2013年7月3日水曜日

栗田哲也(2013)『数学による思考のレッスン』(ちくま書房)



こんにちは。早いものでもう7月となりました。
最近学部控え室に行くと、教採直前の緊迫感が伝わってきます。
今年受験しない自分としては、この緊張感を良い意味で受け取りつつ、自分の「道」を進めたらと感じます。
(注:この頃、大学で受講している日本語表現法の授業で漱石の『こゝろ』を読み、とてもはまっています笑)

とりあえず、最近やり溜めていることを片っ端からやっていこうと思い、最初に着手したのが『数学による思考のレッスン』でした。

ゼミの先生から授業中に薦められたのがきっかけでしたが、読むにつれて文系の自分たち(特に教育学を専攻する者)が本書で言われている内容を知っておくべきと感じるようになりました。

現行学習指導要領では「思考力・判断力・表現力の育成」が確かな学力の要素として含まれています。しかし、自分は「思考」とは何かを丁寧に論じたことはありませんでした。本書は巷の啓発本とは異なり、「思考とは何か」「論理は必要か」といった問いに対して深く考察しています。

以下、本書から数箇所を引用ながら内容を簡単に紹介します。


■ 思考とは何か


本書では、思考を以下の3つに分類している。

(1) (幅広い)比喩的な解釈モデルを構築する思考
(2) 想像力で(より深い)説明の層を見出し分析結果を論理的に跡付ける思考
(3) (鋭い)アイデアを生み出す思考


(1) (幅広い)比喩的な解釈モデルを構築する思考

日常生活では私たちは論理的な思考をするよりも、このような思考をよく用います。


私たちはイソップ物語の「アリとキリギリス」「北風と太陽」のような枠組みで、いろいろな現実を見ていないだろうか?
そうした思考方法は、不平等を論じるときや、強力な相手をどうやって説得するかといった身近な問題解決の際に、モデルとしてすぐに意識されないだろうか?
たとえば「あいつはキリギリス(消費的享楽者)だったのだから、冬(老年期)になってお金に困っても助ける必要はない。公費で救ってしまったら一生懸命に働いていたアリに失礼ではないか」とか(以下略)(pp.46-47)

この例では童話が「モデル」となり、このモデルを拡張したり類推することで現実場面について考えてます。こうすることでただの客観的事実描写よりも、認識しやすくなります。

※参考※
アナロジーについては以下の動画が面白い。


特に、"Analogies happen all the time with no purposes."や"Repeated analogy expand concepts. All generalizations are made through an analogy"といった言葉は、本書にも通じる部分があると思います。また、「2000年前から来た人に対して"Wikipedia"を説明するとしたら?」という思考実験も、次項の「説明すること」に関連しています。


(2) 想像力で(より深い)説明の層を見出し分析結果を論理的に跡付ける思考

ここで初めて「形式的論理」が登場するのだが、ここでも論理は副次的な役割にとどまっていることに注意したい。

分析と言う地道な努力を積み重ねて得られた知識が蓄積されると、たとえばそれは元素の質量によって元素の性質が分類されると言う規則性が見出される(メンデレーエフの周期表というようなアイデアにつながるし、元素をさらに細かい単位(素粒子)に分割して、そこから統一的な説明を行うアイデアを生み出す。
そして、いったんアイデアが生まれると、論理はそのアイデアに沿って、数学の小売にあたるものを予想し、その「公理」から厳密な説明をすることができる。
こうして、説明の体系を作るのに、形式論理は大変に役に立つ。また、推論の際の誤謬を避けるためにも役に立つ。(pp.52-53)

つまり、分析によって得られたデータや知識からアイデアを生むのが先決であり、論理が登場するのはその後である。「論理的に考えなさい」という言葉がよくあるが、そもそも論理的に何を考えるかはアイデアによってまず見出されます。

論理が先行してよいアイデアが出るということはほとんどない。論理は思考をするための補助輪のようなものでしょう。

(3) (鋭い)アイデアを生み出す思考

これは、ひとえに言ってしまえば「思いつき」となるかもしれません。しかし、本書ではより深く考察をし、アイデアは誰にもほしいときに来るわけではないことを示唆しています。

例えば、数学の問題集を読んでいるとき、長ったらしく1つ1つ丁寧に説明していることが多いはずです。これを一行ずつ読んでも分かったようなそうでないような気分になりがちです。(少なくとも自分はそうです。)しかし、突然「そういうことか!」と全てを理解できることもあります。まるで、それまでは一行ずつ異質な数式だったのが、一本の線になるように。これが「アイデアを生み出す思考」に近い体験のようです。

つまり、認識は一瞬なのだが、その理解の過程は時間的だということだ。そしておそらく「わかる」とか「アイデアを思いつく」とかいうことは、時間的な現実が空間化されたときに起こる現象なのである。(p.056)

筆者はこれを「全体を鳥瞰する」という表現で何度も表しています。数学の解説であれば、一行ずつミクロな視点で見るのではなく、全体を俯瞰することでつながりを見出す様子のことです。

では、元に戻りましょう。「アイデアを生み出す思考」が「思いつき」とは異なるのはなぜでしょう。筆者は以下のように答えを出しています。

しかし、日ごろから深く考えていない人にいきなりひらめきの訪れる至福の瞬間はまずこない。[...]シンボルの体系は現実を映す鏡としては極めて不完全なために、人間が意識できる現実よりも意識していない現実の方がはるかに広大なのである。[..]しかし、アイデアに長けた人は、常に存在しないものを見つめているのである。(p.058)

日ごろから深く考えている人ならば、認識できるもののみを考えるのではなく、「もしこうだったら・・・」といった現実に縛られない思考が可能です。つまり、自分のシンボルの体系には存在しないものを「こういうものがあったらいいな」という視点で見ることで、「アイデア」は生み出されるのです。例えばニュートンの「引力」という考え方も、ニュートン自信が常日頃から考えて「引力っていう考え方があれば説明できるのに」という発想から得たものなのでしょう。


■ 他人に説明すること


他人に説明することの難しさについては、以前「受験英作文の問題文一行から<他者>について考えてみる」で論じたとおりです。異なる前提を持つ相手に対して、自分が目線を合わせる必要があります。この「目線を合わせる」というのが、説明の難しさかと思います。

意識化、言語化されずとも、明快にはいえないが気になっていること、もやもやしながらも何となく感じていることが各自にあるものだ。説明とは、そうした人たちの「世界」への言語化による働きかけなのである。多くの人が自分の経験に照らして、説明の枠組みが自分の世界と整合的で、もやもやしながらも感じていたことに明快な光をあてたと思えば、その説明は受けられる。逆に、その説明が自分の世界に照らして納得できないものであれば、人々は首を傾げるだろう。(p.203)

ここからも分かりますが、各々が自分の「世界」を持っています。この世界に受け入れられるように説明は行わなければなりません。以前、国立国語研究所の迫田先生が、プレゼンテーションをする時に一番重要なことは「聞く相手が誰かを考えること」とおっしゃっていました。迫田先生も上の引用と同じく、相手が持っている世界に受け入れられるような説明を心がけなさい、と意味されていたのだと思います。

先ほどの「2000年前から来た人に対して"Wikipedia"を説明するとしたら?」という思考実験に戻りましょう。相手に"Wikipedia"とは何かを説明することも可能です。(それこそWikipediaをWikipediaで調べたときの結果を読み上げれば良いかもしれません。)しかし、無論相手が持っている世界にはそのような概念はありません。
相手が受け入れやすいように、「何か言葉の意味が分からなければ、その意味を教えてくれるものです。」と言えば良いでしょうか。もしくは、「考えるな、見ろ!」と言いながら実際にWikipediaを操作してみましょうか。少なくとも、これらのようなやり方のほうが相手に受け入れられやすいのではないでしょうか。



■ 教育界への示唆


以下は、自分がはっと思わされた教育界への示唆です。数学教育については私は無知なので、教育全体に対する示唆のみを取り上げたいと思います。

・情報処理モデルを押し付けられると人間の想像力、ひいては自由は抑圧される。(p.023)
・かくして、現在の教育は「情報処理・思考力」型の勉強スタイルを、低学年のうちから行わせ訓練と刷り込みをあまりにも軽視するために、家庭で訓練が行われなかった子どもたちの思考力にはばかり知れないダメージが与えられてしまったと私は思う(p.243)

・この「世界」が各個人の中で形成されていく過程については私もよくわからない。ただ、推定できるのは、多くの場合、最初は訓練によって刷り込まれるものだろうということだ。[...]だから、おそらく最初に思考の基盤となるこの素朴な「世界」は、先人からの刷り込みで形成され、その豊穣さを決めるのは刷り込まれたモデルの量の多寡と、自分で開発したイメージの多寡である。(pp.186-187)

・一般的に言っても、基層の深い洞察を主体とすべきタイプの学問(社会学、教育学、経済学など)が、数学のような厳密性を持った「科学」を目指して、データを乱用するとき、こうした「いつまでたっても議論が①の段階以上に深まらない」危険性が生じる傾向が高いと思われる。(p.204)

(注)「①の段階」とは、素朴で直接的なデータを示すことですぐに分かる結論を持つ議論を指す。例えば、「ゆとり政策はこの手の議論は力強いという利点もあるが、単純になりがちという危険性も秘めている。

基礎の重要性については三田紀房(2009)『個性を捨てろ!型にはまれ!』(だいわ文庫)でも述べられています。興味のある方はご覧ください。
英語教育でも、見栄えの良いペアワークやグループワークが注目されているように思えます。しかし、その大前提となる反復・訓練が軽視されたとすれば、上のような批判に当てはまるかもしれません。


肝心の数学の部分については、あまり述べずに終わります。本書は例題を基に構成されているので、紙と鉛筆を用意して実際に解きながら読み進めると、理解しやすいです。
この7月がとにかく忙しい方も、ひと段落ついたらこのような本を読んでみるのもお勧めです(^^)

数学による思考のレッスン (ちくま新書)
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