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2013年9月16日月曜日

泉谷閑示 (2013)『反教育論-猿の思考から超猿の思考へ-』(第1章)真の思考力とは?



これから数回にわたって、『反教育論-猿の思考から超猿の思考へ-』をまとめていきたいと思います。
本書は大学の授業で紹介され、興味は持っていたもののまだ読んでいませんでした。しかし、学校教育の課題がとても分析的にまとめられており、教育のみならず社会が抱える問題点も浮かび上がっています。

本稿では、学校教育での記憶力偏重主義の指摘・真の思考力の定義をまとめていきます。(本書では第一章に該当します。お持ちの方はぜひご参照ください。)


反教育論 猿の思考から超猿の思考へ (講談社現代新書)
反教育論 猿の思考から超猿の思考へ (講談社現代新書)泉谷 閑示

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■ 記憶力を重視しすぎている今日の教育


学校教育で行われるペーパーテストでは記憶力を確認するものが多くなる傾向にあります。その波及効果(テストにより教育内容・方法に影響が出る効果)によって、カリキュラムを通しても記憶力重視となります。

学習心理学では記憶力に「流動性能力」「結晶性能力」という分類がなされます。流動性能力は年齢とともに落ちてしまう正確な記憶力を指し、結晶性能力とは年齢を積み重ねてもより磨きがかかる類であいまいさや柔軟性に富んだ経験記憶を指します。これら両者について、泉谷氏は以下のように述べている。

今日の社会において、入試や資格試験など多くの場面で試されているものは、このいわば知性の原始的な側面である「流動性能力」にひたすら偏ってしまっているのが実情である。私自身の経験から思い起こしてみても、大学入試でも医師国家試験においても試されるのは知識や解法パターンの暗記力であり、「バカになったつもり」で本来の思考力や懐疑的誓信を停止させ、膨大な丸暗記をしなければクリアできない類のものであった。もちろん、そんなふうにして詰め込んだ知識などはすぐに消失してしまって、のちのち何の役にも立たなかったことは言うまでもない。(p.23)

これによって、全国規模で暗記が得意でも思考が苦手な「思考停止人間」が増えていると述べられており(p.24)、大学入試を経た自分も思い当たりが山ほどあります。特に歴史などは自分の身にならなかったと反省しています。周りの友人にも英単語は受験当時は5000語とか覚えていたけど、大学に入って全く思い出せないという人が多いです。大学入試に小論文や面接を重視すべきだ、と短絡的に主張するわけではありませんが、「結晶性能力」を考慮するような方法を模索する必要があります。

流動性能力を極端に重視する今日、暗記型試験をクリアしさえすれば望みの職業に就けるため、「他者感覚」や共感能力に障害をかかえた人が教育や医療、法曹関係の職業につくことも多く現場でトラブルが生ずるリスクが増えているようです。(p.27)現に教員採用試験でも面接や小論文などの課題はありますが、一次試験では多くの県がペーパーテスト(一般教養や教職教養)を課しています。これにより教育現場に他者感覚が低い方が入る可能性も高くなります。
もちろん教職に求められる能力はたくさんあると思います。専門知識、教授法の理論・実践、経験、人生観・・・しかし、生身の人間を相手にする職業とあっては共感的理解などが重要であることは言うまでもありません。(自分にとっては耳の痛い言葉ですが…笑)


■ 「考える」とは?


以前、ちくま書房の数学的思考のレッスンの記事でもまとめましたが、「考える」という言葉も曖昧なもので、その下位構成要素が何かを考えることは必要でしょう。以下の3点にまとめてみたいと思います。

・懐疑的精神
ある既存の考えを示された時に、まずは「本当にそうだろうか?」と疑うことからはじめる、ということである。これは、そもそも人間の自我の本性にかなった性質でもある。(p.28)


・即興性
即興性とは、人間の「心=身体」側に備えられている野性的英知である。しかしやっかいなことに、進化上では後から登場した「頭」という理性システムによって「心=身体」自体が劣ったものと見なされ、その特質である即興性までもが軽視されてしまった。(p.39)

つまり真の思考とは、何が起こるかわからない不安に備えてあらかじめ準備を行ったり「想定」したりするのではなく、何が起ころうとも瞬時に最良の方策を導き出せるような、即興性に満ちた「生きた」思考のことなのである。(p.42)


※即興性という要素に関する論考としては、「伝わらないことから-コミュニケーション能力とは-」も優れていると思います。特に「目標・ねらい」を第一とし、それを達成するための手立てを教師が行うという考えが強い今こそ、“ランダム”の持つ意味を考えることも大事だと思います。興味のある方はそちらもご参照ください。


・好奇心

好奇心が思考か?と問われると困りますが、明らかに泉谷氏は好奇心も思考にとって重要な部分としています。(思考に含める、というよりも思考へと方向付ける動機のようなものととらえるのが良いかと私は思います。)

未知の対象について、それが何ものであるか知りたい、把握し掌握したいという好奇心こそが、対象物を観察したりそれについて思考を巡らす基本動機となる。好奇心は、未知なるものを未知のままにしておくことを嫌う。それゆえ、好奇心に動機づけられた思考は、ブラックボックスをブラックボックスのままに受け入れることを不快に感じるものだ。(pp.42-43)

このように真の思考にとって重要な要素を懐疑的精神、即興性、好奇心としてきましたが、「真の思考とは何か」という章題でもある質問に答えるとしたら、「好奇心を持った上で懐疑的精神を働かせながら既存のものを疑ったり、未知なるものに対して瞬時に最良の方策を導き出したりすること」とでも答えられるでしょうか。
これをよく示す例として、マニュアルの存在を示しています。マニュアルにそって仕事をすることには上で定義づけた思考はあまり必要ありません。したがって、真の思考はマニュアルを離れた「アンチ・マニュアル」の環境ではぐくまれるのでしょう。

マニュアルにはもちろんすぐれた部分はありますし、以前紹介した三田氏の『個性を捨てろ!型にはまれ』ではマニュアルの正当性が論じられていました。しかし、解き方が定まっていないような状態でこそ、考える必要が出るわけで、そういった意味では「総合的な学習の時間」やイベント運営(特別活動)などのカリキュラム上の意義があるのかな、と思いました。

■ 感想~「考える」「思考力」が呪文的に用いられている今日の学校~


ここまでを読んだ感想をまとめたいと思います。


「考えなさい」「考えればわかるでしょ」のように、「考える」は教育現場では多く用いられるマジックワードになりつつあるのではないでしょうか。「思考・判断・表現」が文科省から出され、考えさせることの重要性が広まっているのでしょうが、「考える」が何かについては経験的に理解されているにすぎないのではないでしょうか。子どもとしても「考える」という実態のわからないものを強制されればストレスも高まる気がします。したがって「考える」とは何か、その言葉によって何を意味しているのかを振り返る必要があると思われます。

また、子どもが「考える」ことができるように、教師としては、①子どもの好奇心を刺激するような導入、②即興性を重視した柔軟な授業構成、③資料や教科書などを疑うことの重要性を伝えるなどが授業中には可能かと思います。(授業時間外にはこれらを心がければより多くの働きかけも可能だと思います。)

特に①・②については、授業をしながら生徒の声(つぶやき)を拾いつつ、計画から多少はずれてでも彼らの興味にそった展開をすることも良いのではないでしょうか。これは指導案や細案から外れるために教師としても不安でしょうが、オンラインでの教育が広まる中で教室に教師がいる意義として子どもの声を拾って展開することはリアルタイムの授業の重要資源の一つのはずです。

と、偉そうには言ってみたものの、そのような力は自分には全くありません。残念。日々精進していきたいですね(苦笑)


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