ページ

ラベル 英語教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 英語教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年11月30日木曜日

エッセイ・ライティングを分割して教える

 久々の投稿です。mochiです。皆様、お元気でしたでしょうか。

前回の投稿がコロナ休校期間であったことをみると、実に長い年月放置をしてしまいました。(元々活発に更新する方でもありませんでしたが・・・。)大学時代を過ごした広島県に戻り、現在は中高一貫校で教えています。少しずつ環境の違いにも慣れてきて、手探りですが新しいことにもチャレンジしてみたいと考えています。

これからも時間を見つけて、ぼちぼち更新してみます。最近文章をアウトプットする機会が極端に減ったせいか、読み苦しい文章になっていることをお許しください。

最近の授業実践や関心をまとめてみたいと思います。今回はエッセイライティングについて述べたいと思います。

ここ数年、論理表現について執筆するお仕事をいただき、これまでよりも論理的な表現について考えてきたつもりでした。しかしいざ教壇にたつと難しく、「英語表現」時代の感覚とはアップデートする必要があるなと感じました。(ここについてはおそらく日本中で起きている現象だろうと思います。)今回は、指導要領でも「複数の段落から成る文章」と言われている通り、エッセイライティングについての実践をまとめてみました。

初任校ではエッセイライティングの指導に力を入れていたこともあって、作法は知っていたつもりでしたが、久々のエッセイは面白かったです。

論理表現IIの1学期はセンテンスライティングとパラグラフライティングの導入、2学期はパラグラフをさまざまな話題で書き、<主張+理由+具体例>の形を練習してきました。今月になって初めてエッセイを書く練習をしましたが、今年は次の順序で行ってみました。

◼️単元計画

(パラグラフライティングの指導はすでに終わっているので、ボディの指導は今回は省略をして「エッセイの形式」のみに焦点を当てました。)

1時・・・イントロダクションの書き方

2時・・・コンクルージョンの書き方+ディスカッション1 (Idea Generation)+ライティング

3時・・・読み合い活動+ディスカッション2 (Post-writing)

◼️ 各時のコンセプト

(1) イントロダクションの書き方

イントロダクションの書き方については、広島大学附属の山岡大基先生の「英語ライティングの原理・原則」(テイエス企画)を参考にまとめさせていただきました。

自分が提示したのは、

イントロダクション=背景知識+(ブリッジ+)主張(Thesis Statement)

という枠組みです。イントロダクションの目的を幅広い読者を手に入れることと確認し、そのために必要な流れを書こうという趣旨です。また、ブリッジを含めているライティングの教科書は多くないかもしれませんが、高校生のエッセイを見ていると確かに「急な」イントロによく出会います。そこで、背景知識で広げた内容から、自分の主張に繋げる文を書いてもらいたいと思いこのような形をとりました。

ちなみに山岡先生の著書では、背景知識+ブリッジのみで良いとされており、主張はBodyの第1文に含まれていました。これについては、もしも生徒の書くボディが1段落で済むのであれば、イントロの最終文(Thesis Statement)とボディの第1文(Topic Sentence)がほぼ同一になってしまうために、重複を避けるという配慮なのではないかと推測しています。

自分の授業では最終的に複数段落のボディを視野に入れていたために、イントロダクションでThesis Statementを述べることを求めました。(のちに語りますが、成果は芳しくありませんでした。)

実際の授業では、プレライティングとして「テクノロジーは教育に役にたつ」という趣旨のBodyに繋げるイントロダクションを書いてもらい、各生徒が抱く素朴概念(そもそもイントロとは何か)を表出してもらいました。次に、上記のイントロの構成を伝え、練習問題で背景知識やブリッジの練習をしました。その際に一般論を書くための表現 (These days... / Recently... など)を伝えました。最後にもう一度ポストライティングを行い、イントロの書き方が1時間でどのくらい身についたかを各自に振り返らせました。

(2) コンクルージョンの書き方

コンクルージョンは(時間的制約もあって)①主張を別の言い方で繰り返す、②ボディで出していない情報は追加しない、③ボディで出した内容を長々繰り返すのをやめて抽象的に言い換える、という3点に絞りました。

①「主張を別の言い方で繰り返す」については、Tatami has been getting less popular, so we should preserve tatami for the next generation.という文を、別の言い方で書いてみようというものです。静先生が昔提案されていたEIYOW(=Express In Your Own Words)をエッセイライティングのプロセスで使わせていただきました。生徒の中には、Tatami are important for Japanese people.のような大胆な言い換えもあり、全体共有では発想の多様性は感じ取れたのではないかと思っています。またWordtuneを授業で紹介することもでき、実際に学習に取り入れてみたという生徒の声も聞けました。

②「ボディで出していない情報は追加しない」や③「抽象的な言い換え」は、下手くそなコンクルージョンの例を見せて生徒に気づかせるというやり方にしました。下手なコンクルージョンを見せて「違和感」を持ってもらうという狙いでした。多くの生徒は気づいていましたが、よくよく考えたらエッセイライティングの導入授業では、まずは正しい型を見せた方が良かったのでは・・・とも思っています。

ちなみに、R7~の共通テスト試作問題では、このような誤った構成の文章とコメントから、正しい書き換え表現を選ぶ問題が出されていました。論理表現の授業には親和性が高い問題だな〜と感じたのと同時に、出題者はパターンが限られている中で練り上げるのが大変そうだとも感じました。(また、類似問題の中には「際どい」問題もこれから出るだろうと思い、指導者のライティング観も試されるかもしれません。)


(3) エッセイライティング1「次世代に残したいもの」(エッセイコンテスト)

以上の(1)・(2)を踏まえて、文章を実際に書いてもらいました。お題は「次世代に残したいもの」。まずはディスカッションでお互いのアイデアを話し合ってもらい、自分以外の発想と触れ合ってもらいました。(ディスカッションの指導は2学期を通して継続的に行っているのでここでは省略しますが、いずれどこかの媒体で書きたいと思っています。)

授業の残り時間と自宅で書き上げてもらったエッセイを、授業冒頭で無記名で回収。4人グループにランダムで配布し、誰がかいたかわからない状態で4枚のエッセイを読んでコメントしてもらいました。その後、ディスカッションではエッセイコンテストの審査員になってもらい、Which idea do you like the best and why?というテーマで話し合ってもらいました。ディスカッションではベストアイデアを選んでもらうところまでを求め、最後に全員回収して本人に返却しました。

この活動でのポイントは、「上手なエッセイを選べ」ではなく「良いアイデアを選べ」としたことです。例えばエッセイ自体が上手であっても、似たような文章が並んでいると魅力が下がることもあります。逆に拙い表現であったとしても、アイデアで面白く映れば選べれる可能性もあったわけです。(エッセイライティングの単元としてはそぐわないかもしれませんが、英語が苦手な子もスポットライトが当たってくれれば良いなと思いこのようにしました。とは言いつつ、エッセイがきちんと書けていなければそもそも審査員には伝わらないので、最低限の表現力は必要だよなとは感じつつ。)


◼️授業者振り返り

今回は上のようにエッセイを分割して教えるというやり方をとってみましたが、いろいろと後悔が残るものとなってしまいました。

(1) イントロだけを書くという場面設定

ボディだけを見せてイントロを書くというのは、イントロの形式を教えるという点では良かったものの、そもそもボディをどのくらい丁寧に読めたか勝負という感じが否めませんでした。また、ボディの議論よりも具体的な内容を書いた生徒もおり、不自然な場面設定がうまくはまらなかった子もいたのだなと思いました。

(2) コンクルージョンを書く練習不足

コンクルージョンについては、違和感に気づかせるというやり方はそれなりに通じたと思います。しかし、「ではどのように書けば良いのか」という導きについては、模範解答をみて確認をして終わってしまいました。時間があれば、コンクルージョンを書く練習というのもしてみたかったです。

(3) ボディの指導は不要か

また、「時系列」「因果」「対比」「列挙」などのパラグラフライティングは済ませているのでボディの指導は済ませているという前提で進みましたが、書きづらかった子も多かっただろうと思います。本来は書きたい内容があってアイデアを膨らませてから構成を考えていくわけなので、本時のようなボディ先行型の取り組みはコミュニケーション時代の英語教育に馴染まないかもしれません。時間的な制約から、今回は形式・構成面に焦点化をしました。


いろいろと書きましたが、イントロやコンクルは前任校では、「まあなんとなく書けるよね」というスタンスで書かせていた反省もあったので、今回こうやって1つ1つ丁寧に扱えたのは個人的には面白かったです。また、エッセイコンテストは、「読者」を強制的に作り出す仕掛けとしては面白いなと思いました。真剣に読んでコメントを書く時間は緊張感があり、ディスカッションでも本文に言及しながら賛成・反対をする様子が見られました。

また、「次世代に残したいもの」という話題が、エッセイコンテスト(+ディスカッション)に向いており、こちらが想定しないような答えもたくさん出てきたのが面白かったです!(「外で遊ぶこと」「震災の教訓」「正しい日本語」・・・。)このあたりは教科書執筆者たちの現場を想定した話題設定が功を奏したように思いました。

次のエッセイライティングは、3学期にもう1本、今度は話題の自由度をあげ、卒業制作のような形で取り組ませてみたいなと考えています。また、あえて3学期にもう一度センテンス・ライティングの練習を行うことで、「長い文章を書いてみて、やっぱり文法の練習も必要だと感じたよね〜」という意識づけで学習に取り組んでもらえたら良いなと思っています。また、テクノロジー(機械翻訳・生成AI)の活用についても盛り込んでいこうと考えています。

最近、機械翻訳についての研究プロジェクトで書いた文章も出版されましたので、よろしければご覧ください。



2020年8月11日火曜日

小学校国語授業の書籍レビュー

休校期間中に読んだ国語教育関連の本をまとめた。1冊目は板書技術、2冊目は発問技術についてで、英語授業づくりにも役立ちそうな内容を主にまとめた。どちらもわかりやすく事例が豊富に書かれていたので、門外漢の自分でも読みやすく、自分の普段の授業を思い浮かべながら理解できた。

(本当はもう1冊『イン・ザ・ミドル』の書評も入れたかったのですが、今回は断念しました。)


 ◾︎ 沼田拓弥 (2020) 『「立体型板書」の国語授業ー10のバリエーションー』東洋館出版

板書自体を思考ツールに基づいて設計するという趣旨。初等教育ではしばしば用いられている板書技術が体系的にまとめられている。


「立体型板書」においては板書が出来上がっていく「プロセス」の中に、子供たちの思考を働かせるための工夫が散りばめられています。したがって、「立体型番書」を実際に活用するには、慣性系を知るだけでなく、完成に至る「プロセス」も知ることが非常に重要です。 (P.20)


本書ではその思考ツールを「比較・分類」「関連付け」「類推」という3つに分類しており、合計10種類の板書パターンを示している。この板書技術の良さは、板書デザインが授業デザインになり、児童につけたい思考力が明確化されるということ。例えば、児童の発言を引き出した後にそれらをカテゴリー化する活動は「類別型」の板書であり、児童の発言を多く引き出すことと、それらをグルーピングすることが授業の目当てとなる。あるいは、長文を構造別に分けて、それらがどのような内容かを読み取る活動では「構造穴埋め型」板書を用いる。


自分は英語科であるが、例えば次の単元では「もしも5ドル渡されて2週間で増やせと言われたらどうするか」という文章を扱う。生徒にも「もし500円渡されたらどのように増やすか」というスピーキング活動をしてもらうが、そこでの生徒の意見の引き出し方に「類別型」板書を使えば、本文の例と関連して生徒の意見を残すことができる。ある生徒が「宝くじを買う」という発言をすれば、<ギャンブル型>というカテゴリーになるだろうし、「YouTubeの広告で稼ぐ」という発言なら<元金不要型>のようにまとめられる。教科書での事例もこれらのカテゴリーにあてはめられるので、導入と本文理解を同時に進める展開も考えられる。


その次の単元では、Invisible Gorilla という心理学の実験に関する長文を読むので、実際にYouTubeに上がっている動画を見た後に、その長文を読み、実験長文の「目的(研究課題)」「方法」「結果」という構造に分けて「構造穴埋め」板書を使えば、本時のねらいがはっきりすると思う。またその板書を基にしたリテリング活動に展開したり、別の方法でも可能であったかを考えさせることもできるかもしれない。


また、ネイティブ教員の授業とのTeam Teachingでは事前の打ち合わせで板書計画まで交流できれば、お互いが持っていきたい方向性を確認するための手立てとなりうる。授業最中に創発的に面白い板書が出来上がることもあるが、事前のプラニングの段階で板書の原型を作っておけば、生徒たちも自身の思考を深めることができるかもしれない。



◾︎ 高橋達哉 (2020) 『「一瞬」で読みが深まる「もしも発問」の国語授業』 東洋館出版社


続いて、同シリーズの「もしも発問」に関する書籍。

P.18に「もしも発問」が以下の5つに分類されている。


①「ある」ものを「ない」と仮定する方法

②「ない」ものを「ある」と仮定する方法

③別のものを仮定する方法

④入れ替えを仮定する方法

⑤解釈を仮定する方法


筆者は「教師の教えたいことを子どもの学びたい (p.11)」に変えるためにこの発問が有効だとしており、事例を見ても小学校の教科書をもう一度自分も読み直したいと思わされるものばかりだった。


これらの発問は、本文中の表現から出発して児童の思考を促すという点が良い。例えば、文体論的な視点で考えるための手立てとして、「本文中のAという表現がもしBと書かれていたらどうだったろうか」とか「本文中の~~という表現がもしなかったら、どのような影響があったか」という発問は自分もしたことがあった(主に文学作品や歌の解釈など)。しかし自分の発問はかなり言語形式への焦点化のために用いられることが多かった。


本書では解釈にも「もしも発問」が用いられるという点が新しかった。また文学的な文章でなくても、説明文でも効果的な説得技法を学ぶのに用いられるというのが発見であった。


これを敷衍すれば、例えばエッセイライティングのモデル活動も「もしも発問」をすることで、パラグラフの構造にも目が行くのではないか・・・と思い、早速例を作った。


One of the environmental problems is the rising air temperature on the earth.  This may be due to the spread of the use of air conditioners.  In daily life you tend to turn them on as soon as you feel hot even a bit, which leads to the release of greenhouse gas into the air.  In order to avoid this situation, you should turn off air conditioners when it is not that hot. (73 words)


・もしこの文章の第1文がThe use of air conditioners causes the rising air temperature on the earth. で始まっていたら読む人はどう思うだろうか。【抽象具体構造】

・第1文がThe air temperature on the earth is rising and this is one of the environmental problems.  となっていたら、どのように印象が変わるか。【情報構造】

・第2文のyouIだったらどのように読み手は感じると思いますか。【客観性】

・もしも第1文と最終文が逆で、You should turn off air conditioners で始まっていたら、文章はその後どのように変わっていたでしょうか。【主張理由構造】


初学者がどう感じるかはわからないが、3年生の自由英作文対策であればそれなりに教えたいポイントに焦点化させることはできそうな気がする。ただ、この問い方が「教えたいを学びたい」に変えるほどの力があるかは、やはり弱いと思う・・・。やはり、自分の発問は即席感が否めない(笑)。


本書の様々な具体事例は面白かったものの、一番興味を引いたのは筆者のあとがき (p.188) であり、どの指導技術にもデメリットがあることを自覚できるエピソードである。本書をご購入された方は是非あとがきまでお読みください。



2020年2月22日土曜日

プレゼンテーション指導の振り返り


勤務校では英語プレゼンテーション活動が行われており、4年間指導に携わってきた。プレゼンテーション活動自体の吟味もしながら、いかに教員の介入を行うか(行わないか)を試行錯誤している段階である。

大学時代に自分自身が英語プレゼンテーションを好んでやっていたこともあり、できれば高校生にも似たような気持ちを持って欲しいと思いつつ、英語力やモチベーションが一律ではない生徒たちに一定水準まで到達させることの難しさを実感している。

ただ、やる気のある発表を見せつけられてこちらも唸らされることもあり、またドラマチックな場面に出くわすことも多く、スピーキング指導の中では個人的に思い入れのある領域である。

ここでは、この4年間自分が行った内容を反省的に振り返り、他にどのような方法が可能であったかを考察したい。

なお、これまで行ってきたプレゼンテーション活動は、(1)個人別で関心のある内容を自由に紹介する、(2)グループで別教科の探究活動内容を英語で説明する、(3) グループで国際交流会用の学校紹介を練習するという3種類である。どれにもに当てはまるものもあれば片方にしか適用できないものも存在する。

【準備】
◾︎ 目的から逆算しながら内容を考える
プレゼン活動は楽しい。そのため、発表者が言いたい内容をついつい言いがちである。それが観客にも伝わって良い空気になれば良いが、たまに内輪ネタ (in-house jokes) で終わってしまうこともある。

プレゼン単元の冒頭ではその目的設定、聞き手イメージの共有、時間を確認しなければならない。そのプレゼンテーションが何のために行われ、誰が聞き、何分以内で終えないといけないのか。発話量を増やすトレーニング(Word Counter等)では初期段階ではその内容の論理的つながりや聞きやすさは無視される場合もあるが、プレゼンテーションは聞き手ありきの活動である。聞き手にとって要らない情報は出すべきではないし、聞き手が面白いと思わなければ失敗である。その聞き手が(現実にせよ空想にせよ)日本人なのか海外の人なのか、同校生か他校生なのかは内容を精査する上で重要な要因である。

1年生に対して、良いプレゼンテーションの定義を考えるディスカッションを実施した際、 Giving New and Interesting Ideas. というテーマができた。聞き手に対して新しい情報を含んでおり、興味を引くような方法で紹介されたなら、聞いてよかったと思われるだろう。

高校生の準備風景を見ていると、先にスライドから作成し、その後に原稿を作成する生徒が多い。(おそらく原稿作成という面倒な課題を後回しにしているのかもしれないが、)この準備方法の欠点は、しばしば「てんこ盛り」のプレゼンテーションになりがちだということである。スライド作りは楽しいために色々な仕掛けや情報を乗せるが、いざ言語化しようとした時に説明不足になったり、不要な情報がスライドに載ったままであることが多い。

正式な順番というものがあるのかどうかはわからないが、次の機会では原稿作成スライド作成(原稿修正)という順番も試してみたい。期待される効果は、スライドが説明を補助するという本来の役割 (Visuai Aids) になること、英語原稿を作る際に言語化しようとする姿勢が向上することである。前者は先ほどのべたスライド「てんこ盛り」を避けるということだが、後者は原稿だけで相手に伝わる原稿を書こうとするために、結果的にスライドに頼るのではなく自分の言葉で説明しようとする(=原稿量が増える?)という希望的観測である。


◾︎ 原稿添削
避けては通れない山である。原稿の時点で伝わらないものはもちろん伝わらないし、特にプレゼン経験の少ない時期やアカデミックな内容のプレゼンは、原稿を書きながら話している自分を想像させるという過程が必要だと思う。

附属の研究授業に参加した時、授業者の先生が「スピーキング指導で働き方改革をするのは、なかなか難しいものですね」と仰っていたが、今ならその意味も痛いほどわかる。

ここ数年では、英語として合っているかどうかではなく、耳で聞いた時に理解できるかという視点を持つようになった。例えば本人としては納得している関係代名詞などの複雑な構文も、本番の緊張状態やノイズなどで期待した通り伝わらないことも予想される。原稿の時点でこちらがそれに気づけば直すようにアドバイスする。

ただし、やはり働き方改革に着手するという意味でも、原稿のピアレビューで耳で聞いて理解できるかというのは大事な過程だと思う。例えば、原稿を書いてきた時、いきなり教員の手で添削に入るのではなく、隣の人に読んで、相手が理解できるかを試してみるというのも効果的だと思う。そこで相手が理解できなかった文に線を引いて、どのように改善可能かを考えさせ、授業者はその部分のみ目を通して必要に応じてアドバイスをするというのが良いと思う。

この方法は一度行ってはみたが、1年生の段階では「なんとなく」伝わったから自己改善が起きないという様子も見られた。もう少し負荷をかけるなら、聞いた方のペアは聞いた内容を英語(日本語)で再生できるかなどの事後課題を与えても良いかもしれない。もしかしたら、プレゼン原稿よりもさらに簡素化された理解しやすい英文が再生されるかもしれない。(これも希望的観測で、そもそも再生課題自体上手くいかないかもしれない。)


◾︎ リハーサル
リハーサルは基本的に実施するが、(1)生徒同士でリハーサルを実施し、アドバイスを相互に行うか、(2)教員1名に対してリハーサルを行い、アドバイスを受ける。(1)の方が時間短縮できる一方、リハーサル後の改善活動がそこまで上がらないで、結果的に本番で上手くいかないこともある。(2)は効果は高いが、やはり時間が大幅にかかる。(1)は40名クラス、(2)は20名展開クラスという風に使い分けているが、本来であればどちらも行いたい。

リハーサルで大事なことは「思ったほど伝わらない経験」をすることだと思う。原稿も書き終え、スライドも作成したから大丈夫だろうという「書き手本位の錯誤」が起きることがしばしばある。しかし、いざ聞き手を前に話しても、相手は期待したほど反応してくれない。そこで、40名を相手にこの経験をするのではなく、リハーサル段階でプチ挫折を味わうというのが趣旨。

(1)のピアレビューを行うなら、単元冒頭で「アドバイス力」を鍛える練習を入れたい。例えば教員自身が下手な示範を行い、生徒たちにどのようにアドバイスが可能かを意見交換させるという活動も効果的である。(昔はTEDなどの優れたプレゼンを見せていたが、当然プロのプレゼンのため、なかなか批判的に見るのは難しかった。下手な示範と上手な示範の両方を見せるのがおそらく良いのだろう。


【当日の発表】
◾︎ 発表者を評価しない
数年前に田尻吾郎先生の講演会に参加した時、スピーチやプレゼンテーションは発表者ではなく聞き手を評価すべきだというお話があった。そもそも40名の前で散々準備をしてきて、緊張した中話そうとしているのに、生徒や教員が評価シートを使って減点理由を探しながら聞いていると(少なくとも発表者自身が)感じてしまったら、きっと発表の精度が下がってしまう。

逆に、発表当日の冒頭で「今日の授業は発表者の評価はほぼ行わない。前に出て5分間頑張って英語で話している時点で十分すごい。準備も頑張った。」のような声かけを行った時の方が温かい雰囲気で始められたと思う。(もちろんさらに上を目指すなら、発表者の評価も必要だが、形成的評価という意味ではリハーサルの時点で一度評価を行うこともできる。)

代わりに聞き手を評価するための方法として、(1) 質疑応答活動、(2) リスニング小テストを本年度実践した。

◾︎ 質疑応答
昨年度も一部のクラスで行なったが、聞いた内容について聞き手が質問をできるか、それに対して発表者は解答を行えるか(その場で考えて答える質問も含まれる)を行う。

年によっては強制的に各グループに質問を出すよう指示したこともあったが、やはり不自然な質問やネタ質問で終わることもあり、質問者自身の聞きたいという気持ちを無視した指導になっていた。

本年度は「聞きたいことがあれば手をあげてください」という指示を出し、発表者には想定される質問を考えるように事前に伝えた。

結果からいうと、当日の指導者の我慢が鍵である。

Thank you for the wonderful presentation.  So from now on, lets open the floor.  If youve got any questions, raise your hand. と指導者が言っても、なかなか質問は出てこない(学会発表やゼミの発表を思い出しても、そりゃそーだろという感じはする)。

少し待って(3分)、1つ質問が出れば良しである。現実的にそれ以上待とうとすると前半発表が終わらないために結局それで終わってしまう。したがって、1年間質問する姿勢を育てないと不発に終わることがよくわかる。

しかし、指導者の我慢次第ではなかなか面白い雰囲気になることがある、質問者が「聞きたいことはあるのに英語が思いつかない」状態になっていることもあるので、「質問したいことがないかペアで話し合ってみよう」と声をかけて、それもしばらく待つと、ふつふつと面白い意見や質問が生まれることもある。それを膨らませたり、発表者が答えられなければ全員で共有してディスカッション活動につながり、それだけで50分の授業を行うことも一度あった。

現実的制約でプレゼンテーションの発表活動は1班あたり5分の発表と5分の質疑応答という設定がこれまで多かったが、この質疑応答はいかに指導者が我慢し(質問が出ない状態を待てるか)、生じた質問と発表者の解答から生まれる次の議論に結びつけるかで面白くなると感じた。(教員の自己満足になっていなければ良いのだが。)


◾︎ リスニング小テスト
もう一つ本年度実験的に行なったのが「ぶっつけ小テスト」である。

このクラスの発表は事前に一度聞いており、原稿も添削していたので、ほとんど自分も内容や本人たちのメッセージを理解していた。また発表用スライドのデータも手元にあったというのが大前提である。

発表当日の午前が空きコマだったので、発表内容に関するクイズを作成し、事前予告なしで「このプレゼンでは発表者ではなく、聞き手がどれだけ理解できるかを評価する」とした。そして「発表者は聞いているみんながクイズで満点を取れるようにゆっくり伝わるように発表してほしい」と伝えた。各班の発表が終わったらその内容に関する小テストを配り、グループで相談しながら埋めていき、模範解答は発表者自身が答えるという形をとった。

能動的に聞こうとする姿勢(メモをとる、内容がわからないスライドを指差しながら隣の子と相談する姿など)が見え、それなりに盛り上がった。テストは「絶対に答えられる」問題と「きちんと聞いていないと答えられない」問題を混ぜるのがコツである。

この小テストを発表者自身が作るというのも勿論想定できる(し、来年度はそのようにやってみても良いと思っている)。
しかし、このリスニング小テストは発表者以外の第三者が作るからこそ面白いのかもしれない。もしクイズで出題される箇所を発表者自身が事前に知っていれば、そこを強調するかもしれない。しかし、その強調があざとければ聞き手も「なんだ、この部分だけ聞けば良いのか」と本来のプレゼンテーション活動の目的にそぐわない聞き方を誘発してしまうかもしれない。

発表している本人も何が出題されるかわからないという緊張感が個人的には好きだった。ただし、授業者自身が発表内容を熟知していなければならないので、これも働き方逆改革である。苦肉の策は、先ほど紹介した生徒同士のリハーサルでアドバイスをした側に、その相手班の小テスト問題を作ってもらうというものである。これがうまくいけば、同じような緊張感を保てると思う。



【まとめ】
以上、この4年間自分が試してきたプレゼン指導方法を、反省や「こうもできただろう」という視点で書いてきた。総合的に見れば、現時点では指導者の介入がかなり大きいと思うので、いかに生徒たちにこの関与を譲渡できるかが来年度以降の課題だと思う。

他にも、論理的プレゼンテーションの授業でトポス概念を紹介したり、良いプレゼンテーションをみてその特徴を分析するという実践も行ったが、それについてはまた別の機会にまとめたい。



2019年12月29日日曜日

鳥飼玖美子・刈谷夏子・苅谷剛彦 (2019) 『ことばの教育を問い直すー国語・英語の現在と未来』ちくま新書


2019年は言語教育史においてのちに激動の1年と語られるはずである。思えば自分が院生の頃から謳われていた「大学入試改革」「外部検定試験の活用」が実現化しかけていた折に、諸メディアで英語教育が話題として大きく取り上げられ、インターネット上で高校生や現場教員が意見を発信し、文部科学省前でのデモ活動に繋がり、最終的に11月1日に「延期」という結論に至った。これほどまでに言語教育が世間の身近な話題になったこともなかなかないだろう。高校現場では文部科学大臣からの「メッセージ」がA41枚で全生徒に配布され、生徒たちの様々な反応を突きつけられ、英語教師は何を思ったのだろうか。

また門外漢ではあるが、国語・数学の記述試験導入への準備も進められていた中で、つい先日(1217日)文部科学省から見送り表明の一報があったのも記憶に新しい。「採点ミスの完全な解消」「自己採点と実際の祭典の不一致の改善」「質の高い採点態勢の明示」が課題となり、無期限での導入見送りが発表された。これを受けて、国語教育関係者は今後何を目指し、どのような力をつけようとするのだろうか。

英語教育・国語教育を「言語教育」という括りで捉えれば、一連の騒動は「言語を教える」という営みについて再考する良い機会となる。言語教師は、何を、どのように、何のために教えているのか。そして現状の言語教育に改善の余地はないのか。現状を反省して相対化するには、理論が必要である。このような状況にいる現場の言語教師に、ぜひ本書『ことばの教育を問い直す』を薦めたい。言わずと知れた英語教育の大家である鳥飼玖美子氏、及び近年話題の新書を出されていた刈谷夏子・剛彦氏が対話形式で各々の視点から問いを出し合い、答えを出しあうという構成をとっている。

以下、自分が読んで印象的だった「①省エネモードの言語使用」「②大村はま実践」「③国語・英語連携の探究活動の可能性」を中心に紹介したい。①はいわば現状の認識であり、②・③はその解決策としての提案である。本書の忠実な要約ではなく、自身の言語教育観を相対化するための試みであるため、かなり大幅な言い換えや省略が含まれていることをあらかじめ断っておく。


◻️ 省エネモードの言語使用(第1章:刈谷夏子氏)

AI vs 教科書が読めない子ども達』を引くまでもなく、現代の国語力は危機的に陥っている。刈谷氏は「省エネモード」として以下の特徴を挙げている。

・パッと思い浮かんだ常識的な、通りの良さそうな言葉で間に合わせる。いつもそれを繰り返しているので、ほとんど自動的、反射的にことばを使っている状態。
・自分の内心の深いところ、考えの微妙な部分とはあまり関わりなく、するっと滑らかに送り出せばいいという姿勢。
・ことばの選択に多少の違和感があっても気にせず、とりあえず、なんとなく、使えれば十分。というよりは、ことばに違和感を持つこともあまりない。
・汎用性の広い便利な言葉を繰り返し使っている。「すごい」「やばい」「無理」等。
・仲間内で簡単に共感できる短い表現をもっぱら愛用する(仲間と思っていない人とはあまりかかわらない)・
・本離れが加速し、長い文章を読む機会が減っている。
・周囲と摩擦を起こさず、期待にうまく沿ってことばを使っていこうとする。(p.23


この省エネモードの問題は、このようにことばを主体的に使わない人たちに対していくら教員が頑張って教えても、結局彼らは自身への関連性を見いだすことができずに身につきにくいという点(p.26)である。例えばバドミントンを楽しいと思っていない人に対して体幹トレーニングを強要しても身につかないのと同様、多くの教育関係者が同意するであろう根本の教育原理だ。だとすれば、レディネスを高めるためにも、教師が生徒に対してできることは、省エネモードから脱する言語使用を経験させ、ことばを主体的に使う必要性を実感させることであろう。

省エネモードの言語使用は一言で言えば、「ことばへのこだわり」がない状態である。刈谷氏はこの状態の母語を比喩的に「普段着のことば」(p.26)と言い表している。誰からも教えられなくても、自分の身体から湧き上がってくることばで、使っている本人は特に意識する必要がない。ちょっとコンビニに行くのに着ていくレベルの服であればそれで良い。国語教育は必ずしもそのような子供たちに「ヨソイキの服」を着させることを意図する必要はなく、「どこへ出ても恥ずかしくない普段着を持つ」べきと喩えられている(p.28)。

この比喩自体が素敵な言い回しなので自分なりに補足したい。 なぜ「ヨソイキ」の服を着させる必要がないかというのは、あくまでもことばが発話者の心身情況に応じて創発的に生じるものだからであろう。ヨソイキの服は式典や礼式の日だけ着て、必要がなくなればすぐに脱いでしまうこともできるものである。式典が終わってすぐにネクタイを外したり、ボタンを一つ外すことも容易に想像できる。そのようなヨソイキのことばを咄嗟の場面で使うことはなく、単元が終われば忘れ去られてしまうのだろう。そうではなく、最低限身なりを整えた、それでも気張る必要のない服装で十分である。

まとめれば、普段省エネモードで生活している子供たちに、多少なりとも言葉へのこだわりの面白さを実感させ、様々なジャンルの言語使用を「ある程度」主体的にできるようにさせることが現実的な国語教育の目的と言うことができる。

ちなみに、英語授業で行われるスピーチの定型表現やインタビューの発話は「ヨソイキ」ではないと言い切れるのだろうか?英語授業で「1対1」的な訳語を教え、その訳語通りで答えなければ減点する教師も省エネモードの言語教育をしてしまっているのではないか?(この点については後述。)


◻️ 大村はま実践の哲学


ことばを、いつも自分にしっかり引き寄せて、自分の脳や心、思考や精神、感情とぴしっと対峙させて、「この言葉でいいか」と必ずちょっと考えてから使う。違和感があったら見逃さず、自分を覗きこむようにして探り、選び取り、なめらかさを望むよりは、引っかかりや摩擦をバネにして、自分の体重を乗せるように、体温を移すように、誠実に丁寧に使っていく。そうであってこその「ことば」なのだ……。(p.30

大村はま実践については大学院の初等国語の授業で「実の場」「単元学習」などの用語は聞いたことがある程度だったが、この引用を読むだけでも、大村はまがどれだけ素晴らしい教育者なのかが伝わってくる。鳥飼氏も述べている通り、ぜひ大村はまの実践を「言語教育」という文脈で再解釈し、英語教育者も勉強できるような環境があればと思う。

残念ながら大村はまの実践の具体については本書はそこまでカバーしていない。あとがきでも書かれている通り、筆者たちが大村実践を理論化することは目指しておらず、あくまでも刈谷氏の体験談に対して、両者が意味づけを行う程度にとどめている(これが本書の好感度を高める点でありつつ、同時に物足りなさを感じさせるかもしれない。より詳細を知りたい方は『新編 教えるということ」などが参考になると思われる。)来年時間ができたら早速手に取りたいと思っている。

第3章では刈谷夏子氏が大村実践の要素を3つ紹介している。「いきいきとしたことば・生徒・教師」(pp.71-76)だ。教科書に書かれている「ヨソイキ」のことばをいかにいきいきとした表現に見せるか。生徒の目を輝かせ、教師自身もそれを楽しめるかどうか。当たり前のことを言っているかもしれないが、外部検定試験導入の際にこれらの論点は出ていただろうか。「実現可能性」「教育格差」ばかりが論じられていたが、いきいきとことばを使う姿が果たして想定されていたのだろうか。当時の言語教師はいきいきと仕事に取り組んでいたのだろうか。

◻️ 国語・英語連携の探究活動の可能性

刈谷剛彦氏が探究活動に関する新書を出していた(『教え学ぶ技術』)が、本章では探究活動に生かせそうなアイデアも提案されている。たとえば大村はまの「花火の表現比べ」だ。

大村が中学生に授けた基礎ともいうべき知恵は、並べ、比べる、ということでした。自分の経験や知っていることの中から、近いもの、どこかに共通点のあるもの、ふと思い出したもの、正反対のもの、全く関係のなさそうなもの……とにかく、並べてみて、比べてみる。すると考えるという行為にグッと具体性が生まれます。(中略)大村は74歳で教室をさる半年前の夏、隅田川花火大会を報じる四紙の新聞記事7つに出会い、それが一年生の「花火の表現比べ」という単元になりました。天候、花火の上がった夜空の光景、音、観衆のようす、橋の上の混雑、川面、など観点別に表現を比べた学習でした。並べれば、そこには必ず何かしら気づくこと、見えてくること、考えたいことが生まれる。それは生徒たちを 主体的な読み手にする契機となりました。(p.151

この活動の面白さは、ただの新聞記事の読解という活動が、比較対象を設けることによって文体論的な視座を含んだ学習活動になるということだ。「筆者はなぜAという表現を(Bという表現を使うこともできたはずなのに)使ったのか」とか、「どうしてこの筆者は他の全員が述べているこの点を述べていないのか」という問いにつながり、その中に生徒が「探究したい問い」を見出す可能性もある。

本書ではさらに翻訳比較の活動(「心」の訳、『星の王子様』のtameの訳語など)が紹介されており、翻訳活動や翻訳鑑賞自体が探究的な学びの一例になることが示唆されている。

しかし、鳥飼氏は英語教育における翻訳は容易ではないと述べています。同時通訳に従事された鳥飼氏ならではの、鋭い翻訳考に基づいた意見です。(本書を通じて最も印象に残った箇所でもあります。)

翻訳を英語教育に導入することは、実のところ容易ではありません。翻訳論の視点から明確に言えることは、言語が異なれば「等価」にはなり得ないのが当然です。言語は必ず文化を内包していますから、一見、容易に翻訳できそうでも意味内容が違ったりします。(中略)
そのように考えると、外国語教育の授業で「翻訳」に挑戦し、「どう訳すのか」の翻訳論に終始してしまうと、外国語そのものを学習する時間が割かれてしまいます。それで、世界の多くの学習者が文法訳読法では外国語が使えるようにならないと批判したのです。日本でも同じです。 (pp.176-177

一方で「英語の授業は原則英語で」の方針にも問題はあります。

学習指導要領改定以来、英語教員研修で「英語でどう授業をするか」が中心課題になっている感があります。留学経験者で英語に自信があり研究授業の立役者となる教員がいる一方で、なぜ英語で授業なのだ?と反発する教員もいれば、諦めの境地の教員もいます。何れにしても「英語で授業をする」ことが目的化しており、何が最も生徒のために良い授業なのかが置き去りにされないかという懸念があります。
「英語で英語を教える授業」が、授業を理解できない生徒を増やし英語嫌いが多くなる、教師の英語力と生徒のリスニング力に合わせ授業内容が浅薄になる、などの弊害が明らかになってくると、今度は「訳読」への回帰が強調されるでしょう。ただ、「訳す」授業についても慎重な議論が必要だと思います。(p.178

今回の民間試験の導入が見送りになったことから、現場ではおそらく「訳読回帰」のような現象が一部で見られるかもしれない。例えば、入試があるからなんとか4技能を育成しようとしていた教員が、その必要は(しばらくの間)なくなったと判断し、授業改善以前の文法訳読に終始する授業を展開しても不思議ではありません。今の時期だからこそ、普段の指導における「訳」使用については慎重な姿勢が求められるのだと思います。また、英語教師が「訳」に対してどのような信念を抱いているのかを明らかにする必要もあります。彼らが「訳」を指導(評価)するという営みにおいても、その行為に影響を与える「規範」が存在します。もしその「規範」が従来的な「1対1」の静的等価規範(あるいは「省エネ的な規範」)であれば、いくら訳活動を取り入れたところで上のような面白い実践に繋がることはありません。「1対多」の訳出を可能にするような動的等価の規範が広まることが重要だと思います。

昨日、某予備校主催の入試研究会に行ったところ、近年の難関大入試は「多義語の解釈」を問う良問が増えたという分析であった。単語テストで「1対1」の訳出に慣れきった生徒には負担で、良質な言語活動や解釈を経験してきた受験生が得をするようにできているというのは良い傾向だと感じた。

◻️ 感想および普段の実践の反省

ぜひ多くの言語教育関係者に本書を手に取ってもらいたい。少なくとも英語教師にとっては随所に「まさにその通り!」と言いたくなる記述が散りばめられている。さらに、読んでいて耳が痛くなるほど、冷静な言葉で自分の実践の至らなさも指摘されるように思えた。しかし、本書で使われていることばはどれも現場の教員を応援するような温かさにあふれている。読み終わった後に「どうしよう」ではなく「やってみよう」と思えるような本だ。また、この本をきっかけに、国語教育と英語教育の連携が進めば面白いと思う。学習指導要領の改訂で国語科の科目名が大きく(英語科の比ではなく)変わり、各校の国語教育のあり方が問われていると思う(cf .文学国語を扱うか否かなど)。

上では言及しなかったが、「演繹と帰納の往還」(第5章)などのエピソードも大変面白く読んだ。本書自体が具体と抽象を行ったり来たりという構造になっていることも面白い。また、アメリカではadversity score(逆境スコア)がつけられ合否判定に使われる(p.213)というのは驚いた。エンパワーメントの教育としては大変画期的である一方、そのスコアの付け方の恣意性は問題にならないかと疑問もあった。

あえて本書を批判的に捉えるなら、大村実践を中心に据えた割には、その実践についての語りに紙面を割いて欲しいと感じた。少なくとも、帰納と演繹や、英語スピーキング(定型表現からの脱却)にまつわるエピソードもあればぜひ知りたいと思った。大村はま氏の実践に関する書籍が新書レベルではなかなか見つからなかったたため、もう少しエピソードの数が多いと読者の演繹・帰納の往還も活性化されたのではないか。

働き方改革が進む中、「省エネ」自体悪くないかもしれない。しかし、言語教育の授業の諸要素(教材、指導、ことばかけ、評価)に「省エネモード」が見え隠れするならば、私たち教員も彼らと一緒に「普段着」でぬくぬくしているだけなのかもしれない。英語表現にkick them out of the comfort zoneという言い方があるが、省エネ言語使用というぬくぬくした状態から一度蹴り出して、ことばにこだわりを持たせる必要がある。というよりも、もしかしたら元々子供たちはことばに興味があるにも関わらず、省エネ言語教育により、徐々に言語を省エネモードで使うようになるのかもしれない。年間指導全てに取り入れることができないとしても、部分的に教師がことばにこだわりを持ち、いきいきとしたことばを体感する場面を設定する必要があると感じた。これに関する具体的アイデアは後日記事を書きたい。




2016年3月9日水曜日

「リテリング」分類の提案

こんにちは、mochiです。
最近更新をしておらず、久々の投稿となってしまいました。
(サバ君、ニンソラ君、記事を書くように!w)

さて、論文も出し終わり、そして附属学校の授業見学やゼミ合宿、名古屋地区の修論発表会などを終えて、最後のモラトリアム期間を絶賛満喫しております(笑)。

そして4月から始まる新生活に、期待と不安を抱きながら過ごしております...。

さて、この一年ほど、学部や院の友人と一緒に「模擬授業会」という自主勉強会を続けてきました。この勉強会は、模擬授業の練習をしながら「授業がうまくなろう」というのが建前ですが、「大学で習った理論って、そのままは使えないよね~」という(ある意味当然の)前提を確認するという裏メッセージもあります。

最初は少人数(3~4名)で行っていましたが、徐々に増えて、今では学部一年生から院生まで、10名前後で行えることが多くなってきました。

この勉強会をやって一つ良かったのは、異なる学年の大学生が、そして学部生と院生が、学びあうことができたことでしょう。大学院に入って、「学部はまだ授業法を習ってないから」と(若干)遠慮をしていましたが、TAをしながら、自分が「教える」ばかりだけでなく、彼らから「学べる」こともたくさんありました。

今回は、そんな模擬授業会を通じて感じたことを文章にしてみました。最近流行りの「リテリング」に関する雑感です。現段階では粗い概念整理ですので、今後実践を踏まえてもう少し精緻化できたらなと思っています。


■ 「リテリング、サイコー!」

英語教育において「リテリング」が一つの注目の的である。学部の模擬授業や教育実習では、多くの学生がリテリングを最終活動に設定した単元を計画する。

そもそも「リテリング」とは何か。卯城 (2013) では「ストーリーを読んだあとに原稿を⾒ない状態でそのストーリーを知らない⼈に語る活動」と定義されている。読む活動と話す活動の統合型であり、英語授業で多くの教師が取り入れる「音読」の次のステップとして位置づけやすいことからも、リテリング活動は今後注目されるだろう。

しかし、「リテリング」が概念的に十分検討されているとは言い難く、その活動も幅広いバリエーションがある。実際、学部生とディスカッションをしていても、「リテリング」という言葉でイメージしている者が人によって異なるということが何度もあった。(そりゃそうだ!)

そこで、リテリングを礼賛する「リテリング、サイコー!」状態から、もう少し批判的に吟味する「リテリング『再考』」へと橋渡ししてみたい。(これが言いたいだけという感じが否めないw)

分類の観点として、近江 (1988) の「同化-異化」を用いる。


頭と心と体を使う英語の学び方
頭と心と体を使う英語の学び方近江 誠

研究社出版 1988-08
売り上げランキング : 519046


Amazonで詳しく見る
by G-Tools


■「同化」と「異化」

近江 (1988) は「読む」ことを「同化」と「異化」に分類している。これらの分類は翻訳や演劇の世界でも用いられるが、本稿ではリテリングの分類に援用する。本節では両者の違いを説明する。

「同化」とは、読者が筆者の思考・感情の状態で読んだり、想像の世界に自己を投入して登場人物になったつもりで読んだりすることである。たとえば、シンデレラという作品を読む際にも、読者がシンデレラになったつもりで読んだり、シンデレラの作者がどんな思いで作品化したのか思いを寄せたりすることが考えられる。

「異化」は、言語表現を、内容・書き手・書き手の意図との関係から評価しつつ読むことである。たとえば、『シンデレラ』の世界からある程度距離をとって、この作品を批評することが挙げられる。この「批評」という言葉はあまりよく理解されていないように思える。要するに、文章の機能を果たすためにその文章の表現が適しているかを判断することである。批評をするには、読み手が作品の世界に没入しすぎたり書き手に共感しすぎたりしてはならない。適度な距離をとりつつ、作者の意図(目的)を果たすためにその文章に改善点がないかを判断する。

この分類は、作品との距離の取り方や読み手の主体性、批評の有無(コメントの有無)といった観点に基づいている。これを用いて、リテリングを言語活動の一形態と見なし、「まとめ記事用リテリング」「レポーターリテリング」「霊媒師リテリング」に分類する。

■リテリングの3分類

(1) まとめ記事用リテリング(速読・異化型)
第一に、まとめ記事用のリテリングである。たとえば、あるネット記事をスキミング(概要把握のための速読)して大まかな内容さえ理解すれば、まとめ記事を作成することができる。
ここでは、「異化」的に、且つ「浅く」読めば十分リテリングをすることができる。また、要点のみを抑えているため、読み手の主観的コメントを加えることもできるが、必ずしも筆者の真意を踏まえていない場合もある。

(2) レポーターリテリング(精読・異化型)
レポーターは、まとめ記事を作るネットユーザー以上に取材を丁寧に行い、「仲介者」として原文にある内容を客観的に伝えようと心がけるだろう。ただし、「仲介者」である以上、原文世界とはある程度距離をとる。レポーターにも主観的コメントを求められる場合がある。(1) と異なるのは、原文を丁寧に読んでいるために、筆者の真意を踏まえたコメントがしやすいという点である。

(3) 霊媒師リテリング(深い同化型)
最後に、霊媒師リテリングを挙げる。先ほどの分類で言う「同化」であり、読み手が筆者に共感的に(帰化するように)文章を丁寧に読む。ここまでは(2)と似ているが、それを他者に伝達する際に、読み手が書き手(登場人物)になったかのように話す。たとえば人称は “I” を用いられるであろうし、声の出し方やトーンも(1)・(2)とは異なるだろう。また、霊媒師は筆者が憑依したかのようにリテリングするため、読み手の個人的コメントが求められにくい。


■ それぞれの特徴
以上、「同化―異化」という観点から、上のように分類を行った。

(1) まとめ記事用リテリング
・速読⇒(音読)⇒リテリングという活動単位で、比較的短い時間で可能
・テクストは速読用教材同様、学習者が辞書を用いずに読める語彙レベルが理想。
・「じゃれマガ」のような短く平易な英文を用いれば、帯活動でリテリング活動を始めることができる。

(2) レポーターリテリング
・精読⇒音読⇒リテリングという活動。
・どの単元でも用いやすい定番活動のため、モジュール型単元に適している。
(cf. 齋藤 榮二氏『生徒の間違いを減らす英語指導法―インテイク・リーディングのすすめ』)
・読み手の意見を述べる必要があるため、「読んだ内容に基づいた自分の意見を述べる」力を育成することができる。

(3) 霊媒師リテリング
・精読⇒音読⇒リテリングという活動。
・著者のキャラクターが読み取りやすい教材(エッセイ・物語文)の場合は適している。
・原文著者と同化させることに成功した場合、「本文の続きを考えて話しなさい」のような高度な言語活動につなげることも可能。


■ 所感
以上が、リテリングの分類およびそれぞれの特徴である。単に「リテリング」と言っても、これほど多くの言語使用を指示しうることに留意したい。

また、(1)や(2)のようなリテリングはよく研究授業や公開授業で見ることがあるが、(3)のようなリテリングはそもそも実践されているのだろうか。(というより、精読の授業がどのように現場で展開されているのだろうか。)

現場に立ったら「リテリング」を目標に学年計画を立てようとは思うが、個人的には2学期後半から3学期にリテリングができてれいば十分だと思うし、そのためにも音読やインテイクリーディングを丁寧に行い、目的に応じて(1)~(3)を使い分けながら活動デザインをしたい。

2016年1月18日月曜日

内田樹の「翻訳」観:身心文化学習論で得た学び

こんにちは。mochiです。

大学院の授業で「身心文化学習論」という授業を半年間受講しました。この授業では、「身体」という語の成り立ちを学んだり、芸術や感性という視点から教育の諸現象について考えたりすることができ、大変収穫の多い授業でした。

期末課題として、授業内容を自分の研究に関連させてレポートを書くことになったので、自分の研究テーマである「翻訳」を、授業テーマの「身体」と絡めてレポートを書くことにしました。当初の予定では修士論文のデータをそのまま用いるつもりでしたが、ふと内田樹先生の翻訳に関するインタビュー記事を思い出し、急遽内田先生の翻訳論をテーマにすることにしました。

以下がそのレポートの改訂版です。今回の発表では英語教育以外の方々(初等教育、音楽教育、演劇教育など)に聞いてもらうためのものだったので、比較的専門用語は出さないように配慮して作成しました。

M-GTAを用いてストーリーを作りましたが、実質的には内田先生の翻訳の核心を明らかにしたというよりは、とりあえずその翻訳論を分かりやすい形にまとめなおしたものとご理解ください。

最後に、授業で議論になった箇所も示しておりますので、どうぞお読みください。




内田樹の「翻訳」観の分析
―他者性と身体性の観点から―
1. 背景
2. 内田樹の語りの分析
2.1. I. 他者としての原著者の認識】
2.2. II. 原著者への長期的接近】
2.3. III. 原著者と翻訳者の身体同期】
3. 考察
参考文献


1. 背景                                                          
 日本の英語教育は、殊に「訳」が槍玉に揚げられることが多い。たとえば、高等学校の現行の学習指導要領にも「授業は英語で行うことを基本とする (文部科学省, 2009) と明示されており、日本語を使用することは否定的に捉えられている。これは筆者が学部生だった頃の話だが、模擬授業などで訳す活動をすると、先生から「どうして訳の活動をするのか」「ここは英語だけで行えるのではないか」とコメントを頂くことがあった。そのためか、教育実習などでも「訳活動はしない方が良い」という雰囲気が漫然とあったことを覚えている。
では、どうして「訳」が否定的に見られているのだろうか。それは従来の英語教育が訳をすることに終始してしまい、音声としての英語を聞いたり話したりする指導に結びつかなかったという批判によるものである。近年の英語教育は音声言語を用いたコミュニケーションを重視し、近年ではセンター試験にリスニング試験が導入されたり、4技能型(聞く・話す・読む・書く)のテストが開発されたりしてきた。それにともない「訳」の使用は「音声コミュニケーション」と対置されるものと見なされ、次第に英語授業から姿を消すようになった。
 しかし海外の応用言語学では、近年「訳」を見直す動きも見られ (Cook, 2010; Laviosa, 2014) 、日本でも再評価の潮流がある。日本の英語教育学では、「訳」を概念的に整理するために、「英文和訳(置き換え訳・訳読)1」と「翻訳」に分類されることが多い (柳瀬, 2011; 杉川, 2013; 染谷他, 2013; 山田, 2015; 柳瀬, 印刷中) 。「英文和訳」は辞書や文法書等の訳出公式に従って、英語表現を機械的に日本語に変換する訳出を示す。それに対して「翻訳」は、発話者の心身状況・場面・含意を理解した上で、それらを日本語において再表現する訳出を示す。このうち「英文和訳」は学習のための作業であり、文法項目の習得や読解力の評価のための手段として用いられることが多かった。しかし「英文和訳」は、従来否定されてきた意味での「訳」であり、本稿で焦点化したいのは「翻訳」である。
 本稿は、「翻訳」者の語りを分析し、翻訳行為が必ずしも言語間の変換作業に留まらない、身体性を伴う言語行為であることを確認する。本稿では内田樹氏の翻訳の語りを分析する。その理由は、内田氏が「身体」「他者」に関する著書を多く出版しており、そのような観点から翻訳を捉えている可能性があるためである。語りの分析を通して、「翻訳」が英語教育に貢献しうる点を論じる。



2. 内田樹の語りの分析
内田樹氏は自著で何度か翻訳に関して論じている。今回は、『街場の文体論』と『学校英語教育は何のため』の2冊から、自身の翻訳経験について語っている箇所を選定して分析した。分析手法は、修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチ (木下, 2007) である。その結果、【他者としての原著者の認識】【原著者への長期的接近】【原著者との身体同期】という3カテゴリーに分類することができた。その過程をまとめたのが図1である。以下は、内田氏の語りの引用およびストーリー提示である。【 】内はカテゴリー名、「」内はデータの引用を示す。



1. 内田氏の翻訳プロセス


2.1.I. 他者としての原著者の認識】
 内田氏は翻訳をする際に、【他者としての原著者の認識】をすると述べている。「他者」はしばしば哲学において「理解不可能な存在」を示す (柄谷, 1992) 。内田氏はフランスの現代思想家であるエマニュエル・レヴィナスのテクストを翻訳することが多いが、そのテクストを「手も足も出ない巨大な岩みたいなもの」と表現した。その理由は、翻訳のターゲットが「自分の手持ちの価値観や度量衡を以っては理解できないもの」だからである。翻訳者である内田氏は日常生活で日本語を用いて生活しており、レヴィナスの思想は「日本人としての母語的現実の中にいる限り絶対に実感することのできない」ものであると考えている。
 読んでも分からないテクストであるから、内田氏は一度日本語に訳すことにした。しかし、何頁訳しても、「自分が訳した日本語の意味がさっぱりわからなかった」。そのようなレヴィナスのテクストを「しばしばこちらの理解を拒絶する」存在と述懐していた。つまり、他者である原著者=テクストを理解しようとしても、拒否をされてしまう段階であり、この段階では「意味がさっぱりわからなかった」のであった。ここでいう「意味」は必ずしも文法書や辞書の知識で解決するような狭義の意味ではないことが伺える。


2.2. II. 原著者への長期的接近】
 【I】では原著者=テクストの他者性を体験し、テクストに理解を拒絶されるという段階を経た内田氏であった。しかし、テクストに向き合い続けることで【原著者への長期的接近】を続けることになる。内田氏は、テクストを読んでも「意味がさっぱりわからない。それでも毎日訳す。」と語っており、その作業を「ほとんど写経」と喩えている。「写経」という喩えから、理解を拒否する原著者=テクストと向き合うという作業がすぐに終わるものではなく、また先の見えない作業であることがわかる。別のインタビューでは、前節で述べた「手も足も出ない巨大な岩みたいなもの」を理解しようとする過程を、「こつこつと手にしたノミで打ち砕くようにして突き崩してゆく」という比喩を用いて説明している。
 この段階では、テクストの言語的特徴を分析するだけでなく、原著者に徐々に接近することが必要となる。したがって、原著者の「生活習慣」「信仰している宗教」「食文化」「自然環境」を知り、少しずつ原著者に接近しようとする。この作業を通して、「ホロコースト期のユダヤ知識人の固有の信条や屈託がだんだん身にしみてくる」。
 

2.3. III. 原著者との身体同期】
 【II】のように原著者への接近を志し続けることで、【原著者との身体同期】が起きるのが第III段階である。この段階は、【II】で用いられた「こつこつ」「じわじわ」と起きるものではない。むしろ、「ある日気づくと」起きているものであり、「岩がぱかっと割れるように腑に落ちる」段階であるため、このIII段階が突然起きるものであることが暗示されている。そのような第III段階の兆候として、「身体の同期」という以下のような現象を挙げている。(以下、引用文中の下線は発表者によるものである。)

センテンスの終わりが予感される。もう、そろそろフィニッシュだな、と思ったときにぴたりとピリオドがくるということが起きる。あるいは、ある名詞が出たときに、この名詞にレヴィナス先生が先行する形容詞は「あれ」かなと思うと、その通りの形容詞がくる。そうすると、なんかうれしくなるわけですね。

上の語りにおいて、「センテンスの終わり」や「先行する形容詞」が自分の期待と一致するという現象は、原著者と翻訳者の言語感覚が近づいている現われであり、これを「身体の同期」と内田氏は呼んでいる。ここで「同期」という語を用いているのは、決して翻訳者が原著者を完全に理解することがないという前提を有しているためである。あくまでも異なる「翻訳者」と「原著者」という2名がいて、その2名にはそれぞれ歴史・文化的な背景を有した身体を有しており、その身体が同期する(あるいは、「リズムが合う」)という言い方に留めている。内田氏のこの前提は、以下の語りにも表れている。

こつこつやっているうちに、岩がぱかっと割れるように腑に落ちる。それは他者を理解できたというよりは、翻訳者自身が別人になったということなんだと思います。そして、外国語を学ぶことの意義って、最終的にはそこに尽くされると思うんです。

また、「身体が同期」するときの感覚は「自分の知らなかった感覚」であることが以下の描写からうかがえる。その感覚を日本語で再表現する過程が、内田氏のいう翻訳である。

身体が同期すると、自分の身体の内側に自分の知らなかった感覚が生じます。前代未聞の感覚だけれど、それが「僕の身体で起きている出来事」である以上、言葉にできないはずはない。現にそうやって自分の身体で起きている出来事を、思考にしろ感情にしろ、赤ちゃんのときから語彙を増やし、修辞や論理を学んで、言葉にできるようになったわけですからね。赤ちゃんにできたことが、大人にできないはずはない。


3. 考察
 内田氏の翻訳プロセスをまとめると、翻訳者は第一にテクストに向き合うことで、【他者としての原著者の認識】をすることになる。それを契機として、【原著者への長期的接近】を続けていき、ある日突然、【原著者との身体同期】が起きる。ここに、第1章で述べた翻訳の性質が見られる。すなわち、翻訳行為がただ単に外国語の表現を辞書や文法公式に当てはめて日本語に変換するという作業に留まらず、1人の翻訳者という固有の身体を有した存在が、「言語」のみならず「身体」や「他者性」を孕んだ言語使用を行うという姿が見える。
 もちろん、このようなプロセスが浮かび上がったのは、そもそも内田氏が向き合うテクストが難解な哲学書であったことや、内田氏自身が「他者」や「身体」に関して考え続けてきたということが挙げられる。そのため、これを一般化して翻訳のプロセスと結論づけることは当然避けられるべきである。
しかし、英語教育では一つのテクストに向き合い続ける機会がそもそも設けられていないのではないか。最初に述べたように、英語教育学は伝統的教授法を批判することで、「訳」という活動自体を避けるようになったが、「翻訳」の存在までも否定する必要があるのだろうか。たしかに、テクストの「他者性」を体験し、長期的に原著者に接近し、最終的に身体が同期するまで向かい合い続けるようなことは英語教育では求められておらず、そもそも教育内容に位置づけられてこなかったのだろう。その一方で、内田氏の辿った翻訳プロセスが英語教育としての教育的意義を有していることも否定できない。たとえば、内田氏が第I段階で述べた「自分が訳した日本語の意味がさっぱりわからなかった」という体験は、多くの英語学習者が経験しているのではないだろうか。そのような学習者は、文法書や辞書の訳文公式に当てはめるという「英文和訳(置き換え訳)」で止まっており、そこでそのテクストを「理解」したと思っている可能性がある。しかし、そのテクストをまだ理解しきれていないと感じ(第I段階)、そのテクストと向き合い続けることで(第II段階)、原著者と身体的にリズムが合う(第III段階)という体験をする可能性も、教師の働きかけや教材の種類次第ではありうるだろう。発表者の考えでは、内田の語りがこれまでの英語教育の盲点にあった身体性・他者性の存在を示唆しており、現行の学習活動を批判的に検討することにつながるものである。

NOTES
1   「英文和訳」は英語から日本語への変換のみを指すのではなく、概念語として機械的な訳出すべてをさす。したがって、「独文和訳」や「仏文和訳」などもこれに該当する
2   本論で用いた「コミュニケーション」は、いわゆる音声言語を用いたコミュニケーションを指す。この意味での「コミュニケーション」は訳読式教授法 (Grammar-Translation Method) には含まれていなかった。

参考文献
Cook, G. (2010). Translation in Language Teaching: An Argument for Reassessment. Oxford University Press: London
Laviosa, S. (2014). Translation and Language Education: Pedagogic approaches explored. Routledge: New York
内田樹 (2012) 『街場の文体論』ミシマ社: 東京
内田樹・鳥飼玖美子 (2015) 「悲しき英語教育」. In 大津由紀夫・江利川春雄・鳥飼玖美子・斉藤兆史 (2015) 『学校英語教育は何のため?』ひつじ書房:東京
柄谷行人 (1992) 『探究 I 』講談社:東京
杉山幸子 (2013) 文法訳読は本当に『使えない』のか」Studies in English linguistics and literature (23), 105-128
染谷泰正・河原清志・山本成代 (2013) 「英語教育における翻訳 (TILT: Translation and Interpreting in Language Teaching) の意義と位置づけ CEFR による新たな英語力の定義に関連して)」.語学教育エキスポ2013発表資料, http://someya-net.com/99-MiscPapers/TILT_Symposium2013.pdf
文部科学省 (2009) 『高等学校学習指導要領解説 外国語/英語編』http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2010/01/29/1282000_9.pdf
柳瀬陽介. (2011). 山岡洋一さん追悼シンポジウム報告、および「翻訳」「英文和訳」「英文解釈」の区別. 英語教育の哲学的探究2 , http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/12/blog-post_736.html
柳瀬陽介 (印刷中) 「『訳』に関する概念分析」『中尾佳行先生御退職記念言葉で広がる知性と感性の世界英語・英語教育の新地平を探る189210
山岡洋一. (2010). 「英文和訳についての覚書」.『翻訳通信』93, http://www.honyaku-tsushin.net/

山田優 (2015) 外国語教育における『翻訳』の再考:メタ言語能力としての翻訳規範」『外国語教育研究』13. 107-128

<議論になった箇所>

■ 身体的に同期するという現象は、内田先生のように長い間テクストに向かい合っているからこそ起きること。学校英語教育ではそれが可能か?

 ⇒仰るとおりです。その意味では、限られた時間数内で英語教育が目指せるのは第II段階が限界なのかもしれません。要するに、ある文章を読み終わって、「とりあえず訳して終わりましょう」という悪しき習慣にするのではなくて、その文章を翻訳する過程で、「なぜ筆者はこのような表現を使ったのだろう」「もし筆者が日本語ぺらぺらだったら、どんな日本語にするかな」といった思考を体験させることに意義があるのではないかと考えています。

さらに言えば、段階Iのような【他者性の体験】は翻訳困難性の体験とも近いかもしれません。日本語に訳したつもりなのに、その訳文の意味がよくわからないということも実際に起きます。そこで、「上手く訳せない」というもどかしさを体験させることに、学習者の言語能力の成長が見込めるのではないかとぼんやり考えています。


 ■ 内田氏の段階IIやIIIは、別に翻訳でなくても良いのではないか。英語で精読するという学習方法でも代替可能ではないか。

⇒これについても仰るとおりです。今回のレポートは否定的に捉えられることの多い「訳」の教育的意義を見直すということを主眼にしておりましたので、そもそも訳特有の意義という感じがしないのもご指摘の通りです。 では、翻訳独自の意義は何か。私の意見としては、(1)母語に関する気づき(大津先生の「ことばの気づき」)、と(2)ぴったりの日本語表現を探すために英語を読み直すという過程(読むことの指導)が当てはまると思っています。

 (1)の意義を主張するには、そもそも英語教育の目的を「英語技能の獲得」のみに狭めるのではなく、より広い「ことばの教育」の一環として捉えることが必要となるでしょう。 また、翻訳自体を教育目的に据えるなら、翻訳技能を育成することにも意味があるケースもあります。(学校教育ではあまりないでしょうが、他国ではそのような場合もあります。)



他にも多くの貴重なご意見をいただきました。  ありがとうございました。

大学院生活で学べる期間もあとわずかですが、最後までできるだけ吸収できればと思います!