2015年11月19日木曜日

高尾隆・中原淳 (2012) 『インプロする組織-予定調和を超え、日常をゆさぶる』三省堂

こんにちは (^-^) mochi です。

最近、コミュニケーションにおける「即興性」という言葉が気になっています。

英語教育でも、次の学習指導要領で「他者の尊重」ということばが目標に含まれるようですし、次の展開が予測できない「他者」に対峙し、即興的に対話をする力が求められるのかもしれません。

私は言語教育と「即興」について考えるとき、即興劇 (impro) の発想が大変参考になると考えています。そこで高尾・中原 (2012) 『インプロする組織』(三省堂) を手にとってみると、これが大変面白かったです!

Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる
Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる高尾 隆 中原 淳

三省堂 2012-03-16
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この本は、昨年末に国際表現言語学会に参加した際にも気になっていたのですが、やっと手にとって読むことができました。

以下、面白かったところを中心に紹介します。

■ 伝統的な授業の問題点

高尾氏は今日の授業を講義型の知識伝授行為として、以下のように批判しています。

1) 知識の活用がしにくい
2) 自分で知識を探したり作ったりすることができない
3) 知識を伝える方が自らの振る舞いを見直すことがない

ここで断っておく必要があると思うのですが、必ずしも今日の学校授業が上のような知識伝授とは限定できないと思います。このような問題意識は教育現場にも教育政策にもあって、「アクティヴ・ラーニング」の必要性も叫ばれています。

また、必ずしも知識伝授式の授業が否定されるべきだとは思いません。正確な発音の仕方や英文法の形式の説明などは、メタ言語を使用した丁寧な説明が効果的な場合も多いと思いますし、知識伝授式の授業が得意とする領域まで「アクティヴ・ラーニング」に取って代わられる必要もないでしょう。

とはいうものの上の留保をつけてでも高尾氏の主張は意義深いと思います。高尾氏の主張は現象学と批判理論を基盤としており、知識伝授式の授業が信頼している確かな真理・知識といったものがそもそもないのではないか、また、教える側の権力性によって無批判に正当化されている部分が教育行為にあるのではないか、といった批判意識に根ざしています。そこで高尾氏は、これまでの「学び」に排除されてきた要素を見つめなおします。

学びから排除されたものは、有利な立場に立っていた人が、これらのことが学びに入っていると自分たちを守っている既存のルールが脅かされ都合が悪い、と考えて排除した可能性があるからです。…それは「からだ」です。 (pp.24-25) 

■ 「からだ」の重視-パフォーマティブ・ラーニング

高尾氏は「からだ」をメルロ=ポンティの身体論を援用しつつ、「主体としてのからだ」と「物としてのからだ」の両義的な性質を持ったものと位置づけます。「主体としてのからだ」は意識の源としてのからだで、そもそも私たちがからだなしには何も考えられないことからもからだを我々の主体といえるでしょう。「物としてのからだ」は物理的な対象としてのからだで、たとえば私たちが鏡で自分のからだを見たり、他者によって自分のからだを触られたりすることもできます。このようにからだを「主体/物」(あるいは「見るもの/見られるもの」という両義性で捉えています。

この両義的なからだは、時にずれ(矛盾)を生み出すこともあります。ベイトソンのダブルバインドの議論と似ていますが、私たちが「愛しているよ」と言いながらも顔が引きつっている場合などが、「主体としてのからだ」が出したがっているメッセージと「物としてのからだ」が出してしまっているメッセージのずれ(矛盾)に当たります。

この「ずれ」は無意識に起こってしまうものなので、社会生活では不便なものと感じられて抑圧されてしまいます。特に管理社会であれば、「物としてのからだ」から自ずから出すメッセージを無視して、「主体としてのからだ」が論理や言語を用いることの方が都合が良いでしょう。

しかし、高尾氏は逆の見方をしています。「主体としてのからだ」が「物としてのからだ」を操作・支配するだけでなく、「物としてのからだ」も同様に「主体としてのからだ」に影響を与えていると。さらに言い換えるなら、「からだ」が行うパフォーマンス (performance) によって主体の自己同一性 (identity) が変化するような考え方といえます。このパフォーマンスと自己同一性が表裏一体の関係にあると考えるのがパフォーマティビティ (performativity=performance+identity) で、これこそがパフォーマティブ・ラーニングの軸となる考え方です。

パフォーマティブ・ラーニングは (1) からだを動かして表現する、(2) 他者へ向けて表現することで自分を解体・再構築する、という2つの意味が込められています (p.40) 。ここで具体的な教育方法論として用いるのがインプロ (impro) です。インプロは、「主体のからだ」と「物としてのからだ」がそれぞれ調和・統一した状態でパフォーマンスをする状態を指します。パフォーマティブ・ラーニングは「物としてのからだ」が管理下されて固定化してしまうと不可能になってしまうので、からだを解放させて自然発生的な反応 (spontaneity) が生まれるように環境整備する必要があります。


■ 合目的的教育観とパフォーマティブ・ラーニング観

近代以降我々が有している教育観は、しばしば「合目的的教育観」と批判されます。合目的的教育観とは、手段―目的図式が強固に用いられている様子を指します。たとえば私たちが授業を行う際は、常に目標を設定して、それに従って計画を立てて実行し、評価をすることで次に生かそうとします。このような目的の強調は、アメリカの教育哲学者のデューイも述べているとおり、大変重要なものです。

ただし、インプロでは計画が行われず、むしろ「即興的かつ局所的な対応」 (p.61) が求められます。そもそもインプロという言葉は、「予-見」 (pro-vision) することができない (im-) という語源を有しています。そこで、「未来」に見通しを持つのではなく、「今・ここ」で、「身体」をメディアとして用いることで、物事の多用な見方や意味づけを学びます。

このようなパフォーマティブ・ラーニング観は、ある意味無計画で無謀なように思えるでしょう。ただし、合目的的教育観が見逃している部分に関して、パフォーマティブ・ラーニングには可能性があるようです。

既述したように「即興的」で「創造的」で「協同的」で「脱権力(民主的)」で「共愉的」なインプロは、一見、論理では説明がつかない、「費目的思考の行為」「経済的合理性に反した行為」「非科学的・非論理的な行為」に見えます。しかし、それは、不確実な世の中を生き抜く知恵の一つであり、うまく奏功した場合、「目的志向の行為」「経済的合理性のある行為」「科学的・論理的な行為」を、陰ながら生み出す可能性も持っているのではないか、と僕は感じています。 (p.69) 

この箇所に関する自分の意見は、「そりゃ、どっちも大事だろう」というありきたりなものです。(笑)

もし「合目的的」な授業ばかりをデザインし続けると、コミュニケーションが本来有する偶発性や複雑性といった部分を学習者に体験させる機会が少なくなってしまうかもしれません。そこでインプロが使えるわけですが、かといってインプロばかりやっていては、学習者への学力保障が必ずしもできるとは思えません。

(先日、某県立中学校の授業を参観させて頂きましたが、その先生の授業では、この「合目的性」と「インプロ性」が非常にバランスよく取り入れられていたように思えます。おそらくこのバランスのとり方が最も難しいのだと思いますが・・・。)

■ インプロの原則

ここで、著者の両氏が重視されているインプロの原則を確認します。

1) 無理しない
2) Give your partner a good time.
3) 自分も楽しむ

これらは、「からだ」を解放するためにも、また自然な即興性を表現するためにも、「無理をしない」「お互い愉しむ」ということが重視されます。

ここで、2)に注目したいと思います。両氏は「他者」を学びの根本的存在として捉えています。

人は一人では学べない、人は一人では代われないということなんです。「学ぶ≒変わる」ためには、他者がどうしても必要です。究極的に言うと、自己を自己で認識し、律するためには、どうしても他者の助けや他者の視点が必要だということです。…「学びの他者性」なんです。 (pp.217-218)

私たちは「他者」と関わることで、自己を認識することができます。この辺をヘーゲルの概念で語れば、「他者の内に自己を見出す (sich-im-Anderen-anschauen) 」に近いかと思います。つまり、最初は「他者」として立ち現れる存在のうちに「自分」を見出し、もともとの自分 (即自的存在としての自分) と他者のうちに見出す自分 (対自的存在としての自分) が弁証法的な統一を遂げることで、「成長」「学び」を起こすことができるといえるのでしょう。

(この具体的なインプロのエピソードまでは本記事では紹介しませんが、本書の最大の魅力はこの豊富なエピソードにあります。他者と接して、偶発的なコミュニケーションが連続しつつ、会話の参与者で共通の土台を協働的に作る参加者の姿が詳細に記述されています。)

■ 身体と言語―裂け目を入れるための振り返り

最後に、インプロやパフォーマティブ・ラーニングにおける「言語」の役割について確認しておきます。著者らは「言語」の役割を「振り返り」に帰します。現に、本書で紹介されるワークショップでは、アクティビティが終わる毎に参加者と「今のどうでした?」「ここでこうしてたらどうなってたと思いますか?」と、参加者がインプロで行ったことについて言語化を促します。高尾氏はこの役割を「“裂け目”を入れる」という比喩で語ります。

からだを動かすこと事態で“裂け目”は入らないんですよ。からだを動かしたあと、それを言葉にしたときに裂け目が入る。言葉にすることが効いている。ただからだを動かして、「はい、今日はからだをたくさん動かしましたね」っていうワークショップでは、たいてい何もおきていない。それでは「エクササイズ」ですよね。 (p.202) 

また、中原氏も以下のように語ります。

「からだを動かすこと自体で“裂け目”は入らない」とは慧眼ですね。そこで起こったできごとのプロセスを、一人称で、自分の言葉で表現したときに、内省が駆動し、裂け目が入る。同じ言葉にするにしても、自分に起こったできごとのプロセスを、一人称で、自分の物語として書き留めていくことが大事なんですよね。 (pp.202-203)

前節までで述べてきたように、「物としてのからだ」によってできるだけ自然な動きをインプロでした後、再び「主体としてのからだ」と「物としてのからだ」のずれ・矛盾に目を向けるためにも、言語化を行う必要があります。言語化は「裂け目」をいう比喩が用いられていますが、ルーマンに倣えば「区別」と言っても良いでしょう。インプロ中はできるだけ区別を敢えて引かずに進めますが、それが終わった後に敢えて「主体としてのからだ」の視線で区別を引くことで、言語化された自分と、言語化されなかった自分の身体知のギャップへの気づきが起きやすくなるのでしょう。


■ 最後に

「偶発性」や「即興」「対話」といった要素が、しばらくの自分にとってのキーワードになるだろうと思います。できれば大学院にいる間に、「即興性」という概念について自分なりの定義が提出できればと思うのですが、どうなることやら。(笑)

本書は、自分の固まりきった考え方を対自化するためにも、とても読み応えがありました。

ただし、一般書なので、インプロに関する理論面については少し物足りない感じがあります。言語教育とインプロで調べたら、以下の洋書を見つけたので、次の読書はこれにしようと思っています。


Improv for Teaching Foreign Languages (English Edition)
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また、パフォーマティブ・ラーニングという概念は、アクティブ・ラーニングと対置したときに、どのような点が異なるのでしょうか。個人的には、「からだ」「即興性」の重視というのがオリジナリティといえても、系譜として両者は非常に似ているのではないか、という考えです。

また、自分自身がインプロの体験をする必要もあると思うので、今年の年末も演劇ワークショップに参加してこようと思っています。


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