2014年12月16日火曜日

「いじめ」と「イジリ」の区別:他者の視座から


学部の頃に心理学を勉強していたとき、新潟青陵大学の碓井真史先生のサイトは大変参考にしていました。



最近、碓井先生の記事にこのようなものがありました。




子どもの頃から抱いていた疑問に対する答えの1つを知れた思いで、熱中して読みました。最近の自分の関心である「他者」にも絡めて、いろいろ感じることがあったので、以下は自分なりの感想です。よろしければ、碓井先生の記事をお読みになった上で、本記事をご覧頂ければ幸いです。


イジリは笑いの中でも高等テクニック。コミュニケーション(特に、笑いに特化したコミュニケーション)に長けていなければ、簡単にいじめになってしまう。


外部観察 (eticな視点) によってはこれら2つの区別をすることは難しい。なので、当人たちはおふざけで言い合っている場合も、教員によってしかられてしまう。その時、大きな違和感を覚えるだろうが、言語ゲームを共有しない相手には分かりえないだろう。(もし教員が子どもたちの言語ゲームを丁寧に観察して、時折そのゲームの参入者として入っていれば分かるかもしれないが。)


当事者 (emicな視点) には、いじめとイジリは区別できるだろうが、その中でも「イジる側」と「イジる側」が互いに他者であることを強調すべきだと思う。すなわち、「イジる側」が相手の幸せのため、と思っていても、それが「イジる側」の幸せになると決定することは、原理的に不可能である。


だから、テレビで行われているイジリは名人芸であることがもっと分かるべきではないか。他者に対して~~をしたら必ず喜ぶ、という確定はできない (二重偶発性) わけで、もしイジられた相手が機嫌悪くなったら「これくらいのことで怒るなよな」と、急にeticな尺度を出すこともイジる側にはできてしまう。イジられる当人が望まないのに相手によって変化させられるのは、「暴力」ととらえることもできる。


厄介なことに、当人は暴力をふるっているつもりがない場合も多いはずである。なにしろ、イジリという行為・構造自体に暴力性が隠蔽されているからである。つまり、イジリをする者が「雰囲気を明るくしよう」とか「いつものように楽しもう」という善意の下にイジリを行ったとしても、イジられる当人の受け取り方次第で「イジリ」にもなれば「いじめ」にもなる。このような構造に隠された暴力性をイジられる側は認識すべきかもしれない。だからこそ、イジリという行為は危険な笑いの取り方で、それなりのリスクを背負った上で使うべきと思った。


と。なにやら感想文まがいの文章になってしまいましたが(笑)、ご意見ございましたら、コメント欄にお願いします。


(参考)二重偶発性 [Doppelte Kontingenz] および、「分かり合えない他者」について

「他者は分かり合えない」ということを言う例として、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』の「かぶと虫の問題」があります。

293. 誰もが箱をひとつもっていて、そのなかには、私たちが「カブトムシ」と呼んでいるものが入っている、と仮定してみよう。誰もほかの人の箱のなかをのぞくことはできない。そして誰もが、「自分のカブトムシを見ただけで、カブトムシとはなにかを知っている」と言う。
この場合、どの箱にも別のモノが入っている可能性があるだろう。おまけにそれが変化しつづけていることも考えられるかもしれない。しかし、このとき、その人たちの「カブトムシ」という単語の使い方があるとしたら?それは、モノの名前の使い方ではないだろう。


他にも、ルーマンの「二重偶発性」の原理があります。

すべての自己にとって他者はもう一人の自己であり、その振る舞いは予測不可能で可変的である。自己も他者も自分の振る舞いを自分の境界内で自己言及的に決定する。だれもが、他の人にとってはブラックボックスである。なぜなら、その人の選択の基準を外部から観察することはできないからである。自己に見えるのは、他者の閉鎖した作動の結果としての選択性のみである。いずれもが他者を、環境-内-システムとして観察し、その他者に関しては、環境からの、そして環境への、インプットとアウトプットを観察することができるだけであり、自己言及的な作動自体は観察することができない。いずれのシステムも、他者に対して示すのは、自分の選択を決定できると同時に、その自己言及は不確定であるという事態である。 (ルーマン『GLU』, p.255)


「他者はわかりあえない」という前提を受け入れることで、相手に歩み寄れるのではないかと最近考えますが、教育哲学の授業では「他者論は常に具体例を念頭にして議論して欲しい」と言われます。一般論や抽象的レベルでは語りつくせず、ケースバイケースで考える必要があるからでしょう。今回は、「イジる」「イジられる」を具体例に考えて見ましたが、本例においても別様の見方ができるでしょうし、別の例の検討も今後必要になると思います。

また、「他者は分かり合えない」という前提の下で、次に何を議論すべきかについても考える必要があると常々考えます。「互いに歩み寄るべきだ」とか「承認すべきだ」といった肯定的な意見にいくのか、「一人ひとり違った意見で良いではないか」「多様性を認め合えるべきでないか」といった解釈学的な考え方になるのか、もう少し考えをつめる必要があるようにも思います。


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