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2014年7月1日火曜日

「日本における英語教育の現状と課題」のまとめ&感想

2014年6月29日 (日) 、獨協大学で開かれたシンポジウム「日本における英語教育の現状と課題」(獨協大学創立50周年記念事業外国語教育研究所第4回公開研究会)に行ってきました。

江利川先生、斉藤先生、大津先生、鳥飼先生、という「4人組」によるシンポジウムが開催できるのは、今年度でこの日だけだったそうで、とても貴重な機会に参加できたと思っています。当日は700人の参加で、後のレセプションでもたくさんの方々が参加されていました。

※上の先生方の昨年のシンポジウムについては、以下の記事をご覧ください。

参考記事:「英語教育、迫り来る破綻」のまとめ&感想


今回のテーマは「英語教育目的論」に絞られていました。おそらくこの背景には、昨年のシンポジウムの質疑応答で目的論に関して議論が足りないという発言が先生方から出たことにあるのではないかと邪推しております。また、寺沢先生の『「なんで英語やるの?」の戦後史』にも以下のような記述があります。

その意味で、現代の英語教育の目的をあらためて構想するうえでは、哲学的・倫理学的な検討が不可欠である。もちろん「哲学」と言っても、「人生哲学」のような人生論の類ではない。英語教育への「熱い思い入れ」だけを唯一の糧にして、人正論的な「べき論」を披瀝するような研究者・英語教師にはそもそも困難な仕事だろう。むしろ、この種の研究は、教育哲学にも関心のある研究者・英語教員・学生に期待したい。...
重要な点は、「英語はそもそも何のために教えるのか」という「本質論」に踏み込まないことである。なぜなら、そのように「本質」をあらかじめ決め、天下り的に目的を導出するやり方は、その「本質」から遠く離れた場所にいる人々にとって、合意不可能なものになるからである。 (寺沢, 2014, p.255)

これを踏まえれば、英語教育目的論の議論は、短絡的な「べき論」「本質論」ではなく、冷静かつ複眼的な「対話」としての議論が求められると言えるでしょう。この意味で、4人組の先生方は同じ方向を見ていても先生方の視点や専門分野が異なるため、大変面白く聞かせて頂くことができました。

以下に当日のまとめを掲載します。ただ、より詳しい議論をお知りになりたい方は、同日発売のブックレットをご参照ください。(自分も帰りの飛行機で読みましたが、今回のシンポジウムの発表内容がまとめられており、聞き逃した点もカバーできました。)特に、内田先生と鳥飼先生の対談企画については、英語教育、翻訳、コミュニケーション論、といった多くの分野を跨って語られており、大変読み応えがありました!


学校英語教育は何のため? (ひつじ英語教育ブックレット 2)
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cf) そういえば、昨年の大学院入試はこのブックレットの内容が多く出ていましたね~(笑)英語教育界でホットな話題が多く紹介されていたので、今年英語教育の大学院を受験される予定の方がいらっしゃれば、目を通しておくとお得かもしれませんね (^^)


なお、
「・」:当日の先生方の発言やスライドの文言(できるだけ忠実に)
「→」:先生方の発言を受けて、自分が考えたこと(できるだけ我流に)
ページ数:特に指定がなければ、上のブックレットをさします。

(追記)2014/07/01
「○○な英語教員に、おれはなる!!!!」というブログでも上のシンポジウムに関するレビューがされています。(さんだーさんの記事は昔から読ませて頂いていて、いつも記事の質の高さに感銘しております。)内容が非常に詳しく、当日の雰囲気もよく伝わってきますので、ぜひこちらもご覧ください。

「日本における英語教育の現状と課題」(獨協大学創立50周年記念事業 外国語教育研究所 第4回公開研究会)

江利川春雄先生「学校の英語教育は何を目指すべきなのか」


■誰のための英語教育?

・日本の学校英語教育(以下、英語教育)は、誰のためのものだろうか。たしかに英語が必要な社会人は全体の1割程度という研究結果もあるが(ブックレット参照)、「国民教育」として英語を教えるなら、当然「国民全員のため」という答えになるはずである。

・グローバル人材育成、といった文言には、一部の能力の高い人への期待が込められているのかもしれない。

・他にも、塾に行っている子の法が成績が上がっている、中下位層が下落傾向にある、という事実から、本来「国民全員のため」の英語教育が、エリートのみを対象としつつあることに目を向けるべきである。

■英語教育はすぐに使える力(スキル)のみを育成するわけではない。

・教育の目的である「人格の完成」を鑑みれば、英語を教えることは生徒の人格形成に寄与しなければならない。であればスキルのみ、という視点ではもはや通用しないのではないか。

cf) 現代外国語教育に関するユネスコ勧告 (1965) には、以下のような文言がある。英語教育はたしかにスキル重視かもしれないが、スキルのみではないことがここから明らかである。

[8] 外国語教育の目的 [aims] は、教育的であると同様に実用的である。現代外国語学習のもたらす知的訓練は、その外国語の実用的使用を犠牲にしてなされるべきではない。他方、その実用的運用がその外国語の言語的特徴を十分に学習することを妨げてもならない。
[9] 現代外国語教育はそれ自体が目的 [an end] ではなく、その文化的及び人間的側面によって学習者の精神と人格を鍛錬し、よりよい国際理解と、民族間の平和的で友好的な協力関係の確立に貢献すべきである。

・英語教育の目的には、思考力や感性といった基盤づくりも含まれるべきである。

■実践としての協働学習

・競争と格差が今日の英語教育にみられるが、それでは子どもは育たない。

・むしろ、自分が仲間の役に立っている感覚が居場所間、自己肯定感を育てるのではないか。(そうすればいじめも減るかもしれない。)



斉藤兆史先生「英語学習・教育の目的」


■小学校英語教育の必修化・教科化

・母語習得が阻害されない程度で英語教育が可能なら、もちろんやったらよい。しかし、現実的にそれができなさそうだから反対の立場を斉藤先生は取られている。つまり、完全な反対派ではない。(そもそも、完全な反対派などいないかもしれないが。)

・ピアノの喩え

たとえば、A村とB村があるとする。A村では1人の子どものために、ピアノが弾けない大人が100人がかりで教える。しかしA村の子どもはピアノを弾けるようにならない。それに対して、B村では1人のピアノが弾けるおとなが100人の子どもを教えて弾けるようにする。したがって、A村は①ピアノを弾ける大人を育てる、②ピアノを弾ける大人を連れてくる、③子どもをB村に連れて行く、といった選択肢しか用意されていない。ピアノを弾けない大人が子どもに教えたとしても、(そしていくら子どもが目を輝かせていたとしても)それは子どものためにはならない。

→『英語教師夏目漱石』という書籍でも、漱石が英語教師として優れた英語力を有していたことが強調されていたが、究極的に英語を教える者としての力は、その人がどれだけ英語に精通しているか、という点にかかっているかもしれない。(参考記事:「英語教師夏目漱石」

■「英語の授業は英語で」

・100のクラスがあれば100通りの授業がある。その中には文法が得意な学習者も教師もいるはず。だから、授業のやり方まで上から縛ることはすべきではない。

・母語を土台にした英語教育というのも可能ではないか。現に難解な構文の英文を解釈するなら、ある程度の母語によるやり取りも必要である。

・Guy Cook によれば、訳は禁止したとしても頭の中で行われる過程だから、禁止しても仕方ない。

・私たちが考えるべきは、日本語を禁止することではなく、効果的な日本語の使用を探究することである。

→しかし、「効果的な日本語の使用」をはっきりと定義することはできない。自分の翻訳に関する研究が「効果的な日本語の使用」の探究の一助となれればよいと感じた。

・ものをきちんと読んで考えることができなくなっているのではないか。例えば難しい英文をじっくり読んでじっくり考えるという作業は失われているかもしれない。

→概要・要点を重視する英語教育のみではたしかにこのような力はつきにくいかもしれない。もちろん概要・要点を得るための読み方も戦略として必要だが、上のような精読的読みも必要な気がする。

■英語学習の目的は人それぞれ

・昨年のシンポジウムの質疑応答でおっしゃった部分が改めて強調されていた。

・英語学習の目的は人によって当然異なる。ある生徒は「翻訳家」になりたいだろうし、他の子は「パーティーでペラペラ会話する」、「海外旅行に行く」、という目的がある。これらを一律に固定することは不可能である。

・したがって、学校英語教育は個々人がそれぞれの動機に基づいて後々必要な英語力をつみあげるための基礎を授けることを目的とすべきではないか。



大津由紀雄先生「母語と切り離された外国語教育は失敗する:日本の学校教育における英語教育の目的を探る」



■英語教育の目的

・学校英語教育の目的は、母語に対する気づきの発達を支援し、それによって、母語を効果的に運用できる力を増進させることである。

・その背景として、母語の日本語を運用できない人が増えていたり、外国語をきちんと使いこなせない人が多かったりする点が挙げられる。

・諸外国では "Language Arts" という形で、母語での気づきの教育を行っているが、日本ではあまり盛んに行われない。

・大津先生が「ことば」の視点を強調すると、「最近の若者は言葉がなっておらん、というお説教と同じだ」と思う人もいるが、それは違う。言語と思考には何らかの関係があるため、ことばを使うということは思考を整理(メタ認知)したり外部化(表現)したり、あるいは文化の伝播・伝承をしたりすることに関わる。単に日本語が乱れているという議論以上のことを言っている。

→この指摘はとても重要だと思った。翻訳重視や母語重視の立場に対してはこのような批判は容易に行われるだろうが、「日本語を正しく使いましょう」ということを言っているわけではなく、母語を使うということの意味を説明できるようにすべきだと感じた。

・母語という礎なしの外国語運用力はハリボテの英語力である。

→岐阜大学の寺島先生であれば、「英語バカになるな」といった言葉でおっしゃるかもしれない。ブックレットにも発音がきれいだが中身のない英語しか話せない学生の例が挙げられているが、そのような人は現に多いと思う。「母語を耕す」という作業は必要であろう。

・「ことば」の基礎という視点が欠落している英語教育論には、「ことばへの気づき」概念が必要。つまり、母語を使ってことばの性質にきづかせるということである。その際、英語という特定の言語に偏る必要はない。

→ドイツ語を学び始めて一年になるが、いまだに日本語との違いが見つかる。このような違いによって、再び自分の日本語体系は変容するだろうし、自分のことば体系も変容するだろう。言語学習が生きている限り一生続くことばの変容の過程だとすれば、母語以外の言語との接触によって改めて自分の母語体系と外国語体系が区別され、ことば体系が変容されるのだろう。

→大津先生はこの「ことばへの気づき」について、これまでよりも議論が進んだとおっしゃっており、具体的には「英語教育と母語教育(国語教育)は言語教育として本来一体であるべきだ」という点に踏み込んでいる点が違います(p.82)。 たしかに、awareness や noticing といった概念との区別が難しいかもしれませんが、「ことばへの気づき」という視点は大変重要なもののように思えます。また大津先生のゼミ生が執筆した修士論文のリストもブックレットに紹介されているので、「ことばへの気づき」概念を援用した研究をされる方は是非チェックするべきだと思います。今後の「ことばへの気づき」概念に動向も注目しておきたいです。



鳥飼玖美子先生「なんで英語の勉強すんの?」


■学習者の視点からの英語教育目的論
・鳥飼先生は、これまでの3名の先生方の意見に賛同しつつ、学習者の視点に立って英語教育目的論を整理する。

・会津市の中学生からの意見で、「なんで英語やるのか」という疑問が中1段階から多く上がっていた。このような質問には大人も答えられない。

・中津 (1974) の『なんで英語やるの?』には「世界共通の英語をしらなければ不便だから」という答えが用意されていた。鳥飼先生はこれをさらに発展しようと、岡倉由三郎の『英語教育』や平泉議員の「英語選択科目化」などを紹介された。(くわしくは、鳥飼先生の新刊『英語教育論争から考える』をチェックしたらよいかもしれません。)

・鳥飼先生の議論は以下の図に集約されます。



→この図の指摘は本当に重要だと思います。英語教育が技能教科のみではない、という上の3名の先生方の議論をより具体に述べています。この図の根本には、そもそも分かり合えない「他者」の存在が前提されており、いかにしてわかりあうかという平田オリザ氏の主張に通じるような気がしました。

cf)関連記事:言語教育における「他者」

cf)関連記事:平田オリザ「わかりあえないことから」

・異質な他者と対峙したとき、私たちはどう対応できるか。英語教育で重視するのは、他者との対話能力ではないか。すなわち、分かり合えない他者と言語を用いて「何とか」コミュニケーションしようとする能力を伸ばすのが英語教育ではないか。

→平田オリザの「会話」と「対話」の説明を借りると、英語教育ではもちろん仲良しの友達とおしゃべりをする力(会話)も必要かもしれませんが、考えや価値観が異なる他者と関係を築いてお互いの意見を一致させなくとも、刷り合わせようとする力(対話)こそ必要なのかもしれません。

→さらに敷衍させれば、翻訳とは、分かり合えない他者のことばを自分の言葉に変換したり、他者に分かってもらえるように他者のことばを言い換える営みと言えるかもしれません。

・自分の主張ばかりを述べる力だけではなく、相手と折り合いをつける力も育成すべきではないか。

・英語スキルのみを重視するだけではない。小学校外国語活動の学習指導要領には、「コミュニケーション能力の素地を養う」とあるが、それで良いのではないか。

・日本国内でもグローバル化が始まっている。(内なるグローバル化)

→そもそも外国人のみが他者なのではない。他者は私たちの身の回りにもちろん存在している。自分のことを100%わかってくれていると思っている友人ですら、急に他者として目の前に現れうる。他者といかに分かり合えるかというテーマが自分の目下の関心の1つなので、この点について提起された鳥飼先生の発表は大変刺激的でした。

■子どもの「英語はどうして学ぶの?」という質問に、どう答えるか。

・最後に鳥飼先生なりの上の問いへの答えが示されました。

外国語は、異文化をのぞく窓。外国語を学ぶと、見える世界が広がる。母語以外の言語を学ぶと自分の言語と文化が分かる。異言語や異文化を知ると、楽しいし面白い。自分自身の世界も豊かになる。だから英語を学ぶ。

→自己変容を伴う外国語学習については、藤本先生の『外国語学』でも述べられていました。(参考記事:藤本一勇(2009)「外国語学」ーなぜ外国語を学ぶかー

→鳥飼先生の子どもの視点の議論は、とても説得力がありました。改めて、「4人組」の先生方のバランスがきれいだと感服しました。


質疑応答(一部抜粋)

※以下、発表された先生方の敬称略しております。ご了承ください。

■「英語は英語で」について

江利川:医療界では、同じ薬をすべての患者に配ったりしないではないか。しかし、教育現場では同じ方策をトップダウンに一律に行っている。目の前にいる子にとって最善の方法を取るための余白は必要。

斉藤:必ずしもオールイングリッシュの授業が悪いとはいえない。効果的な授業もあるし、そういうものはまったく問題ない。大事なのは目の前にいる子どもが理解できる限りで質のよい英語を聞かせること。目の前の子たちにとって最も良い授業をすればよい。

大津:先生が最初から最後まで全て英語で授業する、というわけではないことを改めて強調すべき。英語で授業を全て展開するだけが趣旨ではない。



■ 今後求められる英語教師
斉藤:臨機応変に行うことができる教師が必要である。長文を英語で読む授業をしたあと、どうも文法構造の理解が怪しいと感じたら、日本語で文法構造の説明をする、ということも必要のはず。目の前の子どもに合わせて指導できる臨機応変性がこれから求められる。

鳥飼:今後、児童英語を専門とする教員を育成する必要がある。ことばを使うという視点から教育課程を見直すべきではないか。

江利川:現在の国立大の教員養成課程では削減が行われているという実態があるが、その中でもできることをすべき。

斉藤:教員養成課程では方法論を多く教えるが、英語自体の勉強がもっと必要ではないか。

大津:教員養成課程では、「ことば」をもっと意識する必要がある。




まとめ・感想


■英語教育目的再区分

以前、英語教育の目的論について当ブログで記事を書いたときに、便宜的に以下の区分を用いました。(参考記事:(第5回英語教育ブログ、みんなで書けば怖くない)なんで英語なんか勉強しなくちゃいけないんですか?



この図でいうと、江利川先生や大津先生は(1)の制度面に多く言及されており、斉藤先生や鳥飼先生は(2)や(3)の面について多く言及されていたように思いました。「4人組」としての意見をあえてこの図にしたがってまとめてみると、

(1) 制度としての英語教育目的:スキル重視のみならず、母語を礎としたことばの教育の一環。

(2) 教師としての英語教育目的:(各教師が持つべき)

(3) 学習者としての英語教育目的:学習者ひとりひとりが自分なりの目的を持てばよい。そのための基礎部分は、学校で教えてくれる。

となるでしょう。

(2)の点については、自分個人的には

(2) 教師としての英語教育目的:他者という本来分かりえない存在に少しでも近づくため。

と書きたいところです。


■目的論は本質論ではない。

もう一度、冒頭の寺沢先生の引用箇所をご覧ください。

重要な点は、「英語はそもそも何のために教えるのか」という「本質論」に踏み込まないことである。なぜなら、そのように「本質」をあらかじめ決め、天下り的に目的を導出するやり方は、その「本質」から遠く離れた場所にいる人々にとって、合意不可能なものになるからである。 (寺沢, 2014, p.255)

今回の「4人組」の先生方のご講演を踏まえれば、「母語を教えるために英語を教えるのだ!それしかない!!」とか「スキルよりも人間性ですよね~。ヒューマニズム、行け行けドンドン!!」と合点することもできます(笑)。しかし、それが今回のシンポジウムのまとめだとすると、少し悲しい気もします。むしろこのシンポジウムやブックレットを踏まえた私たちが次は英語教育の目的を語り続ける必要があるのかもしれません。

社会学者のニクラス・ルーマンが「コミュニケーションについて、私たちはコミュニケーションを続けなければならない」という趣旨の発言をされていますが、これと同様に英語教育目的論も語り続けることで発展するのではないでしょうか。途中で思考停止をして「とりあえず英語を教えておけばよいか」となれば、アーレントのいう「凡庸な悪」とか「アインヒマン」となってしまう危険もあるのではないでしょうか。あるいは、4人組の先生方のご意見をただ復唱するだけでもなく、自らの英語学習歴や教育歴を振り返って、自分なりの英語教育目的論を構築しながら語り、語りながら変容させて、少しずつ発展していくのでしょう。進化に終わりやゴールがないように、コミュニケーションにも終わりはありませんし、英語教育の目的についてのコミュニケーションも同様でしょう。

と、現場も社会も何も知らない大学院生が言うのはどうかと思いますが (汗) 。


■最後に

しかし、改めて本シンポジウムに参加することができて本当に幸せな思いでした。レセプションでは英語教育の関係者の方々とのみならず、一般企業の方ともお話でき、非常に充実した時間を過ごさせていただきました。また、斉藤先生から自分の研究に関して大変温かい言葉をかけていただき、改めて今後の研究へのモチベーションが上がりました。

また、「目の前の子どものために」ということばを聴くたびに、「まだまだ自分には教師としての英語力、指導力、人間性、感性...と、どれをとってもまだまだ」と実感しました。勉学に勤しまなければ。ということで、明日の大学院の課題に取り組みたいと思います(笑)。


長々と読んでいただき、まことにありがとうございました。



「なんで英語やるの?」の戦後史 ——《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程
「なんで英語やるの?」の戦後史 ——《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程寺沢 拓敬

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