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2015年12月21日月曜日

Anthony Pym 教授の講演会に参加して

こんにちは。mochiです。
2015年もあと10日ですね。
今年も本当に色々なことがあって、充実した経験を積ませて頂きましたが、同時に反省すべき箇所も多かったなと思います。

とりあえず修士論文を書き終えて、4月からの教員生活に向けてできることを一つずつやりたいと思います。

今回は研修ノートです。

2015年12月14日 (月) 、立教大学異文化コミュニケーション学部主催2015年連続講演会に参加させて頂きました。

講演は、翻訳論の大家であるAnthony Pym 氏が話されていて、テーマは"Where Translation Studies lost the plot: creating knowledge when everyone can translate"でした。

ちょうど自分の修士論文のテーマと関心が重なっており、大変刺激を受けてきました。ここに、講演の要点と、自分の感想をまとめたいと思います。


■ 要旨 (公開されている英語版アブストラクトのまとめ)

・翻訳学は1972年の設立当初 (Holmes のmap) 、翻訳の技術と言語学習のためのテストとしての訳に関して研究するものとしていた。

・ただし、翻訳学が学際性を帯びて、外国語学習での訳使用に関して無視をするようになったため、コミュニカティブアプローチが訳を退け、翻訳を専門性の高い行為とするようになった。

・ところが、機械翻訳の進展によって翻訳の全営化が起き、誰もが翻訳を行えるようになった。また、機械翻訳の推敲によって良質の訳文を作れるという結果もあり、これからは、訳行為は必ずしも専門家に限られる行為ではなくなる。


■ 翻訳学と言語教育の断絶

・応用言語学の大家であるNunanの書籍は20億部以上売れるのに対して、翻訳学の本の市場はとても小さい。


・Holmes(1972) は、翻訳学の設立当初から外国語教育における翻訳の技術とテストについて研究すべきとしていた。しかし、翻訳学が西洋で自立した学問となるにつれて、言語教育との接点が次第に薄れていった。


■ 翻訳学の「二項対立」

・翻訳学は「直訳と意訳」「同化翻訳と異化翻訳」「形式的等価と動的等価」のような二項対立的思考で止まっていたのではないか。

・近年の翻訳学では、この二項対立を脱するための提案もなされている。(Translation Solutionsの議論など)


■ 今後の方針

・外国語教育でもcommunicative translation が重要になるのではないか。
→この概念に関してはあまり説明がされなかった。参考になるのは、House (2008) などであろう。英語教育で翻訳活動を行う際には、形式的等価や訳語の正確さといった観点のみならず、その文が伝えるべきメッセージを十分伝えているか、といった観点も評価規準に入れるべきだろう。

・Malmkjaer の言葉を借りれば、 “Isn’t translation communicative?” である。

→当然、Pym氏の立場は “Yes! (Why not?)” である。ただし、現場で教える身としては、文法訳読式教授法のように、 “un-communicative translation” が歴史的になされてきたという反省も怠ってはならない。そのために、訳活動を行う場合は、「なぜその文を訳すのか?」「誰がその訳文を読むのか?」といった細かい場面設定も踏まえたタスクとして開発する必要があるだろう。

・機械翻訳の教育的使用も考慮されるべきである。たとえば、機械翻訳で出された文を下訳(叩き台)にして、より良い訳文を作成するというタスクも考えられる。

⇒後述。


■ 講演会の感想

以上が講演会のまとめです。
最後に、この講演会を踏まえて考えたことや学んだことを載せます。

(1) 翻訳学の学際性

西洋で翻訳学が自立した学問として成長する中、日本でも翻訳学が自立した学問体系となるような努力が積み重ねられています。今年の日本通訳翻訳学会の年次大会でも、翻訳者や通訳者の地位が不当に下げられてはならないという趣旨の発言がシンポジウムでされていました。(東京オリンピックに向けて翻訳や通訳のボランティアが増える中、専門職としての翻訳者・通訳者の位置づけに関しては、今後も問題となりそうです。)

しかし、教育学がそうだったように、翻訳学も「科学 (Wissenschaft) 」になることだけを目指してしまうと、西洋のTranslation Studies のように、他の分野との連携が薄くなっていくのかもしれないと感じました。翻訳学が単一の学問に固執するのではなく、翻訳という複雑な行為を多くのアプローチ (言語・文化・社会…) で分析し、その応用を議論していくべきだと思いました。

(2) 「翻訳」と「英文和訳」の二項対立性の克服

Pym氏によれば、翻訳学は「直訳」と「意訳」という伝統的な二項対立法から抜け出しきれていません。(「同化翻訳と異化翻訳」、「明示化と暗示化」、「形式的等価と動的等価」…。)

考えてみれば、英語教育学で馴染み深い「翻訳と英文和訳」という分類も二項対立的に語られることの多い概念だと思います。ただし、個人的にこの分類は、訳されたプロダクトのみならず、訳プロセスや訳文の機能、訳行為の依拠するコミュニケーションモデルなどの多くの観点から総合的に判断されるべきであり、必ずしも静的な二項対立的区分ではなくて動的な分類法として考えるべきだと考えております。

このような多重的観点から、中高英語教育における「訳」が一概に否定されるのではなく、場面によっては学習効果があるのではないかと思っており、今後もこの点について考えを深めたいと思います。

(3) 英語教育学と翻訳学との対話

講演会後に質疑応答の時間があり、その最後に英語教育との連携に関して以下のような質問をさせて頂いた。「post-editingを英語教育で実践するのはもちろん面白いが、日本語を日本語で書き換えるという活動に止まってしまうと英語学習とは呼べないのではないか。」

というのも、自分が実践したときもそのような問題意識があって、去年フリースクールで『映画名探偵コナン』の英語版教材を用いたpost-editingの実践を行った際に、不自然な日本語を自然な日本語に言い換えるという作業で終わってしまうのではないかという疑問が残ったためでした。授業は盛り上がったのですが、生徒さんの何人が英語の学びとして授業を受けてくれたのかと考えると、たしかにクエスチョンマークが消えませんでした。

Pym教授の答えは、「もちろん英語学習だよ。翻訳しているじゃないか。」というシンプルなものでした。時間が限られていたこともあり、それ以上の議論ができなかったのが大変心残りです。英語教育学の人と話していて一番焦点になるのが「日本語に訳したものについてあれこれ指導したら、それは日本語学習ではないか」という点なので、もう少し納得のできる説明ができないかと考えています。

そもそもお互いの「コミュニケーション」や「言語学習」の考え方が異なっているため、かみ合わないような気もします。翻訳活動が他者(原著者と読者)を意識したコミュニケーション活動であり、そこに「英語」学習も絡むような活動を提案する必要があると感じました。

※そもそもPym氏は大学での英語教育を念頭に入れていると考えられるので、中高英語教育を前提とする自分ともまた前提が異なっているのだと思います。

1 件のコメント:

  1. 2015/12/23 付記

    学会で知り合うことができたとある方から、以下のコメントを頂戴しました。読んでいただけただけでも光栄なのに、多くの情報をご教示くださり心より感謝申しあげます。

    (以下、貼付)

    Mochiさま

    はるばる立教まで、おつかれさまでした。

    私も同じ講演を聴いていたのですが、こんなふうに再構成されたものを読むと、あらためて勉強になります。
    内容に詳しいひとがまとめるとこんなに説得力のある内容になるんだと、あらためて関心しています。

    Pym教授のような方と考えに共通点を見出されているだけでも私にはありえない、すごいことなのですが、共通点があるからこそ、どこかでずれやわかりにくいところが残ってもどかしいのでしょうね。畑違いの人は、「へ~」と思ってきくだけで、批判的な見方はできないのです。

    大きな疑問をもたれているポストエディットについて、実はプロの方と学生さんと一緒にボランティアのプロジェクトをやっています。
    翻訳に関心のある学生さんたちにとっては、翻訳の練習になるかという思いで参加されているのだと思います。みんなにとってはどうだったのか、どうなのか心配ではありますけど、何か翻訳に挑戦してみたいと思う人にとってはちょうどいい入り口になっているかもしれません。
    逆にプロの方にとっては、翻訳の新しい技術を学ぶという面があります。
    自分(もと翻訳者)の場合は、翻訳ができる絶好の機会と思って、参考にしつつも文などはほとんど自分で好きなように書き換えてしまいます。

    ちなみに、機械翻訳を大学の翻訳コースで取り入れているところはあるようです。ダブリンシティ大学の先生もそのようにおっしゃっています。翻訳を学ぶうえでは、少なくともこれから翻訳の仕事に携わろうとしている人たちには、翻訳技術(機械翻訳のポストエディットもこれに含まれることが多い)も習得するのが当たり前だと考えているヨーロッパの大学・大学院がいくつかあると聞いています。立教も、Yahoo翻訳を使ってみたことがあると学生さんから伺いました。

    でも、それは、Mochiさんの答えにはなりませんね。

    村岡花子さんは、日本語力が素晴らしかったと言われています。英語の理解力と日本語の表現力がどちらも高く、質の高い翻訳をなさっていた方です。和歌を習ったことで日本語のセンスが磨かれたと、村岡恵理さんが語っています。
    私も、その両方があるのが一番だと思っています。

    中高生に英文和訳ではなくて翻訳(和訳)を教えるという場面では、ひょっとしたら、「自然な日本語を追求するのが大切だね」ということを学ぶためにポストエディットを取り入れることもありかなと思います。取り上げる材料の選び方が肝心かもしれませんが。
    日本語の書き換えも、一朝一夕ではできるものではなく、よくない訳例を直してみるという意味では翻訳の練習といえなくもありません。
    問題の焦点からますますずれそうで申し訳ありませんが、そんなことを感じました。
    原文を理解する、それを表現する日本語力について考える、この両方を学ぶことができるなら、どのような方法をとっても、きっと生徒さんにとっては得るものがあるだろうと思います。
    日本語力が高くない私には何も言えないのですが、昔の素晴らしい翻訳者のことを考えるとそういう気持ちになってきます。

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