2013年6月10日月曜日

受験英作文の問題文一行から<他者>について考えてみる



最近、大学入試の自由英作文の問題を見る機会が増えた。問題文は各大学趣向が凝らしてあり、読んでいるだけでも意外と面白い。答案作成に使えるであろう専門用語がご親切に乗せてあったり、写真のせりふを書かせる形で出題したり…。その中で、以下のような一文を問題文に入れた大学があった。

「70語でかけ。但し、How are you?は3語で数えよ。」


この文の意味がお分かりだろうか。受験生によっては、"?"のような記号も1語と数えるのかもしれないと危惧し(あるいはそのような実例があったのだろうか)、このような但し書きが添えられたのである。大学側のサービス精神と考えるのが妥当だろう。



しかし、この文も偏屈な受験生の銃剣四太郎(じゅうけんしたろう)君にはこう解釈されてしまうかもしれない。

「つまり、大文字で書き出す単語は数えてはいけなくて、"are" "you" "?"の3語と数えるってことね。」


あるいは、同じくらい偏屈な丹生静香(にゆうしずか)さんはこうも解釈するかもしれない。(最近、オリジナルキャラクターの名前を捩るのにはまっています笑)

「ふーん、この大学ではbe動詞は1語に数えないで"How", "are", "?"の3つに数えてるのね。(じゃあ、be動詞は使わないで一般動詞を用いた文をいっぱい書かなきゃ♪)




現実的にこのような受験生が存在するかどうかは置いておいて、問題文の記述がこれまでで3通りに解釈されたことになる。

(1)「?のような記号は語数に数えない。」(問題作成者が意図した内容)
(2)「大文字で書いてある英語は語数に数えない。」(四太郎の解釈)
(3)「be動詞の活用形は語数に数えない。」(静香の解釈)


ここまで読んで「何を馬鹿な」と思われた読者の方は、いたって正常である!(笑)ほとんど全ての受験生は上の文を(1)にしか読み取らないためである。では、どうして私たちは(1)のような解釈が可能だったのだろう。なぜ四太郎や静香は(2), (3)の解釈にいたったのだろう。


この問題に答えるため、ウィトゲンシュタインの<他者性>概念を用いたい。

結論から言ってしまえば、ウィトゲンシュタインにとって「他者」とは私の言葉をまったく知らない者=同じ規則を共有しない人である。以下は、『哲学探究』の第20節の一部である。


20 われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが「石版をもってこい!」という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か「建材」といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない……。

柄谷(1992)はこの一節に対して次のような説明を試みている。

「われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人」は、ウィトゲンシュタインにおいて、たんに説明のために選ばれた多くの例の一つではない。それは、言語を「語る-聞く」というレベルで考えている哲学・理論を無効にするために、不可欠な他者をあらわしている。言語を「教える-学ぶ」というレベルあるいは関係においてとらえるとき、はじめてそのような他者があらわれるのだ。私自身の“確実性”をうしなわせる他者。(p.8)

柄谷氏はある2人の関係を「語る-聞く」と「教える-学ぶ(教えられる)」の2種類に分類している。両者の決定的な違いは何だろうか。それは、前者では話が通じるのに対し、後者の場合はお互い共通の規則を持っていない点だ。現に予備校や教育実習などで子ども(生徒など)に教えた経験のある人は心当たりがあるだろうが、自分にとって当たり前のことを、相手である生徒はまった
く分かっていないのだ。これもお互いの共通規則がない一つの例である。

しかし、共通規則を持たない生徒に対して私たち教師は「教える」という行為をしなければならない。そこで「命がけの跳躍」が必要となる。(これについては、後日詳しく述べたい。)簡単に言えば、、自分とは違う前提を持つ<他者>に対して、自分の教えたい内容を伝えることだ。この時の「教える-学ぶ」関係は、一見すれば権力関係が働いているようだが、柄谷氏はすぐにこれを否定している。

第二に、「教える-学ぶ」という関係を、権力関係と混同してはならない。実際、われわれが命令するためには、そのことが教えられていなければならない。われわれは赤ん坊に対して支配者であるよりも、その奴隷である。つまり、「教える」立場は、ふつうそう考えられているのとは逆に、けっして優位にあるのではない。むしろ、それは逆に、「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。(pp.8-9)

この考え方は、自分は本書(『探究I』)を手に取るまではしたことがなかった。感覚的には気づいていたのかもしれないが、「教師」が従属的立場とは逆説的に聞こえる。

ここまでを踏まえて、もう一節『哲学探究』から別の箇所を引用したい。

185 われわれは、いまかれにもうひとつ別の基数列を書き出すことを教え、たとえば「+n」という形の命令に対しては、0, n, 2n, 3n, 等々の形の数列を書き出すようにさせる。すると、「+1」という命令を与えれば、基数列が得られることになる。-われわれが練習をし、1000までの数空間におけるかれの理解能力の抜き打ちテストをしたとしよう。いま、生徒に1000以上のある数列(たとえば「+2」)を書き続けさせる。-すると、かれは1000, 1004, 1008, 1012と書く。われわれはかれに言う。「よく見てごらん、何をやっているんだ!」と。ーかれにはわれわれが理解できない。われわれは言う、「つまり、きみは2を足していかなきゃいけなかったんだ。よく見てごらん、どこからこの数列をはじめたのか!」-かれは答える。「ええ!でもこれでいいんじゃないのですか。ぼくはこうしろと言われたように思ったんです。」-あるいは、かれが数列を示しながら、「でもぼくは〔これまで〕同じようにやってきているんです!と言った、と仮定せよ。-このとき、「でもきみは……がわからないのか」と言い-かれに以前の説明や例をくりかえしても、何の役にも立たないだろう。-われわれは、そのような場合に、よっとするとこう言うかもしれない。この人間は、ごく自然に、あの命令を、われわれの説明にもとづいて、ちょうど「1000までは常に2を、2000までは4を、3000までは6を、というふうに加えていけという命令をわれわれが理解するように、理解しているのだ、と。

この例でも、「生徒」は柄谷氏が上で述べた「外国人」のように、<他者>として描かれている。すなわち、この数学教師の持つ規則は彼には通じなかったのだ。このような<他者>を相手に教えるのは骨が折れそうだ。互いの規則が違うのだから、教師には小まめに相手の理解を確かめる作業、自分の規則を言語化する段階が求められるのだろう。

ここまでくれば、最初の自由英作分の問題文も解釈の違いが出ることに説明がつく。受験生ももちろん全員<他者>であり、問題作成者が「当然」と思って作った文も、規則の異なる相手には異なる解釈をされてしまうかもしれない。

<他者>を相手とする教育現場。教師に何が必要かは、これから考えていくしかない。


【参考文献】
ウィトゲンシュタイン(藤井訳)『哲学探究』(大修館書店)
柄谷行人(1992)『探究I』(講談社学術文庫)

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※追記※
ここまで読んでいただいてありがとうございます。読むに値するものだったかどうかは皆さんの判断にゆだねます(笑)

自分の表現力の拙さで難しすぎる話になってしまったと思います。最近教育哲学演習の授業を受けている時や、ディスカッションをしているときによく頭に浮かんだことについてを『探究I』をベースにまとめたものになります。自由英作文の例は「そういえば!」と思いついて含めてみました。もちろんだからと言って「あの問題文は不適切だ!」と言う気は全くありません。ただ、受験問題のほんの一文からこんな想像も可能ですね、という例を示したにすぎません。あくまでこの記事は、<他者性>について自分の頭の中に溜まったもやもやを文章にすることが目的です。

この<他者性>を元にして、「いじめ」や英語教育、あるいは翻訳について考えを深められないだろうかと考えておりますが、まだまだ理解が追いついていないので、マイペースに読んでいけたらと思ってます。(なんと吞気な。)

なお、他者性に関しては丸山恭司(2000)「教育において<他者>とは何か-ヘーゲルとウィトゲンシュタインの対比から-」『教育学研究』第67巻第1号(2000)が大変参考になります。興味のある方はぜひ読んでみてください。

さて、そろそろ次の記事はサバ君が書いてくれるだろうから、ここらへんで終わりにしましょう。笑

さよーならーー!!

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