先生の大ファンなので、お話が伺えて感無量でした・・・。) 以下、先生方の議論を歪曲することはできるだけ避けたうえで、自分なりの言葉でまとめたいと思います。

平田先生は、演劇的手法の外国語教育が大学をはじめ、小・中・高でも徐々に広まっている点を指摘しました。英語教育であれば、英語ができるかできないかという一元的なものさしが支配的ですが、演劇の魅力は、語学が苦手な子でも活躍できて自信をつけられることです。たとえば英語の発音が上手であっても演技がうまいとは限りませんし、その逆も然りです。実際に、初日の諸大学による発表ビデオを見ても、発音があまり上手でなくても人前で堂々と演技したり役に成りきっている人たちは、劇中でも際立っていました。つまり、演劇には英語が苦手な子でも輝ける場を作る力があります。「英語ができる子が上、できない子が下」というものさしを一時的にでも覆い隠すことができれば、クラスの多くの子が英語にかかわることができるかもしれません。

塩沢先生は、英語授業のドラマ活用によって、生徒の英語力と人間性の伸長の両方につながりうるという主張をされました。英語力については、授業の英語を覚えるのが苦痛であっても、演劇の台詞は「流れ」があるから覚えやすいという子が学生の中にも多いそうで、長い間続けていると英語の力が伸びていくということでした。それにとどまらず、演劇によって学生の人間性も伸びるため、「語学教育」を超えた魅力が演劇にあるとのことです。ここらへんは定量化することが難しく、「なぜ文学が英語教育で扱われるべきか」と同様に実証が難しい領域でしょう。先生としては「この子たち一回り大きくなった」ということが十分伝わるのに、その文脈を共有していない人には伝わりにくいのだろうと思います。

(私は、そういった実証しづらいが効果があるであろうを認める寛容さと、そういった主張を説得力あるものとする努力の両方が必要なのではないかと感じました。もちろん科学的には棄却せざるをえませんが、こと人間科学でそこまで厳密な定量化が本当に必要か疑問に思います。)

原口先生は、演劇を通して学生が「英語を使う楽しさ」に触れ、主体的に英語学習に参加するという報告をされました。劇では受動的な参加では進まず、主体的に創作・練習する必要があるために、よりかかわりを持った学びになります。たとえば、劇の練習で「自分は周りの子より遅れてる」と感じる子は、みんなの足を引っ張らないように家で練習してくることがあるそうです。

「英語ができない」という子の中には、主体的に英語に取り組む機会がなかったために英語を使う楽しさ・喜びを体験できなかった子もいるでしょう。演劇の練習は、周りの教員から見たら遊んでいるようにしか見えないこともあるかもしれませんが、その遊びの中で学ぶこともあるという点を忘れるべきではありません。


以下は、議論で出た主な要点です。「→」マーク以降は自分なりの感想です。

・今日グローバル人材やリーダーシップの育成を目標に掲げた教育がなされているが、今の子たちにはどのような英語力が求められるかという議論が抜けた状態で進んでいるようである。

→まさにそのとおりだと思いました。「グローバル人材」「コミュニケーション能力」といった言葉が独り歩きしている感じは否めず、これらの概念の意味することをまずは議論する必要があるはずです。そして、一部のリーダーを育てるエリート教育ではない「公」教育として、英語教育で育成すべき能力を議論する必要があるでしょう。この点は、4人組の講演会でも同様に議論されていました。

・演劇は短期的暗記力なら役に立たない。期末試験のための勉強に演劇を取り入れるのはあまり効率的でない。しかし、長期的な力としては、五感をフルに使う演劇は役に立つだろう。そのためにも、今後は追跡調査を通して演劇経験が英語力にどのように貢献するかを実証することも考えるべきである。

→平田オリザ先生の『わかりあえないことから』でも、流動性知能と結晶性知能という用語で説明されていました。ワークショップを通して、体験して学んだことはなかなか忘れないという経験は自分にも多くあります。また、演劇の効果を英語教育学会などで示すためには、エビデンスの提出も今後求められるのだろうと感じました。

・授業構成は、Context-BaseからPersonal-Baseへ。

→授業をするときは、まず文脈を伴った例から導入して、慣れてきたら個々人の特有な文脈を用いておのおのが理解を深めるという手順が良いそうです。

たとえば、英語の授業で比較級を学ぶ際に、まずは「ドラえもんとルフィのどちらが伸長が高いでしょう」「体重はドラえもんの方が重いね」のような文脈を伴った例(Context-Base) から導入することができます。生徒が少しずつ比較構文の形に慣れてきたら、「じゃあ、次は君たちが好きなキャラクターや動物、人間で同じように書いてみよう」と伝え、各々が「じゃあ巨人と妖怪の強さを比べてみる」のように自分の好きな例に置き換えて理解を深める(Personal-Base) ことができます。あまり演劇と言語教育という文脈には関係ありませんが、個人的には授業観としてとても共感しました。

・学習者が必要な英語と、教える英語が一致していないのではないか。

→たとえば、臓器移植について英語で討論する力がある生徒たちがいるとします。もちろん高度な議論をする力は将来必要になるでしょうが、必ずしも全員が臓器移植の議論をする必要はなく、中には電車で隣の人に英語で話しかけられれば良い子もいるでしょう。negotiated syllabus という議論もありますが、教師の教えたいことと学習者の学びたいことがうまく一致したときに、実りのある英語学習になるのかもしれません。



最後に、「演劇と言語教育」の議論に関する自分の感想です。

(1) 演劇の虚構性

演劇は、現実の世界(アクチュアルな世界)ではない仮想世界を演じることで、普段自分を規定している「自分」から一時的に離れることができます。たとえば「普段英語ができない」、「人前では話しにくい」自分、などがありますが、これらから一時的に抜け出して演じることができます。ある先生が「ロールプレイは嘘だ」と発言されていましたが、個人的にはこの「嘘」(虚構性)がたまには必要なのではないかという気がします。英語の授業で「将来の夢を語る」といったタスクもありますが、思春期の子たちがこれに正面から取り組むのは難しいかもしれません。こんなとき、わざわざ正直に自分の夢を語らせる必要はなく、仮の自分が仮の夢を語る場を作っても良いのではないでしょうか。英語の授業で何かを演じることで、「他者としての自分 (me as Other) 」を表出させる経験をつめば、いずれ「自分 (myself) 」を出すのにつながるかもしれません。(実際には「将来の夢」の単元はキャリア教育・道徳教育との兼ね合いで行われることが多いでしょうから、現実味はありませんが...。)

なお、以下のブログでも「英語の授業における虚構性」が議論されています。大変刺激的な議論で、授業という営みに隠れる「虚構性」をむしろ肯定的に捉えるという論旨でした。


また、演劇を遊び (play) の一種としてみれば、ガイ・クックの以下の議論も参考になるかもしれません。


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自分が翻訳を言語教育で用いたいのも、英語力のみで勝負する英語の授業だとどこかでつまづく生徒がいる気がするからだと思います。そこに創作的な翻訳活動が伴えば、英語が苦手な生徒でも名訳を生む可能性があるため、いつもの英語力による序列をいったん崩すことができます。これで英語が苦手な子も活躍できるなら、演劇でも翻訳でも英語授業に取り入れる余地があると思います。(あくまで「取り入れる余地」の議論なので、「翻訳だけやればいい」といったラディカルな主張はしません。笑)


(2) 劇化の可能性

しかし、演劇を英語授業で取り入れるにはなかなか時間がなく、プロの先生にワークショップをやってもらうことが必ずしも可能でないかもしれません。そこで、英語授業で取り入れるには、教科書の「劇化」が有効かもしれません。「劇化」は、教科書のダイアログを実際に演じてみることで、キャラクターの視線や発話時の感情、場面などを推論する必要が前景化し、表面的な理解にとどまらない解釈を必要とします。また、実際に演じてみることで、五感を使ってテキストを体験することができ、身体をともなった理解に通じるかもしれません。(ああ、ここらへんの言葉使いが浮付いている気が・・・。この点は、また(3) で述べます。)

たとえば、以下の台本だったらいかがでしょう。(たしか、Widdowson の本に載っていた例だと記憶しています。曖昧な記述で申し訳ございません。)

A : This is the telephone.
B : I'm in the bath.
A : OK.

これを音読するのは容易ですが、場面を理解するには、以下の点を考慮する必要があります。

・AとBの人間関係はどのようなものか。
・2人はどこにいるか。
・"This is the telephone." はどのような意味か。「これは電話です」ではだめか。
・なぜAは”OK"といったか。このあと、Aはどうするか。

これらの点を考慮すれば、Aが子供、Bが母親であり、家で電話がなっていることを知らせる子供に対して、入浴中の母が「今電話に出れない」ことを伝える場面と理解することができます。

さらに、これを劇化するには、以下の点にまで踏み込む必要があります。

・子供は何歳くらいだろう。
・母親はどのような性格だろう。入浴中に電話があったら、自分ならどのように対応するだろう。
・子供は家の中のどこにいるのだろう。風呂場の近くだろうか、遠くだろうか。
・母親は風呂場でどうしているだろう。入浴しているか、髪の毛を洗っているか。
・そもそも母親でなくて父親ではだめだろうか。
・電話はコードレスだろうか、それともコードつきの電話だろうか。

もちろんこれらの点はテクスト中に明示されておらず、想像する必要があります。この過程で、自分の生活とのつながりも生まれ、ただのテキストが「意味を持った文章」となるはずです。そして、生徒によってこれらの解釈が生徒間で異なっているため、複数の生徒に演じさせてみても「個性」が見えるはずで、見ている側も楽しむことができるでしょう。


(3) 理論言語・実証の必要性

「知性」と「感性」をつなげる、五感を総動員して学ぶ、英語の楽しさを実感できる、・・・など多くの演劇の魅力が本学会で語られましたが、これらをさらに理論言語で説明する必要があるように感じました。「劇はいい」というテーゼにはもちろん賛成しますが、これらは学会などでどこまで受け入れてもらえるのかという点が今回の一番の疑問でした。「劇をやったことがあればわかる」「本物がわかる人ならわかる」でもいいのですが、もし理論や実証研究、哲学などがここに入り込む余地があるなら、演劇の効果を“客観的”に伝えることができるのに、と感じます。(あるいはそのような研究があれば、今後読みたいとも思いました。)

演劇のよさを語る人たちの「言葉」があれば、さらに演劇と言語教育はつながれるだろうと強く思いました。


■ 演劇的手法を活用したワークショップ

四国学院大学の千石先生による研究発表でした。四国学院大ではdrama education (演劇教育) が盛んで、福祉系・教育系の現場に出る人たちは演劇のワークショップを必修とするようです。

発表では千石先生がされているワークショップの報告がありましたが、そこで面白いと感じた点をまとめます。

・インプロ(即興劇)をするとき、「がんばらない」「相手に良い時間を与える」「誰かが話しているときは聴く」を最初に伝える。

・90分の授業が8回あるとき、最初の5回はアイスブレイキング(アイブレ)に費やす。

→いきなし演劇的手法を用いてしまうと、ついてこれない学習者もいます。そこで、心の緊張やバリアを和らげるための活動(アイスブレイキング;アイブレ)を行うのですが、8回の授業があるとき、うち5回をアイブレに費やされていました。アイブレの中でも難しさが異なるため、5回目の授業ではかなり高度なアイブレ活動を行うそうです。(なので、あまり先生の中ではアイブレという位置づけではないのかもしれませんが...。)これにより、6回目以降の授業ではShow & Tellなどの発表活動や、演劇手法を用いた活動が可能となるようです。逆を言えば、演劇的手法を英語授業などで扱うときも、アイブレを念蜜に行う必要がありそうですね。もし演劇に慣れていないクラスで「今から即興劇をやってもらいます」としてしまうと、・・・恐ろしい結果になりそうです。(笑)インプロの手法ももう少し自分で勉強したいと思いました。

・授業は、知識注入型授業と獲得型授業に大別される。獲得型授業では全身で学ぶことが求められ、そこで得られるのは「演劇的知」である。「演劇的知」とは、身体、こえ・ことば、かかわりの3要素によって構成される。

→「演劇的知」という概念に関して、面白いと思った。英語授業で「こえ・ことば」のみが(あるいは「こえ」が骨抜き状態の「言葉」かもしれない)教えられるとしたら、「演劇的知」から英語授業が学ぶことも多いかもしれない。千石先生は「耳が聞こえない子供」を事例に、「こえ・ことば」が使えなくても演劇的知を体得できるような実践を試みており、英語教育の「ユニバーサルデザイン」と似ているように感じた。すなわち、英語の授業で「こえ」が欠かせないように思えるが、「こえ」がなくとも、身体やかかわりを体験することはできるだろう。

performative learning (高尾, 2012) : パフォーマンスすることで自分を崩し、再組織化すること。

→とにかくやってみて、他者に表現して、そこで初めて自分を相対化して新しい自分を創るという理念を表す語のようです。デューイの learning by experience などと近い概念かもしれません。哲学用語であれば、「他者との出会いによって<自分>と<相対化された自分>が弁証法的に昇華され、<新たな自分>が生まれる」と言い換えられるかもしれません。(こんな言い換えに意味はありませんが。笑)

peformative learning も「ことばより身体の重視」という信念があるようで、身体性の勉強をする際に今後参照したいと思った。


演劇ワークショップに自分が参加したことがなかったので、目から鱗の思いでした。できればワークショップに参加してみたい・・・と強く感じました。(もし広島近辺で情報をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひ教えて頂けると幸いです。)




■ 小噺ワークショップ

続いて、畑佐先生による「小噺ワークショップ」に参加しました。先生は日本語教育の場で小噺を導入し、学習者が日本語をもっと学びたいと感じられるよう(動機付けの手段となるよう)、実践を続けられています。

小噺は私たち日本人が行ってもある程度はできますが、「目線」「声の調子」「動作」など考える点は多々あり、とても奥深いものだと感じました。(先ほどの「劇化」に似ているかもしれません。)

たとえば、以下の小噺。

「手術」 
患者:「先生、私、手術するの、初めてなんですけど、大丈夫でしょうか。」
医者:「心配することはありません、私だって、(手術するの)初めてなんですから。」

まず、これを日本語学習者が覚えて披露する際には、「手術」という日本語が言えるかどうかという問題があります。患者の一言目の「手術」という言葉を効いたときに始めて、聞き手は「病院のできごと」というスキーマ・スクリプトを想起することができます。ここで発音指導・暗唱といった従来の言語教育の手順が必要となります。

ある程度読めるようになったら、ある程度の笑いは取れるかもしれません。しかし、これも実際に小噺する際には、

・患者は寝ているのか、座っているのか、歩いているのか。
・医者は手術中なのか、座っているのか、歩いているのか。
・では、2人は目線をどこに合わせるのか。
・医者は不安気に話すのか、自信ありげに話すのか。
・医者はなにか手に持っているか。なにも持っていないか。

など、想像力を働かせる点はいくらでもあります。

実際に、畑佐先生や平田先生、また多くの会員の方々のパフォーマンスは大変面白く、同じ小噺でも雰囲気がまったく異なることに驚きを覚えました。


もし学習者が完全にこれを覚えて、上の解釈をした上でオリジナルの小噺をし、笑いを取ることができれば・・・もっと日本語学習しようという気になりそうですね!(英語学習におけるジョークの指導にも同じことが言えるかもしれません。)

さらにこの指導が面白いのは、「外国語学習者が母語話者にできないことをする」「初級者も上級者より笑いを取る可能性がある」という点にあります。先ほどの「一元的なものさし(語学力)を覆い隠す」という点と似ていますが、言語弱者としての言語学習者へのエンパワメントという観点からもこの指導は大変面白く感じました。

もしよろしければ、以下のサイトで「手術」の小噺をご覧ください。私はこの動画に「言語学習者」という枠組みを越えた可能性を感じました。



■ Readers Theatre / 朗読劇ワークショップ

最後に、上の2つのワークショップで学んだことを列挙します。Readers Theatre の担当をされた浅野先生は、南山短期大学の先生で、自分の母校とのつながりもありワークショップ後も個人的に多くのお話を伺うことができました。(本当に貴重なお話をありがとうございました。)

Reders Theatre (RT) とは、"a rehearsed group presentation of a script that is read aloud rather than memorized" (Flynn, 2004) で、日本語では「朗読(劇)」「群読(劇)」「表現読み」「ストーリー・テリング」「読み聞かせ」などとしばしば呼ばれます。普通の音読や劇と異なるのは、RTでは台本を隠すことなく音読する点、グループで行い必要に応じてジェスチャーを用いる点、道具や衣装・効果音は用いない点などが挙げられます。

授業で使う際は、教科書本文の内容理解を済ませた上で、内容を改変しないように区切り(文中で区切っても可)、それぞれのパートに分けて読む練習をします。練習したら、最終的に全体の前で発表します。

初日の発表では、ジョン・レノンの Imagine という歌の歌詞を、3人の大学生が RT 方式で読み披露しました。3名ともとても表情豊かで大変引き込まれました。

自分たちもO. Henry の "The Gift of Magi" という作品で行いましたが、ただ読むだけでなくノンバーバルコミュニケーション(ジェスチャー、表情、イントネーションなど)にも気を払い、できれば読むときは目線を上げて (look-up) 披露する必要があり、意外に難易度が高かったです。もし学校現場で実践するなら、練習時間やアイスブレイキングの時間を長めに取る必要があります。特に、内容理解ができていないときにRTをしてもあまり意味がないはずです。まずはテキストの内容理解を行い、適当な箇所で文章を区切って読み、アイブレをしながら人前で話す抵抗を取り除いた状態で、最終的に RT を行う(そして行く行くは drama performance につなげる)というように、スモール・ステップを意識した授業設計が必要でしょう。(逆に、みんなの前で失敗するという経験をさせてしまったら、その子が英語学習から遠ざかるきっかけにもなってしまいます。指導者は、失敗経験をさせないという信念も同時に求められると感じました。)

これも、同じテキストを使ったとしても、グループの個性が強く出ており、見ていて大変楽しむことができました。正直、言語化できない、ビビッとくるようなものを発表を見ながら感じました。朗読劇のワークショップ後に、「どうして朗読をするとワクワクするんでしょうね」という質問がフロアから投げかけられていましたが、自分も同じ感想を持っていました(笑)。

朗読劇は、グループ毎に1幕ずつ練習をし、最終的に3班で3幕分の劇を完成させるというワークショップでした。グループで戸惑いながらも1つの作品を作り上げるというのが、新鮮で面白く、ほかの班との違いも感じることができてとても楽しかったです。

技能育成の重要性を否定するつもりは毛頭ありませんが、このようなワクワク感を授業において演出する必要もあると改めて感じました。


■ 全体を通じて

英語学習における演劇活動の効力を実感することができました。上でも書きましたが、英語を使う楽しさ、身体で英語を味わう感覚、成功したときのワクワク感などはやはり英語学習のモチベーションに大きく寄与すると思います。

今後、平田オリザ先生の問題提起にもあったとおり、「演劇が英語学習においてどのような位置づけがされるか」が問題だと思います。そのための研究も今後進むと良いと感じました。

演劇は敷居が高く感じていましたが、上で紹介したような手軽な活動から入ることもでき、授業にも取り入れやすいように感じました。

ただし、「演劇だけで英語の授業はバッチシ!」ということはもちろんなく、文法学習や静かな学習(座学)、訳、テスト、評価など、英語教育における他の要素とどう結びつくかを考えた上で、さらに演劇が広まると良いと思います。

とても実りのある1日でした。当日、お話いただきました先生方、準備・企画をされました事務局の皆様、本当にありがとうございました。



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(追記)2014/12/29

南山大学の浅野先生に本記事を紹介したところ、以下のような御意見を頂戴しました。
先生に許可を頂きましたので、貼り付けます。
もし先生にコメント等されたい方は、以下のコメント欄へご記入下されば、ブログ運営者が転送させて頂きたいと思います。
先生には、お忙しい中このようなコメントを下さり、改めて感謝申しあげます。

(以下、貼り付け)

1.RT導入の目的の1つは,読解力の養成です。
和訳やその後の問題演習をして理解したことに
している英文読解授業をいかにして改め,英文
の読みを深め,かつ読みを楽しませるか,が私の
課題でした。しかし,学生の中・高を通して慣れ
親しんだ経験を改めさせるのは容易ではなく,
困り果てましたが,逆に闘志も沸いたことを記憶して
います。つまり,読解のための手段が,RTという位置づけです。


2.短大の学生の英語学習動機は常に「英語が話せる
ようになりたい」です。RTはこのことに必ず貢献できる,
というのが導入の二番目の理由です。ただし,この
点に関する研究は少なく,まだ不十分です。セリフの音読
という手段による意味生成が,自分の言葉となる経過に
パフォーマンス系の英語授業がどう貢献できるかです。


3.政府による「グローバル化」などという方向付けを
待つまでもなく,これまでの言語知識教授に偏る
英語教育が,現代の要請にマッチしないのは明らか
です。しかし,グローバル化の具体論があまりに乏しく,
「リスニングを増やせばよい」,「コミュニケーション重視を」
「学校英語開始年齢の引き下げよ」いう議論に終始している
という印象です。

Drama (Theatre) in Educationなどの研究と実践が
今後の日本の外国語(英語)教育には必要ですが,
守田さんが,メモの最後にお書きの点が非常に大切です。
「演劇を導入すれば全て解決」などということはなく,それを
支える日常的な教育が必要ですね。文法も和文訳もテストも
です。このご意見には深く賛同します。
(詳しいことに関心をお持ちの方は,ご連絡ください)

(以上)

2014年10月29日水曜日

第11回質的心理学会に参加して

 2014年10月18日~20日に松山大学で開催された「第11回質的心理学会」に参加した。松山の温かな雰囲気に癒されるのと同時に、学会では普段質的分析をしていて感じるもやもやが溶ける思いがした。刺激的な発表が多く、当日に購入したB5ノート30枚をすべて使い切る程メモを取った。
以下に記すのは、学会で発表された内容や議論になった点で、特に私が重要と思った点である。ここに記される以上、私の興味・関心に応じたもののみ選択されている点をご容赦願いたい(と同時に、私という語り手の視点が中立になりえない事実こそ、学会で学んだことである)。


【1.質的研究とは】


 質的研究を行う際大事なのは、現場で起きていることを尊重する態度であろう。この点については学会中に何度も実感した。本章は、詳しい方法論や分析時のポイントを紹介する前に、現場優位の原則とアートとしての質的研究の特徴をまとめる。


■ 現場優位の原則

1. 既存の枠組みを括弧に入れて、事象そのものへ

 質的心理学の概説書には現象学というページが設けられていることが多い。現象学は「事象そのものへ」というように、既存の理論や枠組みをいったん括弧に括って現象に着目することで、既存の枠組みや理論で説明できないことを扱う。もちろん先行研究のレビューや「巨人の肩に立つ」姿勢も、研究コミュニティ中に自分の研究を位置づけるために必要な手順である。しかし、既存の枠組みは同時に先入見を与える。先入見は、現象を観察する以前に持っている枠組みのことで、時に現象と観察者の間の靄 (もや) の役割をする。オーストリアの哲学者であるフッサールは、そのような先入見をいったん括弧に括り (epoche) 、起きている現象をなるべく忠実に観察する必要性を説いた。

同様に質的研究でも、「これまでこのような理論が提唱されているから」とか「先行研究では・・・・・・といわれているから」という枠組みは(もちろん重要だが)いったん括弧に括り、現象(多くの場合はデータ)を観察して丁寧に記述することが求められる。

2. 分析手法は現象が教えてくれる

 私が昨年質的研究に関する勉強をしていたとき、「この通りに分析すればよい」という決まった手順があまり示されておらず、途方にくれた経験がある。これについて、西村ユミ先生 (首都大学東京) は、質的研究に定まった分析手順はなく、現場の特徴が分析の視点を示すと言う。もし現象の様式が会話であれば会話分析を使うだろうし、あまり理論化されていないものであれば*GTAを用いて理論生成を試みたりエスノグラフィー的な詳細記述をしたりするだろう。分析者が「今回はGTAを用いて行おう」というつもりで現場に行ってしまうと、既に先入見がついた状態で現象を見ることになってしまうかもしれない。なるべく現象を観察した後に適する分析手法を選択することが良いだろう。


■ アートとしての質的研究

 山崎浩司先生 (信州大学) は、質的研究の「技術」はどう訳すかという問題に対して、techniqueでなくartと訳すべきと主張する。technique はある程度体系化されているため、決められたとおりの手順を踏めば習得しやすい。artは芸術的なもので、一筋縄でできるようになることはない。ちょうど芸術家が決まった手順に沿って作品を作らないのと同じで、質的研究者もただ手順に沿って論文を書くのではない。何度も同じデータにぶつかりながら、徐々につかめるものであろう。

 セミナーの帰りにお話させて頂いた先生も、質的研究の勘所はすぐにつかめるものではなく、もがきながらぼんやりと見えてきたと仰っていた。分析しながら得られた感覚が、最終的に血となり肉となるまで繰り返す必要があるそうだ。


【2.実践編】

■ インタビューを「きく」こと-「きき手と語り手の協働構築物」としての語り

 インタビューを「きく」という行為は、受動的な「聞く」 (hear) であり、かつ能動的な「聴く」 (listen to) である。以下、「きき手」は「聞き手」と「聴き手」の両方を指す。
「聞く」は相手が語るのをただ黙って待つ段階である。語り手が主体であるインタビューでは、インタビュアーが話しすぎるのではなくできるだけ相手の話を引き出すことが望ましい。ここでは聞き手の姿勢が重要である。岸衛先生 (龍谷大学) は、あえて力まずに「相手の話を聞いていないように」聞く姿勢を心がけている。そのため、たまに生徒から「先生、本当に私の話聞いてる?」と言われるらしく、それくらい緩やかな空気の方が相手にとって緊張が少なくて話しやすくなることだ。

同時に、インタビュアーは能動的に「聴く」ことも求められる。相手が話すのを聴くときは能動的な意味づけを行う必要があり、例えば相手の「Aだ」という発言を「BではなくAだ」のように反対の項目をあてはめて相対化させるべきだ。たとえば、私は翻訳に関するインタビューを行った経験があるが、相手が「翻訳するときやっぱり意味が正確に伝わってるかが気になります」と言ったなら、「訳文の自然さではなく意味の正確さが気になっている」とまずは理解することができ、それによって「じゃあ訳文の自然さはどうですか」と次の質問につなげることができる。

また、インタビュアーが相手にインタビューする以上、語りに影響を与えることは無視できない。たとえばインタビュアーが使ったことばを相手が使ったり、協力者から逆に「あなたはどう思いますか」と質問されたりする。このとき、インタビュアーの言動が、協力者の考え方や答えを変えてしまうことは十分に考えられる。考え方によっては、協力者の語りに影響を与えないほうが良いといえるかもしれないが、質的心理学では語りを「きき手と語り手の協働構築物」としてとらえており、きき手は語りを共に作る担い手でもある。そのため、きき手はできるだけ影響を与えないようにするのではなく、自らの関心や知りたいことをできるだけはっきりと自覚した上でインタビューを行い、相手に与える影響も自覚しながら分析するべきである。


■ 分析のポイント

1. データは宝!ひたすら読め!

 自然科学のように条件を統一してとったデータであれば理想のデータが取れるかもしれない (憶測だが) 。しかし、人間を相手に収集したデータのとき、必ずでこぼこが見られ、完全なデータが取られることは稀であり、調査者の期待を大きく裏切るデータになることが多い。ではそのようなデータは分析する価値がないのだろうか。

 波平恵美子先生 (お茶の水女子大学) はそうではないという。どのようなデータであっても、調査者の関心(テーマ)に沿っている限り、価値があるものである。その場合は、ひたすら読むことが肝心である。前述の西村先生は、看護士から収集したインタビューデータを現象学的に分析した際は7~8回は目を通したと言うし、M-GTAセミナーの方は10回以上分析ワークシートを直してやっと完成したという方もいた。データの取り方を反省することも大事だが、協力者が時間を割いて得られたデータだからこそ、できるだけ多くを得られるように時間をかけてデータに向き合うのが重要である。

2. 語りの内容のみならず、語られ方に注目せよ。

 桜井厚先生 (立教大学) によれば、従来のライフヒストリー研究では口述のデータの信憑性は低く、主観的なものとされてきた。それに対して、ナラティヴ・ターン以降、ライフストーリー概念が浸透し、語られること (what is narrated) に着目されるようになった。それによって個人の語りにも注目されるようになってきた。

 しかし、先生によれば語られる内容のみならず、どう語られるか (how what is narrated is narrated) も着目する必要がある。たとえば言葉の使い方が特徴的なものがあれば、その人のこだわりが現れているかもしれない。あるいは語りのプロット (語る際の順番など) も、ある共同体では共有されるものがあるかもしれず、その語られ方も文脈として分析に入れることで、より豊かな分析が可能となる。他にも語る際の表情やイントネーション、沈黙の長さなども気づく限りできるだけメモすると良い。

 語り手は語ることに対して意識的になることはある。しかし、語り方にまで意識を向けることは少なく、前意識的 (無意識的) に語り方を調整していることもある。したがって、「あなたはいつも○○の話を最初にしますよね」とか「△△の話をしているとき、表情が豊かになりますね」などの分析は、本人も気づいていないこともあるらしい。(「なるほど、言われて見れば確かに!」と語り手が驚くケースも。)


■ 発表のポイント

1. 相手への説得性を最重視せよ!

 データを分析する際、どのようにデータを提示するかで迷うことが自分もある。たとえば理論化重視のM-GTAであれば生データを提示しないで概念・カテゴリーのみを提示することが多いし、エスノグラフィー的記述であれば得られたデータを提示しながら「データに語らせる」発表をするかもしれない。

 実際、私が特研の発表でGTAの発表形式に忠実に則って概念やカテゴリーのみを提示したら、聴衆から「データを出して欲しい」と言われたことがある。この時の私は、聴衆のことはあまり考えられておらず、自分のまとめたものを出すので精一杯だった。
 しかし、発表の際に重要なのは、いかに聴衆に自分の分析を提示して説得できるか、である。自分が分析した100のうち100全てを出す必要はどこにもなく、説得に最も有利な10(場合によっては5かもしれないし30かもしれない)を出せれば良い。その意味で、発表の場でどのデータを出すかについては、ある程度戦略的になっても良い。


2. 追跡可能性のある発表

 もう1つ重要なのは、追跡可能性の追求である。追跡可能性は、データ分析者が協力者からデータを収集し、分析し、発表するまでの手順を、論文の読み手が頭の中で追体験できる可能性を指す。

 質的研究の場合は、上述の通り確立した手順がないため、ある程度データを読めばカテゴリーを生成できてしまう。しかし、それが本当に納得できるカテゴリーかどうかを読者が判断するためには、分析者がそのカテゴリーを生み出すまでの流れを辿ることが保障されなければならない。たとえば、データ収集の過程 (何回に渡ってデータを収集したか、参与期間はどのくらいか) は明示すべきで、カテゴリー生成の際の手順 (分析ワークシートを作成した、コーディングの単位はどのくらいか) も読み手が知りたいであろう範囲で伝えるべきであろう。


■ メモ魔になること(おまけ)

 松山市の道後公園内の正岡子規博物館を訪れると、彼の幼少期に生んだ俳句から病床の手記まで丁寧に保存されていた。彼の友人である夏目漱石は以下のように評していたと言う。

御前の如く朝から晩まで書き続けにてはこのideaを養ふ余地なからんかと掛念仕る也。

 正岡子規はメモ魔であり、思いついたことをすぐにメモしていた。 (彼の生涯にわたる膨大なメモの一部も展示されていた。) 彼が生涯にわたってあれほど多くの作品を残すことができたのも、ひょっとしたらメモのおかげなのかもしれない。

 質的心理学会で何度も繰り返されたのは、「調査の時はメモ魔になれ」であった。M-GTAでは分析中に思いついたことは「理論的メモ欄」に全て記入をすることになっているが、分析の善し悪しは「理論的メモ欄」の分量が一つの目安になるほど重要であり、分析後半の収斂時に活かせるヒントもそこに眠っていることが多い。波平先生も「フィールドノートは常にかばんのなかに入れなさい」という発言をされており、アブダクション的思考のきっかけはメモ習慣にあるとされた。

 データ分析の糸口も分析をするために机に向かっている時だけでなく、電車に乗っている時やお風呂に入っている時など、ふとしたときにひらめくことが自分もあった。さすがに入浴中はともかく、そういった一瞬のひらめきを逃さないようにメモを取ることも重要である。

今後も質的分析を続けるにあたって、現場優位の法則やインタビューのポイントを意識したい。同時に、分析技術がすぐに体得できるものでないことを自覚して、時間をかけて練習したい。

*GTA (Grounded Theory Approach)
質的研究の方法論の1つで、個別現象をよりよく理解するための理論生成を目指す。GTAの前提として、観察可能な現象が1つひとつ具体的で限定的であることが挙げられる。ただの個別事例の記述なら意味がないように思われるが、すべての現象には構造とプロセスがあるとGTAは想定する。「普遍性」はいえなくても、「典型性」「傾向」なら示すことが可能である。GTAは、過度に誇大な理論 (grand theory) を目指すのではなく、あくまで理論に根ざした理論 (grounded theory) を目指す。 (参考:『外国語教育研究ハンドブック』)

2013年12月5日木曜日

翻訳学をとりまく近年の議論:Juliane House(2008) "Translation" Oxford: Chapter 6

こんにちは。

最近はバイトも少し落ち着いて、自分のことに使える時間がだんだん増えてきました。

この半年ほどドイツ語教室に通っています。やっと現在完了や過去基本形まできて、少し達成感を覚えているのですが、ドイツ語の不規則変化を覚えなければならないと分かったときに、「自分の塾の中学生はこんなに大変な作業をしていたのか」と実感。(人にやらせる前に、まずは自分でやれ!と中学生から突っ込まれてしまいそうですが、)やはり覚えるのは大変ですね。「来週までに覚えてくるんよ!」といわれるだけでは、まったくやる気が出ないことに気づき、しみじみ普段の自分の指導の不徹底さを反省。


さて。今日で翻訳読書会も最後になったので、そのまとめだけ下に載せておきます。
ここで翻訳学の勉強をしなおしていて、改めて翻訳という行為の面白さであったり、言語の持つ可能性を再発見できました。

Chapter 6では以下の4つの話題が述べられているので、順番どおりに、且つ具体例などを織り交ぜながら紹介していきたいと思います。

・Translation as intercultural communication(異文化間コミュニケーションとしての翻訳)
・The nature of translation process(翻訳プロセスの本質)
・Corpus Studies in translation(翻訳のコーパス研究)
・Translation and Globalization(翻訳とグローバリゼーション)


Translation as intercultural communication(異文化間コミュニケーションとしての翻訳)

以前にも説明がありましたが、改めて確認から入りましょう。

covert translation(潜在化翻訳)では、翻訳作品であるにも関わらず、あたかも原著者が書いたように訳すことを指します。
それに対してovert translation(顕在化翻訳)では、読んで「これは翻訳作品だ」とすぐに分かるように訳すことです。

たとえばJ.D.Salinger による “The Catcher in the Rye” はいくつかの翻訳が出ていますが、村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳は、あえて英語らしさを残した訳し方がされています。下はホールデンがフィービーを探しているときに出会った子供たちとの会話です。

キャッチャー・イン・ザ・ライ
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「僕はフィービーのお兄さんなんだよ。フィービーが今どこにいるか知らない?」
「ミス・キャロンのクラスにいる子でしょ?」とその子は行った。
「えーと。どうかな。たぶんそうじゃないかと思うけど」
「じゃあきっとミュージアムに行ってるはずだよ。先週の土曜日にわたしたちが行ったから」とその女の子は言った。
「どっちのミュージアム?美術館か、博物館か、どっち?」と僕は尋ねた。
彼女はちょっと方をすくめるような格好をした。「わかんない」と言った。「とにかく、ミュージアム」(p.197) 
※注:下線筆者による。 


この部分はmuseumという英語の特徴を用いたエピソードでした。日本語訳としては村上訳しか読んでいないのだが、この部分だけ読んでも明らかに英語の作品を翻訳したのだな、と読者は感じるでしょう。上の定義にあてはめるなら、この部分の訳し方は顕在化翻訳でしょう。
この部分をもし潜在化翻訳するとしたら、どうなるだろうか。毎度拙い訳で恐縮ですが、以下のような訳し方もあり得ないのでしょうか。

「あの子はどこに行ったって言ったかな。なんとか館っていっていたけど。」
「何館かな?美術館?それとも博物館?」と僕は尋ねた。

この訳し方では、読むだけでは英語の原作があったとは感じにくい。したがって、先ほどの村上訳と比べて潜在化翻訳と呼べるのではないのでしょうか。


※補足※
ちなみに、訳者である村上氏は『翻訳夜話2サリンジャー戦記』で、原著者であるサリンジャーの文体をできるだけそのまま伝えようという姿勢をとっていることを明かしている。したがって、ホールデンの話し方やリズムなどを再現する工夫が多く紹介されている。翻訳のみならず文学的な解釈という点からもとても面白い本です。

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さて、covert translation と overt translation に戻りましょう。それぞれについて、一部原文から引用します。

In a covert translation, a ‘cultural filter’ is applied in order to adapt the source text to the communicative norms of the target culture. (p.71) 
潜在化翻訳では、「文化フィルター」によって原典を目標文化でのコミュニケーションの基準へ合わせる。 
In overt translation, intercultural transfer is explicitly present and so likely to be perceived by recipients. They are presented with aspects of the foreign culture dressed in their own language, and are thus invited to enter into an intercultural dialogue. (p.72) 
顕在化翻訳において、異文化間的転移ははっきりと表れているため受容者にとって感じ取りやすい。受容者の既得言語を身に纏った外国文化の側面が表れ、異文化間的対話の世界へと読者は招待される。

どちらのタイプで翻訳するかによって、読み手に与える影響は大きく変わることが分かって頂けるかと思います。また他の人文系や社会学と同様、ポスト現代主義、ポストコロニアル主義、またフェミニズムの影響によって、翻訳学の対象は言語そのものから、文化へと変わってきている。すると、翻訳者達はこれまでよりも高い位置が与えられ、原典の文化をいかに目標文化に伝えるか(あるいは伝えないで改変するか)といった選択権を持つことになり、そこには翻訳者の意図がつねに関わってきます。



The nature of translation process(翻訳プロセスの本質)


Translationという用語は翻訳プロセスを指すこともあれば翻訳プロダクトを指すこともある。これは、現象学において意識が意識作用と意識対象(ノエシスとノエマ)に区別されたことと似ています。

したがって、翻訳学の研究でもプロダクト研究とプロセス研究に分けられます。プロセス研究では、翻訳中に考えていることを話してもらう thinking aloud ( introspection ) や、翻訳後すぐに翻訳最中のことを振り返ってもらいプロセスを明らかにする retrospection などが手法として用いられています。

翻訳プロセスを研究する際には以下の点に気をつけなければなりません。

In using the term process of translation, we must bear in mind that we are here dealing not just with one particular unitary process but with a complex series of problem-solving and decision making operations. (p.75)
翻訳プロセスという用語を使う際に気をつけなければならないのだが、私達はここで1つの特別なプロセスではなく、複雑な問題解決および意思決定の作動の集まりを扱っている。

今日の翻訳プロセス研究で得られている仮定には、翻訳者は少なくとも自分がしていることを統制し、頭の中での活動に“部分的に”入り込めるというものがあります。つまり、意識的な活動と無意識的な活動があるとして、意識的な部分は言語化可能であるが、言語化不可能な無意識な部分の存在も認めています。


※余談※
閑話休題。先日のルーマン読書会では意識と無意識の話になりました。読書会の参加者の中に合気道を嗜まれている方がいらっしゃり(!?)、韓氏意拳という話を伺うことができました。その方によれば、武道では意識によって体を動かしてしまうと相手にすぐに察知され技を止められてしまう。しかし意識して体を動かすのではなくて、体が動くままに(自然に)動かせることで、相手に自分の動きが察知されないようになるらしく、そのためには練習中もずっと自分の体の状態を「感じ」、自然に体が動くのを「感じ」るとおっしゃっていました。

正直この話を聞いてもあまり実感がわきませんでした。自分にもこのような経験はあまりないと思いましたが、実は日常生活でも体が自然に動くことはよくあるそうです。たとえば足元に段差があってつまずいたとき、意識はしなくても足が勝手に動いて転ばずに済みます。これも体が自然に動くことの例です。他にも眠っているときにかゆいところを勝手に掻く動作も意識はしていないはずで、このように動作の中には意識によってコントロールを受けなくてもされる部分が多くあるはずです。(しかし、西洋的発想で因果関係のもとに人の動きを分析しても、このような自然に任せた身の動かしは扱えない・・・。そこに東洋武道やルーマンのシステム理論が活躍するのかもしれません。)

この話を聞いて、翻訳でも「意識」をして統制をかけながら作業をする反面で、優れた翻訳者であれば言語化はできなくても、自然に上手な訳をするための工夫が体にしみついているのかもしれないと感じました。

(長々とすみません。急いで本題に戻ります。)



Corpus Studies in translation(翻訳のコーパス研究)

コーパスとは簡単に言えば言語使用のデータベースで、たとえば、日本語では「少納言」といったウェブサイトがあり、英語にはBritish National Corpusがあります。

翻訳学でのコーパス使用は以下の利点があります。
・実際に翻訳で用いられる言語使用であるため、言語に焦点を当て、テクストタイプとしてどのような典型例があるのか決めることができる。
・単語の組み合わせを知ることができる。
・parallel corporaによって翻訳の分析を行うことも可能となる。
・目標言語で書かれた文章と、目標言語の翻訳の文章を比べて、翻訳がどのように完全な文章と異なるかを調べることができる。

翻訳学でのコーパス研究はまだ新しい領域であるが、文脈がある豊富なデータを用いた量的分析や比較に終始してしまうべきではありません。

Translation and Globalization(翻訳とグローバリゼーション)

英語教育の議論において「国際化」という言葉は必ずと言っていいほど取り立たされるキーワードと言えると思いますが、翻訳学でも同様に「国際化」は入念に考えるべきでしょう(国際化と翻訳の議論を本書の最後にとってあったのも偶然ではないのかもしれません。)

モナ・ベイカー & ガブリエラ・サルダーニャ『翻訳研究のキーワード』では、「遠心的・求心的」という2つのタイプのグローバリゼーションの緊張関係について説明してあります。


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一方の求心的なタイプはグローバリゼーションを均質化と捉えるもので、暗に帝国主義、征服、ヘゲモニー、西洋化、アメリカ化を指す。他方の遠心的なタイプは、相互依存、相互浸透、異種混交、シンクレティズム、クレオール化、横断等をもたらすものとしてのグローバリゼーションを指す。(pp.102-103)

大幅な言い換えになってしまいますが、翻訳することで「世界が均一になる」ととらえるなら遠心的であり、翻訳することで「世界がつながる」ととらえれば求心的といえると思います。

国境を越えて情報を伝える際には、翻訳という行為は必要不可欠になります。特に近年翻訳学で生まれた領域にローカリゼーション(localization)があります。ここでは、国際化にともなって、ある原文を特定の地域のために翻訳する行為を指します。たとえば日本の電子辞書が世界中に輸出されたときその説明書やマニュアルは日本語で書いてありますが、これを輸出先の言語で翻訳するのはローカリゼーションになります。

英語が大きな力を持つことになった今日、翻訳学研究でも念頭に入れるべき点が最後に述べられています。

Translators should intervene in cases where the translation flow in certain influential genres (economic and scientific texts, for example) is exclusively unidirectional - from English into other languages, but never the other way round. Clearly, there is a paradox here, as in all translation: this is not yours, but I shall make it available to you, I shall bring it over to your side, I will translate it, ( p.81 ) 
特定の影響力のあるジャンル(例えば経済学や科学的文章など)が絶対的に一方通行-英語から他言語で、決して逆ではない-という場合、翻訳者は介入をするべきである。明らかに、全ての翻訳には逆説がある。この文章は君たちのものではないが、私が君達でも読めるようにする。君達の方に持っていってあげて翻訳してあげる。


翻訳を言語のみでとらえたり、文章(text)という単位のみで分析するのではなく、この文章をその言語で訳すことが果たしてどのような影響を与えるのだろうか、という点まで踏み込むことが、国際化という今日の特殊な文脈で翻訳学は求められているのかもしれません。


大変長々となってしまいましたが、本書のまとめはこれで終わりです。

読みにくく分かりにくい記事で、申し訳ありませんでした。(特に翻訳の文章にも関わらず、邦訳が読みにくすぎる・・・。)
今後も翻訳について面白い文章があれば、記事にまとめてみたいと思います。

長々と最後まで読んでいただいた方には感謝申し上げます。




本記事はJuliane Houseの"Translation"のまとめ記事です。
他のChapterについては、以下の記事をご覧ください。


2013年11月30日土曜日

訳と言語教育:Juliane House(2009) "Translation" (Oxford)を読む(3) :Chapter 5

mochiです。

今週は学部の後輩への進路説明会やフリースクールでの英語講座、サークルでお世話になっている学園の文化祭など、イベントがたくさんありました。文化祭ではダンスに参加させてもらいましたが、若々しい後輩たちと同じステージに立ったということで、次の日は筋肉痛に悩まされました。やはり年はとっていくもののようで・・・。



さて、今回の章は言語教育と訳に関するもので、訳反対派と賛成派の両方から言語教育における訳の役割を考察していきます。

※ 本章で用いられているtranslationは「翻訳」までいかない「訳」程度なのかもしれません。Houseは本書ではtranslationの定義をJakobsonのintralingual translationを用いているため、厳密に翻訳と訳の区別を行っておらず、以下に示すのは「訳の教育学的使用」であって、「翻訳の教育学的使用」とまでとらえないほうが良いと思われます。



本記事はJuliane Houseの"Translation"のまとめ記事です。
他のChapterについては、以下の記事をご覧ください。


Arguments against translation(訳反対派の議論)


■ 改革運動による訳への攻撃
These uses of translation provoked fierce opposition in the latter half of the nineteenth century by members of the so-called Reform Movement, a group of language teaching theorists who advocated a less formalized and teaching. (p.60)

もともとは訳読式教授法(Grammar-Translation Methods)によってラテン語教授が行われており、日本でも変則式教授が行われておりました。しかし1850-60年頃の「改革運動(Reform Movement)」によって、書き言葉のみならず話し言葉の言語教育を進めたり、人工的文法規則の例示から意味の繋がった文章の使用へと転じたりしてきた。これにともない、訳というものも改革運動から攻撃を受けることになった。

■ 2方向の翻訳: どちらも反対されてきた。
(1) Translation into the foreign language(例:日英翻訳)
自然な言語習得が進むのが妨げられたり、不自然に母語が媒介することで外国語の使用がだめになってしまう。

(2) Translation into the mother language(例:英日翻訳)
学習者が母語を使うと干渉(interference)が起きてしまい、外国語が頭の中に入って混乱してしまう。また、語や句の意味説明の手段として日本語で説明すると、受動的な知識となってしまい、能動的には用いなくなると考えられていた。さらに、言語間に「1対1の関係(one-to-one correspondence)」があると思わせてしまう。

※ただしどちらも実証的に示されているわけではない。

■ bilingualism
二言語併用には、compound bilingualism ( 複合二カ国語併用)とcoordinate bilingualism(等位二カ国語併用)がある。前者は母語と外国語それぞれの語彙が一緒に頭の中に入っているとする立場であり、後者は別々に頭の中に入っているととらえている。

この区別に関して、以下の記述がある。
A further opposition to translation was based on the belief that it produced the ‘wrong’ kind of bilingualism: compound rather than coordinate bilingualism.(p.61)

訳を行うことで、等位二ヶ国語併用よりも複合二ヶ国語併用になってしまうと考えられ、訳はより非難を受けた。ここには "Think in English"のように、英語で考えて話すというnative-likeを理想とする考えが隠れているように思える。


Arguments for translation(訳賛成派の議論)


ここでは、先ほどとは逆に訳擁護派の意見を紹介していく。

大前提としては、先ほどと異なりcoordinate bilingualismを良しとしている。

■ 言語学習はバイリンガル化
If the foreign language is viewed as co-existing bilingually with the L1 in the minds of language learners, then language learning becomes a ‘bilingualization process’, i.e. a process promoting bilingualism. (p.63)

→言語学習の目標を「英語ペラペラ」とするか、「英語も日本語も」とするかによって、訳の効用は大きく変わるようである。そんな中、multilingualismやmulticultualismは、外国語学習の意義に影響を与えないだろうか。

■ 訳の効用
本文では、以下の点が挙げられています。すこし長くなりますが、それぞれに具体例や私自身の経験を当てはめながら説明していきます。

(1) 訳で言語項目の意味を説明し、正確さを高めて熟達度を高める

たとえば「英語は英語で」に従って、ある単語の意味を英語で説明したとしましょう。 "This is a cloth usually hung by the window. You usually have this in your house. This word starts with c. Can you guess what it is?"これに対して「カーテン」と分かれば良いのですが、分からなければいつまでたってもこの単語の意味が分かりません。(curtainはカタカナでも用いられていますが...)

むしろ「curtainはカーテンのこと」と簡潔に意味を説明したほうが、効率的に意味を知ることができ、結果的に正確さが高まるのではないでしょうか。


(2) 外国語の“奇妙さ”を下げるという心理的効果

小学校の外国語活動の授業を観察する機会がありました。児童は楽しそうに歌を歌ったりゲームをしたりしているのですが、ALT(Assistant Language Teacher)が英語で少し長めに話すと、「は?何言っとん?」「分からんし」といった反応が返ってくることもあります。

「分からない」というのは児童にとってstressfulな体験で、これが高まると「英語(外国語)は嫌だ」という気持ちにつながってしまうかもしれません。(もちろん外国語活動という領域上、相手の言っていることを分かろうとする姿勢も身に付けさせるべきなのでしょうが...)

先ほどの授業の場合は、日本人のHRT(Home Room Teacher)が「今のは...と言っていたんだよ」と一言言えば、子どもたちも安心できると思います。

現に、昨日英会話教室で小学生とネイティブの先生の授業をみていましたが、先生が"always means 100 %. Judy always plays tennis every Friday."といったとき、ほとんどの子はちんぷんかんぷんといった感じでした。しかしある女の子が「今のは、テニスを毎週金曜日に100%するって言ったんだよ」とみんなに教えました。すると他の子たちも元気を取り戻して「え、誰がテニスをしたの?」「100%するってどういうこと?」と再び授業に参加できていました。このように“たまに”訳を用いることで心理的な不安が取り除かれるのではないでしょうか。
(もちろん訳をいちいちしていたら誰も英語を聞かなくなってしまうので、タイミングが大事なのでしょうが。)


(3) 様々な言語のレベルで言語の共通点・相違点を内省する機会を多く作れるので、翻訳は言語意識をあげるきっかけとして働きうる。

Translation can act as a trigger for raising awareness of language because it creates many opportunities for reflection on contrasts and similarities between languages at various linguistic levels. (p.64)

翻訳をすることで言語意識があがるのではないかという論点です。以下の点については、「等価と翻訳可能性: Juliane House(2009) "Translation"(Oxford)を読む(2): Chapter3」で述べております。

The very limits of translatability can draw attention to linguistic contrasts and similarities, and to the context- and culture-dependent nature of meaning. (p.64)

そういえば前回の記事を書いて以来、フリースクールのボランティアや英会話教室などで翻訳タスクをたまに行っています。そこで以前紹介した " You have written "skill" with a "c" again, instead of a "k""を訳させてみるのですが
、十人十色の解答がでてきてとても面白く思っております。ただ、英文自体が理解できないと翻訳のしようもないので、難易度の統制は必要だと実感しております。(先ほどの文では、instead of やagainが正しく意味が分かっていないと、訳しようもないですね。)


(4) 異文化間理解を促進する。

たとえば、"Don't Sleep, There Are Snakes"という文はどう訳すのでしょうか。「寝るな、ヘビがいるぞ」でしょうか。

実はこれはアマゾンのジャングルに住む人々が使うピダハンという言語では夜の別れのあいさつとして用いられるそうです。(重訳なのであまりよくないのですが...)

つまり、先ほどの"Don't Sleep, There Are Snakes"は、日本語に相当するのは「おやすみなさい」なわけです。文字通りの意味とは異なりますが、語用論的、文化的にはこちらが等価となります。

この翻訳体験をすれば、アマゾンに住む人々の生活を想像したり他の国の別れのあいさつに興味を持ったりすることができます。英語科教育では異文化理解、国際理解学習も大切とすれば、翻訳もその一助となるのかもしれません。


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(5) 翻訳活動 (translation activities) に用いられる。

最後はより具体的な活動例です。翻訳活動は、翻訳自体を1つのスキルとして、実生活で翻訳をする場面を想定して活動を行うものです。たとえば海外の友人から手紙が届いた。その手紙の内容を自分は理解できる。しかし5歳下の妹はそれを理解できない。そこで、あなたは妹のために翻訳することになりました。...

このような翻訳は実際に行う機会もあるのではないでしょうか。自分も大学に入ってからイギリスのホストファミリーから受け取った手紙を、母親のために翻訳した覚えがあります。こう考えると、翻訳も決してnon-communicativeとは言いがたい気がしますね。

ただ、いつまでも翻訳活動のみをしていても、英語運用能力が上がるかは怪しいので、コミュニケーション重視のカリキュラムに翻訳を「少しだけ」取り入れるのが現実的なのかもしれませんね。








なお、訳と言語教育についてはいくつか関連記事もあるので、興味があればぜひご覧ください。


菅原克也(2011)『英語と日本語のあいだ』(講談社現代新書):授業での使用言語は?

山岡洋一(2001)『翻訳とは何かー職業としての翻訳』日外アソシエーツ



また、先月出された本書にも訳と言語教育に関するページがありましたので、興味のある方はお読みください。抄訳本ですが、日本の言語教育という枠組みで語られているので、Guy Cookらの本と合わせて読むと良いのではないでしょうか。


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2013年10月7日月曜日

翻訳概論: Juliane House(2009) "Translation"(Oxford)を読む(1): Chapter 1-2



大学ではいくつかの勉強会に参加させていただいており、自分の知識の浅さや読書経験のなさに毎回あきれさせられます。しかし、自分の知らなかったことを教えてもらえたり、逆に自分があいまいに知っていた(つもりであった)ことを、説明することで、より自分の知識を疑うことができたりしています。

中でも特に役に立っていると思うのが、博士課程後期の先輩と学部の友人と自分の計3人で開催している翻訳学読書会です。参加者それぞれが翻訳学と英語教育に関する研究を行っているため、各自の研究の進行具合を伝え合ったり、テクストに書いてある内容を批判的に検討したりしています。翻訳学を大学の授業で学ぶ機会がほとんどなかったので、自分としては大変満足しています。

前期はJeremy Mundayの"Introducing Translation Study"の翻訳版である『翻訳学入門』、夏休みは『英語教育と「訳」の効用』を扱ってきました。


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そして10月からはOxfordのIntroduction to Language Study SeriesのJuliane House (2009) "Translation"(Oxford)を読み進めています。上の「翻訳学入門」よりは初心者向けといった印象で、英語としても読みやすいものになっています。


Translation (Oxford Introduction to Language Study)
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これまで勉強会などの資料や、研究基礎ノートなどはブログでは出しませんでしたが、翻訳学を勉強される方と共有できたり、翻訳学を研究されている方からご指摘・ご批判を頂戴できたりするという理由で、一部掲載したいと思います。

勉強会で出た話題や疑問点、ディスカッションで出た自分たちの考えなども掲載できる範囲で掲載したく考えています。

なお、以下では英語の原文の引用を必要な部分のみ行っております。読みやすさを考慮して、一部拙訳で補っています。自分の訳についてもご批判があればお願いします。

今回は初回(9/30)のChapter 1-2についてまとめを掲載します。翻訳とは何か、翻訳学は対象言語学のような多領域とどのように違うのか、といった点が説明されています。自分の乱暴な引用・訳・説明で恐縮です。興味をお持ちの方は、ぜひ本書を用いてご自身でご確認ください。繰り返しになりますが、お気づきの点はぜひご指摘お願いします。


Chapter 1: What is translation?


The nature of translation

Translation is the replacement of an original text with another text. (p.3.)
Translation has been regarded at a kind of inferior substitute for the real thing, […] it is always therefore a secondary communication (p.3.)
翻訳とは原典を他のテキストに置き換えることである。
翻訳は本物を劣った形で置き換えたものとして見なされてきた。それゆえいままでは二次的なコミュニケーションであった。 
ここでの見方は、翻訳は原典に劣る存在であり、つねに副次的という意味です。確かに、訳本が読みにくいもの(いくつかの哲学書など)は、「だめだ、翻訳が悪くて読めない」と言い訳をすることもあります(本当は自分の読解力がないだけなのですが笑)。そうすると、英語版があれば「よし、原書を読もう」となるわけです。これこそ、翻訳が二次的存在であることを示す例でしょう。

Kinds of translation

Jacobsonによる3分類 (p.4.)
(1) interlingual translation : the message in the source language text is rendered as a target text in a different language 
(2) intralingual translation : a process whereby a text in one variety of the language is reworded into another. 
(3) intersemiotic translation : the replacement involves not another language but another, non-linguistic, means of expression, in other words a different semiotic system.
(1)は言語間翻訳で、ある言語から別の言語へ置き換えられることを指す。ハリーポッターの英日翻訳、原爆体験者の手記の英訳などが挙げられる。ここでは「翻訳」「英文解釈」の区別はなされておらず、以前指摘したこれらの区別はさらに(1)の下位でなされるものと考えられる。ちなみに本書でのtranslationは原則、interlingual translationを指している。
(2)は言語内翻訳と訳され、同じ言語内での言い換えを指す。たとえば、 古英語の文章を現代語に書き換える、日本語訳の哲学探究をさらに大阪弁で言い換えるといったことが考えられる。
(3)は記号間翻訳で、別の表現様式によって内容を表すことである。 詩をダンスや絵などの別の表現形式に変換する、小説の映画化などが考えられる。

これら三者は、翻訳といっても異なるものとして分類される。しかし全て、「ある表現内容を別の形で表す、という点で共通している。

Translation Method

■ 翻訳を行うときは、要素を単位とするのではなく、テクスト全体を単位とする。
We are concerned with particular communicative uses of language, and not with linguistics forms as such. A text is never just a sum of its parts, and when words and sentences are used in communication, they combine to ‘make meaning’ in different ways. (pp.4-5)
最近翻訳ボランティアに参加させていただいています。和英翻訳をしていると、原文が「私はとにかくいらいらしていた」を”I was irritated."としたとき、「とにかく」の意味が訳されていないではないか、と 指摘されたことを思い返します。しかし、「とにかく」のニュアンスがこの文の中で表さなければならないということはありません。テクスト全体が単位なのだから、文章全体における「等価」を目指せばよいです。

■ 言語間翻訳では、完全な一致は期待できない。したがって翻訳者がどのような意図でその表現を用いたかに我々の興味がある。
We are not particularly interested in the fact that a ‘direct’ translation is not available because of differences in the two linguistic systems. Further, we will want to know how and whether a particular translation choice […] affects other translation decisions. (p.5.)

■ double-bind relationship
In translation there is thus both an orientation backwards to the message of the source text and an orientation forwards towards how similar texts are written in the target languages. (p.7.)
これについては、以下で図にまとめました。一回目に読んだときには読み飛ばしていたのですが、再度読み返すと翻訳をする時に自分が経験するものだと気づきました。




たとえば、被爆者の手記を英語に翻訳するとしたとき、翻訳者は以下の2点に配慮します。
・原文テクスト(被爆者の手記)
・英語で原爆に関連する話はどのような表現が用いられるか、スタイルはどのようなものがいいか、など

このうち前者がbackwardへの矢印で、後者はforwardへの矢印と言えます。


■ 2つのテクストが等価であるとは?
In saying that two texts, an original and its translation, are equivalent, we mean that – given their respective contexts – they are comparable in semantic and pragmatic meaning. (p.7.)
ある2つのテクスト(原文テクストと翻訳テクスト)が全く同じであるということはありえません。「翻訳者は反逆者」という言葉もあるとおり、テクストを別の言語に置き換えれば、抜け落ちてしまう要素、新たに付け加わってしまう要素が必ずでてきます。そんな中で"semantic and pragmatic meaning"が等しいときに、両者は「等価」と言えます。
したがって、意味のみが正確であったとしても、文章の効果などが原典なみであったとしても、両者を追求することが必要となります。
Translation and Interpreting

■ 翻訳と通訳の違い
The distinction between translation (writing) and interpreting(oral) is a necessary one  they are very different activities. In written translation, neither author of source texts nor addressees of target texts are usually present so no overt interaction or direct feedback can take place. In the interpreting situation, on the other hand, both author and addresses are usually present, and interaction and feedback may occur.  (p.9.)
以前、大学で「通訳法演習」という授業をとっていました。授業では先生が読む英文を聞いて、リピーティング&日本語訳を言う練習を何度もしました。半年間受講しての感想は、通訳は本当に頭の良い人にしか無理なんだな、ということです(自分がそぐわないことは重々承知w)もちろん語彙力やリスニング力は必要ですが、即座にぴたりとくる日本語表現を頭の中から引き出せなければならないわけです。
両者の区別は、日常生活では意識して区別をすることがあまりないかもしれません。しかし、研究対象となると、両者の特色は知っておくべきかと思います。


Human and machine translation

■ 機械翻訳によって人間翻訳に役に立つことは以下の3点である。
(1) インターネット辞書にアクセスすることで語彙面、語の慣習的共生から文法面などで役に立つ。
(2) 目標言語で熟語的に用いられる表現を調べて取り出せる。
(3) 辞書的知識を得ることができる。

機械による翻訳が広まり、徐々に精度を上げているようです。しかし、機械翻訳が日常言語使用に追いつくことは果たしてあるのでしょうか。実際に英語授業では「機械翻訳により訳されたものを学習者が推敲する」という実践も行われているそうです。このように機械と人間が手を組んで翻訳に取り組む方法を模索することが必要なのでしょう。

Translation as communication across cultures
Translating is not only a linguistic act, it is also a cultural one, an act of communication across cultures.
Language is culturally embedded. (p.11)
翻訳は言語的行為のみならず、文化的行為、文化間コミュニケーションの行為でもある。
言語は文化に埋め込まれている。 
言語と文化の関係は切っても切り離せないという言葉がありますが、翻訳をする際にも文化差というものは必ずついて回ります。例えば、イギリスの魔法使いを主人公とする物語(?)では、やたらと紅茶を飲むシーンがあります。これも私たちにはいまいちピンときませんが、イギリスではティータイムは文化的にとても広まっています。
このような点まで翻訳者は気をつけなければならないのですね・・・(^^;)



Chapter 2: Some perspectives on translation

Focus on the original text

■ Contrastive linguisticsとTranslation Studiesの違い
While contrastive linguists are interested in equivalences of linguistic categories within and across languages, translation scholars focus on equivalence in texts, in actual use of the languages and their component parts in communicative situations. (p.15)
対象言語学では同じ言語、あるいは他の言語との言語項目における等価に興味がもたれていた のに対して、翻訳学者たちは文章における、つまり実際の言語使用やコミュニケーション場面での言語の占める部分に主眼を置いている。

しかし、翻訳学は対象言語学の知見から多くを受け入れている

Some approaches to language description

翻訳学は言語記述という観点からのアプローチを採用してきた。大きくFormal approachesとFunctional theories of languageの2つに分けられる。前者は生成文法や認知言語学などが含められる。残念ながら、これらの領域では翻訳学はあまり効果がなかった。その原因は前項に述べたが、翻訳学が他の言語学の領域ほど、言語にこだわりがなかったためであろう。それに対してHallidayらがすすめたシステム機能文法のような後者のアプローチは社会でのコミュニケーション場面における言語使用に重点を置いた点が評価されている。

以下に、2名の言語学者を紹介する。彼らは翻訳学へ大きな影響を与えている。

■ Catford “A Linguistic Theory of Translation”
Meaning is not assumed to be ‘transferred’ from an original to its translation; rather it can only be replaced, so that it functions in a comparable way in its new contextual and textual environment. (p.17)
While the idea of transference suggests that there is meaning contained within the original text which is taken out and given a different verbal expression, replacement suggests that the meaning is a function of the relationship between text and context, and so can only be replaced by in some way replicating the relationship. (p.17)
※用語の説明
formal correspondence: a matter of the language system (langue)
textual equivalence: a matter of the realization of that system (parole)

例えば and (Eng.)とund(Ger.)は意味はほとんど同じで用法も同じだからformal correspondenceで、textual equivalenceを持つことが多い。しかし、翻訳のシフト(translation shift)を行う必要があることもある。(以下の通り。)

例)英語→ドイツ語翻訳
(英)He was hanging up his coat when the bell rang
(独)Er hing gerade seinen Mantel auf, als es klingelte.(p.18)

英語では進行相はwas –ingという文法相によって表現される。しかしドイツ語では文法相にはformal correspondenceする文法相が存在しない。したがって、textual equivalenceに達するためにも、語彙相のgerade(~ている)を用いる必要がある。本来英語では文法相を用いていたのにドイツ語で語彙相を用いているから、この翻訳においては翻訳のズレ(Translation shift)が行われているといえる。(ここらへんもドイツ語を知っていれば、もっとすんなり理解できるのですが・・・自分はドイツ語初習者のため、なんとなくの理解で終わってしまっています。泣)


■ Nida: sociolinguistic theory of translation
In Nida’s view, translation is first and foremost directed towards its recipients. He therefore takes account of the differences between source text and target text recipients in terms of their expectation norms and their knowledge of the world.
Nida sees translation as basically an adaptation of an original (the Bible) to widely differing linguistic-cultural conventions. (p.18)


さて、性懲りもなく、Nidaの手法を以下の図に表して見ました。





Analysisの段階では、深層構造(kernel sentences)を単位として翻訳が行われる。


■ 対象言語学と比較した際の翻訳学の特徴
Translation is about what people mean by the language pragmatically. In the context of translation, a focus on the (original) text means analyzing it, and systematically linking its forms and functions in order to reveal the original author’s motivated choices. (p.19)

Focus on the process of the interpretation
個人的な興味で、本章の中で最も面白いと思いました。少し長いですが、訳しました。
The texts is thus not regarded as having a life of its own, but can only be brought to life by the process of interpretation. It starts to live in the act of text interpretation. In ‘receiving’ an original text, the translator engages in a cyclical learning process – from the text to the interpretation to the text and back again. This cycle finally leads to a so-called ‘melting of horizons’ between the translating person and the text. (p.20)
(試訳)
テクストはしたがって生命が宿っているのではなく、解釈の過程で命が吹き込まれる。テクスト解釈という行為の中で命を持ち始めるのだ。原典テクストを「受け取る」中で、翻訳者はテクストから解釈へ、解釈からテクストへ、という循環的な学習過程をたどる。この循環によって、最終的には翻訳している人とテクストの境界線が解けていく。

cf) ミハイル・バフチンの「間テクスト性」概念もしっかり勉強したわけではないが、関連しているように感じる。(ただし間テクスト性は色々な意味合いで使用されているらしい。)

ここから、Nidaの述べた「テキストの意味の置き換え」といった考えは、検討されなおすべきだろう。
it is the type of representation of the text in the translator’s mind, arising in the act of understanding the original, which counts in translation.
It is thus not a matter of finding the sense contained in a text and then adjusting it to suit a receptor (as suggested by Nida), but of making sense of a text by interpretation. We are dealing here more with invention than discovery of what is already there in the text. (p.20)


Focus on variable interpretations: cultural, ideological, literary

この項も、一回目を通しただけではよくわかりませんでした。
しかし、他の翻訳概説書を読んでいたり、翻訳の練習(まねごと?)をしていると、「あ、これのことか!」と思う点もありました。
少し長いですが、3箇所引用し、それぞれに自分なりの訳をつけてみました。
分かりづらいところは、さらに意訳(大胆な言い換え)をしてみました。

・there is no reality independent of how human beings perceive it through their culturally tinted glasses. […] it becomes possible to think of an original text as being dependent on its translation. (p.21)
人間が自身の文化的に定められためがねを通して知覚することから独立した現実は存在しない。したがって原典はつねに翻訳に依存していると考えることもできる。

・it is the way texts are perceived that is real and not the text themselves. (p.22)
テキスト自体ではなく、どのようにテキストが読まれるかこそが現実である。
この文は、次のthe irrelevance and remaking of the originalの部分や、先ほどの間テクスト性の概念に関係してくるところです。
・translators are encouraged to modify the original, opening up new avenues for ‘difference’ and postponing indefinitely any possibility that the ‘meaning’ of the original text be grasped in any conclusive way. (p.22) 
(直訳)
翻訳者は原典を修正することは奨励されており、そうすることで「差異」への新たな通路を拓き、原典がどのような読み方であっても「意味」がとれるという漠然とした可能性は後回しにする。
少し分かりづらいので、大胆な意訳をしてみました。
(意訳)
翻訳者が原典を修正することは非難されることではない。それによって「違い」に対する寛容性を生み出し、原典の本来持つ「意味」をとれるようにするという点は二の次となる。
しかし、原作を修正する際には、やはり慎重になるべきでしょう。内容がガラッと変ってしまったりメッセージが伝わらなかったりしたら、それこそ「反逆者」と見なされてしまいます。


The irrelevance and remaking of the original
・the translator actually creates the original text. This is in line with ‘deconstructing’ both the notions of authorship and the authority of the original. (p.21) 
翻訳者は実際には原典を作り上げているのである。これは、著作者の意見と原典の権威を共に「脱構築」することに等しい。 
最初はこの文を読んでも意味が分かりませんでした。「翻訳者が原典を作る?」「だつこうちく?」しかし、次の文を読めば少し意味が分かるような気がします。
・although a translation may seek to hide the presence of the original, it can nevertheless serve to ensure its survival to make it ‘live on’ and ‘live beyond the means of the original author’, just as a mother lives on through her child. […] The translator gives life to the original by giving it a cultural relevance it would not otherwise have. (p.22) 
翻訳は原作の存在を隠そうとするかもしれないが、翻訳はその中で原作を生き残らせ、原著者という手段を超えても確かに生き残らせる。ちょうど母親が子どもの中でも行き続けるように。[…]翻訳者は本来持ち得なかった文化的関連性を与えることで原作に生命を与えるのである。
翻訳は原典テキストの二次的存在という見方では、翻訳者が原典を作るという文の意味は分かりづらいはずです。しかし、文章の意味は解釈をするものによって生み出されるのであれば、やはり原典の意味を作り出すのも翻訳者なわけです。さらに、翻訳では意味を目標言語にて再構成することで、新たな意味(文化的関連性)を付与します。
ここまで読むことで、Chapter 1の"secondary communication"という考えの脆さがわかる気がします。


いや、君みたいな翻訳かじりたての若造に何が分かる?という声が聞こえてきそうですが(笑)。


(※)
そもそも英語原作を他言語に翻訳することは、英語が世界の言語として認められている今日では、英語の権力を上げる行為として見なされないでしょうか。翻訳によってこのような側面が生まれることは、翻訳を研究する者としては知っておくべきだろうと思います。


Focus on the purpose of translation

skopos theory: フェルメールによって述べられた。翻訳の目的を重視する立場。



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さて、そろそろ焼きそばを作るので、これくらいで終わりにしましょう。
今週2回目の焼きそばです。

それにしても、この前小学生に「先生の得意料理は何?」と聞かれて焼きそばと答えたら笑われたな・・・(笑)。
焼きそばは料理に入るか入らないか・・・。
どうして入らないのでしょうか。
あんなに美味しいのにw

というつぶやきはさておき。
またまとめたら載せます。

こんな拙文、最後まで読んでいただき大変ありがとうございました。

2013年9月29日日曜日

未来授業広島(2013年9月23日)の振り返り~豊かさとはなにか~



9/23(月)に開催された「三菱商事presents FM festival未来授業」に参加してきました。趣旨としては、若者(主に大学生)が集まり、著名人の講演を通じて将来について語り合う、というもので、詳しくは11月にエフエム広島で紹介されるそうです。

今回は広島大学の長沼先生が「ニッポンの転換点・未来を創る ~協調する人種 ホモ・パックスへの進化」というテーマでご講演いただきました。とても面白く、あっという間の2時間でした。

ちなみに自分は講演を聴いただけで、特に発言をしたわけではありません。授業では「どんどん発表してみよう」と言っているくせに・・・と児童生徒から叱責を受けそうですが(汗)。でも、自分が授業を受ける側に立たないと、発言するときの緊張感や不安は忘れてしまいそうなので、良い機会だったのかもしれません。

その贖罪意識というわけではありませんが(笑)、当日発言できなかったこと、講演後に振り返って感じたことなどを以下にまとめようと思います。この企画は全国各地で行われているようですので、興味をお持ちのかたはどうぞ次の機会にご参加ください。




■ 生態学の知見

・ダーウィンの「生命の樹」

生物学(進化学)において重要な考え方の一つに、「どのような生物ももとは同じ」というのがあります。これは、ダーウィンが「生命の樹」という言葉で表したそうで、様々な種の生物が木の枝にあると考えます。どの生物ももとをたどれば、同じ幹・根から生まれたもののはずで、進化の過程で分かれていったと考えます。

例えばヒト(ホモ族)とチンパンジー(パン族)ももとをたどれば同じ種だったはずです。現に両者のゲノム(遺伝子全体)は96-99%が共通しています。

・わたしたち個体は「遺伝子の乗り物」なのか

もう一つ、講演で紹介された考え方で、「遺伝において継承されるのはDNAのみ」というものがあります。たとえば、mochiという個体が次世代に遺伝として引き継ぐのは、mochiの人格や感情、意識ではなく、彼の遺伝子(性染色体や髪質など?)のみです。mochiがどのような人なのか、という点は次世代には伝わらないようです。

すると、私たち個体の存在意義は、前世代から受け継いだDNAを次世代に運ぶ「乗り物」のような存在なのでしょうか。そこには感情や意識などが果たす役割はないのでしょうか。
長沼先生によれば、最近の考え方ではジーンのみならずミーム(文化)も伝わるとあります。したがって、今日の文化を作り上げることは次世代にも必ず生きていくわけで、意識や感情はこのような点で重要なのでしょう。


■ “The Selfish Genes”~お・も・て・な・し~

リチャード・トーキンズの著作に“The Selfish Genes"があります。"selfish"という単語の連想から、「わがまま」「利己的」というイメージが生まれそうですが、それは著者の意図とは異なり、実際は「協調する」遺伝子という意味に解釈すべきだ、と長沼先生はおっしゃいます。
「情けは人のためならず」ということわざが示す通り、相手に親切にしたり協力したりすることで、生存に有利となるために、ヒトは協力することができるそうです。

少し分かりづらいかもしれないのでキリンの例から補足します。キリンは首が長いのですが、キリンが首が長い理由は「首が長い方が高いところにある草を食べることができるため、生存に有利だから」だそうです。それと同じで、ヒトも「他人と協力しない個体よりも、他人と協力する個体の方が生存する可能性が高いから」協力をするわけです。具体的には、集めた食料を分け合う個体の方が、食料を独り占めする個体よりも、困っているときに助けてもらう可能性が高まり、結果的に生き残りやすいでしょう。

講演では、昨今話題の「おもてなし」について議論になりました。オリンピック招致の最終プレゼンテーションで、「おもてなし」を“日本の魅力”というニュアンスで紹介されていました。確かに「おもてなし」と聞くと、旅館で接客する仲居さんなどが連想され、日本っぽいイメージが強いかもしれません。しかし「おもてなし」は日本人特有のものでしょうか?

結論から言うと、Noです。英語にもhospitalityという語は存在し、アフガニスタンでもおもてなしという概念はあるそうです。これは、国籍や文化に関わらず、私たちヒトに協調する遺伝子が備わっていることから、おもいやりが自然にできるためと考えられます。

※補足※
しかし、「では日本がおもてなしをアピールするのは間違っている」のでしょうか。「世界中でおもてなしが存在するなら、取り立てて日本がおもてなしにおいて優れているわけではないのではないか」と思われるかもしれません。現に未来授業でもそのような議論がありました。
これについてははっきりとした答えは出ませんでしたが、面白いと思った意見として「日本人はおもてなしが自然にできる」「生活におもてなしが埋め込まれている」というものでした。ハイコンテクスト文化という一面があるからかもしれませんが、言葉で伝えなくても相手が察して思いやりを持ち行動をすることが日本では割と自然だと思います。ならば、日本のおもてなしも世界に誇れる文化なのかもしれません。



■ 豊かさとはなにか

未来授業の後半は「豊かさ」とは何ですか、という問いに対する答えを話し合いました。以下は長沼先生が参考図書として指定された「国富論」です。山岡先生の訳で今年度中にはチャレンジしたいと思っていましたが・・・まずはまんがで読んでみたいなと思います(笑)

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参加者からは「自己実現」「笑顔」「余裕」「自己表現」など多くの意見が出ており、とても面白く聞きました。長沼先生は「知足(足るを知る」を挙げられていました。これは老子の「足るを知る者は富むを知る」からのようで、個人的にも大きくうなずけるものでした。

ただ、ディスカッションでよくありがちなのですが、私はなかなか自分の考えがまとまらず、他人の意見を聞いて「なるほど」とどんどん更新されて結論を出すことができませんでした。「よし、これかな?」と思った時には、すでに次の話題に移っており(苦笑)、結局発言することができませんでした。

ということで、ここからは、当日自分が発言できなかったことを書いてみます。

私が豊かだと思うのは、「剰余性」です。剰余性は平田オリザ氏の著書に出てきた言葉で、ある目的を達成するために行う行動「以外」で価値のある行動を指します。例えば、授業中に先生がねらいとは関係のない余談をすることがありますが、その余談も剰余的といえます。またディスカッションの際に「えっと、何を言いたかったか忘れちゃいました」と言って場をなごます時、ディスカッションという本来の目的からはずれているため剰余的です。これら2つの例に共通しているのは、どちらも価値があり、最終的には目的達成に寄与することです。授業中の余談も、集中力の続かない子にとっては興味を持たせるきっかけとなりえますし、ディスカッション中の笑いも、場を暖めて次の意見を出しやすくなるならば価値はあるはずです。

今日では「生産目標」「到達目標」など数字が並べられ、それを達成するための行動を重視し、それ以外を無駄と切り捨てる傾向があるのかもしれません。(世間知らずの学部生には断定はできませんが。)確かに目標を定めてそれに必要な手立てを取ることは効率的といえるでしょう。しかし、時には剰余性を取り入れて、あえて無駄なことをしてみるのもっ必要なのではないでしょうか。むしろ無駄なことをしているときにこそ人は喜びを感じるのではないでしょうか。(余談やディスカッション中の笑いは格好の例かと考えます。)

私がゼミの先生から昔うかがった話ですが、タスク管理にはimportant, urgentの2軸が必要だそうです。

+important, + urgentなことは「目標達成のために必要な行為(重要な仕事)」です。タスク中で最重要なため、期日を定めて行わなければなりません。
-important, + urgentなことは「重要ではなくてもやるべきこと(※仕事)」で、自分にとっては重要ではなくてもやらなければならない事務処理などが含まれます。
もちろん目標達成のためには必要なことですが、これらだけに自分の時間を当ててしまっては、豊かさは得られないように思えます。
むしろ+ important, - urgentな「緊急ではないが、自分にとって重要なこと(※活動)」を生活にいかに取り入れるかが、自分の生活を豊かにするのだと思います。

※仕事、活動はアレントによる用語です。ただ、アレントについては著書を全く読んだことがなく、授業で触れた程度の知識です。ぴったり合う、と思って書いてみたのですが、もし誤っていればご指摘ください。

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(補足)
最近好きなSMAPの曲「JOY」に、こんな歌詞があります。

無駄なことを一緒にしよう忘れられてた魔法とはつまりJOY!JOY!

好きな歌詞なので引用してみました。笑
無駄なことを避けるのではなく、取り入れることに豊かさを感じたいですね(^^)


■ 友人の文章

ちなみに以下は、わたしのゼミの友人が書いた文章です。本人の許可をもらったので、リンク先を貼っておきます。

「目標に受かって-直線に進むことのリスク」~ある学部4年生の述懐/英語教育の哲学的探究2

彼も、本文とは関係のなさそうな「回り道」こそ大切ではないか、という論調で進めています。この記事を書くことにしたのも、彼の文章を今朝読んだことがきっかけだったので、彼には感謝しています。

自分もこれくらい分かりやすい文章が書ければ良いな、とうらやましく思います。彼が深く内省することができ、感性が豊かだからこそこんな文章が書けるのだと思うと・・・

まだまだ修行が足りないですねww

自分も倍返しする勢いで、もっと分かりやすい文章を書けるように訓練します!
(↑いいたいだけ笑)

■ まとめ

「未来授業」全体の感想としては、とても面白かったです。生物学は全くの無知だったので、新鮮な話がたくさん聞けました。議論も途中から熱くなり、多くの人の考えを知ることもできました。(唯一残念だったのは、大テーマ「明日の日本人たちへ~ニッポンの転換点・未来を創る」とのかかわりが薄く感じられたことです。このような大規模なイベントで一貫性を持たせるために必要な大テーマだったと思いますが、少しこじつけている印象を受けました。しかし全体的には満足しています。

このようなイベントも学部の間に多く参加したいです。なにか面白いイベントがあれば、ぜひご紹介ください。

では、ご機嫌よう~!

2013年7月16日火曜日

「英語教育、迫り来る破綻」のまとめ&感想

7/14(日)に東京都郁文館夢学園で開催された「英語教育、迫り来る破綻」という講演会に参加してきました。

もともとは2013年4月8日に出された「成長戦略に資するグローバル人材育成部会提言」が発端でした。「高校では全員がTOEFL iBT 45点以上を達成」「大学受験資格及び卒業要件としてTOEFL等の一定以上の成績を求める」といった文言に対して、英語教育の専門家たちが各々の分野から反対意見を唱え、その運動の一環として今回の講演会が開かれました。
詳しくは『英語教育、迫り来る破綻』をご覧ください。

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さて、今回の講演会で出された論点を、講演者毎にまとめたいと思います。(繰り返しになりますが、私の恣意的な解釈が含まれる可能性もあるため、是非上の本をお読みください。)

■ 江利川春雄先生「グローバル企業の無謀な英語教育要求から子どもを守るために」


・TOEFLという試験は、性質上もともと大学受験資格や卒業要件には向いていない。
 中高の学習指導要領では、あわせて3000語を6年間で学習すると定められています。しかしTOEFLでは一万語超も頻出のため、レベルが異なる。よって、ダブルスタンダードとなる恐れがある。
さらに、大学の今日の英語の授業がTOEIC対策となりつつある現在、高校でもTOEFL対策となることを予想するのも容易い。

・英語教師の採用条件にTOEFLiBT80点を求めるとあるが、教師の力量は英語力のみではない。
 「教師の力量=英語力+指導力+人間性」という式を出されていましたが、確かに英語に堪能であってもそれを生徒に教えられなければなりません。また昨今の教育現場は、生徒指導も大変重要です。(ある先生に「英語教育だけでなく、生徒指導も重要なんですね」と申したところ、「違う。生徒指導が重要なの。」と言われたこともあります。)従って英語力のみ重視して採用すれば、英語はできど指導ができない教師が増える可能性もあります。

・学校の職場は「蟹工船」
 英語教員の7割以上が過労死線上で、そもそもの教育条件の見直しが必要です。今年6月には教育予算増額も案として出されましたが、残念なことに見直しとなりました。クラス人数、教育環境(ICTなど)、専任教員増員などの観点から根本的な教育条件の改革が必要でしょう。

・協同学習を取り入れた授業改善のすすめ
 詳しくは、『協同学習を取り入れた英語授業のすすめ』に記されています。上の数値化を軸とした案に対する代案として江利川先生が出されたものです。

※以前、サバ君と話したのですが、協同学習は見栄えもあって流行ることが考えられます。しかし、教師がすべてを生徒に任せてしまっては、生徒の学びも起きにくいと思います。したがって、協同学習協同学習の「部分的」導入が最も現実的な気がしており、江利川先生もそのようにおっしゃっていました。


協同学習を取り入れた英語授業のすすめ (英語教育21世紀叢書)
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■ 斉藤兆史先生「英語教育混乱のカラクリ」


・日本語が英語を学ぶのは、もともと困難
 「どうして日本人は英語を6年間も勉強しているのに、こんなに話せないんだ」という意見を多く聞きますが、その原因として斉藤先生は言語の構造上の違いや環境を挙げられています。もともと日本語と英語は構造上異なっており、EFL環境で英語を話さなくても不自由なく生活できる立場にいる私たちにとって、英語の習得は非常に困難です。ところが、英語ができない原因を「教え方が悪い!」と決めてかかれば、「文法規則は教えるな」「文字を使うな」「訳すな」という方向に進んでいきます。
 しかし、言語上の違いや環境を考慮することで、上のような短絡的な提案ではなく、より現実的な考えにたどり着きます。

・母語教育を充実させるべし
 寺島先生の『英語教育が亡びるとき』でも論じられていましたが、やはりEFL環境において母語は重要となります。(詳しくはVygotskyの「母語獲得」と「外国語習得」の違い参照のこと。)現に移民者が母語を習得しないまま外国語を習っても、学力が伸びないという例もあり、母語と外国語は論じるに当たって切り離せない関係にあるのだと感じました。

・英語が使えるようになりたかったら、ある程度まで自分で努力すべし
 一見根性論のようにも読めてしまいますが、学校教育のみで英語が話せるようにするのは非常に困難です。(もちろん英語教師としては、厳しい条件にある中でどのように技能を伸ばすかを考えるべきですが。)

 当たり前のことで、自ら努力しないではできるようにはなりません。そのためにも、英語を学びたいという人に対して支援をする環境整備こそ、英語ができる人を増やす方策だとおっしゃっていました。


■ 大津由紀雄先生「わたしが小学校英語教科化に反対する3つの理由」

・原理的理由:小学校英語、必要なし、益なし、害あり。よって廃すべし
・教育政策的理由:小学校の先生方をその気にさせ、総括もしないまま、教科化=専科化への方向転換
・現実的理由:21,000もの公立小学校で良質の入門的指導ができるはずがない。

 大津先生は小学校での英語教育に特化した話で、特に「小学校外国語活動≠英語教育」という点が印象に残りました。
外国語活動の原点とは、「英語に触れてコミュニケーションの重要性に気づく」であり、現に大学で受講している指導法の授業でも「どのように技能を伸ばすか」という点はあまり論じられていません。

 これが「教科化」するとなったとき、「単に外国語活動が英語科と名前が変わるだけか」と感じてしまいそうですが、そこには大きな変化が2点あります。1つは英語のみを外国語ととらえている点です。複合言語能力(plurilingualism)の議論(詳しくは鳥飼先生の項参照)という言葉もありますが、英語のみ学んだからといってグローバル的とは言えないはずです。外国語活動では、ほかの言語についても多く紹介されているのですが、果たして「英語科」となったとき、ほかの言語の入る部分が保障されているのかが疑問です。2つめに、「学級作り」「コミュニケーションの重要性に気づく」という点がぼやけて、技能面重視となりうる危険性があります。英語(外国語)という手段を通じて集団形成する、という外国語活動が、英語という手段そのものに傾倒するともいえます。このように、ただ授業名が変わるだけではないということが分かって頂けると思います。


■ 鳥飼玖美子先生「英語教育~慢性改革病とグローバル人材症候群に苦しむ」

・複合的言語能力(plurilingualism)の観点から、英語のみを扱う危険性
 グローバル人材育成推進会議によって出された「グローバル人材育成戦略」では、「語学力」をグローバル人材の一要素としています。

 しかし、TOEFL等をの外部試験の活用を推奨していることからも、「英語」を指していることはすぐ分かります。すると、国全体の方針で「英語」を外国語として一辺倒に扱うことになりますが、「グローバル」な時代であればむしろ多言語に関心を抱いていることがのぞましいはずです。
江利川先生も本書p.9で「英語ができればグローバル人材か」で論じている通り、中高の「外国語」という科目でも、英語以外を扱っているのは2012年度で1352校あります。この現状を無視して英語のみを推し進めるとも言えます。

 (フロアからの質疑応答で「英語教師こそ外国語を学び、英語以外の言語を学ぶよう生徒に薦めるべきだ」という意見がありました。これは自分も賛成で、現にドイツ語や中国語のような外国語を改めて学びなおすと、中学生に当たり前にやらせていることがどれほどしんどいことなのか分かります><)

■ 質疑応答

・翻訳について
 せっかく著名な翻訳家の方々がいらっしゃったこともあり、「翻訳が英語教育で果たす役割はどのようなものがあるか」という質問を出させて頂きました。すると斎藤先生から「訳すことが先入観によって否定されているが、英語と日本語を自由に行き来することも豊かな言語活動」「Grammar Translation Methodと日本式の訳読を区別するべき」といった話をして頂きました。これについては交流会でも鳥飼先生から、翻訳をいつどこで導入するかが鍵である、というご意見を頂きました。(お二方とも、著書を読んだことから、お会いできただけでも感激でした。しかも丁寧に話を聞いていただけて、とても嬉しかったです^^)

※Grammar Translation Methodと訳読の違い
Grammar Translation Methodは、もともとヨーロッパでラテン語を学ぶのに用いられた方法で、文法項目ごとに並べられた例文を訳して構造を理解するというものである。この際、文章としての意味のまとまりは考慮しない。
それに対して訳読は、自然な文章の意味を理解するために訳して理解するというもので、漢文学習の「素読から会読」という流れで生まれたものであった。
海外のジャーナルなどでGrammar Translation Methodを批判したとしても、その議論をそのまま日本の訳読式に対して適用するのではなく、Grammar Translation Methodのどこが批判されているかを考えるべき。
(追記)上記の説明は『英語教育と「訳」の効用』の訳者あとがきで詳しく説明されています。


英語教育と「訳」の効用
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・文化の違い
 日本語と英語では言語が異なるのはもちろん、その言語特有の考え方も異なります。日本語というハイコンテクストな言語を日常的に使う私たちにとって、ローコンテクストな性質を持つ英語を学ぶことは、普段説明しなくて済むこともいちいち説明しなければならない、という必然性を体験するという意味でも有意義です。

 対談では、今の日本の人は説明を避けている傾向にあると鳥飼先生が指摘されていました。例えば、近所の留学生のゴミ出しがルールに従っていないのを見つけたとき、「これはこうするの」と説明することなく、「ほんと、これだからガイコクジンは…」と言う人がいるとします。この人も相手の立場に寄り添って、ゴミの出し方やその留学生の何が問題かを説明すれば良いのですが、普段は「ほら、言わなくても分かるでしょ?」の文化で過ごしているからか、説明することを億劫に感じ、自分の共同体とは異なる他者に対して説明をしない傾向もあるそうです。

 しかし、自分と「異」となる存在の相手を認めて、相手と協働することができる人がグローバルな人であって、そのような人を英語教育で育てなければならないのではないでしょうか。だからこそ、日本人は面倒に感じても、相手に説明をすることを怠らないようにすべきでしょう。


■ 感想

まずはミーハーな感想ですが(笑)、英語教育でこれだけ著名な方々の講演を1日で聞けて、とても嬉しかったです。特に交流会では、自分の研究である翻訳についての話も聞いていただけて、これからも頑張らなければ!と思いました^^

 本題の「英語教育、迫り来る破綻」は、正直言って自分のような勉強中の学部生の身分で論じられることではないのかもしれません。しかし、英語教育の「目的」というものがはっきりしていないことが、議論の錯綜となる1つの原因のように感じました。確かに学校教育法第一条では「人格の完成」「国家や社会の形成者」を掲げていますが、これのみでは英語科としてのはっきりとした方向性が定まりません。現に英語教育の歴史を振り返ると、平泉・渡辺論争(『英語教育大論争』)でも今回と似た議論はされていますし、ここも目的論にまつわる話題が何回もでてきます。国としての英語教育の方向付けが「技能重視」(ティーチングとしての英語教育)に傾いており、今回の講演会では「人間性重視」(エデュケーションとしての英語教育)であると仮にとらえれば、「「英語教育史学」原論のすすめ : 英語教育史研究の現状分析と今後の展開への提言」でも論じられている議論に似たものとなると思います。分かりやすい二項対立に書き換えると、英語ができる人か、英語を用いて人間を育てるのか。個人的には両方とも大事であると述べた上で、どちらかと言えば英語で人間としての成長を促すべきだと思います(これも抽象的な言い方になっていますね笑。)

 だからこそ英語がエリートのためのものになったり、自分の学力の証拠であったりという矮小化された存在として捉えられるのは悲しいな、と感じます。

 今回東京を訪れた帰りに、高校時代の友人と話をしました。彼も「教育の改革はもっと長期的に考えるべき!」と(酒を飲みながら)言っていました。
「長期的視点」には、「目的が何か」という議論を飛ばせないように感じます。
個々の英語教師が持つ目的はもちろん、英語教育界全体としての目的は何になるのでしょうか。


 ※友人のブログでも大学入試TOEFL導入に関する記事があります。論点がはっきりしており、読みやすいと思います(^^)ぜひご覧ください。

感性と英語と教育:受験資格としてのTOEFL導入に対する疑問

2013年5月8日水曜日

manavee合宿に参加して

ゴールデンウィークが終わりました。みなさんいかがお過ごしでしたか。

大学の友達と「今年はゴールデンじゃなかったね~」「ゴールデンっていうより、茶色とかおうど色みたいな一週間だったね」と話していました。(注:どちらも夏に採用試験等を控えていたので、カフェなどでお互いの勉強をしていました)。その後今年受験を控える高校3年生に「今年のゴールデンウィークどうだった?」と聞いたら「今年はグレーウィークだった。」といってました。笑
おうど色とグレーなら、グレーの方が「大変だったんだろーな」と思い、大学受験の厳しさを改めて実感した次第でございます。

今回はそんな大学受験に関する話題です!

先日、manaveeという団体の合宿に一部参加させていただきました。教育に熱意がある方ばかりで、多くの方と交流させていただきとても貴重な経験ができました。
今日は簡単にmanaveeという活動を(まだ自分も完全に理解しているとは言いがたいですが...)紹介したいと思います。




※自分の主観が交じっていますので、より客観的な説明をお求めの方はmanavee公式サイトへお越しください。


manavee公式サイト


大学受験を4年前に体験した身としてまず言えることが1つあります。それは、受験は情報戦だ!ということです。
過去問の情報量や分析結果、出題傾向に勉強法などは知っているか知らないかによって結果に影響があると思います。また、その情報は環境によってアクセシビリティが異なります。例えば経済的余裕のある家庭ならば、大学受験専門の塾に行って有名講師の授業を受けて対策をすることができ、多くの情報を得られます。その一方で余裕のない家庭では、必ずしも情報が同じように手に入るとはいえません。大学受験の結果がある程度将来に影響しうる現在、このような経済的、地理的格差は見過ごすことができません。

※予め断っておきますが、私は大学受験の結果のみを重要視すべきだとは考えておりません。良い大学に入ったからといってモチベーションも続かずにだらだら過ごすのと第二希望の学校で自分の目標を達成すべく努力するのとでは、後者の方が充実していると思います。しかし、大学の名前でその人の価値が先入観として決まってしまう現実があることも事実です。(先ほどの例で言えば、前者の学生の方が世間的には”優秀”と見られる機会が多いでしょう。)このような現実を踏まえた上で述べているので、読んでいて気分を害された方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。

そこでmanaveeでは、大学生が受験対策の授業をビデオで録画して、その授業を無料で見られる環境を提供します。受験生は自分の興味ある授業を選んでみることで、大学受験に必要な情報や知識、スキルなどを得たり磨いたりすることができます。

実際にサイトを見て頂くと分かって頂けると思うのですが、授業も分かりやすいものが多かったり、操作方法も丁寧なコメントで分かりやすかったりと創意工夫に満ちています。このmanaveeの運営や授業スタッフは主に大学生のボランティアによって行われています。東京大学の学生有志による立ち上げで、その後は全国のキャンバスへ活動が広がっているようです。

自分なりにこの活動の長所と短所(課題)を挙げると、

<長所>
・受験生が無料で勉強できる。
・実際に受験を体験した先輩からの授業なので説得力がある。
・授業を行うことで、授業スタッフの授業力も上がっていく。(教員志望者にとっては確かに魅力的です。)
・同じ分野でも多くの講師により授業が行われていることで、生徒が自分の好みの先生の授業を選ぶことができる。


<短所(課題)>
・授業の質を保証しきれない。
・仮に誤った授業内容があってもそれを完全に見つけきることができない。(ただし講師同士のフィードバックシステムは既にあります。)
・分野によってはまだカバーされていない部分もある。
・インターネットが使えない環境では利用できない。
・著作権の問題で授業が行えない分野もある。(現代文や英語長文問題対策など)
・講師と生徒のインタラクションがとりにくい(掲示板を使った交流は行えますが、授業最中のインタラクションが取れないという点はオンデマンド式授業の弱点だと思います。)

これらの点を踏まえた上で、個人的には素晴らしい活動のように思えます。まず、教育格差の活動として理念がはっきりしている点にあります。この活動は教育のタテマエ(公教育)における格差是正ではなく、公教育にカバーできないホンネ(受験)の次元での教育格差に特化しています。ホンネの次元での格差是正は、学習支援ボランティアなどがこれまでにはありましたが、インターネットを使った全国規模の活動は他にはないと思います。(もしあったらすいません><;)海外でもOpen Educationの流れは近年見られますが、日本の大学受験というコンテクストで実現したのも感銘を受けました。

また運営スタッフの皆様も上記の課題は把握されていて、会議を重ねて改善に向かっているそうです。(本当に熱意ある優秀な方々によって行われています!!

自分も大学4年生という立場で、できることは限られてくるかもしれませんが、力になれることはしたいなと思っています(^^)

<参考記事>
Open Educationの広がりについて
梅田望夫・飯吉透(2010)『ウェブで学ぶ ―オープンエデュケーションと知の革命』ちくま新書

2013年3月26日火曜日

Learning Weakness

最近コースの行事や追いコンなどがすべて終わり、いよいよ勉強をしない言い訳を失ってしまいました(苦笑)周りが本当に勉強熱心な方が多いので、自分も良い刺激をもらってやるべきことを1つずつ片付けて行こうと思います。

ということで、以前から書き溜めていたブログ記事をどんどんあげていきます。笑

先週の日曜日もJALT広島へ参加させて頂くことができました。
受付の方から「あぁ、守田くんね。」と言ってもらえてなんか嬉しかったです笑
前日にサークルの追いコンで若干寝不足でしたが、それでも充実した研修になったと思います。
以下に研修中のメモをブログ用に書き下ろしたいと思います。

130317 JALT(March)
Ms. Akazawa on Learning Weakness
今回のテーマはLearning Weakness(以下LW)についてでした。恥ずかしいことに研修を受けるまでこの言葉は知らなかったのですが、簡単にいえば学習する際の弱点と言えること(集中力が続かない、英語のアルファベットが全く書けない、lとrが識別できないなど…)を指すようです。

講師のアカザワ先生がLearning Weaknessについて興味を持ち始めたのも、ご自身の息子さんが勉強するときに苦手なところがあったのがキッカケだそうです。アカザワ先生はとても親しみやすい方で、講演を開始する前に全ての参加者とコミュニケーションをされていました。また講演も1時間があっという間に感じられるほどのめり込ませるものでした。その要因は具体例の多さにあると思います。アカザワ先生が実際に持たれた生徒さんの話が中心だったため、とてもイメージがしやすく、理論も掴みやすかったです。(もちろんアカザワ先生の話もとても面白かったです。)

■WHY LEARNING WEAKNESS?
1. lack of exposure
2. difficulty in the first year in their life
3. genetic reasons(e.g. dyslexia)

そもそもなぜLWが起きるのでしょうか。先生によると幼少期に外部からの刺激が少ないとなりやすいそうです。例えば生後に親から十分言葉を教えてもらえなかった場合は、成長して学校に通った時も言葉の理解能力が低い場合があります。特に生後の最初の1年間が重要で、この期間の経験が後に大きく影響するようです。
ちなみに幼児期の経験が後の発達に影響を与える例として、子ども時代にした遊びによってその後の人生が決まる、と大学の心理学の教授が言っていたことが思い出されました。

■ 英語の学習に困難を持つ生徒に対する英語教師の重要な心持ち

”If the student has difficulty in English, they have other languages to chose to learn. ”

これは公演中にアカザワ先生がおっしゃったことばです。最近考える機会が多かったのでここにも引用させて頂きました。
英語が仮にできないからと言って、外国語を学ぶことはもちろんできます。自分がこれまでに出会ってきた人の中にも、英語が少し苦手だったけど代わりに韓国語のレベルはどんどん上げられた方が何人もいます。大事なことは英語ができないというだけで、その子に異文化接触の機会をなくさせないことだと思います。英語教師として英語への情熱はもちろん必要だと思いますが、もう少し広い視座でこのような考えも持てるようになりたいと思いました。

そう考えていた矢先に、寺島隆吉先生著「英語教育原論」を読む機会がありました。ここにも冒頭に以下のような先生の考えが掲載されていたので、引用させていただきます。

すべての生徒が英語を学ばなければならないのでしょうか。だって、世の中に言語はいっぱいあるわけですから、何か一つは外国語を学ばなければならないとしても、それはフランス語であってもいいわけだし、ドイツ語であってもいいわけです。だいたい、隣に韓国があるのになぜ韓国・朝鮮語を勉強しないのかと考えると、英語だけというのは、とても不自然です。(p.22)

英語の教師は「外国語は英語だけではないんだ」ということをどうやって教えるかも重要な仕事の一つだと思うのです。そのようなことを認識しながら広い視野の中で英語を教えるということが英語教師の仕事でなくてはいけないということが英語教師の仕事でなくてはいけないはずだと考えるのです。(p.26)

もちろん多くの雑務や教材研究、生徒指導などに追われて、一人の英語教師にどこまで求められるかは考慮されるべきですが、このような外国語を教える者としての態度は2つの利点があるように思えます。1つは英語が苦手な生徒が希望を捨てなくてすむということ。英語が苦手だからといって、他の外国語はできるかもしれないし、自分の興味のある文化であれば習得できる可能性も高まるはずです。2つめに、全ての生徒にとって、英語だけやっておけばよいという幻想を抱かせずに住むことが挙げられます。現に自分がイギリスへいったときも、多くの場所で「あなた何カ国語喋れるの?」と聞かれ、「日本語と英語だけ…」と言うと、「あら、そう。」と。少し辛い思いをしたので、英語だけでは なく他の言語を知っていることも重要なのだと感じました。


■ LWの実際

ここからはLWのうち、音声識別についてと記憶力について簡単にアカザワ先生の説明のまとめを載せておきます。

(1)Auditory Discrimination
まずは、以下の単語のペアをみてください。
walk work
bug bag
cap cup
sheep ship

実際に先生に発音して頂いて識別したのですが、私にとっても難しかったです。
先生によると、もしもこれらの音が識別できないと理解力にも影響するそうです。
文脈から判断できるという意見もありますが、文脈から判断をしているとそれだけ時間を余分に取ってしまうために、リスニングのスピードに追いつかないこともあり得ます。
対策として、「語レベル」での発音練習と「文レベル」の発音練習が必要だと指摘されます。

「語レベル」
例)elephant
例えばelephantという単語の発音をするのであれば、とにかく教師は強調をして読むことが重要です。
この単語であれば/l/の発音を大げさにすることと"ph"が/f/と読まれることを強調します。
学習者がたとえ音声識別が苦手でも、大げさな教師の読みを真似することによって少しずつ慣れて行くようです。

「文レベル」
語レベルでの発音ができるようになったり識別できるようになったりしても、実際に用いられるのは文の中です。次の段階として、文の中で読む練習・識別する練習が必要になります。

これらの練習を通してphonological awarenessを高揚することができます。
一般的に子どもの頃の方が大人よりもphonological abilityは高いので、豊富なインプットの必要性が何度も説かれていました。


(2)executive function
例えば、リスニング活動として教師がいかの指示を生徒にしたとしましょう。
”Draw two red dots.”

ある児童はまず筆箱を開けます。しかしその後「点は何個だっけ?」と聞き返します。
教師がもう一度"Draw two red dots."と言うと、「あぁ、2個か。」そしてペンを選ぼうとすると「何色だっけ」と聞き返し、教師はがもう1度繰り返します。子どもが「そうか、赤色だ。」といって点を書こうとすると「あれ、何個だっけ?」

つまり何か別の動作をしたり違うことを考えると、それまでに得た情報を忘れてしまうのです。
英語の授業実践でも「指示の細分化」が批評会での課題としてよく挙げられます。1回の指示には言いたいことは1つしか入れないということです。もちろんこの細分化は授業を成立させるためには必要不可欠です。しかし、彼らの記憶力向上のためにも何か別のことが必要となります。

アカザワ先生がおっしゃったのは、記憶力の向上にはエアロビクス、スポーツを毎日行うことが有効とのこと。実際に検証した論文も既に出ているそうで、当日いらっしゃった現場の先生の中にもスポーツを続けたことで記憶力の困難さがぐっとましになったケースを経験されたことがあるそうです。実際に英語の授業ではphysical limitationがかかっていることが多く、体を動かすことにもう少し焦点を当てても良いのではないか、とまとめられていました。


…と長々と書いてしまいました。(本来ならばこの後に実際のケースがいくつか紹介されたのですが、それについてはここで書く必要もないかと思いますので、興味のある方は個人的にお願いします。)

実際に自分がこれから教えて行く中で出会う学習者のほとんどには弱点があります。教師としてはそれを見抜き、対応策を考えて、実践する、という3つのことが必要なのだと思います。教えている時に陥りやすいのが「なぜこの子達はできないんだ」という、できないことを生徒の怠けなどに帰属させることです。これでは友好な関係が築けるとは思いません。そうではなくて、学習者の弱点を知り、同時に強みも見抜くことで指導をしていくべきだと思いました

もちろん言っているだけなら簡単なので、自分も教える際には気をつけていこうと思います!
コメントで皆さんの意見をお聞かせ頂けると幸いです。特に
(1)Learning Weaknessを持つ学習者への対応
(2)英語教師として英語以外の言語の存在を示すことについて
などについて皆さんと議論できたら…と思うので、お気軽にお書きください(^^)

2013年2月25日月曜日

130223-24 東広島BBS追いコン研修記録

2013年2月23日から24日まで西条研修センターで催された追いコン研修に参加しました。とは言っても途中からだったので、交流会だけ行って来たようなものですが(笑)、それでも多くの先輩や他地区の方とお話することができて、そこで感じたことを書き留めておこうと思います。

1. Follow your heart

これはSteve JobsのStay Hungry, Stay Foolishという演説で出てきたセリフですがこれととても近いメッセージを頂いたので引用させていただきました。今は社会人として働いている大先輩からの言葉なのですが、「直感的にやりたいことをやれ」と言って頂きました。

その先輩はもともと保育士のお仕事をされていたのですが、他にやりたいことがあるのではないかと感じて、一度仕事を退職されました。その後老人ホームで勤務されていました。そこの仕事でも上手くやってらっしゃったそうですが、ふと中学校の頃に職場体験で訪問した幼稚園での出来事を思い返したそうです。その幼稚園では子供たちとたくさん遊んで、帰りに1人の子どもから「お兄さんと会えて良かった」と言われたそうです。それを思い返した時「自分は人に良い影響を与えたいという思いで保育士になっていたのか」と実感できました。そしてその後、先輩はもう一度保育士になろうと、もう一度勉強を続けています。

一見遠回りだと思われるかもしれませんが、先輩は老人ホームでも相手に感謝された時に人の役に立っていると感じていたため、根本的にその2つの仕事は繋がっていたと言います。むしろ老人ホームで自分の初心を思い出せて良かったと言ってました。大学生の私に対して「社会人になったら自由にやりたいことを始めるのも大変だから、今のうちに初心を忘れないことと直感に任せて行動することの2つはやっておけ」と言ってもらえました。

自分は英語教育に関係ないことはどちらかと言えば避けようとする、極めて「お子ちゃま」な正確なので、自分の直感でやりたいことを始められたらと思います(^^)


2. 相手の気持ちに立つことは不可能、だから誠意をみせる

BBSで僕は今ある中学生の男の子と月に1回会って勉強を教えたり一緒に遊んだりしています。彼は昔に少しやんちゃをしていて、大学生の自分にはあまり心を開いてくれていないのではないかとよく心配になります。大学の授業では「カウンセリングマインドで共感的理解が重要だ」と繰り返し教えられてきました。しかし、ずっとやんちゃし続けてきた彼の気持ちを自分が完全に理解することはできず、下手に「僕には分かるよ」などと知った顔で言っても、きっと彼は見抜くと思います。

このことをBBSの大先輩である福田さんに相談すると、彼女はとても親身に相談に乗って下さいました。そもそも彼女によれば、他人の立場になることなんて不可能で、完全に理解しなくてもいいのです。万引きをした子の気持ちを自分が理解するには自分も万引きを同じような状況でしないといけないでしょう(勿論する必要もありませんが)。福田さんならどうするか訪ねてみると、とりあえず先に「私はあなたのことを完全に分かることはできない」と伝えるそうです。そして「だからこそあなたを分かろうとしたいの」と続けます。つまり、私はあなたを分かりたい、分かろうとしたいというメッセージを伝えるということです。

確かにこのような誠意を見せることで、こちらも偽った自分を作らないで(相手のことを何でも分かるという虚栄心を持たないで)済みます。「BBSのお兄さん(もしくは学校の先生)はこうでなければいけない」という自分の思い込みが少し解消できて楽になりました。


本当はもっと色々な方とお話して感じたことはあったのですが、このくらいで(笑)
普段自分がやっている実践を振り返るという意味でも、悩みを相談できたという意味でも、収穫の多い研修だったなと思います。


参考
日本BBS連盟ホームページ
http://www2.ocn.ne.jp/~bbsjapan/index.html



2013年2月20日水曜日

Self-Directed Studyについて(JALTに参加して)

2013年2月17日(日)に広島国際会議場で行われたJALTのセミナーに参加してきました。今月は6人の先生方によるブックトークで、それぞれの先生が興味深い本を紹介されていました。

個人的に特に面白そう!と思ったものを2つだけ紹介したいと思います。

1つは、PI(Processing Instruction)についての本(Grammar Acquisition and Processing Instruction(文法習得と処理指導)二次的累積効果A.G.Benati, J.F.Lee)で、そもそも自分はPIについての知識がなかったのでとても新鮮でした。簡単な説明のみ提示しておきたいと思います。

例えば、I walked to school yesterday.という過去形の英文があるとしたら、学習者は時を表す副詞句であるyesterdayを手掛かりに「これは過去の文だ」と決めることが多いそうです。もちろんよい学習方略かと思いますが、これでは動詞の過去形(ed)には目が向きません。そこでわざとyesterdayを抜いた”I walked to school.”という文を提示することで、formとmeaningの結び付きを強めることができるようです。

プレゼンテーションの中では、柴田美紀先生が「アウトプット重視の傾向にある今日に、インプットの提示の仕方について工夫することも必要ではないか」とおっしゃっていたのがとても印象的でした。自分の授業でも定期的に取り入れられれば文法に目が向くのではないか、と自分の授業でも早速やってみたいと思いました。(もちろん理論を先に身に着けることも必要だと思うので、下地となる本書はいずれ読まなければならないと思います。)

2つめに学習者の"Self-Directed Study"について述べた "Teaching Learners to be Self-Directed, by G. Grow"です。これについてはGrow氏のサイトがオープンされているので、こちらのリンクを張り付けておきます。

Gerald Grow's Website 
http://www.longleaf.net/ggrow/SSDL/Model.html

簡単に説明すると、学習者は教師に依存する段階から、学習に興味が出る段階、自ら学習する段階へと成長していくというものです。(JALTのプレゼンテーションでは、段階を追うものというよりも1つのスケールの中を行ったり来たりしているものととらえるべきだと述べられていました。)
そして学習者の段階に応じて教師もどれだけ主導権を握るかを考えなければならないということも同時に示唆されています。学習者が教師依存状態ならば、ある程度は主導権を教師が握ってもよいが、その日の学習者のコンディションによっては彼らに任せる時間を取ることも可能ということです。


英語教育関係の授業を受けていると、「教師が話す時間は短ければ短いほど良い」という話をよく聞きます。確かにその通りですが、この言説には「生徒の様子をしっかり観察して、時機を見極めたうえで」という前提が隠れていることを改めて思い知りました。一方的に主導権を放棄して生徒に一任しても学習者は困るだけだろうし、生徒の観察も重要なのだと思います。

 この他にも「読んでみたい」と思わせる素晴らしいプレゼンを聞いてきました!本の中身だけでなく、多くのことを考えられた実りのある研修になったと思います。(もっと現職の先生方とお話ができたらよかったのですが・・・次への課題です!笑)

来月もJALTの講演会があるそうなので、興味のある方はぜひ一緒に行きましょう^^

Hiroshima JALT
http://hiroshima-jalt.org/