2014年4月21日月曜日

言語教育における「他者」

学部と院は同じ建物・敷地にあるかもしれませんが、まったく異なった世界であるとやっと気づいた mochi です。

以下は、先週に行った読書会で発表した「他者」に関する資料です。読みづらい文章で大変恐縮ですが、よろしければご覧ください。


1. はじめに:自分の関心は「他者」である。

 小学校の頃から学校の先生になるのが夢だった。人に説明してわかってもらった時が嬉しかったからか、黒板にすらすら字を書く先生に憧れていたからか、あるいは楽しい授業に参加するのが好きでそんな授業をしてみたかったからなのか、決め手となった理由は覚えていない。中学の英語の先生の説明がとても上手だった。彼のような先生になりたいと思って、文法や長文読解の勉強に力を注いだ。

 いざ大学の教育学部に入ったとき、求められる教師像と自分の教師像のずれを感じた。今日では「学ばせる教師」 (teacher as a facilitator) が求められており、英語教育界にも「どう教えるか」 (英語教育方法学) のみならず、「どう学ぶか」 (第二言語習得論) という分野が脚光を浴びていた。私の理想では学習者要因は除かれた授業設計を極めることだったために面食らったことを覚えている。

 教師像のずれを感じたとき学習者の「異質」性をはっきり感じた。ボランティアや塾のバイトをしていると、自分が当たり前のようにできた be 動詞や一般動詞の区別がいつまでたってもできない子に会うこともある。自分にとって当たり前であることが当たり前でない相手にどう教えればよいのか。しかも「教え込み」だけでなく「学ばせる」ことを主眼にして。ここから、自分の「他者」に対する関心は始まったと思う。また、非常に主観的だが、今日は「他者」を直面することが減っていて他者性を意識する機会がないことも問題意識を持っている。

 最後にもう1つ。本論では西洋哲学のウィトゲンシュタインの「他者」観を援用するが、その理由は自分がウィトゲンシュタイン以外の他者論に疎いからである。ウィトゲンシュタインは学部3年の頃に『哲学探究』の読書会に参加し、彼の言語教育を用いた思想の展開が圧巻だったのを学部生ながらに感じた。つまりウィトゲンシュタイン論を使う必然性はないが、その意義はあると思っている。


2. (言語) 教育における「他者」は、規則を共有しない相手である。

 まずは「他者」とはなにかをぜひ考えていただきたい。

 以下では、言語哲学から柄谷氏のウィトゲンシュタイン論を援用して、「他者」の定義および「他者」の理解可能性について検討したい。また、導入として、演劇論の平田オリザ氏の論考を一部取り入れた。

2.1. 平田の論考―会話と対話

 まずは、上の用語の区別から導入したい。平田 (1998) は、日本語では「会話」と「対話」という言葉が曖昧に使用されていると指摘した上で、以下のように両者を区別した。

「対話」 (dialogue) とは、他人と交わす新たな情報交換や交流のことである。他人といっても、必ずしも初対面である必要はない。お互いに相手のことをよく知らない、未知の人物という程度の意味である。
一方、「会話」 (conversation) とは、すでに知り合っている者同士の楽しいお喋りのことである。家族、職場、学校での、いわゆる「日常会話」がこれにあたる。
なぜ、近代演劇において、対話がもっとも重要な要素となるのだろうか。
ここまで読んできた読者には、すでに答えはお判りだろう。場所を決定する際に説明した通り、日常会話のお喋りには、他者 (観客) にとって有益な情報はほとんど含まれていない。家族内の会話だけでは、お父さんの職業さえ観客に伝わらない。 (平田, 1998, pp.121-122)

たとえば演劇の場として家の中を設定しても、登場人物が家族のみかお客さんがいるかによって、話される内容は大きく変わる。もしも家族のみであれば、お互いが知り合っている者同士という関係の「会話」が展開されるため、「お父さん、今日どうだった」「今日は1000だよ」「うわー、大変だね」でも成り立つ。しかしこれを読んでいる私たちには全く意味がわからない。それに対して、その家にお客さんが来ていたらどうだろうか。「お仕事は何をされていますか」「銀行で働いていまして、今日は1000人もお客さんがいらっしゃって、本当に大変だったんです」という「対話」になり、私たちにもわかり易くなる。


2.2. 柄谷 の論考-他者とはなにか

2.2.1. 言語ゲームを共有しない相手としての他者

 柄谷 (1992) は、対話を「言語ゲームを共有しない者との間にのみ起きる」と説明した。言語ゲームとは、ウィトゲンシュタインが言語使用について述べるために用いた言葉で、後期ウィトゲンシュタインの中核をなす概念ともいえる。

7. 第2節の言語を実際に使用する場合、一方が語を叫び、もう一方がそれに従って行動を起こす。だが、その言語の教育においては、次のような過程も見出せるだろう。つまり、教える人が石を指したら、教わる人が対象の名を呼ぶ、すなわち、語を話す、という過程だ。いや、さらに単純な練習もある。教師が発した単語を生徒が復唱する、というものだ。 ―― どちらの例も言語使用に似た過程だ。またこう考えることもできる。第2節の言語使用の全過程は、子供たちが彼らの母語を習得するための手段とするゲームの一つである、と。このようなゲームを、私は「言語ゲーム (Sprachspiel) 」と名付けよう。そして時に、原初的な言語についても、言語ゲームとして語るだろう。
 すると、石の名を呼ぶ過程と、教師の後について復唱する過程を、ともに言語ゲームと呼ぶことができるだろう。わらべ歌における語の多くの使用についても考えよ。
 私はまた、言語と、言語が織り込まれる活動の全体を「言語ゲーム」と呼ぶ。
(ウィトゲンシュタイン, 1953)

ウィトゲンシュタインにとっての言語ゲームは、あくまで「言語と、言語が織り込まれる活動の全体」であり、そこには依頼、命令、質問、挨拶、翻訳、といった多くのゲームが含まれる。

 さて、先ほどの家族の例において、お客さんや観客という存在は「他人」という言葉で説明されていた。本論では「他人」と「他者」に区別を設けず、哲学論で主流な「他者」を用いてその概念を説明する。

 柄谷 (1992) は「他者」を「自分と言語ゲームを共有しない者との間のみにある」と説明する。すなわち、自分が生活経験の上で行ってきた言語ゲームと異なるゲームをしてきた相手が「他者」なのである。家族はほとんど日常生活を共にしていれば、同じ言語ゲームをしている時間が長く、彼らの言語ゲームの大部分は共有されているといえるかもしれない。それに対して、お客さんの存在は、家族が共有してきた言語ゲームを知らない人物であるため、家族が普段通り話していてもお客さんにはそのゲームに参加することはできない。

(ある小学校で流行っている「ずくだんずんぶんぐんゲーム」に転校生がすぐに入ることができないのも無理は無いだろう。)

2.2.2. 命がけの跳躍

 さらに柄谷 (ibid.) は共同体を「1つの言語ゲームが閉じる領域」と定義した。先ほどの例では、家族やある小学校が1つの単位となって、それぞれが行っているゲームが共有されており、逆に共同体から飛び出せば自分のゲームは通用しないこととなる。

 では仮に同じ共同体に属さない相手と対話をしなければならない状況では何が起きるか。上の劇の例のようにミスコミュニケーションが起きることは予想されるだろう。柄谷 (ibid.) は、異なる共同体に属する相手と対話をする際には「命がけの跳躍」が必要と論じ、経済行為においてあるものの価値が決まるのが<他者>の関係で決定することと同様、ことばの意味も規則によって決まっているのではなく言語ゲームが成り立つ範囲で意味が見出されることを説明した。

 また、教えるものと教えられるものの関係について、以下のように述べている。

「教える-学ぶ」という関係を、権力関係と混同してはならない。実際、われわれが命令するためには、そのことが教えられていなければならない。われわれは赤ん坊に対して支配者であるよりも、その奴隷である。つまり、「教える」立場は、ふつそう考えられているのとは逆に、けっして優位にあるのではない。むしろ、それは逆に、「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。 (柄谷, 1992, pp.8-9)

このように異なる共同体に属する「他者」になにか伝える際には、相手に「教える」立場でありつつも、相手に従属する弱い立場であることが指摘されている。この行為が命がけの跳躍であると考える。

2.3. ウィトゲンシュタインの論考-数列のパラドックス

→省略。ウィトゲンシュタイン『哲学探究』183節をご参照ください。


3. 教育界における「他者」観の重要性

3.1. 諏訪 (2005) 『オレ様化する子どもたち』の議論

ブログ記事をご覧ください。

3.2. 「他者」への意識を上げるにはどうしたら良いか

 ここまでの議論を振り返ると、以下の点が指摘できる。
 他者は異なる言語ゲームをしている。
 そのような他者に対して教えるといったコミュニケーションをするには、命がけの跳躍が必要である。
しかし、現在の子どもたちはオレ様化しているため、他者を「他者」として意識することができないのではないか。
したがって、どのようにすれば子どもたちが「他者」を意識することができるのかを考えたい。この点は未だ自分の課題となっている点であるため、思いつき程度で下にまとめる。

(1) 言語教育において他者と自分を「つなぐ」存在である言語を教える。
→たとえば音読もただのぶつぶつ読み段階から、相手に聞かせる音読 (朗読) の段階も経る必要があるかもしれない。

(2) 道徳教育で「他者」の理解し難さを実感させる。
→異文化コミュニケーションは必然的に理解し難い相手を想定するため、この点で貢献できるかもしれない。

(3) コミュニケーションする場面を多く取る。
→言語活動として「形」だけ相手を必要とする場面を取るのも重要だろうが、本当に相手が必要な活動を考える必要があるのかもしれない。たとえばジャンケンで負けた人が無理やり前に出されて行うスピーチのみならず、自分が本当に相手に知って欲しいことを伝えるスピーチなど。

4. 最後に:自己批判と今後の展望

 今後も教育における「他者」については関心を広げたいと思っている。そのための自己批判と今後の展望を示す。
 批判点として、他者概念の広さと理論援用の必要性を指摘する。まず、他者概念はとても広いもので、本稿で十分に理解したとはいえない(気がする)。より分析的に他者について考察する必要性を感じている。また、ウィトゲンシュタインや柄谷の理論枠組みを用いた必然性については十分示せなかった。
 (他の点の批判は最後の質疑応答のところでお願いします。)

 最後に今後の展望を述べる。今後は、ウィトゲンシュタイン以外の他者論を学んだ上で、「他者」について複眼的に考察を進めたい。具体的には、言語使用を他者との交流ととらえたバフチン、他者論で有名なレヴィナス、現象学的な他者論のフッサールとディルタイ、などを考えている。
 言語教育に携わる皆さんの「他者」観や、言語教育が「他者」性をはぐくむ具体的方策などについて議論できればありがたいです。

以上で終わりです。
読みづらく面白くない発表であったことは重々承知の上ですが、皆様からのご意見・ご批判をよろしくお願いします。

【参考文献】

ウィトゲンシュタイン. (1953). 『哲学探究』. (今回は以下のサイトより引用しました。も
し正しいものが必要な場合は、大修館書店の同名の書籍をご参照ください。
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
柄谷行人. (1992). 『探求 I 』. 講談社学術文庫.
諏訪哲司. (2005). 『オレ様化する子どもたち』. 中公新書ラクレ.
平田オリザ. (1998). 『演劇入門』. 講談社.
丸山恭司. (2000). 「教育において<他者>とは何か―ヘーゲルとウィトゲンシュタインの
対比から―」. 『教育学研究』.第67巻, 第1号. (2000).



最後に、友人からのコメントと、それに対する自分の所感を掲載しておきます。

・他者と自我はどちらから生まれるか、という問いに対して、「他者」が先にできてその後に自我ができるという考え方もあるのではないか。

→そのとおりだと思います。たとえば、とても感性が鋭い友人がいたとして、その子と一緒にいると「自分には感性はないな」と自己評価を下すかもしれません。その評価は、「他者」の存在によって生まれたものであるため、自我より他者が先に存在するということもあるでしょう。

・私は、他者を考える前に自分を考えるべきだと思う。自分は意識的な自我と無意識的な自己に分かれていて、自我が自己を把握する形で「わたし」が形成されると思う。また、自己は単一なものではなくコンプレックスであり、場面に応じて変化しうるものだと思う。

→話す相手によって自分の話し方が変わったり、自分の意見が変わったりすることを鑑みれば、唯一の自己が多様に映るというより、複数の自己が現出すると考えるのも面白いかもしれませんね!


・ディオゲノスの「自由」論が参考になるかもしれない。

→時間ができたら読んでみます!ありがとうございます!



目下のところ、バフチンの言語論(特に「対話」)をもっと知りたいと思いました。翻訳論でもたまに出てくる名前なので、今月~来月で勉強してみようと思います。




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