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2020年2月22日土曜日

プレゼンテーション指導の振り返り


勤務校では英語プレゼンテーション活動が行われており、4年間指導に携わってきた。プレゼンテーション活動自体の吟味もしながら、いかに教員の介入を行うか(行わないか)を試行錯誤している段階である。

大学時代に自分自身が英語プレゼンテーションを好んでやっていたこともあり、できれば高校生にも似たような気持ちを持って欲しいと思いつつ、英語力やモチベーションが一律ではない生徒たちに一定水準まで到達させることの難しさを実感している。

ただ、やる気のある発表を見せつけられてこちらも唸らされることもあり、またドラマチックな場面に出くわすことも多く、スピーキング指導の中では個人的に思い入れのある領域である。

ここでは、この4年間自分が行った内容を反省的に振り返り、他にどのような方法が可能であったかを考察したい。

なお、これまで行ってきたプレゼンテーション活動は、(1)個人別で関心のある内容を自由に紹介する、(2)グループで別教科の探究活動内容を英語で説明する、(3) グループで国際交流会用の学校紹介を練習するという3種類である。どれにもに当てはまるものもあれば片方にしか適用できないものも存在する。

【準備】
◾︎ 目的から逆算しながら内容を考える
プレゼン活動は楽しい。そのため、発表者が言いたい内容をついつい言いがちである。それが観客にも伝わって良い空気になれば良いが、たまに内輪ネタ (in-house jokes) で終わってしまうこともある。

プレゼン単元の冒頭ではその目的設定、聞き手イメージの共有、時間を確認しなければならない。そのプレゼンテーションが何のために行われ、誰が聞き、何分以内で終えないといけないのか。発話量を増やすトレーニング(Word Counter等)では初期段階ではその内容の論理的つながりや聞きやすさは無視される場合もあるが、プレゼンテーションは聞き手ありきの活動である。聞き手にとって要らない情報は出すべきではないし、聞き手が面白いと思わなければ失敗である。その聞き手が(現実にせよ空想にせよ)日本人なのか海外の人なのか、同校生か他校生なのかは内容を精査する上で重要な要因である。

1年生に対して、良いプレゼンテーションの定義を考えるディスカッションを実施した際、 Giving New and Interesting Ideas. というテーマができた。聞き手に対して新しい情報を含んでおり、興味を引くような方法で紹介されたなら、聞いてよかったと思われるだろう。

高校生の準備風景を見ていると、先にスライドから作成し、その後に原稿を作成する生徒が多い。(おそらく原稿作成という面倒な課題を後回しにしているのかもしれないが、)この準備方法の欠点は、しばしば「てんこ盛り」のプレゼンテーションになりがちだということである。スライド作りは楽しいために色々な仕掛けや情報を乗せるが、いざ言語化しようとした時に説明不足になったり、不要な情報がスライドに載ったままであることが多い。

正式な順番というものがあるのかどうかはわからないが、次の機会では原稿作成スライド作成(原稿修正)という順番も試してみたい。期待される効果は、スライドが説明を補助するという本来の役割 (Visuai Aids) になること、英語原稿を作る際に言語化しようとする姿勢が向上することである。前者は先ほどのべたスライド「てんこ盛り」を避けるということだが、後者は原稿だけで相手に伝わる原稿を書こうとするために、結果的にスライドに頼るのではなく自分の言葉で説明しようとする(=原稿量が増える?)という希望的観測である。


◾︎ 原稿添削
避けては通れない山である。原稿の時点で伝わらないものはもちろん伝わらないし、特にプレゼン経験の少ない時期やアカデミックな内容のプレゼンは、原稿を書きながら話している自分を想像させるという過程が必要だと思う。

附属の研究授業に参加した時、授業者の先生が「スピーキング指導で働き方改革をするのは、なかなか難しいものですね」と仰っていたが、今ならその意味も痛いほどわかる。

ここ数年では、英語として合っているかどうかではなく、耳で聞いた時に理解できるかという視点を持つようになった。例えば本人としては納得している関係代名詞などの複雑な構文も、本番の緊張状態やノイズなどで期待した通り伝わらないことも予想される。原稿の時点でこちらがそれに気づけば直すようにアドバイスする。

ただし、やはり働き方改革に着手するという意味でも、原稿のピアレビューで耳で聞いて理解できるかというのは大事な過程だと思う。例えば、原稿を書いてきた時、いきなり教員の手で添削に入るのではなく、隣の人に読んで、相手が理解できるかを試してみるというのも効果的だと思う。そこで相手が理解できなかった文に線を引いて、どのように改善可能かを考えさせ、授業者はその部分のみ目を通して必要に応じてアドバイスをするというのが良いと思う。

この方法は一度行ってはみたが、1年生の段階では「なんとなく」伝わったから自己改善が起きないという様子も見られた。もう少し負荷をかけるなら、聞いた方のペアは聞いた内容を英語(日本語)で再生できるかなどの事後課題を与えても良いかもしれない。もしかしたら、プレゼン原稿よりもさらに簡素化された理解しやすい英文が再生されるかもしれない。(これも希望的観測で、そもそも再生課題自体上手くいかないかもしれない。)


◾︎ リハーサル
リハーサルは基本的に実施するが、(1)生徒同士でリハーサルを実施し、アドバイスを相互に行うか、(2)教員1名に対してリハーサルを行い、アドバイスを受ける。(1)の方が時間短縮できる一方、リハーサル後の改善活動がそこまで上がらないで、結果的に本番で上手くいかないこともある。(2)は効果は高いが、やはり時間が大幅にかかる。(1)は40名クラス、(2)は20名展開クラスという風に使い分けているが、本来であればどちらも行いたい。

リハーサルで大事なことは「思ったほど伝わらない経験」をすることだと思う。原稿も書き終え、スライドも作成したから大丈夫だろうという「書き手本位の錯誤」が起きることがしばしばある。しかし、いざ聞き手を前に話しても、相手は期待したほど反応してくれない。そこで、40名を相手にこの経験をするのではなく、リハーサル段階でプチ挫折を味わうというのが趣旨。

(1)のピアレビューを行うなら、単元冒頭で「アドバイス力」を鍛える練習を入れたい。例えば教員自身が下手な示範を行い、生徒たちにどのようにアドバイスが可能かを意見交換させるという活動も効果的である。(昔はTEDなどの優れたプレゼンを見せていたが、当然プロのプレゼンのため、なかなか批判的に見るのは難しかった。下手な示範と上手な示範の両方を見せるのがおそらく良いのだろう。


【当日の発表】
◾︎ 発表者を評価しない
数年前に田尻吾郎先生の講演会に参加した時、スピーチやプレゼンテーションは発表者ではなく聞き手を評価すべきだというお話があった。そもそも40名の前で散々準備をしてきて、緊張した中話そうとしているのに、生徒や教員が評価シートを使って減点理由を探しながら聞いていると(少なくとも発表者自身が)感じてしまったら、きっと発表の精度が下がってしまう。

逆に、発表当日の冒頭で「今日の授業は発表者の評価はほぼ行わない。前に出て5分間頑張って英語で話している時点で十分すごい。準備も頑張った。」のような声かけを行った時の方が温かい雰囲気で始められたと思う。(もちろんさらに上を目指すなら、発表者の評価も必要だが、形成的評価という意味ではリハーサルの時点で一度評価を行うこともできる。)

代わりに聞き手を評価するための方法として、(1) 質疑応答活動、(2) リスニング小テストを本年度実践した。

◾︎ 質疑応答
昨年度も一部のクラスで行なったが、聞いた内容について聞き手が質問をできるか、それに対して発表者は解答を行えるか(その場で考えて答える質問も含まれる)を行う。

年によっては強制的に各グループに質問を出すよう指示したこともあったが、やはり不自然な質問やネタ質問で終わることもあり、質問者自身の聞きたいという気持ちを無視した指導になっていた。

本年度は「聞きたいことがあれば手をあげてください」という指示を出し、発表者には想定される質問を考えるように事前に伝えた。

結果からいうと、当日の指導者の我慢が鍵である。

Thank you for the wonderful presentation.  So from now on, lets open the floor.  If youve got any questions, raise your hand. と指導者が言っても、なかなか質問は出てこない(学会発表やゼミの発表を思い出しても、そりゃそーだろという感じはする)。

少し待って(3分)、1つ質問が出れば良しである。現実的にそれ以上待とうとすると前半発表が終わらないために結局それで終わってしまう。したがって、1年間質問する姿勢を育てないと不発に終わることがよくわかる。

しかし、指導者の我慢次第ではなかなか面白い雰囲気になることがある、質問者が「聞きたいことはあるのに英語が思いつかない」状態になっていることもあるので、「質問したいことがないかペアで話し合ってみよう」と声をかけて、それもしばらく待つと、ふつふつと面白い意見や質問が生まれることもある。それを膨らませたり、発表者が答えられなければ全員で共有してディスカッション活動につながり、それだけで50分の授業を行うことも一度あった。

現実的制約でプレゼンテーションの発表活動は1班あたり5分の発表と5分の質疑応答という設定がこれまで多かったが、この質疑応答はいかに指導者が我慢し(質問が出ない状態を待てるか)、生じた質問と発表者の解答から生まれる次の議論に結びつけるかで面白くなると感じた。(教員の自己満足になっていなければ良いのだが。)


◾︎ リスニング小テスト
もう一つ本年度実験的に行なったのが「ぶっつけ小テスト」である。

このクラスの発表は事前に一度聞いており、原稿も添削していたので、ほとんど自分も内容や本人たちのメッセージを理解していた。また発表用スライドのデータも手元にあったというのが大前提である。

発表当日の午前が空きコマだったので、発表内容に関するクイズを作成し、事前予告なしで「このプレゼンでは発表者ではなく、聞き手がどれだけ理解できるかを評価する」とした。そして「発表者は聞いているみんながクイズで満点を取れるようにゆっくり伝わるように発表してほしい」と伝えた。各班の発表が終わったらその内容に関する小テストを配り、グループで相談しながら埋めていき、模範解答は発表者自身が答えるという形をとった。

能動的に聞こうとする姿勢(メモをとる、内容がわからないスライドを指差しながら隣の子と相談する姿など)が見え、それなりに盛り上がった。テストは「絶対に答えられる」問題と「きちんと聞いていないと答えられない」問題を混ぜるのがコツである。

この小テストを発表者自身が作るというのも勿論想定できる(し、来年度はそのようにやってみても良いと思っている)。
しかし、このリスニング小テストは発表者以外の第三者が作るからこそ面白いのかもしれない。もしクイズで出題される箇所を発表者自身が事前に知っていれば、そこを強調するかもしれない。しかし、その強調があざとければ聞き手も「なんだ、この部分だけ聞けば良いのか」と本来のプレゼンテーション活動の目的にそぐわない聞き方を誘発してしまうかもしれない。

発表している本人も何が出題されるかわからないという緊張感が個人的には好きだった。ただし、授業者自身が発表内容を熟知していなければならないので、これも働き方逆改革である。苦肉の策は、先ほど紹介した生徒同士のリハーサルでアドバイスをした側に、その相手班の小テスト問題を作ってもらうというものである。これがうまくいけば、同じような緊張感を保てると思う。



【まとめ】
以上、この4年間自分が試してきたプレゼン指導方法を、反省や「こうもできただろう」という視点で書いてきた。総合的に見れば、現時点では指導者の介入がかなり大きいと思うので、いかに生徒たちにこの関与を譲渡できるかが来年度以降の課題だと思う。

他にも、論理的プレゼンテーションの授業でトポス概念を紹介したり、良いプレゼンテーションをみてその特徴を分析するという実践も行ったが、それについてはまた別の機会にまとめたい。



2019年12月29日日曜日

鳥飼玖美子・刈谷夏子・苅谷剛彦 (2019) 『ことばの教育を問い直すー国語・英語の現在と未来』ちくま新書


2019年は言語教育史においてのちに激動の1年と語られるはずである。思えば自分が院生の頃から謳われていた「大学入試改革」「外部検定試験の活用」が実現化しかけていた折に、諸メディアで英語教育が話題として大きく取り上げられ、インターネット上で高校生や現場教員が意見を発信し、文部科学省前でのデモ活動に繋がり、最終的に11月1日に「延期」という結論に至った。これほどまでに言語教育が世間の身近な話題になったこともなかなかないだろう。高校現場では文部科学大臣からの「メッセージ」がA41枚で全生徒に配布され、生徒たちの様々な反応を突きつけられ、英語教師は何を思ったのだろうか。

また門外漢ではあるが、国語・数学の記述試験導入への準備も進められていた中で、つい先日(1217日)文部科学省から見送り表明の一報があったのも記憶に新しい。「採点ミスの完全な解消」「自己採点と実際の祭典の不一致の改善」「質の高い採点態勢の明示」が課題となり、無期限での導入見送りが発表された。これを受けて、国語教育関係者は今後何を目指し、どのような力をつけようとするのだろうか。

英語教育・国語教育を「言語教育」という括りで捉えれば、一連の騒動は「言語を教える」という営みについて再考する良い機会となる。言語教師は、何を、どのように、何のために教えているのか。そして現状の言語教育に改善の余地はないのか。現状を反省して相対化するには、理論が必要である。このような状況にいる現場の言語教師に、ぜひ本書『ことばの教育を問い直す』を薦めたい。言わずと知れた英語教育の大家である鳥飼玖美子氏、及び近年話題の新書を出されていた刈谷夏子・剛彦氏が対話形式で各々の視点から問いを出し合い、答えを出しあうという構成をとっている。

以下、自分が読んで印象的だった「①省エネモードの言語使用」「②大村はま実践」「③国語・英語連携の探究活動の可能性」を中心に紹介したい。①はいわば現状の認識であり、②・③はその解決策としての提案である。本書の忠実な要約ではなく、自身の言語教育観を相対化するための試みであるため、かなり大幅な言い換えや省略が含まれていることをあらかじめ断っておく。


◻️ 省エネモードの言語使用(第1章:刈谷夏子氏)

AI vs 教科書が読めない子ども達』を引くまでもなく、現代の国語力は危機的に陥っている。刈谷氏は「省エネモード」として以下の特徴を挙げている。

・パッと思い浮かんだ常識的な、通りの良さそうな言葉で間に合わせる。いつもそれを繰り返しているので、ほとんど自動的、反射的にことばを使っている状態。
・自分の内心の深いところ、考えの微妙な部分とはあまり関わりなく、するっと滑らかに送り出せばいいという姿勢。
・ことばの選択に多少の違和感があっても気にせず、とりあえず、なんとなく、使えれば十分。というよりは、ことばに違和感を持つこともあまりない。
・汎用性の広い便利な言葉を繰り返し使っている。「すごい」「やばい」「無理」等。
・仲間内で簡単に共感できる短い表現をもっぱら愛用する(仲間と思っていない人とはあまりかかわらない)・
・本離れが加速し、長い文章を読む機会が減っている。
・周囲と摩擦を起こさず、期待にうまく沿ってことばを使っていこうとする。(p.23


この省エネモードの問題は、このようにことばを主体的に使わない人たちに対していくら教員が頑張って教えても、結局彼らは自身への関連性を見いだすことができずに身につきにくいという点(p.26)である。例えばバドミントンを楽しいと思っていない人に対して体幹トレーニングを強要しても身につかないのと同様、多くの教育関係者が同意するであろう根本の教育原理だ。だとすれば、レディネスを高めるためにも、教師が生徒に対してできることは、省エネモードから脱する言語使用を経験させ、ことばを主体的に使う必要性を実感させることであろう。

省エネモードの言語使用は一言で言えば、「ことばへのこだわり」がない状態である。刈谷氏はこの状態の母語を比喩的に「普段着のことば」(p.26)と言い表している。誰からも教えられなくても、自分の身体から湧き上がってくることばで、使っている本人は特に意識する必要がない。ちょっとコンビニに行くのに着ていくレベルの服であればそれで良い。国語教育は必ずしもそのような子供たちに「ヨソイキの服」を着させることを意図する必要はなく、「どこへ出ても恥ずかしくない普段着を持つ」べきと喩えられている(p.28)。

この比喩自体が素敵な言い回しなので自分なりに補足したい。 なぜ「ヨソイキ」の服を着させる必要がないかというのは、あくまでもことばが発話者の心身情況に応じて創発的に生じるものだからであろう。ヨソイキの服は式典や礼式の日だけ着て、必要がなくなればすぐに脱いでしまうこともできるものである。式典が終わってすぐにネクタイを外したり、ボタンを一つ外すことも容易に想像できる。そのようなヨソイキのことばを咄嗟の場面で使うことはなく、単元が終われば忘れ去られてしまうのだろう。そうではなく、最低限身なりを整えた、それでも気張る必要のない服装で十分である。

まとめれば、普段省エネモードで生活している子供たちに、多少なりとも言葉へのこだわりの面白さを実感させ、様々なジャンルの言語使用を「ある程度」主体的にできるようにさせることが現実的な国語教育の目的と言うことができる。

ちなみに、英語授業で行われるスピーチの定型表現やインタビューの発話は「ヨソイキ」ではないと言い切れるのだろうか?英語授業で「1対1」的な訳語を教え、その訳語通りで答えなければ減点する教師も省エネモードの言語教育をしてしまっているのではないか?(この点については後述。)


◻️ 大村はま実践の哲学


ことばを、いつも自分にしっかり引き寄せて、自分の脳や心、思考や精神、感情とぴしっと対峙させて、「この言葉でいいか」と必ずちょっと考えてから使う。違和感があったら見逃さず、自分を覗きこむようにして探り、選び取り、なめらかさを望むよりは、引っかかりや摩擦をバネにして、自分の体重を乗せるように、体温を移すように、誠実に丁寧に使っていく。そうであってこその「ことば」なのだ……。(p.30

大村はま実践については大学院の初等国語の授業で「実の場」「単元学習」などの用語は聞いたことがある程度だったが、この引用を読むだけでも、大村はまがどれだけ素晴らしい教育者なのかが伝わってくる。鳥飼氏も述べている通り、ぜひ大村はまの実践を「言語教育」という文脈で再解釈し、英語教育者も勉強できるような環境があればと思う。

残念ながら大村はまの実践の具体については本書はそこまでカバーしていない。あとがきでも書かれている通り、筆者たちが大村実践を理論化することは目指しておらず、あくまでも刈谷氏の体験談に対して、両者が意味づけを行う程度にとどめている(これが本書の好感度を高める点でありつつ、同時に物足りなさを感じさせるかもしれない。より詳細を知りたい方は『新編 教えるということ」などが参考になると思われる。)来年時間ができたら早速手に取りたいと思っている。

第3章では刈谷夏子氏が大村実践の要素を3つ紹介している。「いきいきとしたことば・生徒・教師」(pp.71-76)だ。教科書に書かれている「ヨソイキ」のことばをいかにいきいきとした表現に見せるか。生徒の目を輝かせ、教師自身もそれを楽しめるかどうか。当たり前のことを言っているかもしれないが、外部検定試験導入の際にこれらの論点は出ていただろうか。「実現可能性」「教育格差」ばかりが論じられていたが、いきいきとことばを使う姿が果たして想定されていたのだろうか。当時の言語教師はいきいきと仕事に取り組んでいたのだろうか。

◻️ 国語・英語連携の探究活動の可能性

刈谷剛彦氏が探究活動に関する新書を出していた(『教え学ぶ技術』)が、本章では探究活動に生かせそうなアイデアも提案されている。たとえば大村はまの「花火の表現比べ」だ。

大村が中学生に授けた基礎ともいうべき知恵は、並べ、比べる、ということでした。自分の経験や知っていることの中から、近いもの、どこかに共通点のあるもの、ふと思い出したもの、正反対のもの、全く関係のなさそうなもの……とにかく、並べてみて、比べてみる。すると考えるという行為にグッと具体性が生まれます。(中略)大村は74歳で教室をさる半年前の夏、隅田川花火大会を報じる四紙の新聞記事7つに出会い、それが一年生の「花火の表現比べ」という単元になりました。天候、花火の上がった夜空の光景、音、観衆のようす、橋の上の混雑、川面、など観点別に表現を比べた学習でした。並べれば、そこには必ず何かしら気づくこと、見えてくること、考えたいことが生まれる。それは生徒たちを 主体的な読み手にする契機となりました。(p.151

この活動の面白さは、ただの新聞記事の読解という活動が、比較対象を設けることによって文体論的な視座を含んだ学習活動になるということだ。「筆者はなぜAという表現を(Bという表現を使うこともできたはずなのに)使ったのか」とか、「どうしてこの筆者は他の全員が述べているこの点を述べていないのか」という問いにつながり、その中に生徒が「探究したい問い」を見出す可能性もある。

本書ではさらに翻訳比較の活動(「心」の訳、『星の王子様』のtameの訳語など)が紹介されており、翻訳活動や翻訳鑑賞自体が探究的な学びの一例になることが示唆されている。

しかし、鳥飼氏は英語教育における翻訳は容易ではないと述べています。同時通訳に従事された鳥飼氏ならではの、鋭い翻訳考に基づいた意見です。(本書を通じて最も印象に残った箇所でもあります。)

翻訳を英語教育に導入することは、実のところ容易ではありません。翻訳論の視点から明確に言えることは、言語が異なれば「等価」にはなり得ないのが当然です。言語は必ず文化を内包していますから、一見、容易に翻訳できそうでも意味内容が違ったりします。(中略)
そのように考えると、外国語教育の授業で「翻訳」に挑戦し、「どう訳すのか」の翻訳論に終始してしまうと、外国語そのものを学習する時間が割かれてしまいます。それで、世界の多くの学習者が文法訳読法では外国語が使えるようにならないと批判したのです。日本でも同じです。 (pp.176-177

一方で「英語の授業は原則英語で」の方針にも問題はあります。

学習指導要領改定以来、英語教員研修で「英語でどう授業をするか」が中心課題になっている感があります。留学経験者で英語に自信があり研究授業の立役者となる教員がいる一方で、なぜ英語で授業なのだ?と反発する教員もいれば、諦めの境地の教員もいます。何れにしても「英語で授業をする」ことが目的化しており、何が最も生徒のために良い授業なのかが置き去りにされないかという懸念があります。
「英語で英語を教える授業」が、授業を理解できない生徒を増やし英語嫌いが多くなる、教師の英語力と生徒のリスニング力に合わせ授業内容が浅薄になる、などの弊害が明らかになってくると、今度は「訳読」への回帰が強調されるでしょう。ただ、「訳す」授業についても慎重な議論が必要だと思います。(p.178

今回の民間試験の導入が見送りになったことから、現場ではおそらく「訳読回帰」のような現象が一部で見られるかもしれない。例えば、入試があるからなんとか4技能を育成しようとしていた教員が、その必要は(しばらくの間)なくなったと判断し、授業改善以前の文法訳読に終始する授業を展開しても不思議ではありません。今の時期だからこそ、普段の指導における「訳」使用については慎重な姿勢が求められるのだと思います。また、英語教師が「訳」に対してどのような信念を抱いているのかを明らかにする必要もあります。彼らが「訳」を指導(評価)するという営みにおいても、その行為に影響を与える「規範」が存在します。もしその「規範」が従来的な「1対1」の静的等価規範(あるいは「省エネ的な規範」)であれば、いくら訳活動を取り入れたところで上のような面白い実践に繋がることはありません。「1対多」の訳出を可能にするような動的等価の規範が広まることが重要だと思います。

昨日、某予備校主催の入試研究会に行ったところ、近年の難関大入試は「多義語の解釈」を問う良問が増えたという分析であった。単語テストで「1対1」の訳出に慣れきった生徒には負担で、良質な言語活動や解釈を経験してきた受験生が得をするようにできているというのは良い傾向だと感じた。

◻️ 感想および普段の実践の反省

ぜひ多くの言語教育関係者に本書を手に取ってもらいたい。少なくとも英語教師にとっては随所に「まさにその通り!」と言いたくなる記述が散りばめられている。さらに、読んでいて耳が痛くなるほど、冷静な言葉で自分の実践の至らなさも指摘されるように思えた。しかし、本書で使われていることばはどれも現場の教員を応援するような温かさにあふれている。読み終わった後に「どうしよう」ではなく「やってみよう」と思えるような本だ。また、この本をきっかけに、国語教育と英語教育の連携が進めば面白いと思う。学習指導要領の改訂で国語科の科目名が大きく(英語科の比ではなく)変わり、各校の国語教育のあり方が問われていると思う(cf .文学国語を扱うか否かなど)。

上では言及しなかったが、「演繹と帰納の往還」(第5章)などのエピソードも大変面白く読んだ。本書自体が具体と抽象を行ったり来たりという構造になっていることも面白い。また、アメリカではadversity score(逆境スコア)がつけられ合否判定に使われる(p.213)というのは驚いた。エンパワーメントの教育としては大変画期的である一方、そのスコアの付け方の恣意性は問題にならないかと疑問もあった。

あえて本書を批判的に捉えるなら、大村実践を中心に据えた割には、その実践についての語りに紙面を割いて欲しいと感じた。少なくとも、帰納と演繹や、英語スピーキング(定型表現からの脱却)にまつわるエピソードもあればぜひ知りたいと思った。大村はま氏の実践に関する書籍が新書レベルではなかなか見つからなかったたため、もう少しエピソードの数が多いと読者の演繹・帰納の往還も活性化されたのではないか。

働き方改革が進む中、「省エネ」自体悪くないかもしれない。しかし、言語教育の授業の諸要素(教材、指導、ことばかけ、評価)に「省エネモード」が見え隠れするならば、私たち教員も彼らと一緒に「普段着」でぬくぬくしているだけなのかもしれない。英語表現にkick them out of the comfort zoneという言い方があるが、省エネ言語使用というぬくぬくした状態から一度蹴り出して、ことばにこだわりを持たせる必要がある。というよりも、もしかしたら元々子供たちはことばに興味があるにも関わらず、省エネ言語教育により、徐々に言語を省エネモードで使うようになるのかもしれない。年間指導全てに取り入れることができないとしても、部分的に教師がことばにこだわりを持ち、いきいきとしたことばを体感する場面を設定する必要があると感じた。これに関する具体的アイデアは後日記事を書きたい。




2017年1月1日日曜日

2016年を振り返って


久々の更新になります。mochiです。
昨年は、修士論文を書いたり、教員生活が始まったり、sava君が結婚したり、(ぇ
いろいろなことがありました。
学生の頃と比べて、時間の進み方がまるで違うことに焦っています。笑

それでもこの一年は、たくさんのことにチャレンジできたので良かったなと思っています。ありがたいことに、日本通訳翻訳学会の先生方とつながりを持てていたり、他校の授業参観に行かせていただいたり、さらにはウィトゲンシュタインのシンポジウムや英語授業セミナー、演劇ワークショップなどの自己研鑽にもある程度の時間を使うことができました。(とは言いつつ、振り返りの時間が取れていないのが残念。来年はきちんと振り返りをしよう!そしてブログを書こう!w


では、ここ最近読んだ本を備忘録的にメモしておきます。
今年も良い本にたくさん出会えたのできちんと文章化したかったのですが…また次の機会に。笑


言語学に関する本


◆ 「認知と言語」
日本語と英語を認知言語類型論的に分析した本。
修士論文で依拠したIモードとDモードの違いに通じており、とても面白かった。
実はこの両者が談話にもつながるという指摘は面白かった。
ただ、不定詞と動名詞の違いなどは自分の説明言語までなっておらず、再読が必要。また、昨年度の翻訳学会で発表した際に「認知言語類型論の教育学的意義は?」と質問されて以来悩みではあるが、英語教育への応用可能性は今後も考えたい。
著者の濱田氏は、新刊の「ラネカーの(間)主観性の展開」にも寄稿されており、そちらも来年に読みたい。


◆ 「仮定法を洗い直す」
英語の仮定法について、動詞の形と時制はそこまで関係ないのではないかという論旨。
研究授業の教材研究用に購入したが、読んでみてよかった。
収穫だったのは、「過去形仮定法」という用語が海外の文献で用いられているということ。過去時制のニュアンスを高校生に理解させるためにも、文法書などで「仮定法」と独立した章立てをするのではなく、あくまでも過去形の一用法として仮定法を導入できる可能性がある。(もっとも、このような試みは「一億人の英文法」などにもみられるが。)


宮沢賢治


平田オリザの影響で「銀河鉄道の夜」を再読し、それ以来宮沢賢治に興味がある。(余談だが、クラスのクリスマス会で500円程度のプレゼントを購入することになり、迷わず『銀河鉄道の夜』を選んだ。受け取った子に後で聞いたら喜んでくれたようで一安心。もっとも、大方の生徒からしたら「要らね〜」ということかもしれないが…苦笑)
年度始めは英語版の宮沢賢治を読んでいたが、やはり賢治の文体を英語で出すのにどの翻訳者も苦闘しているように思われた。できれば「銀河鉄道の夜」はきちんと翻訳分析して、投げ込み教材で使ってみたい。


以下で紹介するのは、学部時代にゼミの先生が紹介されていた本。


◆ 「贈与と交換の教育学」
年末に購入し、部活の行き帰りに一気に読み進めている。文学解釈から「師」や「贈与」について考察するわけだが、本書の優れているのはその方法論の合理性だろう。氏はなぜ文学作品を用いなければならないかについて丁寧に記述しており、納得しながら文章を読めた。
目に見える短期的な学力をつけることが求められる現場では、一種の「交換」の発想による教育によって、「贈与」性 (本書の用語では「生成としての教育」)が失われることも考えられる。だからこそ、「異界」「(絶対的)他者」「師」といった要素を無視すべきではない。


英語教育


◆ 『高校英語授業を知的にしたい』
人間形成的アプローチに立つ著者陣による新刊。エマワトソンのスピーチを題材にしたディスカッションや2分間スピーチといった実践紹介とその意義が示されている。近年の入試の傾向分析 (必要な力の分析) は、研修等で聞く話とずれもなかった。
おもしろい実践が多いが、そのほとんどが大学英語授業の実践であることが、やはり教科書をどのように扱うか大きな課題であることも物語っているように思えた。

◆ 『「論理」で読み解くリーディング』
大学受験向け (高3向けか) 。和田玲先生のセミナーに参加して、もっとこの方の話を聞きたいと思い早速購入。論理展開の型紹介 (パート1)、問題形式別解法紹介(パート2)、総合演習(パート3)という構成。論理展開も大切な内容だけれど自分のコミュIIでは扱いきれていないところだよなと反省――かといって英語表現でもきちんとできているかと言われるとキツいが――。ぜひパート1だけでも講座に使ってみたい。


その他
◆ 『少女』
読後の突き放し感が、さすが湊かなえ!という感じでした。笑
高校生の心情描写も「たしかに」と思いました。他者に怯えつつも欲するというむずがゆい感じが懐かしい。


◆ 『ジブリの教科書 ハウルの動く城』
ハウルの動く城は名作だな〜と再感 (笑) ハウルは前半と後半で時間の流れ方が違うというのは自分も思いましたが、宮崎駿特有の映画の作り方に由来するものだったとは。笑
年末の授業でも英語版の冒頭部分を扱いましたが、ソフィーの性格変化を英語で述べるくらいなら高校生でもできそうだなと思いました。 (準備はもっと丁寧にする必要がありますが。)



思い出せる限りでこのくらいでしょうか。

そして何より多くの方々の支えでこの1年なんとか乗り切れたという思いが強いので、感謝の気持ちを忘れずに、この1年も頑張りたいです。

最後に、今年の目標!


2017年の目標
<INPUT>
1) アダムスミス『道徳感情論』を英語で読む
→院生時代に途中で断念した本。『世界と英語と日本人』を読んで以来、もう一度トライしてみたいと思っている。

2) 翻訳学の勉強を引き続き進める
→具体的には以下の本。
『ラネカーの(間)主観性の展開』
東大名誉教授と名作・モームの『大佐の奥方』を訳す 英文翻訳術
翻訳の楽しみ 文芸翻訳の現在と可能性
I Love Youの訳し方

教材研究の合間にでも、モームの翻訳は自分なりに続けていきたいなと思っています。個人的には『I Love You』が楽しみ(高校生が好きそう。笑)


<OUTPUT>
1) 修士論文の投稿
→本当は去年のうちに行いたかったもの。春休みまでに必ず!(といってて、結局頓挫しそう・・・笑)

2) 学会投稿
→教育学系ですが、テーマも自由なもののようなので、是非教科教育系で1本を目指したい。

3) ブログ記事
→やはり久しぶりに文章を書くとしんどい。定期的に文章を(文書ではなく)書く癖をつけたい。





2016年3月30日水曜日

バフチン (2002) 「生活のなかの言葉と詩のなかの言葉」 のpp.6-37のまとめ

卒業式、謝恩会を経て、無事に大学院を退院・・・ではなく、修了することができました、mochiです。

いよいよ新年度が始まります。 本ブログの経営であるmochiとNinsoraは大学院を修了し、晴れて高校教員となります。

きっとうまくいかないこともたくさんあると思いますが、まずは目の前のことを謙虚にがむしゃらにやっていきたいです!そして院生生活で培った理論と実践を往復しながら、自分の得てきた知をより確かなものにし、その知を少しずつ他者の幸せのために役立てられたらと思います。(あ、もちろん自分の幸せにもw)

さて、前々から興味があったバフチンの言語論を扱った『バフチン言語論入門』。M1の頃に図書館で借りたのですが、歯が立たずに断念しました。しかし今読んでみると、これがめっぽう面白い・・・。時間がなかったので最初の30ページほどですがまとめを作りました。自分の理解が混じっているのでお気づきの方は誤っている箇所を御指摘していただければ助かります。

バフチンの「対話主義」に関しては自分の英語授業でも参考にしたいなと思います。日本語教育では大阪大学の西口先生の理論や、細川先生をはじめとする多くの先生方による実践例を聞きますが、英語教育ではどうなのでしょう。(京都教育大学の西本先生の論文はかなり拝読していますが、そこまで「対話」に関する理解が進んでいないような気がします。)

バフチンやブーバーといった対話論は、大学院を修了したこれからも勉強してみたいなと思いますし、教育学の多田先生らの著書、演劇の平田オリザ先生の論などは時折参照し続けるつもりです。



バフチン言語論入門
バフチン言語論入門ミハイル バフチン Mikhail Mikhailovich Bakhtin

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1.内在的に社会学的な芸術
理論的詩学において、社会学的方法はこれまで適用されてこなかった。
・文学史研究においては社会学的方法が取られるが、詩学(詩の芸術性を扱う学問)においては作品や作者を単体で扱うことが多い(というメッセージ)。
・マルクス主義の一元論・歴史主義が社会学的方法論にも影響を与えている。
 マルクス主義の一元論は価値(すなわち貨幣)、歴史主義は「弁証法的唯物論」か?

サクーリン教授の主張:文学研究は「内在的系列」と「因果論的系列」に区別される。
内在的系列:文学の芸術的中核。固有の特殊な構造と法則性を有し、「本性上」独立して発展。
因果論的系列:芸術外の社会的環境からの影響。

(例)芸術には固有の価値観がある。たとえば「おもしろい」「おもしろくない」

「客観的」な社会学的方法と「主観的」なほかのすべての「内在的」方法
・バフチンによれば、社会学的方法こそ「客観的」であり、その他は主観主義から抜け出せていない。
従来の「主観/客観」の用法と区別すべき。おそらくマルクスの影響が強い。

cf) マルクスにおける「客観」:経済的な「価値」
(→この用語法はアーレントにも引き継がれる)

たしかに、化学式は社会学の方法によっては見いだせない。しかし、イデオロギーのどんな分野であれ、それにたいする科学的「公式」は社会学的方法によってはじめて見いだすことができる。他のすべての「内在的な」方法は、主観主義のなかに迷い込んでおり、さまざまな見解や観点の無益な争いからいまなお抜けられず、また、厳密で精密な化学式にかすかなりとも似ているようなものを提供する能力にもっとも欠けている。イデオロギー的創造物の研究が真に科学的なものにはじめて最大限に近づきえたのは、マルクス主義的に理解された社会学的方法に依るところが大きい。 (pp.10-11)

イデオロギー的形成物は内的、内在的に社会学的 (p.11)
・政治や法律について研究する際に、イデオロギーに着目するのは当然である。

・芸術に関してもイデオロギー的形成物であるという点では(政治・法律と)同じである。

・まとめの一文

美的なるものは、法や認識にかんするものと同様に、社会的なるものの一変種に過ぎず、したがって芸術理論は芸術社会学としてしかありえない。いかなる「内在的」課題も芸術理論にはのこっていない。 (p.11)


ルーマンの芸術論と非常に近いのではないか。そもそもルーマンは社会学の巨視的理論の構築を狙ったわけであり、彼の社会学では芸術も扱われていなければならないために、バフチンの社会と芸術のつながりへの主張とルーマンの理論枠組みが近いのは当然とも言える。(おそらくルーマンであれば「構造的カップリング」として説明するのではないか。)



2.美的交通
芸術論に関する誤った信念
1) 物としての芸術作品の物神化
2) 創作者や鑑賞者の心理の研究への限定

たとえばHarry Potter という作品の美的交通を扱う場合。文章のレトリック研究のみでは完成せず(1)J.K. Rowlingへのインタビューだけでも(2)完成しえない。むしろ両者を合わせて初めて、Harry Potterという作品がどのようなものであり、それがどのような思いで書かれたのか、そしてどう読まれたのかという全体像が浮かび上がることになる。

つまるところ、どちらの観点も、おなじ欠陥をもっている。すなわち、それらは部分のなかに全体を見いだそうとしており、全体から抽象的に引き離した部分の構造を全体の構造と偽っているのである。しかるに、総体としての<芸術的なるもの>はモノや、孤立してとりだした創作者の心理や、観照者の心理のなかにはない。<芸術的なるもの>はこれら三つの契機すべてを包含している。それは、芸術作品のなかにとどめられた、創作者と観照者の相互関係の特殊な形式なのである。 (p.14)

・芸術的交通は、他の社会的形式と共通の土台から育ってくるが、ただし、他の形式と同様に、その独自性を保っている。 (p.14)

この1文もルーマンと照らし合わせると納得できる。芸術システムは<面白い/面白くない>というコードによってすべてのコミュニケーションを区別し、法システムは<合法/違法>というコードで区別する。ただしこれらのシステムは、そもそも土台となる全体社会があって初めて成り立つものである。さらに言えば、土台となる社会が今後どのように変わったとしても、たとえ思想弾圧による表現統制や事実上の無法状態が続いたとしても、芸術システムや法システムのコード自体が変わることは考えにくい。表現が取り締まれても、「面白い」とか「面白くない」という区別は継続されるだろうし、法の力が弱まっても「これは合法」とか「それは違法だ」という区別は残る。



3.言外の意味

生活のなかの言葉は、言語外の生活状況ときわめて緊密な結びつきを保っている。
・生活上の個々の発話には、「それは嘘だ」「真実だ」「よくぞいったものだ」「いわなければよかった」といった特徴づけや評価が与えられる。

こうしたたぐいの評価は、倫理的、認識的、政治的その他のいかなる基準にもとづいていようとも、発話における語そのものの契機、言語学的な契機のなかに含まれているものよりも広くて大きなものをとらえている。つまり、言葉といっしょになってこれらの評価は、発話の言語外の状況をも包み込んでいる。こうした判断や評価はある全体に属しており、そこでは言葉は生活上の出来事と直接に接触し、不可分の統一をなしている。 (pp.16-17)

情報統合理論の意味論と似ている。すなわち顕在的意味(ことばに表れる部分)と潜在的意味(言外の意味)の統一体(統合体)としての「意味」観である。

以下の一文はとても強い一文である。(強調箇所はレジュメ作成者による)

発話の純粋に語としての部分にいかにかかりきりになろうとも、また「tak」という言葉の音声学的契機、形態論的契機、意味論的契機をいかに繊細に定義づけようとも、やりとりの総体的意味の理解には一歩たりとも近づきはしないであろう。 (pp.17-18)

言語外のコンテクストの3つの契機
1) 話し手同士に共通する空間的視野(見えているものの共通性)
2) 状況にかんする、双方に共通する知識や理解
3) この状況にたいする、双方に共通する評価

たとえば劇の台本だけを読んでも登場人物の心情や声の調子(「イントネーション」)を理解できないことがある。それは、上でいう1~3が抜けているからであり、実際に舞台上に立って、同じ空間を共有して、役者同士でお互いの理解・評価を刷り合わせながら徐々に言語外のコンテクストが徐々に形成されるのではないだろうか。


バフチンの信号的言語観の否定

なによりもまず、まったく明らかなのは、この場合の言葉は、鏡が対照を反映するようなかたちでは言語外の状況をけっして反映していないということである。 (p.19)
信号的言語観の否定

信号と記号
・「信号」:11の関係。不変(静的)なもの。(関連性理論でいうところのcode的)
・「記号」:動的で常に意味が揺れ動くもの。(関連性理論でいうところのinferential的)

発話によってコンテクストを共有し、コンテクストの共有によって参加者は結び付けられる。

すなわち、いかなるものであれ、生活の中の発話は状況の参加者どうしを、この状況をおなじように知り、理解し、評価している共参加者として、つねにむすびつける、ということである。したがって、発話は、参加者が同一の存在部分に現実に物質的に所属しているということに立脚しており、この物質的共通性にイデオロギー的表現やその後のイデオロギー的展開をあたえている。 (pp.19-20)

cf) 平田オリザの「コンテクスト(の共有)」の語法と似ていないか?

・言外に示される評価は、個人的主観が強いように思える。しかし、主観は後方に退いており、社会的客観が前方にある。

個人的情調の方は、倍音としてのみ、社会的評価の基本的トーンに伴うことができる。<わたし>は<われわれ>に依拠してはじめて、言葉のなかで自己を現実化できるのである。 (p.21)

コンテクストの範囲は、2人の会話という狭い場合もあれば、家族・氏族・民族・階級・日々・数年・幾時代といった広範・恒常的な場合もある。

・広範なコンテクストでは、言外の社会的評価が発話されることはふつうない。

要するに、そのグループの経済面での生活環境の特徴から直接生じてくるすべての基本的な社会的評価は、ふつう発話されない。それらはこのグループの全員の血肉となっているのである。それらは行動や行為を組織しており、相当する事物や現象といわば癒着している。それゆえに、特別な言語表現を必要としない。 (p.22)

→たとえばヘイトスピーチにみられる差別意識。はっきりと「私たちは○○のことを差別している」という形で言語化されることはほとんどないだろうが、差別者の発話のどこかには被差別者を蔑視する口調がこめられている。あるいは差別意識によって、言葉の選択や言語表現の形式が規定されることも想像できる。(「あの野郎」「のび太のくせに」)
むしろ、「ABを差別する」という文が用いられるのは、その差別意識が問題視されるときのみかもしれない。(自明視された価値観を摘発する社会学を思い浮かべよ。)

⇒対象化することによって自らを取り巻く環境やその根本にある意識を観察できる。



4.イントネーション
イントネーションは言語と非言語の境界にある。
イントネーションはつねに、言語的なものと非言語的なもの、言われたことと言われなかったことの境界上にある。イントネーションにおいては、言葉は生活と直接に接している。 (p.24)

cf) コロスの支え…古代ギリシア演劇における唱歌隊。舞台世界を観客に伝えるのを助ける役割を持っていた。

イントネーション:2つの方向への定位
(1) 同調者や承認としての聞き手に対して
(2) 第三の生きた参加者としての発話の対象
発話の対象は、文学作品であれば主人公である。


私的言語に対する否定的立場
・私的言語(自分ひとりだけの言語)に関して、バフチンは否定的な見方をしていることが伺える。

創造的で、確信に満ちた、豊かなイントネーションは、前提にされている「コロスの支え」を基礎にしてのみ可能である。それがない場合には、声はかすれ、そのイントネーションは貧弱になる。それは、笑っている者が、笑っているのは自分ひとりであることにふと気づくといったような、よくあるケースに似ている。 (p.25)

言外に示されている基本的評価の共通性とは、人間の生きた動的なことばがイントネーション模様を刺繍するカンヴァスなのである。 (p.26)


言語的交通に関する結語

このようにして(いまや断言できるが)、辞典のなかにまどろんでいるのではなく、実際に発せられた(あるいは意味をもって書かれた)あらゆる言葉は、話し手(作者)、聞き手(読者)、話題の対象(主人公)という三者の社会的相互作用の表現であり所産なのである。 (p.30)

(言語学的抽象化ではなく)具体的な発話は、発話の参加者たちの社会的相互作用の課程で生まれ、生き、死んでいく。発話の意味や形式は、基本的にこの相互作用の形式と正確によって規定される。発話を、発話を培っているこの現実の土壌から切りはなしたならば、われわれは形式への鍵も意味への鍵も失ってしまい、手中にのこるのは抽象的な言語学的外皮か、やはり抽象的な意味図式(古めかしい文学理論家や文学史家たちの悪名高き「作品のイデー」)だけである。これら二つの抽象化は、生きたジンテーゼのための具体的な土壌がそれらにとって存在しないために、たがいに結合されえない。 (pp.30-31)



cf) 台詞とシナリオに関するmochiの理解


★強引に翻訳論と絡めて話すと、翻訳者に求められるのは「台詞」を緻密に分析したり辞書にある訳語を参照したりするだけでなく、原典テクストの「シナリオ」を理解し、そのシナリオを目標言語話者に再現させることといえないか。原典テクストの話し手・聞き手がいて、その話題の対象がその文化・社会ではどのように認識されているかを総合的に理解することが第一である。英語教育で翻訳をするとしたら、翻訳の過程でシナリオの再構築を行い、それが読解作業になるのではないか。

5.芸術的発話

日常生活の言葉は言外のコンテクストに参照することで意味が生成された。詩ではそれが通じず、すべて言語的に表現しなければならないと考えられがちである。

しかし、実際には詩も言外のコンテクストが必要である。

文学においてとくに重要なのは、言外に示されている評価の役割である。詩的作品とは、発話されていない社会的評価の強力なコンデンサーなのであり、あらゆる言葉が社会的評価で充満している、といってもよい。この社会的評価こそが、その直接的表現として芸術的形式を組織しているのである。 (p.34)

詩人というものは、辞書から言葉を選び出すのではなく、言葉が評価によって支えられ満たされていた生活上のコンテクストのなかから言葉を選び出すのである。 (p.34)

「素材」「形式」「表象」
・彫像を例にとると・・・
素材:大理石
形式:人体
表象:「英雄化したり」「いつくしんだり」「おとしめている」

→上の例を「形式の意味は、素材ではなく内容に関係している。」 (p.35) に当てはめると?





2016年3月9日水曜日

「リテリング」分類の提案

こんにちは、mochiです。
最近更新をしておらず、久々の投稿となってしまいました。
(サバ君、ニンソラ君、記事を書くように!w)

さて、論文も出し終わり、そして附属学校の授業見学やゼミ合宿、名古屋地区の修論発表会などを終えて、最後のモラトリアム期間を絶賛満喫しております(笑)。

そして4月から始まる新生活に、期待と不安を抱きながら過ごしております...。

さて、この一年ほど、学部や院の友人と一緒に「模擬授業会」という自主勉強会を続けてきました。この勉強会は、模擬授業の練習をしながら「授業がうまくなろう」というのが建前ですが、「大学で習った理論って、そのままは使えないよね~」という(ある意味当然の)前提を確認するという裏メッセージもあります。

最初は少人数(3~4名)で行っていましたが、徐々に増えて、今では学部一年生から院生まで、10名前後で行えることが多くなってきました。

この勉強会をやって一つ良かったのは、異なる学年の大学生が、そして学部生と院生が、学びあうことができたことでしょう。大学院に入って、「学部はまだ授業法を習ってないから」と(若干)遠慮をしていましたが、TAをしながら、自分が「教える」ばかりだけでなく、彼らから「学べる」こともたくさんありました。

今回は、そんな模擬授業会を通じて感じたことを文章にしてみました。最近流行りの「リテリング」に関する雑感です。現段階では粗い概念整理ですので、今後実践を踏まえてもう少し精緻化できたらなと思っています。


■ 「リテリング、サイコー!」

英語教育において「リテリング」が一つの注目の的である。学部の模擬授業や教育実習では、多くの学生がリテリングを最終活動に設定した単元を計画する。

そもそも「リテリング」とは何か。卯城 (2013) では「ストーリーを読んだあとに原稿を⾒ない状態でそのストーリーを知らない⼈に語る活動」と定義されている。読む活動と話す活動の統合型であり、英語授業で多くの教師が取り入れる「音読」の次のステップとして位置づけやすいことからも、リテリング活動は今後注目されるだろう。

しかし、「リテリング」が概念的に十分検討されているとは言い難く、その活動も幅広いバリエーションがある。実際、学部生とディスカッションをしていても、「リテリング」という言葉でイメージしている者が人によって異なるということが何度もあった。(そりゃそうだ!)

そこで、リテリングを礼賛する「リテリング、サイコー!」状態から、もう少し批判的に吟味する「リテリング『再考』」へと橋渡ししてみたい。(これが言いたいだけという感じが否めないw)

分類の観点として、近江 (1988) の「同化-異化」を用いる。


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■「同化」と「異化」

近江 (1988) は「読む」ことを「同化」と「異化」に分類している。これらの分類は翻訳や演劇の世界でも用いられるが、本稿ではリテリングの分類に援用する。本節では両者の違いを説明する。

「同化」とは、読者が筆者の思考・感情の状態で読んだり、想像の世界に自己を投入して登場人物になったつもりで読んだりすることである。たとえば、シンデレラという作品を読む際にも、読者がシンデレラになったつもりで読んだり、シンデレラの作者がどんな思いで作品化したのか思いを寄せたりすることが考えられる。

「異化」は、言語表現を、内容・書き手・書き手の意図との関係から評価しつつ読むことである。たとえば、『シンデレラ』の世界からある程度距離をとって、この作品を批評することが挙げられる。この「批評」という言葉はあまりよく理解されていないように思える。要するに、文章の機能を果たすためにその文章の表現が適しているかを判断することである。批評をするには、読み手が作品の世界に没入しすぎたり書き手に共感しすぎたりしてはならない。適度な距離をとりつつ、作者の意図(目的)を果たすためにその文章に改善点がないかを判断する。

この分類は、作品との距離の取り方や読み手の主体性、批評の有無(コメントの有無)といった観点に基づいている。これを用いて、リテリングを言語活動の一形態と見なし、「まとめ記事用リテリング」「レポーターリテリング」「霊媒師リテリング」に分類する。

■リテリングの3分類

(1) まとめ記事用リテリング(速読・異化型)
第一に、まとめ記事用のリテリングである。たとえば、あるネット記事をスキミング(概要把握のための速読)して大まかな内容さえ理解すれば、まとめ記事を作成することができる。
ここでは、「異化」的に、且つ「浅く」読めば十分リテリングをすることができる。また、要点のみを抑えているため、読み手の主観的コメントを加えることもできるが、必ずしも筆者の真意を踏まえていない場合もある。

(2) レポーターリテリング(精読・異化型)
レポーターは、まとめ記事を作るネットユーザー以上に取材を丁寧に行い、「仲介者」として原文にある内容を客観的に伝えようと心がけるだろう。ただし、「仲介者」である以上、原文世界とはある程度距離をとる。レポーターにも主観的コメントを求められる場合がある。(1) と異なるのは、原文を丁寧に読んでいるために、筆者の真意を踏まえたコメントがしやすいという点である。

(3) 霊媒師リテリング(深い同化型)
最後に、霊媒師リテリングを挙げる。先ほどの分類で言う「同化」であり、読み手が筆者に共感的に(帰化するように)文章を丁寧に読む。ここまでは(2)と似ているが、それを他者に伝達する際に、読み手が書き手(登場人物)になったかのように話す。たとえば人称は “I” を用いられるであろうし、声の出し方やトーンも(1)・(2)とは異なるだろう。また、霊媒師は筆者が憑依したかのようにリテリングするため、読み手の個人的コメントが求められにくい。


■ それぞれの特徴
以上、「同化―異化」という観点から、上のように分類を行った。

(1) まとめ記事用リテリング
・速読⇒(音読)⇒リテリングという活動単位で、比較的短い時間で可能
・テクストは速読用教材同様、学習者が辞書を用いずに読める語彙レベルが理想。
・「じゃれマガ」のような短く平易な英文を用いれば、帯活動でリテリング活動を始めることができる。

(2) レポーターリテリング
・精読⇒音読⇒リテリングという活動。
・どの単元でも用いやすい定番活動のため、モジュール型単元に適している。
(cf. 齋藤 榮二氏『生徒の間違いを減らす英語指導法―インテイク・リーディングのすすめ』)
・読み手の意見を述べる必要があるため、「読んだ内容に基づいた自分の意見を述べる」力を育成することができる。

(3) 霊媒師リテリング
・精読⇒音読⇒リテリングという活動。
・著者のキャラクターが読み取りやすい教材(エッセイ・物語文)の場合は適している。
・原文著者と同化させることに成功した場合、「本文の続きを考えて話しなさい」のような高度な言語活動につなげることも可能。


■ 所感
以上が、リテリングの分類およびそれぞれの特徴である。単に「リテリング」と言っても、これほど多くの言語使用を指示しうることに留意したい。

また、(1)や(2)のようなリテリングはよく研究授業や公開授業で見ることがあるが、(3)のようなリテリングはそもそも実践されているのだろうか。(というより、精読の授業がどのように現場で展開されているのだろうか。)

現場に立ったら「リテリング」を目標に学年計画を立てようとは思うが、個人的には2学期後半から3学期にリテリングができてれいば十分だと思うし、そのためにも音読やインテイクリーディングを丁寧に行い、目的に応じて(1)~(3)を使い分けながら活動デザインをしたい。