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2014年6月15日日曜日

石戸教嗣 (2003) 『教育現象のシステム論』勁草書房

こんにちは。mochiです。
昨晩、学部の頃の友人(現在社会人)と研究室仲間の計5人で飲みに行きました。社会人の友人に、「院生に足りないものは何だと思う」と尋ねたところ、「常識」と即答されてしまいました(反省)。

塾や英会話教室のバイトはもちろん、できるだけ外に出ながら院生生活をしないと、社会から排除されてしまうな~と感じた次第です(涙)


この1年くらい私は「ルーマン読書会」という会合に参加しています。そこでは、『システム理論入門』『社会理論入門』といったルーマンの講義録を各章担当者がレジュメ形式で発表し、議論するというものです。生憎、社会学もルーマンもかじったことすらなかった自分ですが、「どうせ素人なんだから、できるだけ素朴な疑問を出してください」と先生方からおっしゃっていただき、気楽に参加させていただいています。最近は院生の友人も一緒に参加し、ルーマンの用語のどくとくの使い方(ルーマン語?)にも少しずつ慣れてきて楽しくやっています。


本日は、そんなルーマンの社会システム理論を援用しながら教育現象について考察した『教育現象のシステム論』をご紹介します。



教育現象のシステム論 (教育思想双書)
教育現象のシステム論 (教育思想双書)石戸 教嗣

勁草書房 2003-10
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とても面白く読んでいますが、やはりルーマンの用語が分かっていた方が読みやすいので、もしお読みになりたい方でルーマンの用語が心配でしたら、以下の用語集を参照しながらだと分かりやすいと思います。


GLU―ニクラス・ルーマン社会システム理論用語集
クラウディオ バラルディ エレーナ エスポジト ジャンカルロ コルシ Claudio Baraldi
4772005331

また、今回のまとめノートでは「第1章」と「第2章」のみを扱っています。第3章以降は、学習やカリキュラムなどの少し踏み込んだ話になっているので、社会背景やルーマンの教育に関する概観を扱うには第1・2章の方が良いと思ったからです。

そして、自分にはまだルーマン語を翻訳する力はないので、以下のノートではルーマンの用語をそのまま使っています。分かりづらく申し訳ございません。


(※)記号としては、
■:項目タイトル(自分で勝手につけています。)
・:できる限り本書の内容を忠実にまとめた箇所
⇒:自分なりの言い換え、意見、感想、批判
△:疑問点

でまとめています。



第1章 公共圏としての学校のシステム論的再編
アレントの「見捨てられた境遇」からルーマンの「尊厳」へ



■ 教育における「公共性」とは、ネオリベラリズムの論理で排除された存在を再度社会システムに組み込むプロセスである。

・ネオリベラリズム(新自由主義)の論理によって、1990年代以降の教育は行われてきた。

・ネオリベラリズムは、競争から敗退する者を必然的に多く生み出すが、その理論的根拠は保たれる。

・その「排除された存在」を再度社会システムに組み込む必要がある。その組み込みプロセスが「公共性」である。

・第1章ではアーレントとルーマンの公共性概念を比較検討する。

・ネオリベラリズムとコンサーバティズムという二項対立では、もはや今日の教育問題を捉えられず、システム論的に以下の3区分が必要である。 (pp.5-6)

(1) 空間概念としての公私(組織システム)
→学校という公的期間は家庭という私的機関との空間的差異において存在する

(2) 関係概念としての公私(相互作用システム)
→学校における教師と生徒・保護者はそれぞれ公と私の側に立つ関係にある

(3) 心理システムとコミュニケーション・システムの間のシステム準拠の差異を指示する概念としての公私(心理システム)
→同時に、学校においては<心理システム=私>/<コミュニケーション・システム=公>というシステム区分も存在する (つまり、教師と生徒はともに私的関心を持って公的コミュニケーションに参加する




■ 学校が「市民にさせる場」であると同時に、生徒個人の心理システムの居場所となるべき。

・学校は生徒たちが社会化し、市民としての資質を身につける場である。しかし、それと同時に生徒の心理システムの居場所となるべきである。

・それは、「われわれの目の前にいる子どもは多様なニーズを抱える生身の一個の存在として学校に関わるようになってきている」 (p.7) からである。

→ 教育システムのコードはあるだろうが、学校という空間は生徒が安心して居られる場所でもあるべき。どこか息が詰まったような学校空間も日本にはあるだろうが、そのような学校では生徒は居場所を見出すことができているのだろうか。

→家族の弱体化によってもこの傾向は顕著にあるのかもしれない。



■ アーレントの「学校」観と問題意識

・アーレントにとって学校とは、公共性を身につける場所。

・学校はそもそも家族(私的領域)から世界(公的領域)への移行を可能にするために、その中間の段階として設置したものである。

・学校で学ぶのは、家庭(私的領域)ではなく、国家・公的世界(公的領域)が要求すること。

※「私的領域」:private として、発揮すべき人間的能力が剥奪されている場。暴力によって支配される。
※「公的領域」:人間的本質が現れる場。価値観の異なる相手と対話することが求められる。

→もともと私的領域で公的に出せない部分を出しておき、公的領域では適切に振舞うことができた。しかし、近代では私的領域を公的領域が厳密に区別されなくなり、社会的領域という新たな空間が生まれる。アレント自身は社会的領域の出現に対して否定的にみている。

・学校が機能するには、私的領域としての家庭が機能することが前提条件。
アレントは、異質で多様な存在としての子どもが大人に庇護されつつ互いに出会う空間としての学校を理想としたが、そのためには、子どもが隠れる場所としての家族が確立されていることが条件となる。家族における庇護を失って、むきだしのまま学校にやってくる子どもたちを目の当たりにしている。 (p.12)

すなわち、子どもを保護する機能を家族は果たせていない。それゆえに、子どもを見捨てているのは家族であると。

⇒今日、家族とも良好な関係を築くことができず、いわば私的空間を持たないままで学校にやってきてしまうため、ストレスを発散できなかったり息苦しさを感じてしまう子が多いのだろうか。

・子どもが社会的領域において見捨てられるのと、私的領域が機能しない、というのは実は同じ問題である。

・近代社会では、すべての市民が機能システムへと「組み入れ」られる。しかし、その「組み入れ」られたシステム内で自分の存在を見出すことが求められる。

→学校教員は、教育システムに組み入れられて、子どもたちの発達に寄与する。しかし、その教育システムに自分が完全に組み入れられれば「オレの人生って何だろう」と悲観的になるかもしれない。学校教育に携わりながらも「自分」というものを見出さなければならない。




■ ルーマン的解釈:語りによるシステムへの再組み込み

・ルーマンは上のように大衆社会(社会的領域)が人格を排除するとは考えない。

・社会が機能的に分化すると、人格に依拠するようになる。

→(全体)社会は「経済システム」「政治システム」「教育システム」「学問システム」「芸術システム」「医療システム」...と各々の機能によって分化していく。その機能システムでは、人格(心理システム)の持つ影響が強くなる。

・「排除」は機能システムへ「組み入れ」ることで必ず起きる影としてとらえるべき。

・システムからの排除とは、システムのなかで人的ネットワークが形成されない状態(p.18) 。

→システムから排除されるとき、人は物理的にそのシステムに属しているが、そこで自分の尊厳を見出せない。

⇒学校で教育を受けている子の中にも、自分の尊厳が見出せないで苦しんでいる子は多いだろう。(自分もそんな時期がありましたが。)

・自分の尊厳を見出せないとき、私たちは自己表出(語り)を行う。

・ルーマンは自己表出の条件として、「自由」(制度的条件)と「尊厳」(人的条件)を挙げている。「自由」は環境としての「語りやすい雰囲気」であり、「尊厳」は当人の内面としての「語りたいという欲求」である。これら両方がなければ、自己表出は起きない。

cf) 村上春樹『風の唄を聴け』の冒頭部も、主人公が語りによって救われるというエピソードからはじまる。

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・子どもが排除された状態にあるのなら、彼(女)らに「語る」ことができる相手を保障することが必要である。そうすることで、自己表出の条件としての「自由」は少なくとも提供でき、彼らが再度システムの人的ネットワークに組み入れることができるだろう。

・では、ルーマンのいう「公共性」とはなにか。

・それは、システムから見捨てられた者を可視化するプロセスである。

→つまり、システムに属している人とシステムから排除された人を区分することによって、システムから排除された人を指示し、その人たちが語ることができるようにするのが公共性である。

・家族システムが自己表出・語りをしやすい場として機能しないのなら、学校(教師)が彼らの話を黙って聴くことも必要かもしれない。あるいは、語れる場を提供することが必要かもしれない。





第2章 「個を生かす教育」を生む社会システム


■ 「個性化」

・「個」を尊重する、ということが絶対的善としてとらえられ、子どもを野放しにすることが「もの分かりのよさ」と混同されている。また、個性重視の教育が進められているが、従来の受験競争の構造がまだ存在してしまっている。これらの課題から、「個を生かす教育」はいかに可能であるか。

・高度経済成長が危ぶまれ、人々の関心が内面に向くようになった。それによって、教育においても内面を重視しようという動きがある。また、現代社会が政治・法・経済・家族・教育など多くの機能システムへと分化して複雑化したことにより、「個」が全体像を持ちえず<分裂した自己>となることにも、「個」を重視しようとする原因があるのかもしれない。

→「私とはなにか」という問いに対して、「私とは××である」と一言で言えるほど個性とは単純なものではない。むしろ、Aという場面では「△△」で、Bという場面では「~~」で、Cという場面では...としか言うことができないものである。本質主義的な定義(「AはBである」)では、複雑化した今日における個性概念を把握できない。むしろ、オートポイエーシス的な定義(「AはAである」)を用いて、「私は、私である」とトートロジー的に定義することが限界である。


■ 「個」の再帰性

「個」は、自分について、あるいは他者について観察した心理システムのあり方に他ならない。 (p.27)

・個人が「個性的」存在であるのは、それが内面において独自な自己言及を行うからである。

・現代の「個」は、他者による評価を気にしすぎており、自分の空虚さにも気づかされるという苦境に立たされる。

・そのような背景もあり、今日は「共依存」関係が注目を集めている。

・「共依存」とは、複数の心理システムが互いに依存することで、社会的システムに拘束されることである。しかし、彼ら彼女らが自ら抱える空虚さを埋めるための準拠対象としては、他人という心理システムは身近である。

・例として「家庭」を挙げている。

・家族は地域と離れることで、「閉鎖的」システムとしての性格を強く帯びる。そのような閉鎖システムの中で、子どもたちが親の期待に応えようとするが、それによって彼らの内面や身体にはストレスがため込まれる。なぜなら、子供たちは「家族システム」を維持するために、「心理システム」としての子どもが自らの役割を演じる必要があるためである。そのような子どもの将来を思いやる母親、そんな家族を支える父親は自分の存在を実感できる。
家族システムが循環するためのメディアとして「成績」がある。子どもたちが成績を追求しても自己評価が低いのは、空虚な成績という価値でさえ、それをともに追求することで家族システムが維持できるからである。

・家族システムが子どもたちの心理システムの空虚さを埋めきれないとき、別の場所で自己アイデンティティを得ようとする。たとえばいじめーいじめられる、の関係に安住したり、シンナーや万引きといった非行社会で活躍したりする。

・さらに、「依存的自己」の問題もある。

依存的自己とは、自己という心理システムがより大きなシステムに組み込まれていることが見えなくなって、そこから抜け出せることができない状態にある自己のあり方である。 (p.36)

→いじめっこしか相手がいなくてついて回るいじめられっ子、非行社会にいる子どもたち、現場でトップダウンの指示を受け続けることで自分の存在を見失う教師、など。

⇒たとえば、ある大学院生が自分の存在意義を見出せないとする。彼が抱える問題は多くあるだろうが、システム論的に一分析を以下のとおり提示することができる。
彼の心理システムにおける作動が続いていると思っていて(自己言及していて)、自分のやりたいことをやりたいようにやっていると思っていたとする。しかし、そんな彼がどうも憤りを感じている。そのとき彼は心理システムよりもさらに広い「学問システム」というシステムにすでに組み込まれているかもしれない。つまり、「先行研究を調べなければならない」とか「先行の研究にいわれていないオリジナリティを出さなければならない」、「“客観的に”示さなければならない」といった焦りが出るかもしれない。これらの諸作動はすでに学問システムに組み込まれているのだが、問題は心理システムがこの事実に気づいていないという点である。もしも心理システムの観察により気づいていれば(あるいは自分の行っている作動を二次的に観察し、その区別の方法を客観視することで新たな地平を見出せることができれば)、もう少し余裕を持って行動できるだろうし、もはや「依存的自己」から脱しているといえるだろう。

(やはり、具体的な話をしてみると自分の理解はまだ不完全だと実感。う~む。反省。)



■ オートポイエーシス的自己論

・オートポイエーシス (Autopoiesis) とは、しばしば「自己創出」と訳される。これは、システムが環境との関係において、システム自体を定位しつつシステムの状態を常に更新し続けることである。 (p.40)

→たとえば、自分の生命システムは環境に応じて自らの生命体を他の環境と区別しながら、つねに内部で自分を生み出している。現に新しく免疫ができればそれまでの自分から「更新」されたことになるだろう。

・ルーマンによると、自己とは自分の視点を固定しないで柔軟に視点を変えながらものごとを考えること、自己を環境と区別しながら自分の行為やコミュニケーションを変化させることである。

→(1) 自分というシステムが定位する、(2) 自分というシステムが閉鎖的にならず、柔軟に環境や他システムと接触しながら変容をともなう、という2点が指摘されている。

・最後に、以下の引用文で締める。

「個性」とは、心理システムが環境との関係においてその心理システム独自に展開するしなやかなオートポイエーシスのあり方であるということになる。 (p.45) 







長々と読んでいただきありがとうございました。

自分用のお勉強ノートを、少しだけ分かりやすく書き直したものにすぎないので、興味をお持ちになった方は、ぜひ本書を読んでみてください。

本書から自分が学んだのは以下の点です。

★ 子どもが学校に入る瞬間教育システムに組み込まれるが、教育システムには峻別機能があるため一定の子を排除しようとするかもしれない。そのような子たちが自己の尊厳を再度見出して教育システムに参入するには、自己表出が必要であり、教師(としての自分)は少なくとも良い聴き手として機能することができる。

★最近「個性」を重視した教育が注目されているが、そもそも自分の「個性」なんて言葉で定義することはできなくて、自分の個性の全体像を把握することは不可能だろう。そのために共依存関係や依存的自己が問題となっている。しかしルーマンに言わせれば、自己というシステムはオートポイエーシス的に自己変容を伴いながら自分の存在を定位するという認識でよい。したがって「自分」というものがある、と信じて探し続けても答えは出ず、個性とはその変化自体と言っても良いだろう。

記事をまとめながら、やっぱりルーマンは難しいなあと実感したのでした。(泣)

1 件のコメント:

  1. もともと私的領域で公的に出せない部分を出しておき、公的領域では適切に振舞うことができた。しかし、近代では私的領域を公的領域が厳密に区別されなくなり、社会的領域という新たな空間が生まれる。アレント自身は社会的領域の出現に対して否定的にみている。

    この記述についての質問です。
    私的領域を公的領域が厳密に区別されなくなり、社会的領域という新たな空間が生まれる。というのは、社会的領域=私的領域かつ公的領域 というような形でとらえて問題ないのでしょうか。
    また、このように解釈したときに学校という施設の持つ環境は、社会的領域そのものだと言考えて良いのでしょうか?

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