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2013年4月3日水曜日

藤本一勇(2009)「外国語学」ーなぜ外国語を学ぶかー

私たちはなぜ外国語を学ぶのでしょうか。

日本には多くの翻訳本が出ており、日本語の読み書きさえできれば多くの知識が入れられます。(もちろん学術的に原書を読む必要性は私も日々実感しております。)それに日本にいて外国語を使う機会は極めて限られています。

この質問に対して英語の先生ならなんと答えるでしょうか。「街で外国人に道を聞かれた時にも英語で答えられる」でしょうか。それとも「将来海外で仕事することになった時に困らないように」なのでしょうか。
いずれにいても、私が知っている中学生たちなら即座に「別に道聞かれてもシカトすりゃ良くね?」「てか、日本にいるんだから日本語使えよ」「別に俺は土木だから海外行くことないし」と返してくるはずです。

最近、多くの方とこのような話をするため、最近読んでいる「外国語学」から関係する箇所(主に第二章)を引用しつつ、私なりに考えたことをまとめたいと思います。あくまでも私の恣意的な引用です。(この「恣意的な」という部分も本書では重要な概念になるのですが、それはまた次の話にします。)


■ 言語によって私たちの思考が支配されている

私たちは外部世界をそのものとして、ダイレクトに把握しているわけではない。物理的なことを考えても、私が人間という生物であれば人間という種に自然と備わった肉体(感覚器官)によって、私に与えられる外部世界の情報は工作されている。人間である私たちが見ている聞いている、感じている「世界」は人間の肉体的条件によって与えられたデータの世界であって、外部の生の世界ではない。(p.18)
身体の感性的メディアを第一段階のメディアと呼ぶなら、言語は、身体的条件によって与えられたデータをさらに歴史的・社会的記号によって意味づける第二段階のメディアである。{p.18)

すなわち、私たちが認識している物事や思考は、我々が使っている言語によって影響を受けているということです。サピア・ウォーフ仮説も同じようなことを主張しているが、筆者はこれを言語がもつ「力」としています。
言語が持つ力の例として、国民統一に共通言語が歴史上用いられてきたことが本文では例として挙げられており、他にもフランス語では蛾と蝶が区別されず、同じ単語(Papillon)で表される。しかし日本語ではこの2つの虫は別物として、しかも与える印象が大きく異なるものとして表現します。。この例について氏は以下のようにつけ加えている。

それぞれの言語が別々の仕方で世界を「分節」(articulate=結び目を使って組織化すること)し、意味付けているというだけのこと(p.30)

要するにこの「分節」が私たちの思考に影響を与えるものである。本文中では「物の見方」「新しいメガネ」などという言い換えがなされている。

■ 言語による変身
外国語を学ぶことの効用は、まずは、新しい言語を習得することによって、新しい「メガネ」、新しい物の見方新しい意味世界を獲得できることだろう。私たちの認識は、さらには感性さえもが、言語の表象システムによって知らぬ間に構築されている。「人格」さえ、言語に大きく規定されているかもしれない。(p.39)

例えば、自分は大学1年の頃はとてもおとなしく、そこまで人と関わるのが好きではありませんでした。しかし、2年の頃に留学でイギリスで半年間英語で過ごすと、人と関わるのがとても楽しくなり、それからはサークルやバイトもとても楽しめるようになりました。(当時の友達に聞いても、留学から帰ってきてから付き合いやすくなったと言われますし、先生にも変わったねと言われます。本人にあまり自覚はないのですが…。笑)

これも上の藤本氏の記述で説明がつくのではないでしょうか。すなわち、日本語というOSを通して私はこの20年間外部世界を認識に取り込んできました。しかし英語のみで過ごす経験を通して、英語というOSを用いて新しい「メガネ」で世界を見ることができるようになったのです。(もっとも藤本氏に言わせれば、自分の経験は他にも多くの要因があったに違いないと指摘されることと思いますが。)

そして「私」という人格にも影響を与えて、今はコミュニケーションが好きになったのでしょう。この根拠として、「言語の選択」という章から数カ所引用させて頂きます。

言語を「替える」ことは、発想や行動を「変える」きわめて有効な手段の一つである。(p.41)

外国語を学び、新しい眼差しを手に入れることによって、現状を離脱した新しい「私」に変身する可能性が与えられる。(p.41)

では、一番最初の問いである「なぜ外国語を学ぶのか?」という問いに対して、本書から導き出される示唆を基に自らの言葉で伝えるとするなら、以下のようになります。

(1)日本語のみを用いてこれまで暮らしてきたと思うが、それは日本語で表される”限定された”世界であった。
(2)そこで、英語(あるいは他の外国語)を学ぶことで、新しい世界の見方を得ることになったり、今まで見ることのできなかったものが見えるようになる。
(3)さらに、世界の見方が変われば自分の性格や人格も変わるかもしれない。こうして偉そうに喋っている自分も大学生の頃はだな……(以下長くなるので省略)


もちろん英語教育をよりマクロな視点で見るという意味でも、政治やビジネスの問題とつなげて考えたり、技術的教育観的に「英語により○○できる」という発想をしたりすることも必要です。(むしろ実利的な方が生徒は食いつくようにも思えます。)

しかし、本書で示唆された考え方もぜひ自分は持ちたいと思います。



… …しかーし!!
上記(1)〜(3)の話をしただけでは、私の知っている強者の中高生たちであればさらに反論を重ねてくると考えられる。(例、「てかスマホの翻訳機能使えば一発じゃね?」「そもそも英語とか見ただけで吐き気するしー」笑)彼らに論破されないためにも、そして彼らに英語をやろう!という気にさせるためにも、これからもっと色々なことを考えられたらなと思います。


※追記※
本書は翻訳論の勉強として購入した本なので、いずれ本書で取り上げられる翻訳論についてのまとめ&考察も掲載できたらと思います。

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2 件のコメント:

  1. 「なぜ外国語を学ぶか」
    先生になるならば、この問には悩まされそうですね。

    一番最後の例のような反論をされると困るから、個人的には言葉でどう説明してもだめだと考えています笑。

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  2. コメントありがとうございます。

    確かに私たち外国語を義務教育として教える者は、常に用意しておくべき答えとも言えます。1つ付け加えるなら、英語教師として態度や行動で見せることも必要なのには大賛成ですし、私たちは言葉ではきれいごとを並べつつ行動がそぐわないことがよく指摘されます。ただし、言葉でも納得の行く説明を持っておくべきだとおもいます。自分の信念であれば言語化できるべきで、自分なりの説明を追い求めることは必要と感じます。

    今後も折に触れて、我流英語教育哲学に関する記事を更新したいと思うので、またコメント頂けたら幸いです。

    というか、サバくんの記事もみなさん楽しみにしてると思うので、ぜひ考えを発信して下さい(^^)笑

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