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2015年11月19日木曜日

高尾隆・中原淳 (2012) 『インプロする組織-予定調和を超え、日常をゆさぶる』三省堂

こんにちは (^-^) mochi です。

最近、コミュニケーションにおける「即興性」という言葉が気になっています。

英語教育でも、次の学習指導要領で「他者の尊重」ということばが目標に含まれるようですし、次の展開が予測できない「他者」に対峙し、即興的に対話をする力が求められるのかもしれません。

私は言語教育と「即興」について考えるとき、即興劇 (impro) の発想が大変参考になると考えています。そこで高尾・中原 (2012) 『インプロする組織』(三省堂) を手にとってみると、これが大変面白かったです!

Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる
Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる高尾 隆 中原 淳

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この本は、昨年末に国際表現言語学会に参加した際にも気になっていたのですが、やっと手にとって読むことができました。

以下、面白かったところを中心に紹介します。

■ 伝統的な授業の問題点

高尾氏は今日の授業を講義型の知識伝授行為として、以下のように批判しています。

1) 知識の活用がしにくい
2) 自分で知識を探したり作ったりすることができない
3) 知識を伝える方が自らの振る舞いを見直すことがない

ここで断っておく必要があると思うのですが、必ずしも今日の学校授業が上のような知識伝授とは限定できないと思います。このような問題意識は教育現場にも教育政策にもあって、「アクティヴ・ラーニング」の必要性も叫ばれています。

また、必ずしも知識伝授式の授業が否定されるべきだとは思いません。正確な発音の仕方や英文法の形式の説明などは、メタ言語を使用した丁寧な説明が効果的な場合も多いと思いますし、知識伝授式の授業が得意とする領域まで「アクティヴ・ラーニング」に取って代わられる必要もないでしょう。

とはいうものの上の留保をつけてでも高尾氏の主張は意義深いと思います。高尾氏の主張は現象学と批判理論を基盤としており、知識伝授式の授業が信頼している確かな真理・知識といったものがそもそもないのではないか、また、教える側の権力性によって無批判に正当化されている部分が教育行為にあるのではないか、といった批判意識に根ざしています。そこで高尾氏は、これまでの「学び」に排除されてきた要素を見つめなおします。

学びから排除されたものは、有利な立場に立っていた人が、これらのことが学びに入っていると自分たちを守っている既存のルールが脅かされ都合が悪い、と考えて排除した可能性があるからです。…それは「からだ」です。 (pp.24-25) 

■ 「からだ」の重視-パフォーマティブ・ラーニング

高尾氏は「からだ」をメルロ=ポンティの身体論を援用しつつ、「主体としてのからだ」と「物としてのからだ」の両義的な性質を持ったものと位置づけます。「主体としてのからだ」は意識の源としてのからだで、そもそも私たちがからだなしには何も考えられないことからもからだを我々の主体といえるでしょう。「物としてのからだ」は物理的な対象としてのからだで、たとえば私たちが鏡で自分のからだを見たり、他者によって自分のからだを触られたりすることもできます。このようにからだを「主体/物」(あるいは「見るもの/見られるもの」という両義性で捉えています。

この両義的なからだは、時にずれ(矛盾)を生み出すこともあります。ベイトソンのダブルバインドの議論と似ていますが、私たちが「愛しているよ」と言いながらも顔が引きつっている場合などが、「主体としてのからだ」が出したがっているメッセージと「物としてのからだ」が出してしまっているメッセージのずれ(矛盾)に当たります。

この「ずれ」は無意識に起こってしまうものなので、社会生活では不便なものと感じられて抑圧されてしまいます。特に管理社会であれば、「物としてのからだ」から自ずから出すメッセージを無視して、「主体としてのからだ」が論理や言語を用いることの方が都合が良いでしょう。

しかし、高尾氏は逆の見方をしています。「主体としてのからだ」が「物としてのからだ」を操作・支配するだけでなく、「物としてのからだ」も同様に「主体としてのからだ」に影響を与えていると。さらに言い換えるなら、「からだ」が行うパフォーマンス (performance) によって主体の自己同一性 (identity) が変化するような考え方といえます。このパフォーマンスと自己同一性が表裏一体の関係にあると考えるのがパフォーマティビティ (performativity=performance+identity) で、これこそがパフォーマティブ・ラーニングの軸となる考え方です。

パフォーマティブ・ラーニングは (1) からだを動かして表現する、(2) 他者へ向けて表現することで自分を解体・再構築する、という2つの意味が込められています (p.40) 。ここで具体的な教育方法論として用いるのがインプロ (impro) です。インプロは、「主体のからだ」と「物としてのからだ」がそれぞれ調和・統一した状態でパフォーマンスをする状態を指します。パフォーマティブ・ラーニングは「物としてのからだ」が管理下されて固定化してしまうと不可能になってしまうので、からだを解放させて自然発生的な反応 (spontaneity) が生まれるように環境整備する必要があります。


■ 合目的的教育観とパフォーマティブ・ラーニング観

近代以降我々が有している教育観は、しばしば「合目的的教育観」と批判されます。合目的的教育観とは、手段―目的図式が強固に用いられている様子を指します。たとえば私たちが授業を行う際は、常に目標を設定して、それに従って計画を立てて実行し、評価をすることで次に生かそうとします。このような目的の強調は、アメリカの教育哲学者のデューイも述べているとおり、大変重要なものです。

ただし、インプロでは計画が行われず、むしろ「即興的かつ局所的な対応」 (p.61) が求められます。そもそもインプロという言葉は、「予-見」 (pro-vision) することができない (im-) という語源を有しています。そこで、「未来」に見通しを持つのではなく、「今・ここ」で、「身体」をメディアとして用いることで、物事の多用な見方や意味づけを学びます。

このようなパフォーマティブ・ラーニング観は、ある意味無計画で無謀なように思えるでしょう。ただし、合目的的教育観が見逃している部分に関して、パフォーマティブ・ラーニングには可能性があるようです。

既述したように「即興的」で「創造的」で「協同的」で「脱権力(民主的)」で「共愉的」なインプロは、一見、論理では説明がつかない、「費目的思考の行為」「経済的合理性に反した行為」「非科学的・非論理的な行為」に見えます。しかし、それは、不確実な世の中を生き抜く知恵の一つであり、うまく奏功した場合、「目的志向の行為」「経済的合理性のある行為」「科学的・論理的な行為」を、陰ながら生み出す可能性も持っているのではないか、と僕は感じています。 (p.69) 

この箇所に関する自分の意見は、「そりゃ、どっちも大事だろう」というありきたりなものです。(笑)

もし「合目的的」な授業ばかりをデザインし続けると、コミュニケーションが本来有する偶発性や複雑性といった部分を学習者に体験させる機会が少なくなってしまうかもしれません。そこでインプロが使えるわけですが、かといってインプロばかりやっていては、学習者への学力保障が必ずしもできるとは思えません。

(先日、某県立中学校の授業を参観させて頂きましたが、その先生の授業では、この「合目的性」と「インプロ性」が非常にバランスよく取り入れられていたように思えます。おそらくこのバランスのとり方が最も難しいのだと思いますが・・・。)

■ インプロの原則

ここで、著者の両氏が重視されているインプロの原則を確認します。

1) 無理しない
2) Give your partner a good time.
3) 自分も楽しむ

これらは、「からだ」を解放するためにも、また自然な即興性を表現するためにも、「無理をしない」「お互い愉しむ」ということが重視されます。

ここで、2)に注目したいと思います。両氏は「他者」を学びの根本的存在として捉えています。

人は一人では学べない、人は一人では代われないということなんです。「学ぶ≒変わる」ためには、他者がどうしても必要です。究極的に言うと、自己を自己で認識し、律するためには、どうしても他者の助けや他者の視点が必要だということです。…「学びの他者性」なんです。 (pp.217-218)

私たちは「他者」と関わることで、自己を認識することができます。この辺をヘーゲルの概念で語れば、「他者の内に自己を見出す (sich-im-Anderen-anschauen) 」に近いかと思います。つまり、最初は「他者」として立ち現れる存在のうちに「自分」を見出し、もともとの自分 (即自的存在としての自分) と他者のうちに見出す自分 (対自的存在としての自分) が弁証法的な統一を遂げることで、「成長」「学び」を起こすことができるといえるのでしょう。

(この具体的なインプロのエピソードまでは本記事では紹介しませんが、本書の最大の魅力はこの豊富なエピソードにあります。他者と接して、偶発的なコミュニケーションが連続しつつ、会話の参与者で共通の土台を協働的に作る参加者の姿が詳細に記述されています。)

■ 身体と言語―裂け目を入れるための振り返り

最後に、インプロやパフォーマティブ・ラーニングにおける「言語」の役割について確認しておきます。著者らは「言語」の役割を「振り返り」に帰します。現に、本書で紹介されるワークショップでは、アクティビティが終わる毎に参加者と「今のどうでした?」「ここでこうしてたらどうなってたと思いますか?」と、参加者がインプロで行ったことについて言語化を促します。高尾氏はこの役割を「“裂け目”を入れる」という比喩で語ります。

からだを動かすこと事態で“裂け目”は入らないんですよ。からだを動かしたあと、それを言葉にしたときに裂け目が入る。言葉にすることが効いている。ただからだを動かして、「はい、今日はからだをたくさん動かしましたね」っていうワークショップでは、たいてい何もおきていない。それでは「エクササイズ」ですよね。 (p.202) 

また、中原氏も以下のように語ります。

「からだを動かすこと自体で“裂け目”は入らない」とは慧眼ですね。そこで起こったできごとのプロセスを、一人称で、自分の言葉で表現したときに、内省が駆動し、裂け目が入る。同じ言葉にするにしても、自分に起こったできごとのプロセスを、一人称で、自分の物語として書き留めていくことが大事なんですよね。 (pp.202-203)

前節までで述べてきたように、「物としてのからだ」によってできるだけ自然な動きをインプロでした後、再び「主体としてのからだ」と「物としてのからだ」のずれ・矛盾に目を向けるためにも、言語化を行う必要があります。言語化は「裂け目」をいう比喩が用いられていますが、ルーマンに倣えば「区別」と言っても良いでしょう。インプロ中はできるだけ区別を敢えて引かずに進めますが、それが終わった後に敢えて「主体としてのからだ」の視線で区別を引くことで、言語化された自分と、言語化されなかった自分の身体知のギャップへの気づきが起きやすくなるのでしょう。


■ 最後に

「偶発性」や「即興」「対話」といった要素が、しばらくの自分にとってのキーワードになるだろうと思います。できれば大学院にいる間に、「即興性」という概念について自分なりの定義が提出できればと思うのですが、どうなることやら。(笑)

本書は、自分の固まりきった考え方を対自化するためにも、とても読み応えがありました。

ただし、一般書なので、インプロに関する理論面については少し物足りない感じがあります。言語教育とインプロで調べたら、以下の洋書を見つけたので、次の読書はこれにしようと思っています。


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また、パフォーマティブ・ラーニングという概念は、アクティブ・ラーニングと対置したときに、どのような点が異なるのでしょうか。個人的には、「からだ」「即興性」の重視というのがオリジナリティといえても、系譜として両者は非常に似ているのではないか、という考えです。

また、自分自身がインプロの体験をする必要もあると思うので、今年の年末も演劇ワークショップに参加してこようと思っています。


2015年6月29日月曜日

「朗読とピアノの夕べ」の感想

6月26日 (金) 、尾道市なかた美術館で開催された「朗読とピアノの夕べ」に参加してきました。翻訳家の新柴田元幸先生とピアニストのトウヤマタケオさんのコンサートで、柴田先生はご自身が訳された翻訳作品の朗読をされて、それにトウヤマさんのBGMが合わさって1つの世界が出来上がり、とても迫力がありました。

私は、ピアノや朗読に耳を傾けて心が安らぐ一方で、この2時間で「朗読」の考え方が大きく変わり、また、普段読まないアメリカ文学へ親しみが湧きました。

朗読された作品は、「ヒアカムズサン」 (Monkey vol.6 に掲載) 、「謎」(イギリスとアイルランドのマスターピースに掲載)、「ウインド・アイ」、「靴紐に寄せる惜別の辞」(Monkey vol.1)でした。(本当はもう1つ、バイトリニストの話も聴いたのですが、タイトル名が思い出せませんでした。)

■ 朗読のしやすい英日翻訳

「ヒアカムズサン」は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の語り手の雰囲気に似たものが出ていて、この作品で一気にアメリカ文学の世界、あるいは柴田先生の世界へ引き込まれました。私が「朗読」と聞くと、静かな語り口でゆっくりと読み聞かせ、重要な場面で強く速く読む、というものを考えていました。ところが、柴田先生の朗読は全体的に勢いがあり、畳み掛けるように次々言葉を出していくという感じでした。私には、日本語の朗読作品を聴いているのに、あたかも英語の音を聞いているような不思議な感覚がしました。

途中に質問タイムがあったので、「先生の朗読を聴いていると、(リズムやその他の読み方が)日本語なのに英語のように聞こえる瞬間が何度かありました。」と感想を伝えたうえで、「先生の今日の朗読は勢いがあって速く読まれていたのですが、たとえば同じ作品をゆっくりと落ち着いて読む、ということはありえたのでしょうか。それとも、今日のような読み方以外考えられなかったのでしょうか。」と質問しました。

それに対して柴田先生は、「静かに読むと、皆さんが寝てしまうと大変なので(笑)」と仰った上で、「私の読み方の好みが半分ありますね」、「もう半分は、この作品には読まれ方があって、今回の作品は強く読むほうが良いと思いました」と仰っていました。(正確な引用ではありませんのでご容赦ください。)これを聞いて、ご自身が翻訳された文章を朗読するときのリズムは、もしかしたら翻訳されているときにもある程度決まっているのかもしれないなと感じました。

さらに先生のお話で興味深かったのが、「英語に比べて日本語は朗読しにくい言語だ」という言葉でした。確かに、英語がアクセント言語で強-弱のリズムがつけやすいのに対して、日本語は読んでいて切れ目が分からなくなったり、途中で意味が伝わりにくい平坦な読み方になりがちかもしれません。『翻訳夜話』ではリズムを意識した翻訳、という話が何度か出てきました。私も自分が訳した文章を声に出して読んでみると、自分の訳文が「声に出して読みにくい」(朗読しにくい)文章になっていると気付くことがしょっちゅうあります。

先生のお話を伺って、自分で訳した文章を推敲するときに、「声に出しやすさ(朗読しやすさ)」というのも観点に入れてよいかもしれないと感じました。そのために必要な場所に読点を入れたり、長い言葉遣い(長すぎる名詞句など)を避けて、切れ目を意識しながら訳したりする必要があるように思えます。


■ 作品を演出するということ―言語教育における可能性

「ウインド・アイ」は、ブライアン・エヴンソンという作家の作品で、主人公が不思議な世界を体験するものの、周りの大人には理解してもらえず、主人公の目に映った世界と他者の目に映った世界のずれというものが現前化された作品です。

ストーリーとしては一番好きな作品だったかもしれません。また、トウヤマさんのピアノと、詰まった音のギターのBGMが、ストーリーをさらに引き立てていました。この作品の書籍版を手に入れたいと思って探したのですが、未だ見つかりません。

柴田先生の朗読はこのストーリーを一段と引き立てました。それは、読むときの間の取り方、ジェスチャー、イントネーションなどが、わざとらしくあざといものではなく、全てが丁度良かったからです。今回のコンサートには、バイトでお世話になっている塾長と塾のスタッフとして勤務しているネイティヴの先生と3人でいったのですが、ネイティヴの先生(日本語もとても達者です)が帰り際に、「最初は聞きながら目をつむって、イメージしようとしたけれど、私には少し難しかった。でも、目を開けて聞いていると、先生の表情がとても豊かで、想像がしやすくなった」、”His facial expression communicated a lot."と言っていました。もしこれらが、「あざとい」と感じられるような仕掛けだったら、communicated less (worse) になっていたかもしれませんが、本当に「丁度良かった」のです。

このように、自分の好きな作品を、自分が「仲介者」(翻訳者・朗読者)として他人に伝える、というのはとても面白い経験になるかもしれません。どこでジェスチャーを入れるか、どこで沈黙を用いるか、読むときの表情はどうするか...。そしてBGMを入れるなら、ストーリーの前半部と後半部ではBGMを変えるか変えないか...。これをするには、自分が相当にそのストーリーの世界にもぐりこむ必要があるかもしれません。もしかしたら言語学習者にはこれらの作業は難しすぎるのかもしれませんが、どこかで、自分の本当に好きな作品に出会えたなら、その作品を演出するという機会が与えられても良いかもしれません。(ただし相当な時間数を使うので、プロジェクト型学習や授業後の個人指導なども検討すべきでしょうが。)


■ おまけ

最後の「靴紐に寄せる惜別の辞」という作品は最も好きでした。その理由は、「他在の存在から自己意識へに回帰する」「世界(普遍)と形態(個体)の弁証法」といったヘーゲル的解釈のせいかもしれません (笑)。それほど長い作品ではなかったので、私はこの作品の英語版を見つけて読んで、自分なりの日本語に翻訳してみたいと感じました。

Monkey という柴田先生が編集されている雑誌(翻訳+文学)のVol. 1 に載っているそうなので、ご興味のある方はお読みください。自分はVol. 3 と 6 を買って読んでいますが、相当に面白い作品だらけで、読み応えがあります。オススメです。



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MONKEY Vol.6 ◆ 音楽の聞こえる話柴田元幸

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2015年5月26日火曜日

平田オリザ (2004) 『演技と演出』講談社現代新書

こんにちは、mochiです~。

今のゼミに入って早2年が経ちました。少しずつですが、自分にとって魅力的な「師」が見つかってきました。たとえば、教育哲学であれば苫野一徳、他者論であれば柄谷行人や木村敏、翻訳 (小説) であれば村上春樹、ぼんやりと魅力を感じているウィトゲンシュタイン、ヘーゲル、ルーマン、などが当たります。もちろんまだまだ理解にはほど遠いですが、少なくともほとんど読書しなかった高校時代に比べれば、多少は成長したのかもしれません。

今回紹介する『演技と演出』を書いた平田オリザ先生も、間違いなく上に該当します。平田先生は演出家という立場で、英語教育専攻の自分とは接点がないはずですが、著書にはとても共感するところが多く、「他者」の捉え方やコミュニケーション観についてもうなずけるところばかりです。(だからこそ、まだ現段階では批判的に読むことができていないのかもしれませんが。)

最近自分が演劇ワークショップに参加したこともあり、また来年から中学校の教師として現場に出ることもあってか、とても示唆に富んだ読書となりました。ただ、せいぜい数回演劇体験をしただけの自分には、ここに書いてある内容が頭での理解に留まっており、まだ身体実感を伴った理解に至っていません。

そこで、本書の中心主題である「演劇」について正面から紹介することは避け、むしろ自分の得意分野(?)である「言語教育」に絡めて本書の魅力を紹介したいと思います。したがって、平田先生の核となる考えをまとめるといった類ではなく、言語教育専攻の院生が本書を通じてぼんやり考えたことを文章化したものだと理解してお読みください。

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■ ワークショップにおける平田先生の「表現」観

平田先生は小学校国語の教科書執筆にも関与されており、学校でワークショップを開くことも多いそうです。ワークショップでは「仲間を集める」というコミュニケーションゲームから始めるようで、たとえば「好きな果物!」というお題であれば、参加者が「イチゴ」「メロン」のように好きな果物を言って、同じ果物のグループを作ります。この時に、同じ果物の相手がいなくても、あるいは「果物は嫌い」という答えであっても構いません。こういったアイスブレイク活動を通して、声を出すことへのバリアーを取り除くことが期待されますし、何より声を出すことの楽しさを知ってもらえるという意義 (p.19) があります。

ただし、中学生を対象としたワークショップではうまくいかないことも多いようで、中学生同士が目配せしながら「バナナにしとく?」「そうだな」「おれも入れて」のように、声を出して欲しいという運営者の意図が成功しないこともあります。そういった場合は、相談を禁止するのではなく、相談できないようなお題(例:電話番号の下四桁、生まれた月など)を設定することで、対応するようです。ただし、それでも中学生同士で適当に話しをつけて仲の良い友達同士でばかりチームを作ってしまうこともあるそうで、その場合はあまり無理に強制せず、ただ少しでも場の雰囲気が変わるのを期待するようです。個人的にこの部分はとても好感が持てて、教育現場の対応には普段みられないゆとり(あそび)が子どもたちに良い作用を及ばすのではないかという気がします。

もちろん、これでも相談してしまう中学生はいるかもしれません。それはもう仕方のないことだと諦めます。演劇は、マジックではないからです。...
しかし一方で、そうなってしまった子どもたちだからこそ、少しでも私たちのワークショップが、彼らの心に揺さぶりを与え、何人かが勇気を出して、自分の好きな色や果物を、大きな声で言えるようになればとも思います。そして、時間はかかりますが、半年、一年と続けて行くうちには、実際に何人かの子どもたちは、少しだけ表現の階段を上り始めるようになります。私は、表現教育というものは、その程度のものだし、その程度のものでいいと思っています。 (p.22-23)

最近の勉強会で話題になったのですが、私たちは「表現」という行為をあまりに単純に捉えてしまっているのかもしれません。外国語科の「外国語表現の能力」という評価規準(観点)は、個人の能力として、英語で話したり書いたりすることを生徒に求めます。まるで、「表現力」というものを授業でつけて、その力を「客観的に」評価するように。ただ、表現という行為を、個人という枠組みでなく「相互行為」「社会」という観点から見れば、聞き手の関心、コミュニケーションの意思 (Willingness to communicate) 、相互承認関係の構築度合いなど、多くの要因が複雑に絡み合って成立する行為として見なせます。平田氏は、従来の教育的な「個人単位の表現力」ではなく、「場・環境との相互作用」「複雑的現象」として表現を見なしており (p.138) 、もしワークショップがうまく行かないとしても仕方ない、ワークショップは万能薬ではない、そういった信念が上の引用から見て取れます。

こういった「複雑系」の中で演劇体験を行うのであれば、はっきりとした短期目標は示すことが難しくなるかもしれません。もっと言えば、「今日の授業でこの技能を獲得させる」というのはほぼ不可能となるでしょう。演劇という複雑な行為を「台詞を話す」「歩く」といった部分に分けてマニュアル化して一つずつ獲得させていくというやり方もありえるかもしれませんが、「部分の総和は全体にならない」というように、必ずしも演劇の場で生きる力がつくとは限りません。


■ 他人が書いた言葉を「自分の言葉として」話す

劇にはもちろん台本が存在し、俳優が読むのは、自分の言葉でなく他人の書いた言葉です。しかし演劇では、他人が書いた言葉をあたかも自分の身体から出たように「自分の言葉として」言うことが求められます。

しかし、この技術は簡単ではありません。なぜなら、他者の言葉の使い方はほとんどの場合自分とは異なるからです。平田先生はこれを「コンテクスト」 (p.91) という言葉で説明します。たとえば、劇のワンシーンとして、電車に乗っていて隣の人に「旅行しますか」というたった一言かけるだけであっても、普段からこのような会話をしていない人にとっては自然に話すことが難しいでしょう。つまり、脚本家が考える「旅行ですか」と演者にとっての「旅行ですか」では使い方が異なっており、この微妙なコンテクストの違いが「自分の言葉として」話すのを困難なものとします。

また、平田先生はここで、人間が犯しやすい大きな思い込みである「間主観性の一致」の説明をします。これはすなわち、自分がある言葉を発して表明した考えや物事について、他の人もまったく同じ言葉を用いるだろう、と(誤って)想定することです。たとえば、マクドナルドのことを「マクド」と普段言っている人は、当然他の人も「マクド」と言うと想定してしまいます。(だから、友人が「マック」と言うと、「え?」「あ、マック派なの?」というよくある反応が生まれます。笑)

去年、大学院で出会った友人が言っていましたが、平田先生のコンテクストの刷り合わせの議論は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論と合わせることもできるかもしれません。言語使用は客観的な意味を機械的に引き出すのでなく、その人の「生活形式 (Lebensform) 」込みで成立する営みといえます。人によって人生・生活が異なっているのだから、言語使用が人によって異なるのも当然です。上の例では、関西で生活しているのか関東で生活しているのかで「マック」か「マクド」かは異なるでしょう。

ここまで来て、俳優は、他者のコンテクストを自らのコンテクストと刷り合わせて台詞を読むという力が求められることに気づきます。演出家にとって、それを助ける(イメージの補助線を引く)のも仕事です。

思えば、この技術は翻訳家にも求められる能力ではないでしょうか。翻訳家は多くの場合、外国語の起点テクスト(原書)を読み、そこに書いてある内容を母語で再表現します。そこでは起点テクストとの一貫性や忠実性も問題となりますが、何より自然で読みやすい日本語に書くことが求められます。ただ、起点テクストを「自分の言葉として」書くことはもちろん難しいでしょう。言語の異なる原著者のコンテクストを、自分のコンテクストで相当するもので表すことが求められます。その時、自分のコンテクストに豊富な言語があればそこまで困らないのかもしれません。村上春樹さんのように優秀な翻訳家は、起点テクストを読んで、その内容を日本語で的確に、しかもリズムを崩さないように訳します。しかし、そうでなければ、狭い選択肢から、しかも実感の湧かない日本語を書き連ねることしかできません。普段の読書によって自分のコンテクストを広げておけば、原著者のコンテクストとすり合わせやすくなるのでしょう。あるいは、その著者の他の作品を読むことで、著者のコンテクストに自分も少しずつ入り込んで行くこともできるかもしれません。

「俳優」「翻訳家」(ここに「教師」も入るかもしれませんが)は仲介者であるという点で共通しています。なにか台本や原書があって、それをお客さんや読み手に届けるという意味では両者は似た作業が求められるのでしょう。それは、自分の言葉ではない異質な言葉を、いかに聞き手(読み手)にぴたりと来る言葉や動作で言い換えるかという力です。認知言語学では entrenched といった概念で説明できるかもしれませんが、これをするには、普段の読書経験、他者理解の姿勢、そして人生経験の全てが関わってくるでしょう。



■ 観客の想像力の誘導

演劇は、それを観る観客が必ずいます。つまり演劇での脚本や演技の挙措全て、観客のために行われます。

平田先生は、高校生から「演出家って何ですか?」と尋ねられた際、「演出家というのはたぶん、その芝居を、どのように観客に見せればいいかを、一番一生懸命に考えている人のことだと思う。」 (p.127) と答えており、演出家にとっての「観客」の存在の大きさを物語っていると言えます。

演出家が観客の想像力を誘導する際、二つの方法がありますー想像力を開くことと閉じることです。想像力を開くとは、自由な解釈を許すことで、例えば男の子と女の子が二人で何も話さずに座っていれば、「お互い好きなのか?それともけんかしているのか?」と観客は自由に解釈をしていきます。それに対して想像力を狭めるとは、解釈を限定することで、例えば先ほどの男の子が急にそわそわしだしたり、女の子が恥ずかしそうに下を向いていたら、「ああ、好きなのか」と決め付けることができます。

平田先生はこの2つをうまく使うことで観客に「やっぱり」と思わせるよう心がけるそうです。先ほどの男の子と女の子であれば、ただ何も話さずに座り続けていては、もやもやして結局何が言いたかったのか分かりません。また、2人が最初からそわそわしていたら、解釈の幅を広げる間もなく、「なんだ、好きなのか」としか思えません。しかし、ある程度、2人が何も話さずに座っている時間があれば、観客はあれこれ想像することができます。「もしかしたら好きなのか、それとも何も気がないのか?」。そこで絶妙なタイミングで2人がもじもじしだしたら、「あ、やっぱり好きだったんだ。俺もそう思った!」と、先ほど拡げた解釈の中から自分の解釈を選べるでしょう。この「絶妙なタイミング」というのが素人には難しいですが、これが平田先生の言う「観客の想像力の誘導」です。

これを読んで自分が思ったのは、授業づくりもこれと同じなのかもしれないということです。もし授業という営みが効率的な情報伝達のみを目指すならば、想像力を閉じ続けることで授業は淡々と進むのがよしとされるでしょう。しかし、そのような授業は面白くもなんともありません。平田先生も、若手の演出家が説明を多くしすぎる傾向にあり、そのような劇を「つまらない学校の授業」 (p.125) と揶揄していますが、ある意味つまらない学校の授業は想像力を閉じることで効率的な情報伝達を目指しているのかもしれません。

しかし、授業の中に想像力を開くという段階を取り入れるなら、授業も多少は面白く感じられるかもしれません。例えば小学校算数で、「面積の求め方は、縦の長さ×横の長さです」といきなし教えてしまうのでは、先ほどの「つまらない授業」止まりかもしれません。しかし、「どうやったらこの四角形の面積を求められるかな」と問いかけ、学習者が想像力を開き(縦と横の長さを足すのかな?かけるのかな?もしかしてまったく別のやり方かな?)、絶妙なタイミングで「実は、縦×横ですよ」と教えるなら、「ああやっぱり!僕が思ったとおりだ!」と、あたかも自分で答えを見つけられたように感じられるでしょう。

こういった仕掛けを、授業者が演出家になったつもりで、学習者の思考過程を先読みしながら授業を設計するという姿勢も、教師には求められるのかもしれません。

(もちろん学習者の反応は予想しますが、予想しきれないのが授業の面白さかもしれません。)








以上が本書の紹介+自分の雑感でした!

演劇は子どもの頃から観ており、また人前で話したり目立ったりするのが昔から好きだったこともあり、かなり興味がありました。これからもワークショップへの参加や観劇、演劇論についての読書などを通じて、趣味の一つとして続けたいなと思います (^^)

2014年12月15日月曜日

第6回国際表現言語学会に参加して

あと少しで2014年も終わりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

12/14 (日) 、文教大学で開催された「第6回国際表現言語学会」に参加してきました。(表現言語は英語で performing language と訳されるそうです。)

本学会の存在を知ったのもつい最近のことでしたが、自分のような新参者も学会に溶け込みやすく、とても充実した一日を過ごすことができました。

記憶の新しいうちに、本学会で学んだことを整理しておきます。



■ 語学教育としての演劇

パネルディスカッション「言語教育の実践とドラマの融合」では、平田オリザ先生・原口友子先生・塩沢泰子先生による議論がありました。(個人的に、平田オリザ先生の大ファンなので、お話が伺えて感無量でした・・・。) 以下、先生方の議論を歪曲することはできるだけ避けたうえで、自分なりの言葉でまとめたいと思います。

平田先生は、演劇的手法の外国語教育が大学をはじめ、小・中・高でも徐々に広まっている点を指摘しました。英語教育であれば、英語ができるかできないかという一元的なものさしが支配的ですが、演劇の魅力は、語学が苦手な子でも活躍できて自信をつけられることです。たとえば英語の発音が上手であっても演技がうまいとは限りませんし、その逆も然りです。実際に、初日の諸大学による発表ビデオを見ても、発音があまり上手でなくても人前で堂々と演技したり役に成りきっている人たちは、劇中でも際立っていました。つまり、演劇には英語が苦手な子でも輝ける場を作る力があります。「英語ができる子が上、できない子が下」というものさしを一時的にでも覆い隠すことができれば、クラスの多くの子が英語にかかわることができるかもしれません。

塩沢先生は、英語授業のドラマ活用によって、生徒の英語力と人間性の伸長の両方につながりうるという主張をされました。英語力については、授業の英語を覚えるのが苦痛であっても、演劇の台詞は「流れ」があるから覚えやすいという子が学生の中にも多いそうで、長い間続けていると英語の力が伸びていくということでした。それにとどまらず、演劇によって学生の人間性も伸びるため、「語学教育」を超えた魅力が演劇にあるとのことです。ここらへんは定量化することが難しく、「なぜ文学が英語教育で扱われるべきか」と同様に実証が難しい領域でしょう。先生としては「この子たち一回り大きくなった」ということが十分伝わるのに、その文脈を共有していない人には伝わりにくいのだろうと思います。

(私は、そういった実証しづらいが効果があるであろうを認める寛容さと、そういった主張を説得力あるものとする努力の両方が必要なのではないかと感じました。もちろん科学的には棄却せざるをえませんが、こと人間科学でそこまで厳密な定量化が本当に必要か疑問に思います。)

原口先生は、演劇を通して学生が「英語を使う楽しさ」に触れ、主体的に英語学習に参加するという報告をされました。劇では受動的な参加では進まず、主体的に創作・練習する必要があるために、よりかかわりを持った学びになります。たとえば、劇の練習で「自分は周りの子より遅れてる」と感じる子は、みんなの足を引っ張らないように家で練習してくることがあるそうです。

「英語ができない」という子の中には、主体的に英語に取り組む機会がなかったために英語を使う楽しさ・喜びを体験できなかった子もいるでしょう。演劇の練習は、周りの教員から見たら遊んでいるようにしか見えないこともあるかもしれませんが、その遊びの中で学ぶこともあるという点を忘れるべきではありません。


以下は、議論で出た主な要点です。「→」マーク以降は自分なりの感想です。

・今日グローバル人材やリーダーシップの育成を目標に掲げた教育がなされているが、今の子たちにはどのような英語力が求められるかという議論が抜けた状態で進んでいるようである。

→まさにそのとおりだと思いました。「グローバル人材」「コミュニケーション能力」といった言葉が独り歩きしている感じは否めず、これらの概念の意味することをまずは議論する必要があるはずです。そして、一部のリーダーを育てるエリート教育ではない「公」教育として、英語教育で育成すべき能力を議論する必要があるでしょう。この点は、4人組の講演会でも同様に議論されていました。

・演劇は短期的暗記力なら役に立たない。期末試験のための勉強に演劇を取り入れるのはあまり効率的でない。しかし、長期的な力としては、五感をフルに使う演劇は役に立つだろう。そのためにも、今後は追跡調査を通して演劇経験が英語力にどのように貢献するかを実証することも考えるべきである。

→平田オリザ先生の『わかりあえないことから』でも、流動性知能と結晶性知能という用語で説明されていました。ワークショップを通して、体験して学んだことはなかなか忘れないという経験は自分にも多くあります。また、演劇の効果を英語教育学会などで示すためには、エビデンスの提出も今後求められるのだろうと感じました。

・授業構成は、Context-BaseからPersonal-Baseへ。

→授業をするときは、まず文脈を伴った例から導入して、慣れてきたら個々人の特有な文脈を用いておのおのが理解を深めるという手順が良いそうです。

たとえば、英語の授業で比較級を学ぶ際に、まずは「ドラえもんとルフィのどちらが伸長が高いでしょう」「体重はドラえもんの方が重いね」のような文脈を伴った例(Context-Base) から導入することができます。生徒が少しずつ比較構文の形に慣れてきたら、「じゃあ、次は君たちが好きなキャラクターや動物、人間で同じように書いてみよう」と伝え、各々が「じゃあ巨人と妖怪の強さを比べてみる」のように自分の好きな例に置き換えて理解を深める(Personal-Base) ことができます。あまり演劇と言語教育という文脈には関係ありませんが、個人的には授業観としてとても共感しました。

・学習者が必要な英語と、教える英語が一致していないのではないか。

→たとえば、臓器移植について英語で討論する力がある生徒たちがいるとします。もちろん高度な議論をする力は将来必要になるでしょうが、必ずしも全員が臓器移植の議論をする必要はなく、中には電車で隣の人に英語で話しかけられれば良い子もいるでしょう。negotiated syllabus という議論もありますが、教師の教えたいことと学習者の学びたいことがうまく一致したときに、実りのある英語学習になるのかもしれません。



最後に、「演劇と言語教育」の議論に関する自分の感想です。

(1) 演劇の虚構性

演劇は、現実の世界(アクチュアルな世界)ではない仮想世界を演じることで、普段自分を規定している「自分」から一時的に離れることができます。たとえば「普段英語ができない」、「人前では話しにくい」自分、などがありますが、これらから一時的に抜け出して演じることができます。ある先生が「ロールプレイは嘘だ」と発言されていましたが、個人的にはこの「嘘」(虚構性)がたまには必要なのではないかという気がします。英語の授業で「将来の夢を語る」といったタスクもありますが、思春期の子たちがこれに正面から取り組むのは難しいかもしれません。こんなとき、わざわざ正直に自分の夢を語らせる必要はなく、仮の自分が仮の夢を語る場を作っても良いのではないでしょうか。英語の授業で何かを演じることで、「他者としての自分 (me as Other) 」を表出させる経験をつめば、いずれ「自分 (myself) 」を出すのにつながるかもしれません。(実際には「将来の夢」の単元はキャリア教育・道徳教育との兼ね合いで行われることが多いでしょうから、現実味はありませんが...。)

なお、以下のブログでも「英語の授業における虚構性」が議論されています。大変刺激的な議論で、授業という営みに隠れる「虚構性」をむしろ肯定的に捉えるという論旨でした。


また、演劇を遊び (play) の一種としてみれば、ガイ・クックの以下の議論も参考になるかもしれません。


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自分が翻訳を言語教育で用いたいのも、英語力のみで勝負する英語の授業だとどこかでつまづく生徒がいる気がするからだと思います。そこに創作的な翻訳活動が伴えば、英語が苦手な生徒でも名訳を生む可能性があるため、いつもの英語力による序列をいったん崩すことができます。これで英語が苦手な子も活躍できるなら、演劇でも翻訳でも英語授業に取り入れる余地があると思います。(あくまで「取り入れる余地」の議論なので、「翻訳だけやればいい」といったラディカルな主張はしません。笑)


(2) 劇化の可能性

しかし、演劇を英語授業で取り入れるにはなかなか時間がなく、プロの先生にワークショップをやってもらうことが必ずしも可能でないかもしれません。そこで、英語授業で取り入れるには、教科書の「劇化」が有効かもしれません。「劇化」は、教科書のダイアログを実際に演じてみることで、キャラクターの視線や発話時の感情、場面などを推論する必要が前景化し、表面的な理解にとどまらない解釈を必要とします。また、実際に演じてみることで、五感を使ってテキストを体験することができ、身体をともなった理解に通じるかもしれません。(ああ、ここらへんの言葉使いが浮付いている気が・・・。この点は、また(3) で述べます。)

たとえば、以下の台本だったらいかがでしょう。(たしか、Widdowson の本に載っていた例だと記憶しています。曖昧な記述で申し訳ございません。)

A : This is the telephone.
B : I'm in the bath.
A : OK.

これを音読するのは容易ですが、場面を理解するには、以下の点を考慮する必要があります。

・AとBの人間関係はどのようなものか。
・2人はどこにいるか。
・"This is the telephone." はどのような意味か。「これは電話です」ではだめか。
・なぜAは”OK"といったか。このあと、Aはどうするか。

これらの点を考慮すれば、Aが子供、Bが母親であり、家で電話がなっていることを知らせる子供に対して、入浴中の母が「今電話に出れない」ことを伝える場面と理解することができます。

さらに、これを劇化するには、以下の点にまで踏み込む必要があります。

・子供は何歳くらいだろう。
・母親はどのような性格だろう。入浴中に電話があったら、自分ならどのように対応するだろう。
・子供は家の中のどこにいるのだろう。風呂場の近くだろうか、遠くだろうか。
・母親は風呂場でどうしているだろう。入浴しているか、髪の毛を洗っているか。
・そもそも母親でなくて父親ではだめだろうか。
・電話はコードレスだろうか、それともコードつきの電話だろうか。

もちろんこれらの点はテクスト中に明示されておらず、想像する必要があります。この過程で、自分の生活とのつながりも生まれ、ただのテキストが「意味を持った文章」となるはずです。そして、生徒によってこれらの解釈が生徒間で異なっているため、複数の生徒に演じさせてみても「個性」が見えるはずで、見ている側も楽しむことができるでしょう。


(3) 理論言語・実証の必要性

「知性」と「感性」をつなげる、五感を総動員して学ぶ、英語の楽しさを実感できる、・・・など多くの演劇の魅力が本学会で語られましたが、これらをさらに理論言語で説明する必要があるように感じました。「劇はいい」というテーゼにはもちろん賛成しますが、これらは学会などでどこまで受け入れてもらえるのかという点が今回の一番の疑問でした。「劇をやったことがあればわかる」「本物がわかる人ならわかる」でもいいのですが、もし理論や実証研究、哲学などがここに入り込む余地があるなら、演劇の効果を“客観的”に伝えることができるのに、と感じます。(あるいはそのような研究があれば、今後読みたいとも思いました。)

演劇のよさを語る人たちの「言葉」があれば、さらに演劇と言語教育はつながれるだろうと強く思いました。


■ 演劇的手法を活用したワークショップ

四国学院大学の千石先生による研究発表でした。四国学院大ではdrama education (演劇教育) が盛んで、福祉系・教育系の現場に出る人たちは演劇のワークショップを必修とするようです。

発表では千石先生がされているワークショップの報告がありましたが、そこで面白いと感じた点をまとめます。

・インプロ(即興劇)をするとき、「がんばらない」「相手に良い時間を与える」「誰かが話しているときは聴く」を最初に伝える。

・90分の授業が8回あるとき、最初の5回はアイスブレイキング(アイブレ)に費やす。

→いきなし演劇的手法を用いてしまうと、ついてこれない学習者もいます。そこで、心の緊張やバリアを和らげるための活動(アイスブレイキング;アイブレ)を行うのですが、8回の授業があるとき、うち5回をアイブレに費やされていました。アイブレの中でも難しさが異なるため、5回目の授業ではかなり高度なアイブレ活動を行うそうです。(なので、あまり先生の中ではアイブレという位置づけではないのかもしれませんが...。)これにより、6回目以降の授業ではShow & Tellなどの発表活動や、演劇手法を用いた活動が可能となるようです。逆を言えば、演劇的手法を英語授業などで扱うときも、アイブレを念蜜に行う必要がありそうですね。もし演劇に慣れていないクラスで「今から即興劇をやってもらいます」としてしまうと、・・・恐ろしい結果になりそうです。(笑)インプロの手法ももう少し自分で勉強したいと思いました。

・授業は、知識注入型授業と獲得型授業に大別される。獲得型授業では全身で学ぶことが求められ、そこで得られるのは「演劇的知」である。「演劇的知」とは、身体、こえ・ことば、かかわりの3要素によって構成される。

→「演劇的知」という概念に関して、面白いと思った。英語授業で「こえ・ことば」のみが(あるいは「こえ」が骨抜き状態の「言葉」かもしれない)教えられるとしたら、「演劇的知」から英語授業が学ぶことも多いかもしれない。千石先生は「耳が聞こえない子供」を事例に、「こえ・ことば」が使えなくても演劇的知を体得できるような実践を試みており、英語教育の「ユニバーサルデザイン」と似ているように感じた。すなわち、英語の授業で「こえ」が欠かせないように思えるが、「こえ」がなくとも、身体やかかわりを体験することはできるだろう。

performative learning (高尾, 2012) : パフォーマンスすることで自分を崩し、再組織化すること。

→とにかくやってみて、他者に表現して、そこで初めて自分を相対化して新しい自分を創るという理念を表す語のようです。デューイの learning by experience などと近い概念かもしれません。哲学用語であれば、「他者との出会いによって<自分>と<相対化された自分>が弁証法的に昇華され、<新たな自分>が生まれる」と言い換えられるかもしれません。(こんな言い換えに意味はありませんが。笑)

peformative learning も「ことばより身体の重視」という信念があるようで、身体性の勉強をする際に今後参照したいと思った。


演劇ワークショップに自分が参加したことがなかったので、目から鱗の思いでした。できればワークショップに参加してみたい・・・と強く感じました。(もし広島近辺で情報をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひ教えて頂けると幸いです。)




■ 小噺ワークショップ

続いて、畑佐先生による「小噺ワークショップ」に参加しました。先生は日本語教育の場で小噺を導入し、学習者が日本語をもっと学びたいと感じられるよう(動機付けの手段となるよう)、実践を続けられています。

小噺は私たち日本人が行ってもある程度はできますが、「目線」「声の調子」「動作」など考える点は多々あり、とても奥深いものだと感じました。(先ほどの「劇化」に似ているかもしれません。)

たとえば、以下の小噺。

「手術」 
患者:「先生、私、手術するの、初めてなんですけど、大丈夫でしょうか。」
医者:「心配することはありません、私だって、(手術するの)初めてなんですから。」

まず、これを日本語学習者が覚えて披露する際には、「手術」という日本語が言えるかどうかという問題があります。患者の一言目の「手術」という言葉を効いたときに始めて、聞き手は「病院のできごと」というスキーマ・スクリプトを想起することができます。ここで発音指導・暗唱といった従来の言語教育の手順が必要となります。

ある程度読めるようになったら、ある程度の笑いは取れるかもしれません。しかし、これも実際に小噺する際には、

・患者は寝ているのか、座っているのか、歩いているのか。
・医者は手術中なのか、座っているのか、歩いているのか。
・では、2人は目線をどこに合わせるのか。
・医者は不安気に話すのか、自信ありげに話すのか。
・医者はなにか手に持っているか。なにも持っていないか。

など、想像力を働かせる点はいくらでもあります。

実際に、畑佐先生や平田先生、また多くの会員の方々のパフォーマンスは大変面白く、同じ小噺でも雰囲気がまったく異なることに驚きを覚えました。


もし学習者が完全にこれを覚えて、上の解釈をした上でオリジナルの小噺をし、笑いを取ることができれば・・・もっと日本語学習しようという気になりそうですね!(英語学習におけるジョークの指導にも同じことが言えるかもしれません。)

さらにこの指導が面白いのは、「外国語学習者が母語話者にできないことをする」「初級者も上級者より笑いを取る可能性がある」という点にあります。先ほどの「一元的なものさし(語学力)を覆い隠す」という点と似ていますが、言語弱者としての言語学習者へのエンパワメントという観点からもこの指導は大変面白く感じました。

もしよろしければ、以下のサイトで「手術」の小噺をご覧ください。私はこの動画に「言語学習者」という枠組みを越えた可能性を感じました。



■ Readers Theatre / 朗読劇ワークショップ

最後に、上の2つのワークショップで学んだことを列挙します。Readers Theatre の担当をされた浅野先生は、南山短期大学の先生で、自分の母校とのつながりもありワークショップ後も個人的に多くのお話を伺うことができました。(本当に貴重なお話をありがとうございました。)

Reders Theatre (RT) とは、"a rehearsed group presentation of a script that is read aloud rather than memorized" (Flynn, 2004) で、日本語では「朗読(劇)」「群読(劇)」「表現読み」「ストーリー・テリング」「読み聞かせ」などとしばしば呼ばれます。普通の音読や劇と異なるのは、RTでは台本を隠すことなく音読する点、グループで行い必要に応じてジェスチャーを用いる点、道具や衣装・効果音は用いない点などが挙げられます。

授業で使う際は、教科書本文の内容理解を済ませた上で、内容を改変しないように区切り(文中で区切っても可)、それぞれのパートに分けて読む練習をします。練習したら、最終的に全体の前で発表します。

初日の発表では、ジョン・レノンの Imagine という歌の歌詞を、3人の大学生が RT 方式で読み披露しました。3名ともとても表情豊かで大変引き込まれました。

自分たちもO. Henry の "The Gift of Magi" という作品で行いましたが、ただ読むだけでなくノンバーバルコミュニケーション(ジェスチャー、表情、イントネーションなど)にも気を払い、できれば読むときは目線を上げて (look-up) 披露する必要があり、意外に難易度が高かったです。もし学校現場で実践するなら、練習時間やアイスブレイキングの時間を長めに取る必要があります。特に、内容理解ができていないときにRTをしてもあまり意味がないはずです。まずはテキストの内容理解を行い、適当な箇所で文章を区切って読み、アイブレをしながら人前で話す抵抗を取り除いた状態で、最終的に RT を行う(そして行く行くは drama performance につなげる)というように、スモール・ステップを意識した授業設計が必要でしょう。(逆に、みんなの前で失敗するという経験をさせてしまったら、その子が英語学習から遠ざかるきっかけにもなってしまいます。指導者は、失敗経験をさせないという信念も同時に求められると感じました。)

これも、同じテキストを使ったとしても、グループの個性が強く出ており、見ていて大変楽しむことができました。正直、言語化できない、ビビッとくるようなものを発表を見ながら感じました。朗読劇のワークショップ後に、「どうして朗読をするとワクワクするんでしょうね」という質問がフロアから投げかけられていましたが、自分も同じ感想を持っていました(笑)。

朗読劇は、グループ毎に1幕ずつ練習をし、最終的に3班で3幕分の劇を完成させるというワークショップでした。グループで戸惑いながらも1つの作品を作り上げるというのが、新鮮で面白く、ほかの班との違いも感じることができてとても楽しかったです。

技能育成の重要性を否定するつもりは毛頭ありませんが、このようなワクワク感を授業において演出する必要もあると改めて感じました。


■ 全体を通じて

英語学習における演劇活動の効力を実感することができました。上でも書きましたが、英語を使う楽しさ、身体で英語を味わう感覚、成功したときのワクワク感などはやはり英語学習のモチベーションに大きく寄与すると思います。

今後、平田オリザ先生の問題提起にもあったとおり、「演劇が英語学習においてどのような位置づけがされるか」が問題だと思います。そのための研究も今後進むと良いと感じました。

演劇は敷居が高く感じていましたが、上で紹介したような手軽な活動から入ることもでき、授業にも取り入れやすいように感じました。

ただし、「演劇だけで英語の授業はバッチシ!」ということはもちろんなく、文法学習や静かな学習(座学)、訳、テスト、評価など、英語教育における他の要素とどう結びつくかを考えた上で、さらに演劇が広まると良いと思います。

とても実りのある1日でした。当日、お話いただきました先生方、準備・企画をされました事務局の皆様、本当にありがとうございました。



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(追記)2014/12/29

南山大学の浅野先生に本記事を紹介したところ、以下のような御意見を頂戴しました。
先生に許可を頂きましたので、貼り付けます。
もし先生にコメント等されたい方は、以下のコメント欄へご記入下されば、ブログ運営者が転送させて頂きたいと思います。
先生には、お忙しい中このようなコメントを下さり、改めて感謝申しあげます。

(以下、貼り付け)

1.RT導入の目的の1つは,読解力の養成です。
和訳やその後の問題演習をして理解したことに
している英文読解授業をいかにして改め,英文
の読みを深め,かつ読みを楽しませるか,が私の
課題でした。しかし,学生の中・高を通して慣れ
親しんだ経験を改めさせるのは容易ではなく,
困り果てましたが,逆に闘志も沸いたことを記憶して
います。つまり,読解のための手段が,RTという位置づけです。


2.短大の学生の英語学習動機は常に「英語が話せる
ようになりたい」です。RTはこのことに必ず貢献できる,
というのが導入の二番目の理由です。ただし,この
点に関する研究は少なく,まだ不十分です。セリフの音読
という手段による意味生成が,自分の言葉となる経過に
パフォーマンス系の英語授業がどう貢献できるかです。


3.政府による「グローバル化」などという方向付けを
待つまでもなく,これまでの言語知識教授に偏る
英語教育が,現代の要請にマッチしないのは明らか
です。しかし,グローバル化の具体論があまりに乏しく,
「リスニングを増やせばよい」,「コミュニケーション重視を」
「学校英語開始年齢の引き下げよ」いう議論に終始している
という印象です。

Drama (Theatre) in Educationなどの研究と実践が
今後の日本の外国語(英語)教育には必要ですが,
守田さんが,メモの最後にお書きの点が非常に大切です。
「演劇を導入すれば全て解決」などということはなく,それを
支える日常的な教育が必要ですね。文法も和文訳もテストも
です。このご意見には深く賛同します。
(詳しいことに関心をお持ちの方は,ご連絡ください)

(以上)