2013年12月25日水曜日

上田紀行著 (2005) 『生きる意味』岩波新書(新赤版)931

お久しぶりです。
卒業論文に四苦八苦しております mochi です。


生きる意味 (岩波新書)
生きる意味 (岩波新書)上田 紀行

岩波書店 2005-01-20
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大学院の先輩からお貸し頂いた本です。
卒論の合間に「そういえばちょっと読んで見よう」と読み始めたのですが、読み始めたら止まらず一気に読み進められました。(何度も書きますが自分は読書経験が浅いのでとても珍しいです。)

せっかくなので、今年最後の記事として本書を紹介したいと思います。自分が読みながら思いついた例も含めているため、本書の論旨から脱線していますがご容赦ください。


■ 「他者の欲求」を生きる私達

自分が高校を卒業するとき、英語の先生から次のメッセージをもらいました。今でもとても心に残っている言葉です。

Love your life you live, live your life you love.


この言葉のおかげで、自分がこれから生きていく人生は自分のものであるとこれまで実感してきた“つもり”でした。

しかし本書を読んでいて、自分の人生が本当に自分のものか?をいわれると、自信がなくなってきました。

本書の筆者は、人生は誰のものかと疑問視しています。例えば私達が「良い大学」「入りたい大学」とはどのようなところでしょうか。人によってはその施設や自分の目的との合致度、教授陣の研究分野などをパラメータとするでしょうが、「他の人も入りたがっているから良い大学」と考える人が多いのもまた現実ではないでしょうか。

教育もまたそうだ。いい大学とは、他の人が入りたい大学だ。なぜ東大に入りたいのかといえば、それは他の人が入りたい大学で、なおかつなかなか入れない大学だからだ。...
「自分が何を欲しているか」よりも「他の人が何を欲しがっているのか」を自動的に考えてしまうような「欲求」のシステムを私達はずっと生きてきた。 (pp.16-17)

確かに自分が高校生の時も偏差値表で大学の名前を見ていましたが、その大学には何があってどのような魅力があるのか、あるいは自分が何をしたいのか、と考える人は多くはなかったのかもしれません。しかしこのように他人の欲求を自分の判断の基準とすることで、私達は一種の責任転嫁による快楽を得るのかもしれません。

しかし、それは実はひとりひとりにとっては楽な社会でも会ったとも言える。なぜならそのような社会では「自分の頭」や「自分の完成」をほとんど使わなくてもいい体。いま社会で求められていそうな線を狙って生きていけばいい。自分は何が欲しいのか、自分にとっての人生の意味や幸福は何なのかなどという、私の「生きる意味」など突き詰める必要はなかったのである。 (p.17)

大学に限らず自分の進路をどうするかという人生の大きな岐路のはずですが、お互い他人はどうするかと考えながら道を選んでいるのかもしれません。

■ 効率性・合理性を重んじる現代社会

今日は効率性を重んじる社会とも言えます。塾で教えていても「○級取れるにはどうしたら一番いいですか?」と最短距離・近道を求める質問を良く受けるのもその現れでしょうか。

「構造改革」以降の私達にとって、「効率性」は人生において意識するべき最大の課題となる。常に「私はいま効率的に生きているか?」という意識を強く持たなければいけない。もし効率的に生きていないとするならば、それはすぐに改善しなければいけない。 (p.87)

しかし、このような「目的」に合致する行動のみを選択する「効率性」は本当に私達の幸せなのでしょうか。例えば先ほどの英検の例でも、「そんな英語の多読とか映画とかは英検の勉強に“直接”つながらないでしょう。それよりも過去問やりなさい。間違えた問題や分からなかった単語は単語カードに書きなさい。」と指導した方がはるかに効率的でしょう。そこに無駄はないように思えます。

ところが、このような勉強法を続けて英検を取った子はどのような気持ちなのでしょうか。もちろん「やった!○級受かった!」と喜び、それ以降の英語学習への動機付けとなるでしょう。しかし、その子が続けてきた勉強法だけが本当に英語学習の喜びと言えるでしょうか。映画を見て「この単語知ってる」という喜びも、英語版のマンガを読んで「英語でマンガ読んでる」と達成感も味わうこともない。だんだんと○級を取ること自体が目的となり、自分は「○級保持者」という数字により満足をし、その内の実力については目が行き届かなくなる。(現に○級保持者であっても、その実力が本当にあるか怪しい、という人もゼロではないように思えます。)

※補足※
ここまで英語の資格試験を例に話してきましたが、別に資格試験のための勉強を全否定しているわけではありません。英語を勉強する必要性が少ない日本という環境ではよいモチベーションにもなります。しかし、「それだけでいいのか?」というのが自分の立場です。

私の偏った解釈が入っているのは重々承知ですが、やはり目的のみを追い求めて効率性に固執するのでは、私達の本来の生きる意味や喜びとはつながらないのではないでしょうか。その原因として筆者が挙げているのは「数」の支配です。

■ 「数」の力

数による評価は分かりやすく客観的であるという良い面もあります。「○級」というのも、その人の英語運用能力はだいたいこの程度はあるのだろうという目安にもなり、それが誰かの主観的な判断ではなく客観性を帯びていることも保証されます。
しかし、「数」によって失われるものもあるのだと筆者は言います。

「数字」の犠牲として「生命の輝き」が失われる。そして「生命力」の失われた若者が生み出される。そして、その若者はどうして自分が自分でなければいけないのか分からない。そのくらい勉強ができる生徒はどこにでもいる。そうやって嫌々勉強をしている生徒などどこにでもいるのだ。自分自身の中に明確な動機が無く、単に数字を追い求めて、「より高い数字」を目指して生きていくのでは、人間は単なるロボットになってしまう。 (p.119)

数字のみを追い求める、いわば「数字信仰」ともいえる状況が存在しています。そうではなく、「数字」の効用も認めつつその内実を探究する態度が私達には求められるのかもしれません。

※余談※
そういえば質的研究と量的研究があるなかで、自分は卒業研究に質的手法を選びました。理由は最近の授業で量には限界があり質によってしか分かりえない部分もあると聞いていたからです。しかし「数」を軽視するのもまた愚かな行為だと本書を読んで感じました。学部の忘年会でお会いした先生からも「量的研究の作法を身に付けてから質的研究を行うと良いのではないか。」と伺い、とても納得しました。哲学史でも実証主義があったからカント、新カント派、ディルタイらが台頭して、現象学が生まれたわけで、量の追及抜きには質は考えられなかったのかもしれません。



■ 内的成長

私はこの本においてひとつの新しい言葉を提示しようと思う。
それは「内的成長」という言葉だ。私達の社会はこれまで、年収や成績といった数字に表されるような指標によって、私達を外側から見る成長間に支えられてきた。それは「経済成長教」が力を持っていた時代には機能してきた成長観だった。しかし、そうした成長観はもはや私達の生きることを支えてはいけない。私達の成長を内側から見る目がいま求められれている。そして、私はそれを「内的成長」と呼びたいのだ。(p.143)

内的成長は「生きる意味の変化(p.143)」とも言えます。自分が何をしたら満足するかを理解し、それを追求することでさらに自分がしたいことを見つけていける人は内的成長をしている人です。

私も忙しいときは目の前の課題に追われて提出すること自体が目的となってしまうこともあります。教育実習中は特に「50分間なんとかミスをしないように」とか「みんなから批評会で指摘されないように」と言う方向で授業設計をしていました。
しかしそれらは「他者の目」を意識している段階で、自分の内実が振り返れておらず大きな成長はできていなかったのだと思います。むしろ自分が納得できる授業を行い、その後に足りない点についてコメントをもらうのが良いのでしょう。内的成長のために必要なことは「わくわくすること」と「苦悩すること」と述べられています。自分が情熱を持って取り組んでいるときに内的成長は起きるのであって、ただ作業としてやっていても何も吸収できません。また、現実と理想のギャップを感じ取った瞬間、私達は苦悩します。その苦悩が、次の「わくわく」を生み出し、循環的に内的成長が起きるという原理です。


■ 「オリジナリティー」とは?

最後に、最も心に残った節を引用します。
以前「三田紀房(2009)『個性を捨てろ!型にはまれ!』(だいわ文庫)」という記事で「オリジナル」は不可能か?についてまとめましたが、本章でもオリジナリティーとは何か、という話が出ています。
通常私達が「オリジナリティー」という言葉を使うときは、「他の人とと違う」という意味の場合が多いです。「その作品にはオリジナリティーがない」とは「他の人と同じような作品だ」と言っているのに近いのでしょう。
本書では少し異なった角度から「オリジナリティー」を見ています。

オリジナリティーとは何よりもまず「自分自身にオリジン(源)がある」ことである。他人の言うことを鵜呑みにしたり、他人に同調して同じことしか言わなければそれは「オリジナリティーがない」ということになるが、私が私自身の「生きる意味」を創造する中で結果的に他人と同じ結論に至るのならば、それは私のオリジナリティーなのだ。 (p.218)

例えば、「お年寄りを大切にしよう」という言葉があります。A君は先生に言われるからそのように復唱します。B君は自分のおじいちゃんとのふれあいからお年寄りに対する敬意の念を持つようになり上の言葉を言います。
この場合A君の言葉のオリジンは他人である先生ですが、B君の言葉のオリジンはB君自身にあります。したがってB君にはオリジナリティーがあるといえます。このように考えると、「なんだかみんなと同じようなことをやっているな」と感じるときも、その起源が自分自身であるならオリジナリティーはあるわけです。逆に「みんなと違うことをやらなきゃ」と考えてしまうと、無理に独創性を作ろうとしてしまい追い詰められてしまいます。
自分の考えや信念のオリジンが何だったのか考えるのも、また面白いと思います。


全体を通じて、現代社会であったり教育現場であったりと、多くの事柄に結びつけながら納得できる内容が多かったように思えます。
自分に本書を貸して下さった先輩に感謝して、本記事を締めたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。来年からも時折更新しますので、またご覧ください。 sava 君も頭の中では記事を書いているようなので、もうすぐ更新してくれると思います…笑。ではよいお年を (^^) 。




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