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2014年8月17日日曜日

ビルドゥングスロマンとしての『思い出のマーニー』

こんばんは、mochiです。この1~2週間、色々なことがありました。文芸翻訳のワークショップ、教育哲学の集中講義、オープンキャンパス、全国英語教育学会、帰省、学部の友人との飲み、小学校コースや社会科教育コースの友人との飲み...。たくさん書きたいことがあるのですが、とりあえず最近観た映画の感想を書くことにします。笑

『思い出のマーニー』という映画を観てきました。本作品は、新訳で先月読んだのですが、良い意味で原典を活かしている印象を受けました。ある意味原作本がある作品を映画化するというのも、本から映画への「翻訳」と呼べるかもしれません。この作品は、原典への忠実性や敬意を据え置きつつ、必要な翻案を行っていたためで、自分にとっては丁度良い翻訳に感じました。

以下に、できるだけストーリーの核心部分に触れないように感想を書きました。ただし、ストーリーの内容自体には触れているので、まだ映画を観ていなくて知りたくない方は読まないでください。


■ 無気力な少女アンナの「ビルドゥング」:他様でもありえた姿

私はこの作品を、アンナという少女の内的成長の物語と取りました。物語冒頭ではやる気を見せない少女で、学校の先生からは「内気」「物静か」という印象を受けるかもしれません。もしかしたら、私たちが抱く「映画のヒロイン像」とは離れているかもしれませんし、彼女がこれから1時間40分のストーリーでメインに立つとはあまり思いにくいかもしれません。しかし、実際には彼女のような子(あるいは大人)はたくさんいるのではないでしょうか。彼女は常に普通の顔をしようとしますが、今の子達も「冷めてる」といった言葉で形容されることが多いですよね。クラスにいると、元気な子や勉強が得意な子、逆にとてもおとなしい子や勉強が苦手な子、などには先生は目を多く配ると思います。しかし、「普通の子」は比較的、先生の目からこぼれ落ちてしまうのではないでしょうか(自分の中高時代を回想しながらw)。

そんな彼女が田舎の親戚の家で療養生活を開始し、マーニーという少女との出会いを通して、少しずつ変容していきます。それは、彼女の声の調子や表情といった細かい描写からも十分読み取ることができますし、交友関係や言動にも徐々に表れていきます。これを彼女の人間形成(ビルドゥング)と理解すると、本作品はビルドゥングスロマンというジャンルに属すると言っても良いかもしれません。

ビルドゥング (Bildung) はドイツ語で、日本語や英語に対応する概念がなく、他にも「教養」「陶冶」などと訳されるそうです (山名, 2014) 。ビルドゥングという言葉については、教育哲学の教科書から一部引用しておきます。

「修業」「遍歴」などとも語られるこの「ビルドゥング」は、少年から青年にかけての人格形成の軌跡である。平凡で素朴な青年が、自己を完成させようとする内側から沸き起こる衝動(ゲーテのいう「形成衝動Bildungtrieb」) をもって、人生のあらゆる経験を、自らを磨く機会として活かそうとする。...
そうであれば「ビルドゥングロマン」は、現実社会との折り合いを主題とせざるを得ない。若い主人公は可能性のすべてを開花させたい。しかしそれはいつまでも許されることではない。いずれ断念するときがくる。...ということは、ビルドゥングは限定としてのみ「完成」する。現実社会のなかでは、自己限定によって初めて、自己を実現することができる、その展開が「ビルドゥング」なのである。 (西平, 2014, pp.74-75)


この作品がアンナの人間形成の物語だとすれば、彼女が物語結末部でスクリーンに見せた姿は、彼女が本来なりえた姿の総体のほんの1つにすぎません。言い換えると、彼女は物語を通じて他様に変容することも(あるいはしないことも)ありえたのに、そうではなく「あのアンナ」になったといえます。このような言い回しにあまり意味がないと思われるかもしれませんが、冒頭の無気力な少女が療養生活をしても何も変わらなかったりむしろ傷ついて帰ったり、という可能性も本来残されていたはずです。この可能性を踏まえて本作品を見ると、彼女が変容するきっかけとなったいくつかのポイントが見えてくると思います。(そういえば本作品が百合だと論じられている方もいらっしゃいます。前半部では私もその気を感じましたが、後半部を見れば百合的要素が物語りの表面部分であり、その深層には別のテーマが流れていると思いました。)



■ 河合隼雄氏の解釈:怒りの効果

本作品を私が知ることになったキッカケは、臨床心理家の河合隼雄先生が書かれた『子どもと悪』という作品を読んだことでした。河合先生はどうやら本作品がお好きだったようで、他の著書にも多く紹介されています。

河合氏が本作品で特に注目されているのは、アンナの人間形成の過程の一部である、彼女の「怒り」です。アンナは療養中にペグおばさんの家に住むことになりますが、ある日別のおばさんがアンナのことを悪く言うのをたまたまアンナが聞いてしまいます。ペグおばさんはそれを黙って聞いてくれて、その日に友達の家に行こうとしていた予定をキャンセルして家にいてくれます。そんな献身的なおばさんを見て、アンナは心の中でおばさんに怒りをぶつけます。どうして自分なんかのために予定をキャンセルしたのか。映画版ではこの部分の描写が見当たりませんでした(もしかしたらあったかもしれません)が、河合氏はこの怒りに大きな意味を見いだします。

アンナは何もペグ夫妻にまで怒ることないじゃないか、などという人はアンナの怒りの深さ、その意味を理解できない人の言うことだ。アンナは、運命に対して、ほとんどの人々に対して、世界に対して怒りをぶっつけたいほどなのに、辛抱して辛抱して「ふつうの顔」をして暮らしてきたのだ。しかし、彼女はどうやら自分の怒りを受けとめてくれそうな人たち、ペグ夫妻を見いだした。...「そんなに八つ当たりをしてはいけない」...などと言って、ここで「悪」の烙印を押してしまうと、アンナはもう「ふつうの顔」さえできない子どもになってしまったかも知れない。しかし、実際は、この怒りを契機として、アンナの感情が動きはじめる。 (河合, 1997, pp.126-127)

怒りは周りの人にとっては迷惑に感じられてしまうかもしれませんが、本人にとってはこころで感じた思いがほぼそのまま外面に表出化されたものなので、怒りによって次の行動に結びつくことも大いにあります。ドラマ「リーガルハイ」では古美門先生が村の老人たちを罵倒することで怒りを奮い立たせ、訴訟を起こす気持ちにさせたというエピソードもあります。あるいは「ドラゴン桜」でも、桜木先生が始業式で「バカとブスこそ東大に行け」と言って生徒達を怒らせ、東大進学を目指させようとします。このように怒りには、気持ちをそのまま出す作用があって、本人にはプラスの効果があるのかもしれませんね。



■ 『マーニー』にみられる承認問題

最後に、アンナの人間形成を左右した「承認」について感じたことを述べます。苫野 (2014) では「人間の欲望は自由を承認してもらうこと」とされており、山竹 (2011) も現代人が「認められたい」という気持ちを多く持っていることを考察しています。

アンナも物語前半では他者からの承認をあまり受けていませんでした。学校の先生からもコミュニケーションを途中で打ち切られてしまったり、母親との会話のシーンが映画では描かれなかったり。しかし、物語中盤のマーニーとの出会いによって、彼女は親密な承認を多く受けることになります。それによって彼女は少しずつ元気になっていきます。

すると今度は、アンナが他者を承認するシーンも見られるようになります。この頃にはアンナ自身を承認することもできていたのだと思います。(ストーリーの中核部分であまり詳しく述べられないのが残念ですが...。)


以下のトレイラー冒頭で「この世には目に見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、私は外側の人間。でもそんなのはどうでもいい。私は、私が嫌い。」ということばが出てきます。この言葉が個人的に一番好きだったのですが、これも承認の欠如(疎外)を表しているものとも取れます。アンナの「輪」の変化についても、(直接的に描かれていませんが)、1つの注目ポイントだと思います。


人間形成に承認が大きく関わるというのも(強引ですが)納得できるような気がします。




久しぶりの映画でしたが、とても面白かったです!


参考文献
河合隼雄 (1997) 『子どもと悪』東京:岩波書店
苫野一徳 (2014) 『自由はいかに可能か-社会構想のための哲学-』NHKブックス
西平直 (2014) 「ビルドゥングとビオグラフィ-あるいは、Bildungstheoretische Biographieforschung-」.L・ヴィガー ・山名淳・藤井佳代編著『人間形成と承認-教育哲学の新たな展開-』
山竹真二 (2011) 『「認められたい」の正体-承認不安の時代』講談社現代新書
山名淳・藤井佳世 (2014) 「原第において人間形成(ビルドゥング)に向き合うことは何を意味するか」.L・ヴィガー ・山名淳・藤井佳代編著『人間形成と承認-教育哲学の新たな展開-』


2014年3月1日土曜日

実在・現象・欲望を軸とした、映画『羅生門』の一解釈



いよいよ3月になります。塾でもこれまでみてきた中2・高3クラスの担当が終わり、来週から中1の新しいクラスを担当することになりました。昨日は1年間続けてきたフリースクールでのボランティアの最後のクラスを行ってきました。大学では追いコンが終わり、ゼミ同期メンバーで過ごす最後の時間であったゼミ合宿も終わり、大学の友人たちが社会に出るときが少しずつ近づいてきます。

自分ものんびりしていられないな、と頭では分かりつつも、映画を観る毎日(笑)

今回は映画『羅生門』に絡めて、TVドラマ「リーガルハイ」とか苫野先生の議論とかを交えながら、自分の感想をとりとめもなくつづりたいと思います。


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映画『羅生門』は黒澤明が監督を務めた作品で、芥川の小説『藪の中』と『羅生門』を原典としています。最近になって黒澤映画を少しずつ観ていますがとても面白く、白黒映画だからといってこれまで敬遠していたのがもったいなく感じました。


※注:本映画のエンディングシーンに関する感想も含んでおります。結末部分を知りたくない方はお読みにならないことをお勧めします。



>>あらすじはこちらを参照(Wikipedia)。


この映画の主題は、人が自分に都合の良いように物語を書き換えるという点にあると思いました。現にこの登場人物の中で、完全に客観的な視点を持っている人はいません。各々が自分の見たように(あるいは見たいように)話して、互いの描写に潜む矛盾点に悩みます。


TVドラマ「リーガルハイ」シーズン2第9話でも、古美門さんが「人は見たいように見て、信じたいように信じる」と言っていました。ある人を犯人だと思えば、その人の証言もどこか嘘があるという前提で聴くでしょうし、事件の証人もその人が犯人であるという先入観があれば見ていないことまで話し出すかもしれません。そういった意味では上の主題は人間の性質をよく描いているように思えます。

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また西洋認識論の伝統的分類で、実在と現象があります。実在とは対象が「どうであるか」で、例えば今目の前にある他者は本当に存在しているのかどうか、自分が頭の中で作り出したものにすぎないのではないか、といった議論になります。それに対して、現象は対象が「どうみえるか」で、自分がどう見ているか、どう感じているかという点を重視した議論になります。哲学科の先生が、「実在を追求するのが哲学者の仕事。現象を追究するのが芸術家の仕事」という説明をされていましたが、この説明は見事に上の違いを示しているように感じました。


以前紹介した苫野氏の議論でも、「よい教育とはどうであるか」という問いではなく、「どのような時によい教育と感じたか」という問い方を用いていました。これも前者は実在を問うたもので、後者は現象を問うたものと言えましょう。さらに苫野氏は「欲望論的アプローチ」と名づけ、自分の欲望によって現象は異なるという点も説明しています。1本の水も、「のどが渇いたから飲みたい」という欲望があれば「飲み水」に見える(現象)でしょうし、「花が枯れそうだから水をやりたい」という欲望があれば「園芸用の水」に見える(欲望)でしょう。(なんとなく、ウィトゲンシュタインのアスペクト的と似ている気もします。)


映画『羅生門』でも、事件の全貌は「どうであったか」(実在)は明らかにすることができません。ただ、事件の当事者や証人たちが事件が「どうみえたか」(現象)を語り合うことによってようやく真相なるものをつかもうとします。ただし事件の当事者たちは、各々のプライドや特別な事情により、「こうであってほしかった」(欲望)があります。欲望によって彼らの証言もどこかずれたものになっています。



本映画は実在とか真理といったものは結局雲に隠れてしまい、我々の現象を語り合うことによってのみ合意が得られるにすぎない、というメッセージなのかもしれません。



最後に、本映画のエンディングシーンについて述べます。

羅生門の下で杣売りと坊さんは赤ん坊を発見します。それを見た杣売りは「自分が引き取ろう」と言います。しかし、坊さんはそれを信じません。もしかしたらつれて帰ってどこかへ売ってしまうかもしれませんしひどい目に合わせるのかもしれません。しかし杣売りは自分のうちには子どもが数人いて1人増えても変わらないという点、自分の罪を償いたいという点を述べます。それを聞いた僧は安心して赤ん坊を杣売りに渡し、杣売りは笑顔で帰っていく。それまで強く地面を叩きつけていた雨は止み、羅生門が映って終わる...。


最初に観たときは、杣売りの改心、希望(赤ん坊)、ハッピーエンドといった印象を受けました。この映画で「雨」が担っているのは、おそらく杣売りの心のもやもやであり、それが晴れるというのは良いイメージに違いないと感じました。

しかし、二度目にこの映画を観たときは、最後に不気味にうつる羅生門が気になりました。もしかしたら杣売りは改心しておらず、帰ってから赤ん坊をひどい目に合わせるのかもしれません。

結局のところ分からないのです。
(もしかしたら黒澤氏がどこかで述べているのかもしれませんが...)

自分で調べた限りネット上の書き込みはどちらの観方もありますが、絶対的な説得力があるとは言えないと思います。


自分には、まさにこれこそがこの映画の主題を最も適切に反映している気がしました。すなわち、ラストシーンは観客が見たいように見て、信じたいように信じることが正解になるのです。結末が「どうであるか」(実在)は作り手以外には分からないのだから、私達は「どのように見たいか」(欲望)、そして「どのように見えたか」(現象)こそが唯一つかめる真実なのではないでしょうか。古美門さんの言葉を借りるなら「人は見たいように見て、信じたいように信じる」わけですから、映画の登場人物たちと同じように観客である私達も追体験できるように映画が作られているのかもしれません。


...と述べている自分も、ただ信じたいように信じて書いているだけなのかもしれませんがww


※上で述べているのはあくまでも自分の恣意的な解釈にすぎません。誤り等お気づきの方はご指摘頂ければ幸いです。

2014年1月6日月曜日

映画「ハンナ・アーレント」を観て

明けましておめでとうございます!! (^^)

昨年は拙文ばかりのブログで大変恐縮でした。相変わらず2014年も読みにくく面白くない記事ばかりになる予感ですが(汗)、また気の向いた際にお読み頂ければとても嬉しいです。


今年のお正月に「ハンナ・アーレント」という映画を観てきました。本映画はタイトルにもあるアーレントという哲学者の生涯の一部を描いています。もちろんアーレントの思想も大きく触れていますが、彼女の人間面も描いているため、彼女の思想を知らない方でも楽しめると思います。

とは言いつつも、この映画は背景知識を多少持っておくとより楽しめると思います。自分はこの映画に向けて「今こそアーレントを読み直す」を読んでおり、細かい部分も分かった気がします。

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なので本書からアーレントの思想のうち、映画に関係しそうな部分を、簡潔に紹介しておきたいと思います。「ちょっと観てみようか」とお考えの皆様も、よろしければぜひお読みください。最後に少しだけ、自分の感想も書いてあります。

※注※
本記事では、映画の内容に関わる記述があります。公式サイトや宣伝などで触れられている以上のことは述べていませんが、映画の内容を知りたくない方はお読みにならないで下さい。

全体主義 (totalitarianism) はもともとイタリアのファシズム運動で「脱個人主義」を指すポジティブな意味で用いられた言葉(p.31) でした。しかし第二次世界大戦をきっかけに、非西欧近代主義の集団主義的体制を形容するネガティブな言葉として使われるようになりました。アーレント自身は以下のような立場でこの言葉を用いています。

「全体主義」は、前近代的な野蛮の現れではなくて、むしろ西欧社会が近代化し、大衆が政治に参加する大衆民主主義社会になったことに起因する問題だと見た (p.33)

この引用箇所が、『全体主義の起源』というアーレント (1951) の著書をよく表しているように思えるのですが、もう少し詳しく説明します。

第一章で反ユダヤ主義について述べられています。全体主義は昔、ユダヤ人を差別する際に、ユダヤ人以外とユダヤ人という区別をしだしたところから始まります。ユダヤ人以外にとっては当時、ユダヤ人は<他>の存在であって、<自>とは異なるグループを見なすようになります。それによって、<自>である自分達と、<他>であるユダヤ人とカテゴリー分けを行って、彼らを蔑視したり迫害したりという歴史的事件につながります。
これについて、アーレントは以下のようにみています。

彼女はそこに、「同一性」を求める国民という集団が、自分達の身近に「異質なるもの」を見出し、「仲間」から排除することによって、求心力を高めていこうとする「自/他」の弁証法のメカニズムを見る。 (p.43)

次に第二章では、19世紀末の帝国主義でも同じように同一性の原理に基づいて国民国家を形成し、国民国家をベースにして資本主義が発達し、帝国主義政策が完成した歴史背景を概観します。

第三章では、大衆社会において受動的にただひたすらついていこうとする「大衆」について考察をします。

政治における「大衆」とは、自ら政治に積極的に参加し、自らの理想を追求するのではなく、政治家あるいは政治が約束する利益と引き換えに、それらの政党や政治家を選挙などで支持し、ただひたすらついていこうとする受け身的な存在である。(p.49)

大衆は無構造性を特徴としているため、その時々の気分に流されやすい。誰かが“もっともらしい”ことを言っていれば、「そうかもしれない」と言って無批判的に受け入れてしまうのも大衆です。そうならないためにも私達は思考することを常に続けなければなりません。

※雑談※
そういえば、私も sava 君も大好きだったドラマ、「リーガルハイ」が終わってしまいました。

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先月放映された第9話でも、「民意」が1つのキーワードになっていました。古美門先生の「民意」演説で他の人と同調する民衆の愚かさが焦点となりますが、彼の演説もアーレントの「大衆」観に近いのではないでしょうか。彼が「本当の悪魔とは巨大に膨れ上がった時の民意だよ」と言っている通り、アーレントも民衆の思考停止状態を危惧し、思考 (denken) の意義を主張していました。そう思うと、リーガル・ハイスペシャルで、中学生の1クラスが「羊の群れ」と喩えられていました。これも誰かが先導するわけでもなし、皆についていけば大丈夫だろうという中学生たち(ないし大人たち)の心理を見事についていたように思えますし、アーレントの「大衆」と近いのかもしれません。 (中学生の場合はまた別の要因もあるかもしれませんが...。)

...悪い癖で、またまた脱線してしまいましたw本書に戻ります。

他の物語の可能性を完全に拒絶すると、思考停止になり、同じタイプの物語にだけ耳を傾け、同じパターンの反応を繰り返す動物的な存在になっていく。 (p.58)

この「大衆」「無批判性」「思考停止」などに関わっているのが、『イェルサレムのアインヒマン』(1963) という作品で、本映画の中心となる話です。

アインヒマンは戦時中にユダヤ人を収容所へ移送する責任者で、戦後裁判にかけられます。当時は“悪の根源”とも世間では見なされていましたが、アーレントが彼の裁判を傍聴すると、どうもアインヒマンが大悪人であったという世間のイメージは誤っていることに気づきます。

アインヒマンは、ユダヤ人を抹殺することに使命感を感じていたわけではなく、たまたま与えられた仕事を順調にこなしていただけである。 (p.63) 
法廷に立たされたアインヒマンの内にアーレントが見たのは、決められたことに従うだけのあまりにも平凡な市民だった。...アーレントは、平凡な生活を送る市民が平凡であるがゆえに、無思想的に巨大な悪を実行することができる、という困惑させられる事態を淡々と記述した。 (p.65)

アインヒマン裁判に関するこのような記事(当時はまだ本になる前でした)を出版し、世間からのバッシングに対してどうアーレントが反応するか、というのが映画の大きな軸になります。

映画の終盤では、アーレントが学生(世間)に向かって 8 分間にも及ぶ講義を行います。そこでのスピーチは分かりやすいながら力強い言葉で語られ、大変圧巻でした。その一方で映画中の彼女は友人や夫との会話で冗談を言ったり、昔の恋人であるハイデッガーとの恋であったり、とても人間味あふれるキャラクターにもなっています。

最後に、個人的な映画の感想になりますが、とても良かったです!
会話中にさりげなく混ぜた機知に富んだ言い回しであったり、相手によって英語とドイツ語を使い分けることであったりというシーンでアーレントの知性を伝えるといった細かい描写が良かったように思えます。また、アーレントの他の著作である『人間の条件』の公的領域・私的領域が映画中でもはっきりと分けられていたり、アーレントが色々な立場の人と議論するシーンも多く、彼女の思想がとてもよく出ているのでは?とぼんやりと感じました(それ以上のことは、勉強不足でよく分かりませんが...泣)。

この映画は公開劇場が限定されているようで、ご興味のある方は、公式サイトでお近くの場所を探してみてください。


さて、映画と本のレビューが混ざってしまい大変読みにくいかと存じますが、最後に本書で最も印象的だった、とても短い1文を引用しておきます。

「私」自身も「アインヒマン」になり得る。 (p.66)

事実はともかく、アインヒマンは悪人だったからあのようなことをしたのだ、と考えることで私達は安心することができます。しかし、上の一文にもある通り、アーレントの主張では、大衆である私達も思考停止を止めれば「アインヒマン」になり得るわけです。

教師になってからも、思考停止をしてしまうと、自らが「アインヒマン」となるかもしれないと思うと、恐ろしいと感じます。とは言っても、世間知らずの甘ちゃん大学生のたわ言ですが(^^;)

というわけで、脈絡のない記事でしたが、どうぞ興味のおありの方はご覧になってください。

本年もよろしくお願いします(^^)