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2019年12月29日日曜日

鳥飼玖美子・刈谷夏子・苅谷剛彦 (2019) 『ことばの教育を問い直すー国語・英語の現在と未来』ちくま新書


2019年は言語教育史においてのちに激動の1年と語られるはずである。思えば自分が院生の頃から謳われていた「大学入試改革」「外部検定試験の活用」が実現化しかけていた折に、諸メディアで英語教育が話題として大きく取り上げられ、インターネット上で高校生や現場教員が意見を発信し、文部科学省前でのデモ活動に繋がり、最終的に11月1日に「延期」という結論に至った。これほどまでに言語教育が世間の身近な話題になったこともなかなかないだろう。高校現場では文部科学大臣からの「メッセージ」がA41枚で全生徒に配布され、生徒たちの様々な反応を突きつけられ、英語教師は何を思ったのだろうか。

また門外漢ではあるが、国語・数学の記述試験導入への準備も進められていた中で、つい先日(1217日)文部科学省から見送り表明の一報があったのも記憶に新しい。「採点ミスの完全な解消」「自己採点と実際の祭典の不一致の改善」「質の高い採点態勢の明示」が課題となり、無期限での導入見送りが発表された。これを受けて、国語教育関係者は今後何を目指し、どのような力をつけようとするのだろうか。

英語教育・国語教育を「言語教育」という括りで捉えれば、一連の騒動は「言語を教える」という営みについて再考する良い機会となる。言語教師は、何を、どのように、何のために教えているのか。そして現状の言語教育に改善の余地はないのか。現状を反省して相対化するには、理論が必要である。このような状況にいる現場の言語教師に、ぜひ本書『ことばの教育を問い直す』を薦めたい。言わずと知れた英語教育の大家である鳥飼玖美子氏、及び近年話題の新書を出されていた刈谷夏子・剛彦氏が対話形式で各々の視点から問いを出し合い、答えを出しあうという構成をとっている。

以下、自分が読んで印象的だった「①省エネモードの言語使用」「②大村はま実践」「③国語・英語連携の探究活動の可能性」を中心に紹介したい。①はいわば現状の認識であり、②・③はその解決策としての提案である。本書の忠実な要約ではなく、自身の言語教育観を相対化するための試みであるため、かなり大幅な言い換えや省略が含まれていることをあらかじめ断っておく。


◻️ 省エネモードの言語使用(第1章:刈谷夏子氏)

AI vs 教科書が読めない子ども達』を引くまでもなく、現代の国語力は危機的に陥っている。刈谷氏は「省エネモード」として以下の特徴を挙げている。

・パッと思い浮かんだ常識的な、通りの良さそうな言葉で間に合わせる。いつもそれを繰り返しているので、ほとんど自動的、反射的にことばを使っている状態。
・自分の内心の深いところ、考えの微妙な部分とはあまり関わりなく、するっと滑らかに送り出せばいいという姿勢。
・ことばの選択に多少の違和感があっても気にせず、とりあえず、なんとなく、使えれば十分。というよりは、ことばに違和感を持つこともあまりない。
・汎用性の広い便利な言葉を繰り返し使っている。「すごい」「やばい」「無理」等。
・仲間内で簡単に共感できる短い表現をもっぱら愛用する(仲間と思っていない人とはあまりかかわらない)・
・本離れが加速し、長い文章を読む機会が減っている。
・周囲と摩擦を起こさず、期待にうまく沿ってことばを使っていこうとする。(p.23


この省エネモードの問題は、このようにことばを主体的に使わない人たちに対していくら教員が頑張って教えても、結局彼らは自身への関連性を見いだすことができずに身につきにくいという点(p.26)である。例えばバドミントンを楽しいと思っていない人に対して体幹トレーニングを強要しても身につかないのと同様、多くの教育関係者が同意するであろう根本の教育原理だ。だとすれば、レディネスを高めるためにも、教師が生徒に対してできることは、省エネモードから脱する言語使用を経験させ、ことばを主体的に使う必要性を実感させることであろう。

省エネモードの言語使用は一言で言えば、「ことばへのこだわり」がない状態である。刈谷氏はこの状態の母語を比喩的に「普段着のことば」(p.26)と言い表している。誰からも教えられなくても、自分の身体から湧き上がってくることばで、使っている本人は特に意識する必要がない。ちょっとコンビニに行くのに着ていくレベルの服であればそれで良い。国語教育は必ずしもそのような子供たちに「ヨソイキの服」を着させることを意図する必要はなく、「どこへ出ても恥ずかしくない普段着を持つ」べきと喩えられている(p.28)。

この比喩自体が素敵な言い回しなので自分なりに補足したい。 なぜ「ヨソイキ」の服を着させる必要がないかというのは、あくまでもことばが発話者の心身情況に応じて創発的に生じるものだからであろう。ヨソイキの服は式典や礼式の日だけ着て、必要がなくなればすぐに脱いでしまうこともできるものである。式典が終わってすぐにネクタイを外したり、ボタンを一つ外すことも容易に想像できる。そのようなヨソイキのことばを咄嗟の場面で使うことはなく、単元が終われば忘れ去られてしまうのだろう。そうではなく、最低限身なりを整えた、それでも気張る必要のない服装で十分である。

まとめれば、普段省エネモードで生活している子供たちに、多少なりとも言葉へのこだわりの面白さを実感させ、様々なジャンルの言語使用を「ある程度」主体的にできるようにさせることが現実的な国語教育の目的と言うことができる。

ちなみに、英語授業で行われるスピーチの定型表現やインタビューの発話は「ヨソイキ」ではないと言い切れるのだろうか?英語授業で「1対1」的な訳語を教え、その訳語通りで答えなければ減点する教師も省エネモードの言語教育をしてしまっているのではないか?(この点については後述。)


◻️ 大村はま実践の哲学


ことばを、いつも自分にしっかり引き寄せて、自分の脳や心、思考や精神、感情とぴしっと対峙させて、「この言葉でいいか」と必ずちょっと考えてから使う。違和感があったら見逃さず、自分を覗きこむようにして探り、選び取り、なめらかさを望むよりは、引っかかりや摩擦をバネにして、自分の体重を乗せるように、体温を移すように、誠実に丁寧に使っていく。そうであってこその「ことば」なのだ……。(p.30

大村はま実践については大学院の初等国語の授業で「実の場」「単元学習」などの用語は聞いたことがある程度だったが、この引用を読むだけでも、大村はまがどれだけ素晴らしい教育者なのかが伝わってくる。鳥飼氏も述べている通り、ぜひ大村はまの実践を「言語教育」という文脈で再解釈し、英語教育者も勉強できるような環境があればと思う。

残念ながら大村はまの実践の具体については本書はそこまでカバーしていない。あとがきでも書かれている通り、筆者たちが大村実践を理論化することは目指しておらず、あくまでも刈谷氏の体験談に対して、両者が意味づけを行う程度にとどめている(これが本書の好感度を高める点でありつつ、同時に物足りなさを感じさせるかもしれない。より詳細を知りたい方は『新編 教えるということ」などが参考になると思われる。)来年時間ができたら早速手に取りたいと思っている。

第3章では刈谷夏子氏が大村実践の要素を3つ紹介している。「いきいきとしたことば・生徒・教師」(pp.71-76)だ。教科書に書かれている「ヨソイキ」のことばをいかにいきいきとした表現に見せるか。生徒の目を輝かせ、教師自身もそれを楽しめるかどうか。当たり前のことを言っているかもしれないが、外部検定試験導入の際にこれらの論点は出ていただろうか。「実現可能性」「教育格差」ばかりが論じられていたが、いきいきとことばを使う姿が果たして想定されていたのだろうか。当時の言語教師はいきいきと仕事に取り組んでいたのだろうか。

◻️ 国語・英語連携の探究活動の可能性

刈谷剛彦氏が探究活動に関する新書を出していた(『教え学ぶ技術』)が、本章では探究活動に生かせそうなアイデアも提案されている。たとえば大村はまの「花火の表現比べ」だ。

大村が中学生に授けた基礎ともいうべき知恵は、並べ、比べる、ということでした。自分の経験や知っていることの中から、近いもの、どこかに共通点のあるもの、ふと思い出したもの、正反対のもの、全く関係のなさそうなもの……とにかく、並べてみて、比べてみる。すると考えるという行為にグッと具体性が生まれます。(中略)大村は74歳で教室をさる半年前の夏、隅田川花火大会を報じる四紙の新聞記事7つに出会い、それが一年生の「花火の表現比べ」という単元になりました。天候、花火の上がった夜空の光景、音、観衆のようす、橋の上の混雑、川面、など観点別に表現を比べた学習でした。並べれば、そこには必ず何かしら気づくこと、見えてくること、考えたいことが生まれる。それは生徒たちを 主体的な読み手にする契機となりました。(p.151

この活動の面白さは、ただの新聞記事の読解という活動が、比較対象を設けることによって文体論的な視座を含んだ学習活動になるということだ。「筆者はなぜAという表現を(Bという表現を使うこともできたはずなのに)使ったのか」とか、「どうしてこの筆者は他の全員が述べているこの点を述べていないのか」という問いにつながり、その中に生徒が「探究したい問い」を見出す可能性もある。

本書ではさらに翻訳比較の活動(「心」の訳、『星の王子様』のtameの訳語など)が紹介されており、翻訳活動や翻訳鑑賞自体が探究的な学びの一例になることが示唆されている。

しかし、鳥飼氏は英語教育における翻訳は容易ではないと述べています。同時通訳に従事された鳥飼氏ならではの、鋭い翻訳考に基づいた意見です。(本書を通じて最も印象に残った箇所でもあります。)

翻訳を英語教育に導入することは、実のところ容易ではありません。翻訳論の視点から明確に言えることは、言語が異なれば「等価」にはなり得ないのが当然です。言語は必ず文化を内包していますから、一見、容易に翻訳できそうでも意味内容が違ったりします。(中略)
そのように考えると、外国語教育の授業で「翻訳」に挑戦し、「どう訳すのか」の翻訳論に終始してしまうと、外国語そのものを学習する時間が割かれてしまいます。それで、世界の多くの学習者が文法訳読法では外国語が使えるようにならないと批判したのです。日本でも同じです。 (pp.176-177

一方で「英語の授業は原則英語で」の方針にも問題はあります。

学習指導要領改定以来、英語教員研修で「英語でどう授業をするか」が中心課題になっている感があります。留学経験者で英語に自信があり研究授業の立役者となる教員がいる一方で、なぜ英語で授業なのだ?と反発する教員もいれば、諦めの境地の教員もいます。何れにしても「英語で授業をする」ことが目的化しており、何が最も生徒のために良い授業なのかが置き去りにされないかという懸念があります。
「英語で英語を教える授業」が、授業を理解できない生徒を増やし英語嫌いが多くなる、教師の英語力と生徒のリスニング力に合わせ授業内容が浅薄になる、などの弊害が明らかになってくると、今度は「訳読」への回帰が強調されるでしょう。ただ、「訳す」授業についても慎重な議論が必要だと思います。(p.178

今回の民間試験の導入が見送りになったことから、現場ではおそらく「訳読回帰」のような現象が一部で見られるかもしれない。例えば、入試があるからなんとか4技能を育成しようとしていた教員が、その必要は(しばらくの間)なくなったと判断し、授業改善以前の文法訳読に終始する授業を展開しても不思議ではありません。今の時期だからこそ、普段の指導における「訳」使用については慎重な姿勢が求められるのだと思います。また、英語教師が「訳」に対してどのような信念を抱いているのかを明らかにする必要もあります。彼らが「訳」を指導(評価)するという営みにおいても、その行為に影響を与える「規範」が存在します。もしその「規範」が従来的な「1対1」の静的等価規範(あるいは「省エネ的な規範」)であれば、いくら訳活動を取り入れたところで上のような面白い実践に繋がることはありません。「1対多」の訳出を可能にするような動的等価の規範が広まることが重要だと思います。

昨日、某予備校主催の入試研究会に行ったところ、近年の難関大入試は「多義語の解釈」を問う良問が増えたという分析であった。単語テストで「1対1」の訳出に慣れきった生徒には負担で、良質な言語活動や解釈を経験してきた受験生が得をするようにできているというのは良い傾向だと感じた。

◻️ 感想および普段の実践の反省

ぜひ多くの言語教育関係者に本書を手に取ってもらいたい。少なくとも英語教師にとっては随所に「まさにその通り!」と言いたくなる記述が散りばめられている。さらに、読んでいて耳が痛くなるほど、冷静な言葉で自分の実践の至らなさも指摘されるように思えた。しかし、本書で使われていることばはどれも現場の教員を応援するような温かさにあふれている。読み終わった後に「どうしよう」ではなく「やってみよう」と思えるような本だ。また、この本をきっかけに、国語教育と英語教育の連携が進めば面白いと思う。学習指導要領の改訂で国語科の科目名が大きく(英語科の比ではなく)変わり、各校の国語教育のあり方が問われていると思う(cf .文学国語を扱うか否かなど)。

上では言及しなかったが、「演繹と帰納の往還」(第5章)などのエピソードも大変面白く読んだ。本書自体が具体と抽象を行ったり来たりという構造になっていることも面白い。また、アメリカではadversity score(逆境スコア)がつけられ合否判定に使われる(p.213)というのは驚いた。エンパワーメントの教育としては大変画期的である一方、そのスコアの付け方の恣意性は問題にならないかと疑問もあった。

あえて本書を批判的に捉えるなら、大村実践を中心に据えた割には、その実践についての語りに紙面を割いて欲しいと感じた。少なくとも、帰納と演繹や、英語スピーキング(定型表現からの脱却)にまつわるエピソードもあればぜひ知りたいと思った。大村はま氏の実践に関する書籍が新書レベルではなかなか見つからなかったたため、もう少しエピソードの数が多いと読者の演繹・帰納の往還も活性化されたのではないか。

働き方改革が進む中、「省エネ」自体悪くないかもしれない。しかし、言語教育の授業の諸要素(教材、指導、ことばかけ、評価)に「省エネモード」が見え隠れするならば、私たち教員も彼らと一緒に「普段着」でぬくぬくしているだけなのかもしれない。英語表現にkick them out of the comfort zoneという言い方があるが、省エネ言語使用というぬくぬくした状態から一度蹴り出して、ことばにこだわりを持たせる必要がある。というよりも、もしかしたら元々子供たちはことばに興味があるにも関わらず、省エネ言語教育により、徐々に言語を省エネモードで使うようになるのかもしれない。年間指導全てに取り入れることができないとしても、部分的に教師がことばにこだわりを持ち、いきいきとしたことばを体感する場面を設定する必要があると感じた。これに関する具体的アイデアは後日記事を書きたい。




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