2014年3月1日土曜日

実在・現象・欲望を軸とした、映画『羅生門』の一解釈



いよいよ3月になります。塾でもこれまでみてきた中2・高3クラスの担当が終わり、来週から中1の新しいクラスを担当することになりました。昨日は1年間続けてきたフリースクールでのボランティアの最後のクラスを行ってきました。大学では追いコンが終わり、ゼミ同期メンバーで過ごす最後の時間であったゼミ合宿も終わり、大学の友人たちが社会に出るときが少しずつ近づいてきます。

自分ものんびりしていられないな、と頭では分かりつつも、映画を観る毎日(笑)

今回は映画『羅生門』に絡めて、TVドラマ「リーガルハイ」とか苫野先生の議論とかを交えながら、自分の感想をとりとめもなくつづりたいと思います。


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映画『羅生門』は黒澤明が監督を務めた作品で、芥川の小説『藪の中』と『羅生門』を原典としています。最近になって黒澤映画を少しずつ観ていますがとても面白く、白黒映画だからといってこれまで敬遠していたのがもったいなく感じました。


※注:本映画のエンディングシーンに関する感想も含んでおります。結末部分を知りたくない方はお読みにならないことをお勧めします。



>>あらすじはこちらを参照(Wikipedia)。


この映画の主題は、人が自分に都合の良いように物語を書き換えるという点にあると思いました。現にこの登場人物の中で、完全に客観的な視点を持っている人はいません。各々が自分の見たように(あるいは見たいように)話して、互いの描写に潜む矛盾点に悩みます。


TVドラマ「リーガルハイ」シーズン2第9話でも、古美門さんが「人は見たいように見て、信じたいように信じる」と言っていました。ある人を犯人だと思えば、その人の証言もどこか嘘があるという前提で聴くでしょうし、事件の証人もその人が犯人であるという先入観があれば見ていないことまで話し出すかもしれません。そういった意味では上の主題は人間の性質をよく描いているように思えます。

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また西洋認識論の伝統的分類で、実在と現象があります。実在とは対象が「どうであるか」で、例えば今目の前にある他者は本当に存在しているのかどうか、自分が頭の中で作り出したものにすぎないのではないか、といった議論になります。それに対して、現象は対象が「どうみえるか」で、自分がどう見ているか、どう感じているかという点を重視した議論になります。哲学科の先生が、「実在を追求するのが哲学者の仕事。現象を追究するのが芸術家の仕事」という説明をされていましたが、この説明は見事に上の違いを示しているように感じました。


以前紹介した苫野氏の議論でも、「よい教育とはどうであるか」という問いではなく、「どのような時によい教育と感じたか」という問い方を用いていました。これも前者は実在を問うたもので、後者は現象を問うたものと言えましょう。さらに苫野氏は「欲望論的アプローチ」と名づけ、自分の欲望によって現象は異なるという点も説明しています。1本の水も、「のどが渇いたから飲みたい」という欲望があれば「飲み水」に見える(現象)でしょうし、「花が枯れそうだから水をやりたい」という欲望があれば「園芸用の水」に見える(欲望)でしょう。(なんとなく、ウィトゲンシュタインのアスペクト的と似ている気もします。)


映画『羅生門』でも、事件の全貌は「どうであったか」(実在)は明らかにすることができません。ただ、事件の当事者や証人たちが事件が「どうみえたか」(現象)を語り合うことによってようやく真相なるものをつかもうとします。ただし事件の当事者たちは、各々のプライドや特別な事情により、「こうであってほしかった」(欲望)があります。欲望によって彼らの証言もどこかずれたものになっています。



本映画は実在とか真理といったものは結局雲に隠れてしまい、我々の現象を語り合うことによってのみ合意が得られるにすぎない、というメッセージなのかもしれません。



最後に、本映画のエンディングシーンについて述べます。

羅生門の下で杣売りと坊さんは赤ん坊を発見します。それを見た杣売りは「自分が引き取ろう」と言います。しかし、坊さんはそれを信じません。もしかしたらつれて帰ってどこかへ売ってしまうかもしれませんしひどい目に合わせるのかもしれません。しかし杣売りは自分のうちには子どもが数人いて1人増えても変わらないという点、自分の罪を償いたいという点を述べます。それを聞いた僧は安心して赤ん坊を杣売りに渡し、杣売りは笑顔で帰っていく。それまで強く地面を叩きつけていた雨は止み、羅生門が映って終わる...。


最初に観たときは、杣売りの改心、希望(赤ん坊)、ハッピーエンドといった印象を受けました。この映画で「雨」が担っているのは、おそらく杣売りの心のもやもやであり、それが晴れるというのは良いイメージに違いないと感じました。

しかし、二度目にこの映画を観たときは、最後に不気味にうつる羅生門が気になりました。もしかしたら杣売りは改心しておらず、帰ってから赤ん坊をひどい目に合わせるのかもしれません。

結局のところ分からないのです。
(もしかしたら黒澤氏がどこかで述べているのかもしれませんが...)

自分で調べた限りネット上の書き込みはどちらの観方もありますが、絶対的な説得力があるとは言えないと思います。


自分には、まさにこれこそがこの映画の主題を最も適切に反映している気がしました。すなわち、ラストシーンは観客が見たいように見て、信じたいように信じることが正解になるのです。結末が「どうであるか」(実在)は作り手以外には分からないのだから、私達は「どのように見たいか」(欲望)、そして「どのように見えたか」(現象)こそが唯一つかめる真実なのではないでしょうか。古美門さんの言葉を借りるなら「人は見たいように見て、信じたいように信じる」わけですから、映画の登場人物たちと同じように観客である私達も追体験できるように映画が作られているのかもしれません。


...と述べている自分も、ただ信じたいように信じて書いているだけなのかもしれませんがww


※上で述べているのはあくまでも自分の恣意的な解釈にすぎません。誤り等お気づきの方はご指摘頂ければ幸いです。

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