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2013年3月22日金曜日

ボランティア論

ここ最近で”ボランティア”について考えることが多くなったと思うので、現段階でのボランティアについての自分なりの考えを述べさせていただきたいと思います。

1. わたしとボランティア
わたしがボランティアに携わったのは、中学2年の頃の募金活動がきっかけだと思います。その募金活動は後に副担当まで務めさせていただくことになる「一億円募金活動」というもので、簡単に言えば私立高校に通う生徒への奨学金の募金で、身近な人の体験談を聞いてやってみようと思ったのが最初です。
当時は自分はボランティアをやっているという気持ちはなかったのですが、この募金はボランティアの4基準(自発性、無償性、開拓性、利他性)を満たしています。

その後、阪神淡路大震災でお父さんお母さんを亡くした中学生・高校生に奨学金を贈る中学生高校生の会(略して贈る会)に携わるようになって、現地へのフィールドワークや震災遺児とのふれあいを通して、将来教師になった時には授業だけやっててもいけないのだと身をもって感じました。教科内容だけでなく自分が大切だと思うことを生徒に伝えることができる教師になりたいと思ったのもちょうどこの時期です。現在では大学のBBSやこどもクラブに入会しているわけですが、これらの活動でも多くのことを学べています。

そもそもボランティアは利他性を強く持つものでありますが、単に相手のためだけだとなかなか長続きしないのではないでしょうか。現に贈る会の会長をやっていた時も、興味があって募金活動などに参加してくれる方も次第に来なくなってきました。(その方を責めるつもりは全くありません。むしろ興味を持って一歩踏み出して頂けたことに大変感謝しております。)長い間活動に参加して下さった方は、「自分の友達も震災遺児だった」とか「阪神淡路大震災の時に自分も関西地方にいたから思い入れがある」「防災に興味があるから」など、自分にとっても活動に参加することでプラスとなることがあったそうです。すなわち、利他的でありながらもどこかに利己的な部分もあると思うのです。現に自分も中学の頃は友達と一緒に活動できて楽しかったですし、今のボランティア活動は子どもたちと触れ合うことで接し方を勉強できたり、どうしたら子どもを楽しませられるかを考えるのが楽しかったりと、案外自分にも利益があるものです。(そういった意味で「情けは人の為ならず」という言葉は非常に適切だと思います。)

私もまだまだ勉強中の身ですが、ボランティアをこれから始めようとされる方は、ぜひ自分にとってその活動で何が得られるのかを考えられると、「持続」するためのモチベーションにもなると思います。


2.ボランティアと偽善者
ボランティアをしている方々と話していてよく耳にするのが「ボランティア=偽善者」というイメージを払拭するのが大変、という話です。確かに「私はボランティアをやっています」と聞くと、いかにも「私は利他的な人間です」とも聞こえてしまいます。
しかし、ボランティアが人の役にたっている以上は多少なりとも偽善者のようにとらえられても良いのではないかということが最近の私の持論です。

例えば、「俺はボランティア大好きだぜ!人の役に立ってるぜ!ワイルドだろ〜?」と良いながら清掃活動のボランティアに参加するAさん(笑)。周りからの反応は「なんかムカつくよね」という評価を受けてしまうかもしれませんが、町の美化という点では間違いなく貢献しています。一方「Aくんのやり方に僕は賛成できないね」と言ってみんなを納得させるBさん。彼の方が正論に聞こえますが、実際に彼は何も動いてはいませんし、人の役にはなにも立っていません。

少し単純すぎる例に読めてしまうかもしれませんが、ここで言いたいのはボランティア(volunteer)と言うくらいだから、自発性を尊重すべきであって、そこに偽善性とか利己性があるからといって批判するのはそこまで正当ではないということです。
仮に就職活動直前で「履歴書に書くことがない」といってボランティア活動に加入する方がいても、僕はかまわないと思います。(勿論そのような方には少しでも長く関わって、活動の軸となる考えには触れて頂きたいとは思いますが。)その方も他人の役に立っていることに変わりはありません。むしろ「この時期にボランティアに入ると就職のES(エントリーシート)のためと思われるから・・・」と尻込みされる方は、とても団体の方に配慮されていて素晴らしいとは思いますが、やはり前の方が他の人の役に立っている間も何もできないことになってしまいます。

周りに偽善っぽく思われたくないからと言って、ボランティアに関わらないのはとてももったいないと思います。こう書いてしまっては偉そうに思われてしまうかもしれませんが、ぜひ何か始めたいという気持ちがあればその気持ちに従って一歩踏み出すことが大切だと思います。


いつになく(?)偉そうな書き方になってしまいました。不快に思われた方は申し訳ありません。またボランティアについて考えることがあれば自分の考えの整理もかねてここに書いていけたらと思います。

4 件のコメント:

  1.  そもそも行為自体が「偽善」であるかどうかは周囲には判断できないことであると感じます。確かに、たとえ本人が偽善であると自覚していても、そのおかげで幸せになる人がいるなら結果的に不幸になる人はいませんね。
    やはり、ずっとボランティアを続けているMochiさんの言葉は説得力がありますね。

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  2. Ninsoraさん

    コメントありがとうございます。
    おっしゃる通りで、行為自体は「利他性」が含まれている場合がほとんどです。その活動をする当事者がどのような気持ちかは人それぞれです。しかし周りにいる人たちには当事者の動機を推し量ることが難しいので多くの解釈がされてしまいます。

    「いいことをやっているから周りにどう思われてもいい」くらいの強いメンタルも必要ですが、同時にボランティアの1つの性質である「開拓生」を忘れるべきではありません。従って「どう自分が振る舞えば周りの人に理解してもらえるか」も考えていくべきだと思います。

    この記事を書くきっかけになった1つが、以前からお借りしている"Harry Potter and Philosophy"の'ability vs choice'というChapterを読んだことでした。とても感謝しています。

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  3. 私は!!偽善者でもなんでも良いとおもいまする!
    だって、今の世の中偽善者でも居ないと善っていう存在自体無くなっちまいそうじゃないですか!
    だから偽善者でもけっこう役に立ってる思う!偽善者を見て善の夢を見て育った本物の前者が現れる事を待とうじゃないか!っははは!

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  4. OneJuneさん

    コメントありがとうございます!
    偽善者かどうか、を気にしている場合ではないのかもしれませんね。

    >偽善者を見て善の夢を見て育った本物の善者

    確かに次の世代にとっては、先輩の動機よりも行為の方が目につきやすいので、このような点も十分に考慮に入れるべきかと思います。
    また語り合いましょう。お電話お待ちしております笑

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