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2013年8月16日金曜日

川島 幸希(2000)『英語教師 夏目漱石』新潮選書

♪バリバリバンバンバリバンバン~(某CMの鼻歌が頭からはなれない・・・笑)


さて、夏休みも2週間経ちました。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

私はこの2週間オープンキャンバスや塾の生徒さんとの面談など普段できない経験もできました。また初等コースの皆さんと宮島旅行(?)へも行き、そこそこ楽しく過ごしています(^^)

7セメが終わって授業ノートなどを見返していると、「日本語の表現と論理」で通読した『こゝろ』がでてきました。高校生の時に読んで以来でしたが、改めて読み返すと当時思いつかなかった解釈もできたり、友人と解釈の相違で盛り上がったりと、面白かったです!

そんな夏目漱石。『我輩は猫である』『坊ちゃん』『こゝろ』など多くの作品で有名な明治時代の作家ですが、彼が処女作『我輩は猫である』を発表するまで英語の教師をしていたという事実は、つい最近まで知りませんでした。

夏休みの課題図書用に購入してちびちびと読んできましたが、だんだんと今日の英語教育に通じる点も多く見つかり、読み終わった後は自分が理想とする英語教師像を改めて考え直してしまいました。そういうわけで今回は、本書を読んだ感想と自分の英語教師観を交じえながら書いてみました。

書評としては読みにくいところもあるかもしれませんが、よろしければお読みください(^^)



■ 教育内容(英語の知識・技能)か、教育方法(英語の教え方)か。

以前オープンキャンパスで高校生に教英の授業を紹介させて頂く機会があり、「僕が思うよい英語教師は”英語の知識が豊富・技能も高い”且つ”教え方が上手”」と(偉そうに)話させて頂きました。ただ、どちらかと言えば後者の方が重要と考えていました。たとえ英語の知識が豊富でも、それを生徒に上手に届けられなければ意味がないのではないか。協働学習などの学習者中心型の授業でも、教師としての裁量に委ねられるため、英語を知っていることよりもどう教えるかがより重視されるべきだ、と。
急いで付け加えると、もちろん教育実習でも英語の知識の必要性は認識しました。ただ、相対的に教え方が自分には魅力的に見えたわけです。

ところが、以下のようなエピソードがいくつもあります。

また、ある生徒が漱石の訳に対して「辞書に違った訳があります」と質問したところ、「そんなウソが書いてある辞書は直しておけ」と漱石は答えた。辞書ほど偉いものはないと思っていた生徒は度肝を抜かれ、「辞書を直す先生」ということで、漱石の評判は瞬く間に高まった(「漱石氏と字引」)。[...]このように抜群の英語力を武器に、漱石は田舎の悪がきどもを圧倒した。(pp.144-145)

また、英語教育廃止論で有名な藤村作も漱石の授業を受けたことを以下のように述懐しています。

先生は意地悪なので、ある時みんなで一つ困らしてやろうと相談して、うんと調べていって先生に掛かったが、どうしても先生を困らすことが出来なかった。それほど夏目さんは実力があった。自然とそういう人に、生徒は皆頭が下がって尊敬した。(p.161)

他にも「睾丸」の英訳を尋ねられて即時に答えたり(p.144)、イギリス留学の際に英語話者から褒められたり(p.67)、漱石の英語力を示す証拠は枚挙に遑がありません。

では、漱石は教育方法(教授法)に対してはどのような考え方を持っていたのでしょうか。英語の知識が優れていても、それをどのように伝えるかは教師として重要な観点ではないのでしょうか。

教授法については『語学養成法』という漱石の英語教育論に次のように示されています。

ここで注目すべきは、この談話で漱石が「教授法」について、終始冷ややかな態度を示していることだと思う。まず漱石は「語学養成法」の前半で、「教授法」を「教師」「時間」と並んで英語教育における三つの改良点の一つと上げながらも、「教授法は随分肝腎なものであるが、いくら細目が立派に出来てゐた所で、教授法自身が活動して呉れる訳でないから、よくそれを体得した教師が、十分の活用をして呉れなければ巧果が揚がるものではない」とそっけない。そしてなんと後半では、三つの改良点は「教師」「教科書」「時間」と変わってしまい、「教授法」は完全に無視されてしまうのだ。(p.121)

このように、教授法の工夫については漱石はあまり魅力を感じていなかった様子。現に松山中学での教壇実践でも、プレフィックスやサフィックスの説明を長々と行う(p.150)など、特に工夫をした様子も伺えません。
「適当な教師さへあれば、教授法などが制定せられなくとも、その行ふ所が自然教授法の規定した細目に合ふ訳である(p.121)」という言葉も示すとおり、教師英語力こそ勝負の鍵と考えていたのでしょうか。

これは、教え方こそ第一!と考えていた自分にとってはある種の衝撃でした。もちろん現代と明治時代を直接比較することに大きな意義があるとは思いませんが、英語教師としての英語力を高める重要性を示しています。

※そもそも「内容」か「方法」か、という二項対立には意味はありません。(虚偽二者択一とも言えますか。)どちらも大切で両方を追求するのが基本ですが、あえてどちらがより大切か、という視点で読んで頂ければ幸いです。

■ 「厳しさ」と「優しさ」

私は他にも、教師は生徒に優しくあるべきという信条があります。これは中高の頃の先生が厳しかった反動ですが(笑)、恐怖や力で児童生徒を支配しようとするのにはあまり賛成しません。
夏目先生の以下の実践は、私の考えとは一致していないように見えます。

例えば、ある生徒は漱石が「直覚」という表現を用いたので、「直カクとは何です」と尋ねたところ、「直覚とは直覚だよ」としかられている。また、何となしに質問などしようものなら、「どの字が解らない?……字引を引いたのか?」と反問されるからうっかり質問もできなかったという。
とりわけ漱石は、「下読み」つまり予習をしてこない生徒には容赦なかった。単語の意味を聞かれて「忘れました」などと答えると、たちどころに「忘れたのではなかろう。知らないのだろう。調べて来ないのだろう」と突っ込まれた。(pp.159-160)

この描写のみを読むと、漱石はいかにも恐怖で生徒を抑圧しているように見えるし、生徒がついてこないのではないかと思いました。この一件で英語を嫌いになる生徒も出てくるのではないでしょうか。

ところが、以下の描写もありました。

漱石が英語以外のところでも生徒思いの先生であったことは、書生として自宅に住み込ませた五校の生徒、俣野義郎・土屋忠治・湯浅廉孫への応対から知れる。湯浅の場合などは、彼が困窮していることを知ると「そんなに困つてゐるなら、宅へ来て居れ」と自ら勧め、学費も援助した。さらに、ドイツ語の点数が足りなくて卒業できないはずだったところを、教授会の席上で「こんな篤学者(湯浅は漢学に関しては教授以上と言われる実力であった-筆者注)を全く関係のない外国語の点位で大学へ送らぬといふ筈はない」と力説して落第を免れさせている。(p.162)

一見、上記2つの例は同一人物の行動として一貫性がないようですが、全く問題がありません。そもそも「厳しい」という言葉の対義語は「厳しくない→甘い」であり、「優しい」とは軸が異なるわけです。
英語の実用力をつけるために予習をしない生徒を叱る厳しさと、学費が払えない生徒を援助する優しさの2つの軸を持っていると考えれば、むしろ漱石の教師像がよりはっきりと浮かび上がってきます。

甘いだけでは生徒の力はつかない、よって厳しさも必要。しかし冷たい先生には生徒はついてこない、よって優しさも必要。この互いに独立した二本の軸を意識することができました。


■ 漱石の英語教育信念あれこれ

最後に、漱石が英語教育について持っていた信念を列挙する。今日の英語教育に通じる点も多々あります。

・技能統合型の中学英語授業

漱石が主張したのが、一人の教師が一クラスの総ての英語の授業を担当することであった。[...]例えば、愛媛県尋常中学校で漱石から学んだ真鍋嘉一郎(後に東大医学部教授、漱石の主治医で臨終に立ち会った)は、「わしに文法も何もかも時間を持たせれば、君等をもっと解るようにしてやるのだが」といわれたという。また「福岡佐賀二県尋常中学参観報告書」で、佐賀中学二年生の会話作文文法の授業について「一時間内ニ在ツテ会話作文文法ノ三科ヲ教授スルハ諸科ヲ融合シテ打テ一丸トナスノ便利アリ」と評価しているのも、この主張と同趣旨である。(p.120)

私が海外留学した時も、「文法は切り離して教えてはいけない(Grammar Nugget)」と教わりました。これは、文法規則を学ぶだけで終始せず、実際に使いながら習得させるための手段だったのでしょう。漱石の上の主張もこれに似ており、文法を学び、会話で使い、作文で書いてみる、といった一連の流れで生徒は言語材料を着実に身に着けていくのかもしれません。
今日の中学英語は言語の四技能を有機的に組み合わせて授業を行うために、「作文」「文法」とは分かれていません。本書の川島氏は「教師が優秀であればこの形態は語学教育の理想だと思う(p.121)」と述べています。逆に言えば、力量のない教師にとってはこのような型はリスクが高いと示唆しているのでしょうか。。

・英語教師の研修に試験!?

さらに、「中学改良策」では教員研修が取り上げられていたが、漱石は「語学養成法」において、既に教師となっている者に対して定期的に試験を課すという新しい考えを打ち出している。[...]漱石はこの試験を実施する付加価値として、試験管が普段から各地の英語教師と気脈を通じて、英語に関する情報交換や質疑応答などの交流を図ることを考えていた。だが現実には、いつの時代も「先生と呼ばれる人間が試験されるなんて」という教師なる人種の不思議なプライドと、能力給の是非の問題が立ちはだかるのであった。(pp.114-115)

現在では英語教師の研修が行われています。(校内研修以外にも初任者研修、10年経験者研修などがある。)しかし教師に対する試験は課していないと思います。仮にその試験で及第点を満たさなければ研修追加や免許停止などになる、という制度もないはずです。
「専門職」であればそこまでしてもよいのでは、という気もしなくもないが、実行されない原因の根底には「教師なる人種の不思議なプライド」がからんでいるのかもしれません。


夏目先生は現代の英語教育を見たらどのようにおっしゃるんでしょう。

そして英語教師としてどうあるべきか、どのように語るのでしょう。

実際に確かめることはできませんが、上のような発言やエピソードから少しだけでも垣間見れた気がします。

にしても、やはり自分の普段の考えは浅はかだな~と感じた次第です(泣)。まぁ理想の教師像なんて実習以来あまり考えてこなかったので、良い機会だったかもしれませんねー。

英語教育史関連の書籍を読むときは、常に現在ある自分や教育状況に関連づけて考えるのが面白いです(^^)


皆さんも、何かお勧めの本などございましたら教えてください♪


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2 件のコメント:

  1. 以下は小学校の頃の友人から頂いたコメントです。長いですが、本人の許可を頂いたのでここに掲載したく存じます。

    [1stトピックについて]

    ここでは、英語教員に求められる資質として「英語の知識」と「英語の教え方」を挙げており、夏目が「英語の知識」がより重要であると論ずる一方で、守田は「英語の教え方」であると主張している。しかし私は、英語教員に本当に求められる資質とは、生徒に精神的・肉体的な発育過程において、何らかの良い影響をもたらす能力であると考える。

    英語教師に求められる資質を唱える前にまず踏まえておかなければならないのが、教員とは何かである。教員とは、学校をはじめとする教育施設で、在籍者に対して教育・保育をつかさどる職、または、その職にある者のことである。またここでいう教育とは、ある人間を望ましい状態にさせるために、心と体の両面に意図的に働きかけることである。つまり、教員とは、精神的・肉体的に生徒を望ましい状態へ導くことを業とする職業なのである。その過程で英語教員は「英語」という学術ツールを用いるだけであり、そのツールである英語の知識伝達過程が教員の目的となるのは不適切である。

    夏目と守田の主張はいわば、積分定数を無視し知識伝達を偏微分した式のようなものである。教員の総合的資質をQ英語の基礎知識をn、知識伝達係数をα(0<α<1)とすると、2人の主張は式(1)で表される。

    Q=n×α 式(1)

    であり、夏目の主張はn^xであり、守田の主張はα^xである。しかし実際には、それらを除く教員の資質を積分定数Cで表し、極端な条件を撤廃するために積分を行うと、

    Q=n×α+C 式(2)

    である。式(2)を見て分かるように、nの上昇によるQの効用には、⊿n×αまたはn×⊿αのみ影響を及ぼすが、Cの上昇によるQの効用は⊿Cそのものである。このことから、教員として大切なことはこのCを上昇させることであり、効用の小さなnやαは教育課程においてあまり重要ではないことがいえる。

    そして、私はこのCは上記のように生徒に精神的・肉体的な発育過程において、なんらかの良い影響をもたらす能力そのものであると考える。具体例をあげよう。私の高校において生徒から慕われていた現代文の教員は、決して現代文の知識が人一倍豊富であったわけではない。かといって授業はというと、ことある毎に話が主題から外れ、いつも他の教員より進度が遅く他の教員ともめるほどであったようである。では、なぜ生徒に慕われていたのか。その理由は、授業以外での取り組みや姿勢が素晴らしかったからである。休暇は年に3日という年もあり、担当外の部活の激励や生活指導の徹底など常に時間に追われているような印象を持った。しかし彼は、決して生徒と話をするときは、忙しそうな素振りは見せなかった。そのような授業外、学術性を持たない部分での教育こそが、彼が慕われる理由であった。 よって、私は英語教員のみならず全ての教員に求められる本当の資質とは、生徒に精神的・肉体的な発育過程において、何らかの良い影響をもたらす能力であると考える。

    返信削除
  2. では、見苦しくならない程度に私なりの弁解を述べたいと思います(笑)

    まずは小学校の頃の友人がこのブログの稚拙な文章を読んでくれたことに感謝します。

    お寄せいただいたコメントに対して、反論する点は全くありません。以下に示すのは、自分の議論の穴を明示化するための文章としてお読み下さい。

    「教育」という言葉は非常に曖昧なもので、人によってとらえ方が異なります。例えば、同じ公の学校教育でも進学校か(言い方は適切でないかもしれませんが)教育困難校かで「教育」という言葉の意味は変るかもしれません。

    一つの教育の区分として、teachingとeducationの対立があります。teachingは技能や知識の伝授を主に指し、先ほどの数式ではn×αと表された部分のみを指します。ゆえに、English Language Teachingでは学習者が英語の熟達度を上げることが目標とされます。それに対してeducationは「人格の完成」といった面を含めており、積分定数Cを含めているともいえます。こちらの目標は、コミュニケーション能力の育成、人間性の完成などといった点を含んでいます。したがって、後者の方がより広義の概念ともいえます。

    私が記事で用いていた「教育」は無意識のうちに前者に限定していたのかもしれません。それに対して友人のコメントでは確実に後者の教育を意識されていると思います。従って、用語の使用について私の定義が曖昧であったことが問題でした。

    私は、英語教員に本当に求められる資質とは、生徒に精神的・肉体的な発育過程において、何らかの良い影響をもたらす能力であると考える。

    これに関しては、完全に同意します。英語はあくまでも手段であり、積分定数Cを加味した上でeducationとしての教育はなされるべきです。(勿論、英語が完璧で授業も天才的に上手だとしても、人間として全く尊敬できない人の授業は、私も受けたいとは思いません。)

    ただ、教師の人間性や生徒との人間関係、精神的発達という剰余変数を増やしてしまうと、教育を語るのは一気に困難となります。例えば「生徒がHRで担任教師に怒られた後だったら授業にならないんじゃない?」とか「もしその子が英語教師のことを嫌いだったら、どんなに授業が上手でも聞いてくれない」とか。言い出すとキリがなくなってしまうわけです。そこで、本記事ではteachingとしての「教育」に限定しました。しかし、私たちが本当に持つべきは「精神的・肉体的な発育過程において、なんらかの良い影響をもたらす能力」であって、今回の私の議論はそのほんの一部であったと思います。

    長々とした返事になってしまい申し訳ありません。
    もしよかったら、「精神的・肉体的な発育過程において、なんらかの良い影響をもたらす能力」とはどのような力で構成されるか、といったより具体的な議論もできれば幸いです。またご意見があれば、お寄せ下さい。(この返答についても疑問や指摘があれば、ご遠慮なくお願いします。)


    改めて、真摯なコメントありがとう!(^^)また名古屋帰った時は話そう!!

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