勤務校で紹介された本。今年度の全国英語教育学会でも引用をしながら発言している人がいて、注目度が伺える。「主体性」「葛藤」などのキーワードを頼りに、本書のプロローグと第1章から気になった記述をまとめました。自分の関心(翻訳・言語教育)に寄せた解釈を展開していますが、まだまだ甘い読みですので、今後しっかり勉強をしよう・・・という意気込みで以下を書きました。
■本書の提案する考え方
学習の時代における教えることの回復 (recovery) の試みであり、教えることと教師の意義と重要性を再発見する (rediscovery) 試みである。 (p.2)
→「教育」から「学習」への転換の重要性が増す中で、「教える」ことへの再注目をすることが本書の意義。ただし、英語授業でよくある「活動あって指導なし」を批判するのではなく、存在論的に学習者の主体性を定義しているところがポイント。
■主体であること (subject-ness)
主体であること(subject-ness)は、完全に構成されたものではなく、すなわち私たちの意図や欲望から構成されたものではなく、他なるものや他者への応答やかかわりの仕方と密接に結びついているものである。私達に話しかけ、語りかけ、呼びかけるもの、したがって私達を呼び覚ますものなのである。(p.4)
→主体は社会的な存在であるということ。他者と関わり合う中に、自我の主体性が発生するという考え方。主体は孤立された学びでは発達せず、他者とのかかわりの中に芽生える。
■教育者の課題
教育者の課題は、他の人間を成長した存在 (the grown-up existence)にすることであるというものである。あるいは、より正確な公式を述べるとすれば、他の人間に、世界の中に成長した仕方で存在したいという欲望を引き起こすことである。(p.7)
→「世界の中に成長する」と「欲望を引き起こす」に注目。「世界の中に成長する」とは、「主体」の議論で登場した他者とのかかわりをイメージ。最近別の勉強会で 藪下遊・髙坂康雅(2024)『叱らないが子どもを苦しめる』(ちくまプリマ―) を読み、子供が他者と接する場面が減っている問題意識を抱いた。「欲望を引き起こす」は「やる気になったら子供たちは自ら学ぶ」という考え方に近い。
■越境との親和性
つまり、主体として存在することは、自己とともにあること―自己と同一であるということ―を意味するのではなく、むしろ自己の「外部」にあることであり、世界を志向して「外へ向かい」(ek-sist)、世界のうちに「投げ出される」ことなのである。(p.16)
→越境を自己領域から超えて外に向かうことと考えれば、自己の中 (comfort zone)にとどまるのではなく外に向かうことも1つの越境なのでは。なにか学習活動を仕組まれなくても、欲望を持った生徒たちは主体的であろうとして自己の外部にあろうと外の世界に投げ出され、変容を迫られる。越境をするから主体化するのではなく、「主体」的だから自ら越境をするということだろう。
■レヴィナスと応答責任
レヴィナスの著作を読むと、彼は唯一性について別の仕方でとう必要性をほのめかしている。...「私が私であることはどのようなときに問題となるのか」という問いである。この問いは、もっと正確に言えば、私を他者から分かつ、私が持っているもの、保有しているもののすべてを問うのではない。そうではなく、状況、つまり存在に関する出来事を求めるものであり、そこで私の唯一性が「問題となる」のであり、それゆえに私が問題となるのである。(pp.19-20)
レヴィナスは、応答責任を「主体性にとって基本的であり、もっとも重要なものであり、基盤となる構造」であると示しているのである。(p.20)
応答責任というのは、私の唯一性が問題となり始めることに直面し、私がある一つの瞬間に自分の主体であることに気づいて応答するときに現れるのであり、それは私の「内在性」の中断として、すなわち私とともに、私のためにある私の存在の中断として現れるのである。(p21)
→ということは応答責任は何でもかんでも発生するのではなく、自分が他者と関わる中で(アーレント)、他者に隷属し、対話をする過程において発生するものなのか。唯一irreplacableであるがゆえに、自分の行いに対して応答をすること。このあとに「中断」について述べられるが、これは葛藤場面における子供たちの反応に近いだろう。
■抵抗
抵抗におけるスペクトラムは「世界の破壊」「自己の破壊」「対話」の3段階で記述されている。これを自分なりの言い方にすると、
世界の破壊(自分には受け入れられないものは不要だ!)
自己の破壊(もう自分なんて、どうなってもいい!)
対話(今までの自分の考え方をいったん止めて、新しいものを理解してみよう!)
となる。
「世界の破壊」と「自己の破壊」が両極端(extremes)で、その中庸で設定されているのが「対話」である。
これを英語学習・翻訳に当てはめると、ある翻訳タスクでAという回答をもった生徒がいる。その生徒がグループワークや授業場面にて自分の信念とは真逆のBという回答とであう。そのときは「Bなんて、全然良い答えではない(世界の破壊)」というのと「そうか、自分は間違いなんだ(自己の破壊)」の中間に「なぜBという英訳が考えられたのだろう・自分の英訳の良さも活かしつつBの良さも生かせないか(対話)」という葛藤の記述に活かせそうである。
したがって、この中間点は、純粋な自己表現の場所ではなく、私達の自己表現が制限されたり、中断されたり、応答されたりする場所なのである。これらはすべて、アレントが話題にした試みをくじくような質であったり、レヴィナスが表現した、内在性の断絶をともなっている。こうした経験は、レヴィナスにしたがえば、世界の外部で、自分自身とともにあるだけのまどろみの状態から私達を目覚めさせるということもできるだろう。それは、「現実のために」私達が世界の中に存在していることを教えてくれる。私が行うことが問題となり、私が以下にあるかということが問題となり、まさに私が問題となるのである。この中間点にとどまることは、私達の存在を可能にする困難を認め、おそらくは甘受することをさえ求めるのである。さらには、この中間点にとどめるには、世界的に存在すること、つまり自己の外部に存在することを望まなくてはならない。そして私が示したように、教育の課題は他の人間にこのような欲望を引き起こすことなのである。(p.25)
→ここまで読んで、ビースタはこの段階では教科学習に当てはめやすい形で理論を提供していない様子。だが、葛藤を抱くためには、「もっと他者の回答を知ってみたい」という気持ちにさせることが大切で、授業に求められるのはその一点なのだと感じる。であれば、学習者には①そのテキストを訳してみたいという欲望、②他の人の発想も知ってみたいという欲望、③他者の訳出も取り込んで自分の訳文を改善させたいという欲望を抱かせることが導入段階で教師に求められる。
対話は「中断」「停止」として記述されている。
■美しいリスク
教育の課題は、抵抗の経験に形を与えることであり、それによって世界の多様性と統一性の経験が本当に可能になるのである。このことはまた、抵抗の経験と出会い、これに取り組むための時間を与えることを意味している。あるいは、より役立ちそうで興味深い表現を用いれば、抵抗の経験をとおして取り組むのである。(p.31)
少し話を変えて、「葛藤」ということばの意味について考えるときに、異なる2つの価値観に挟まれることで悩むという意味だが、その際の内面には、弁証法的に新しい価値観が生み出されるのかもしれない。弁証法には否定を伴うのだから、自己否定も当然発生する。このような動的過程として葛藤を考えることで、多少は「葛藤」についての理解が進んだとも思える。