2013年9月22日日曜日

クワス算とは?―クリプキの議論から―



クリプキの名前はウィトゲンシュタイン関連の本でよく引用されており、知ってはいるという程度でした。本書は自分のような入門レベルにもわかるように平易な語り口を使いつつ、私たちが普段「意味」と思っているものはどれだけ不安定なものかを考えさせます。

クリプキという哲学者について先に簡単に紹介しておきます。飯田氏は彼のことを以下のように評しています。

クリプキというひとは、何か自分の哲学というものをひとつもっていて、それを体系的に展開するというタイプの哲学者ではないという印象が、私にはある。このひとはむしろ、その時々の興味にしたがってある問題を取り上げ、それについていちおうの結論が得られたならば、またつぎの問題に進んでいくというタイプの哲学者なのではないかと思うのである。(p.123)

これに当てはめるならば、本書では主にクリプキがウィトゲンシュタインの論考に関する興味から独自の解釈を発展させた経緯・原理が示されています。以下は自分の中途半端な理解と解釈によるまとめなので、分かりづらいかもしれませんが、主に第2章のクワス算の概要とそれに対する自分の考えを示すことで、クリプキの議論の一部が紹介できれば幸いです。


■ 私たちがこれまで「足し算」だと思っていたものは…。


まずは以下の数式をご覧いただきたい。

(1) 3 + 8 = ?

この式に対する答えは11になります。ちょうど算数を学んでいる途中の小学生にも同じ答えが出せるはずです。しかし、その小学生が計算ドリルなどで足した最大の数が「56」であるとします。ゆえに、

(2) 25 + 56 = ?

に対しても同じように計算をし、81を出します。


では、その小学生と以下のやり取りをしたとしましょう。

私「これまで君は足し算を学んできたね。(1)の式も(2)の式も答えが出せたし、しっかり理解できているようだ。」
小「もちろん。足し算は得意だからね。」
私「では、次の式はどうだろうか。

(3) 68 + 57 = ?

どうだい?」
小「楽チンだ。125だ!」
私「それは違う。答えは5だ。」
小「えっ?」


ここまで読まれた方は、私と小学生のどちらが正しいかと言われたら「小学生」と答えるのではないでしょうか。しかし、以下を続けてお読みください。


私「君はこれまで足す数が56を超えるまでの"+"を用いた計算を行ってきた。それは、君が呼ぶ足し算のやり方で答えられた。しかし、君がこれまでプラスだと思い込んでいたものは、実はクワスという記号なんだ。クワス算は以下のように行われる。」

・条件①:x, yのどちらも56以下の時、x+y=xとyの和
・条件②:①以外の時、x+y=5

小「そんな・・・。」
私「(3)の式は条件②にあてはまるから、x+y=5となる。」
小「・・・。」


ここまでが、クリプキのクワス算の考え方です(ただし会話形式にしてはありますが。)ウィトゲンシュタインの数列のパラドックスと似ている部分があるのは、「『哲学探究』のこの部分(数列のパラドックス)にクリプキは自身の議論の材料を求めているから(p.109)」のようです。。

さて、ここから小学生はどのように私に向かって言ってくるでしょうか。予想される反応を考えてみましょうか。

・「クワス算なんてないよ。僕がこれまでやってきたのは足し算だ。」

まずはこの反論が考えられます。しかし、それに対してはクリプキはこのような問いを立てると述べています。

私がこれまで「+」で+のことを意味してきたということを、どうして私は知っているのか。

といった問いとして現れる。こうした疑いは、つぎのような懐疑的仮説を斥けることができるかという形で提起される。

私はこれまで「+」でクワスのことを意味してきた。

つまり、これが誤りであることを立証できない限り、私がこれまで「+」で+のことを意味してきたということを私が知っているとは言えない(pp.43-44一部改:「グル―」についての例を省略しました。)

ここで懐疑的仮説という言葉がでてきましたので、少し説明を付け加えます。

懐疑論はしばしば「懐疑的仮説」と呼ばれるものの助けを借りて述べられる。哲学史上有名ないくつかの懐疑的仮説がある。もっとも有名なのは、デカルトの「夢の懐疑」である。私はいま夢を見ているという想定が正しいならば、私がいま目にしているもの、私がいま触れているものすべてが本当ではないということがありうる。たとえば、私はいま自分が靴をはいているということは、あまりありそうにないことである。したがって、もしも自分がいま夢を見ているという可能性を私が排除できない限り、いま自分が靴をはいていることを知っていると言う権利は私にはない。このように、懐疑的仮説とは、それを斥けることができない限り、自分が当然知っていると思ってきた事柄をわれわれは実は知っていないと結論せざるをえないような想定のことである。(pp.41-42)

さきほどの小学生は「僕がこれまでやってきたのは足し算」と言いますが、彼は「自分がこれまで+でクワスを意味してきた」という懐疑的仮説を斥けることはできるのでしょうか。

本書の第二章はどのように反論するか、それに対してさらに反駁する方法は何か、という点について語られています。これについては長く、また複雑であるため省略しますが、その小学生には反駁は不可能であることが丁寧に示されています。(この部分が複雑ですが、重要なのは以下の点かと思います。)



■ クリプキの議論によって示される点


クリプキの比喩によって、まずは私たちが「絶対」と思い込んでいるものを疑う姿勢の必要性が示され、懐疑的思考について学ぶことができます。しかし、クリプキがより強調したかった点はおそらく、私たちが概念上持たないものについて証明することはできない、という点ではないでしょうか。
クワス算でも、「私たちがプラスだと思っていた演算記号がクワスだったということについて、反証は不可能でした。ならば、「私たちがふだん青だと思っていたものは、実はグル―だった」に対しても反証することはできません。極端に言えば、私たちがパソコンとして目に見えているものは、目に見えていない間はお化けの形をしている、ということに対してもどのように反駁するのでしょうか。
このような例から、自分たちの持つ概念の「限定範囲」というものが浮かび上がるのではないか、というのが自分が読んだ感想です。


クリプキ―ことばは意味をもてるか (シリーズ・哲学のエッセンス)
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まだまだ理解していない点もあり、誤った解釈もあるかと思いますので、お気づきの方はご指摘・ご批判いただければ幸いです。

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