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2025年9月23日火曜日

ユーリア・エンゲストローム (1999) 『拡張による学習:活動理論からのアプローチ』新曜社

 エンゲストロームの論は「越境学習」論でしばしば引用されるため、いずれ読みたいという気持ちでいた。そして彼の学習論はベイトソンに似ているというぼんやりとしたアナロジーをもって本書を開くと、後半ではエンゲストロームによるベイトソン解釈が示されており、両者のつながりが一気に深まった。

以下は「葛藤」「越境」「翻訳」などのキーワードに関心を持ち、「拡張学習」の概要をまとめた読書記録である。
 

■ 本書の中心となるアイデア

(1) 人間の振舞い (conduct) にとってもっとも重要な分析単位は、対象志向的でアーティファクトに媒介された集団的活動システムである。

(2) 歴史的に発展する内的矛盾が、活動システムの運動と変化にとっての主要な源泉である。

(3) 拡張的学習は歴史的に新しいタイプの学習である。それは、行為者たちがみずからの活動システムのなかで発達的な転換を生み出そうとする努力のなかから現れ、そのようにして行為者たちは集団的な最近接発達領域を超えていくのである。

(4) 抽象から具体へと向かう弁証法の方法は、拡張的学習のサイクルを習得するための主要なツールである。

(5) 介入者の方法論が必要である。それは、特定の場所での活動システムにおける拡張的学習のサイクルを前進させ、媒介し、記録し、分析することをねらいとする。(p.5)


本書冒頭の要約からの引用である。このあとすぐに、文化理論のKramsch(contact zone) や「第三空間」などの用語が出てくる。翻訳教育論のLaviosaが引用をしていたことを思い出し、越境と翻訳授業のつながりを感じることができた。


■ヘーゲルとダーウィン
本書ではヘーゲルもしばしば引用されている。また、以下の2つめの引用はビースタでも指摘されていたデューイの教育論を思い出した。

ヘーゲルは、物質的・生産的活動と労働の道具が知識の発展において果たす役割に注意を向けた最初の哲学者であった。個人の意識というものは、知識――社会によって蓄積され人類によって創造されたモノの世界のなかに対象化されている知識――の影響の下で形成される、という理論を彼は明示した。 (p.22)


環境の変化と教育に関する唯物論的な学説が忘れているのは、環境が人間によって変えられるし、教育者自身が教育されねばならない、ということである。 (p.24)


■パースの記号論
・対象・心的解釈項・記号のあいだの三項関係
・解釈項・記号から対象への働きかけ(表象)と、対象から解釈項・記号への働きかけ(決定)の2種
・オグデンとリチャーズの意味論:「シンボル」「指示対象」「思想(指示)」
・ポパーの世界Ⅰ・II・IIIに応用
・世界I:物理的世界
・世界Ⅱ:意識の状態、心理学的な傾向や無意識の状態
・世界Ⅲ:思想内容の世界、人間の心の所産からなる世界
*世界Ⅲは具体化されていない。(言語そのものが具体化されていないから。)

・「ポパーは初めの二つが相互に作用でき、後の二つも相互に作用できるという形で関連しあっている」と述べている。(p.36)ここまでの三項関係を二項関係へと還元し、相互作用的システム的性格を破壊している。


■ミードからトレヴァーセンへ
・意味の三項関係 「身振り」「それに対する適応的反応」「その身振りからはじまる動作の結果」
・四つの基本的要素:個人、他者、シンボル、対象
・シンボルの起源は身振り
・二次的主観性:いったん行為のコミュニケーション的様式と実践的様式のあいだの自由な相互作用が達成されるや、すぐさま乳児は、人間に独自な行動を完全なかたちで示すようになる。

・第二の潮流は、社会的相互作用的シンボル媒介的な現実の構成を提示したものの
・実践的なモノの構成ではなく、頭の中での構成と考えられた。

■ヴィゴツキーからレオンチェフへ
・S-R反応にX(記号)が組み込まれて媒介されている。
・媒介的道具:ツールと記号(心理的ツール)に分類。心理的ツールのみが反省的媒介を含意し、必要としている。

ツールは、活動の対象に対して、人間の影響を及ぼすものとして機能する。言い換えれば、ツールの機能は、外的に方向づけられている。対象に変化をもたらさなければならないのである。ツールは、自然を征服し、勝利することを目的とした人間の外的活動の手段である。 (p.53)

これまで「道具」の用法がよくわからなかったが、今回の読書を経て、「道具」は物理的道具と心的道具があると分かり、割と広い意味で使われていることが分かってきた。

・レオンチェフ:ユングの集合精神の概念を思い起こさせる
・行為が個人的だが、人間活動(人間の労働)は、そもそも協働的である。
・活動の対象こそが活動の真の動機。
・活動は、目標指向的な行為によって実現される。
・ユング インフレーション(集合的無意識の象徴的エネルギーを自我が取り込みすぎる状態)


■「葛藤」の前の「裂け目 (rupture)」
越境者は葛藤を2度抱えるということばは石山恒貴先生の『越境学習入門』のことばであるが、拡張理論では「葛藤」の前に*活動システム間の「裂け目」がうまれるという。その間の裂け目(たとえば主体とツールの裂け目とか、主体とコミュニティ間の裂け目など)もありえる。または、中心的活動かとそれらの隣接する諸活動のあいだにある葛藤も存在する。教科越境授業では異なる活動システムの間と取ることもできるし、新しい活動システム(越境授業)内の割れ目と理解することもできる。

たとえば1人の教師が抱える葛藤は以下の4つのレベルで記述することができる。
レベル1は生徒の指導において、「人間的な成長(使用価値)」もありながら「〇〇大学合格△名(交換価値)」にもなるという葛藤。「人間」と「偏差値」とか、「贈与」と「交換」などの側面。サービスと給与という葛藤。
レベル2は、時代によって生徒が変化をしていき、「昔の生徒に通用したこと」が「今の生徒に通用しない」になって抱える葛藤。
レベル3は、ICTやAIの普及により可能性が拓けている一方で、組織が受け入れ態勢にないせいで抱える葛藤。
レベル4は、生徒たちから「もっとデジタルを使え」と反発をしてくるようなこと。


*活動システムは「ツール」「主体」「対象→成果」「ルール」「コミュニティ」「分業」で構成された小三角4つでできたトライアングルの形で記述される。


・個体の生存では、新たに生まれたツールの使用によって裂け目が生まれる。(類人猿)
・社会的生活では、適応することとつがうことが考査するところに、集団的伝統やルールによって裂け目が生まれる。
・集団的生存では、産み、育て、つがうという実践によって影響をうけた分業によって裂け目が生まれ、性的分業として現れる。 (p.74)

・イルカは、多くの個体を一つの全体としてはたらくシステムに組織する並外れた能力を用いて、「一緒にする」と「一緒にいるにおける裂け目を生じさせた。(p.75)

また、「葛藤」の前に「矛盾」ということばをエンゲストロームが使っていることにも注目したい。エンゲストロームの原著でconflict/dilemmaなど、どの単語を使っているかいずれ調べたい。

■学校教育にまつわる2つの問い(p.113)
(1) なぜ学校教育が必要となったのか。
(2) 学校教育と学習活動はどのような関係にあるのか

・学校は人々が読み書きを始めたあらゆるところで生まれた。「書き言葉」(文字)」の誕生が契機。
・言語は、自律的で自己完結的な存在様式を獲得し、テクストとなる。知識、言語のメタ言語的機能、分析に進み、論理的思考の発達が可能となる。・・・と考えられていたが、学習は相変わらず「再生産的で受容的なまま」だった。
・テクストのもつ潜在能力への裏切り
・暗記再生を重視した中世ヨーロッパ(知識=テクストの理解)
・静的な知識観から動的な知識観へ「知識は発展するもの」
・「対象と道具との奇妙な逆転」が本質的な学校の特徴。社会では「テクスト」は第二の道具であるが、学校では対象そのものとなる。
・学校は問題から意味を奪い、抽象の階層構造で置き換える。(p,109)
・学校教育の動機にまつわる二重の性格
(例)テクスト:再生産される死んだ対象(交換価値)と学校の外の社会に対する自分自身の在り方を打ち立てるための生きた道具(使用価値)ともなる。
・学校教育の内的矛盾によって、「逸脱した」生徒の行為をたえず生産しつづける。
・生徒たちが、社会的生産へ直接参加する度合いが強くなればなるほど、学校の「(みずからを)維持する力」は危機にさらされる。そうだとすれば、学校教育は、新しい質的次元の危機に向かっている、といえるだろう。 (p.113)

■学習活動
(a) 個々バラバラな要素を、システム的な活動の文脈で分析、結合し、
(b) それらを、創造的解決を要する矛盾へと転換し、
(c) それらを文化-歴史的に社会的な生産的実践のなかで、質的に新しい活動構造へと拡張し、普遍化する。(pp.141-142)


・学習活動は、「手段と目的とを引き離し、これらの関係を探究することを許す」遊びの特質を豊かにもっているのである (Bruner, 1985)。
・学習活動の本質的な道具はモデルである。

■ベイトソンの学習理論
自分がベイトソンと初めて出会ったのは、大学院生のときのルーマン読書会の時だった様子。
ベイトソンのまとめはこちらに任せるとして、エンゲストロームの解釈を紹介。

・学習I:学習の諸形態(馴化、オペラント条件付け、機械的反復学習、焼失)
・学習II:学習の学習、人の性格についてよくなされる記述、Iのどれかのタイプの文脈や構造の獲得、人生の継起的な出来事の多くを、いちいち抽象的・哲学的・美的・倫理的に分析する手間が省ける
・学習III:本質的に意識的な自己変革、これら身に沁みついた前提を引き出して、問い直し、変化を迫る。(学習IIをコントロールし、制限し、指示することを学ぶ)

■ダブルバインド
・ダブルバインド状況において、人は、緊密な関係のなかに巻き込まれ、互いに他を否定する二つのメッセージ、もしくは命令を受ける。ただし、そのメッセージについてコメントすること、すなわちメタ・コミュニケーション的な陳述を行うことはできない。 (p.166)

このダブルバインドは病的な発作を伴うので、授業論での「葛藤」の例としては不適切である。しかし、私たちが日常で抱く「葛藤」の極端な形の1つがこのダブルバインドであると思うと、授業内で真逆の価値観を出したり、敢えてこれまで信じて来た価値観が崩れ去る経験をさせたりすることにも意味があるのかもしれない。(これはビースタの教育論では「抵抗」と表されている。)

ベイトソンの学習Iでは、対象/結果と道具の両方があらかじめ与えられている。学習とは、主体が対象に対して道具を使用する、その使用のしかたを反復的に修正していくことを意味する。そこには、獲得すべきだとされる固定した正しいやり方がある。運動は、対象から主体へ、主体から道具へ、道具から対象へという具合に、主として一方向的で無意識的である。このレベルでの道具はツール、つまり第一のアーティファクトである。 (p.169)


■まとめ
・ベイトソンの学習論で越境授業を記述できないか?
・葛藤の前の「裂け目」を意識する。主体がコミュニティやルール、道具などとの間で裂け目を感じるのはいつか。
・生徒の翻訳葛藤 (decisive battle) は「原著者と目標読者の間で揺れ動く翻訳者」という形を取ることが多いが、活動システムに翻訳活動を当てはめて、その裂け目→葛藤→拡張という形で成長をするのかもしれない。

2025年9月21日日曜日

ガート・ビースタ (2010) 『教えることの再発見』 東京大学出版会

勤務校で紹介された本。今年度の全国英語教育学会でも引用をしながら発言している人がいて、注目度が伺える。「主体性」「葛藤」などのキーワードを頼りに、本書のプロローグと第1章から気になった記述をまとめました。自分の関心(翻訳・言語教育)に寄せた解釈を展開していますが、まだまだ甘い読みですので、今後しっかり勉強をしよう・・・という意気込みで以下を書きました。


本書の提案する考え方

学習の時代における教えることの回復 (recovery) の試みであり、教えることと教師の意義と重要性を再発見する (rediscovery) 試みである。 (p.2)

→「教育」から「学習」への転換の重要性が増す中で、「教える」ことへの再注目をすることが本書の意義。ただし、英語授業でよくある「活動あって指導なし」を批判するのではなく、存在論的に学習者の主体性を定義しているところがポイント。

 

主体であること (subject-ness)

主体であること(subject-ness)は、完全に構成されたものではなく、すなわち私たちの意図や欲望から構成されたものではなく、他なるものや他者への応答やかかわりの仕方と密接に結びついているものである。私達に話しかけ、語りかけ、呼びかけるもの、したがって私達を呼び覚ますものなのである。(p.4)

主体は社会的な存在であるということ。他者と関わり合う中に、自我の主体性が発生するという考え方。主体は孤立された学びでは発達せず、他者とのかかわりの中に芽生える。

 

 教育者の課題

教育者の課題は、他の人間を成長した存在 (the grown-up existence)にすることであるというものである。あるいは、より正確な公式を述べるとすれば、他の人間に、世界の中に成長した仕方で存在したいという欲望を引き起こすことである。(p.7)

 →「世界の中に成長する」と「欲望を引き起こす」に注目。「世界の中に成長する」とは、「主体」の議論で登場した他者とのかかわりをイメージ。最近別の勉強会で 藪下遊・髙坂康雅(2024)『叱らないが子どもを苦しめる』(ちくまプリマ―)  を読み、子供が他者と接する場面が減っている問題意識を抱いた。「欲望を引き起こす」は「やる気になったら子供たちは自ら学ぶ」という考え方に近い。

 

越境との親和性

つまり、主体として存在することは、自己とともにあること―自己と同一であるということ―を意味するのではなく、むしろ自己の「外部」にあることであり、世界を志向して「外へ向かい」(ek-sist)、世界のうちに「投げ出される」ことなのである。(p.16)

越境を自己領域から超えて外に向かうことと考えれば、自己の中 (comfort zone)にとどまるのではなく外に向かうことも1つの越境なのでは。なにか学習活動を仕組まれなくても、欲望を持った生徒たちは主体的であろうとして自己の外部にあろうと外の世界に投げ出され、変容を迫られる。越境をするから主体化するのではなく、「主体」的だから自ら越境をするということだろう。

■レヴィナスと応答責任

レヴィナスの著作を読むと、彼は唯一性について別の仕方でとう必要性をほのめかしている。...「私が私であることはどのようなときに問題となるのか」という問いである。この問いは、もっと正確に言えば、私を他者から分かつ、私が持っているもの、保有しているもののすべてを問うのではない。そうではなく、状況、つまり存在に関する出来事を求めるものであり、そこで私の唯一性が「問題となる」のであり、それゆえに私が問題となるのである。(pp.19-20)

レヴィナスは、応答責任を「主体性にとって基本的であり、もっとも重要なものであり、基盤となる構造」であると示しているのである。(p.20)

応答責任というのは、私の唯一性が問題となり始めることに直面し、私がある一つの瞬間に自分の主体であることに気づいて応答するときに現れるのであり、それは私の「内在性」の中断として、すなわち私とともに、私のためにある私の存在の中断として現れるのである。(p21)

ということは応答責任は何でもかんでも発生するのではなく、自分が他者と関わる中で(アーレント)、他者に隷属し、対話をする過程において発生するものなのか。唯一irreplacableであるがゆえに、自分の行いに対して応答をすること。このあとに「中断」について述べられるが、これは葛藤場面における子供たちの反応に近いだろう。

抵抗

抵抗におけるスペクトラムは「世界の破壊」「自己の破壊」「対話」の3段階で記述されている。これを自分なりの言い方にすると、

世界の破壊(自分には受け入れられないものは不要だ!)

自己の破壊(もう自分なんて、どうなってもいい!)

対話(今までの自分の考え方をいったん止めて、新しいものを理解してみよう!)

 となる。

 「世界の破壊」と「自己の破壊」が両極端(extremes)で、その中庸で設定されているのが「対話」である。

これを英語学習・翻訳に当てはめると、ある翻訳タスクでAという回答をもった生徒がいる。その生徒がグループワークや授業場面にて自分の信念とは真逆のBという回答とであう。そのときは「Bなんて、全然良い答えではない(世界の破壊)」というのと「そうか、自分は間違いなんだ(自己の破壊)」の中間に「なぜBという英訳が考えられたのだろう・自分の英訳の良さも活かしつつBの良さも生かせないか(対話)」という葛藤の記述に活かせそうである。

したがって、この中間点は、純粋な自己表現の場所ではなく、私達の自己表現が制限されたり、中断されたり、応答されたりする場所なのである。これらはすべて、アレントが話題にした試みをくじくような質であったり、レヴィナスが表現した、内在性の断絶をともなっている。こうした経験は、レヴィナスにしたがえば、世界の外部で、自分自身とともにあるだけのまどろみの状態から私達を目覚めさせるということもできるだろう。それは、「現実のために」私達が世界の中に存在していることを教えてくれる。私が行うことが問題となり、私が以下にあるかということが問題となり、まさに私が問題となるのである。この中間点にとどまることは、私達の存在を可能にする困難を認め、おそらくは甘受することをさえ求めるのである。さらには、この中間点にとどめるには、世界的に存在すること、つまり自己の外部に存在することを望まなくてはならない。そして私が示したように、教育の課題は他の人間にこのような欲望を引き起こすことなのである。(p.25)

 →ここまで読んで、ビースタはこの段階では教科学習に当てはめやすい形で理論を提供していない様子。だが、葛藤を抱くためには、「もっと他者の回答を知ってみたい」という気持ちにさせることが大切で、授業に求められるのはその一点なのだと感じる。であれば、学習者には①そのテキストを訳してみたいという欲望、②他の人の発想も知ってみたいという欲望、③他者の訳出も取り込んで自分の訳文を改善させたいという欲望を抱かせることが導入段階で教師に求められる。

 

対話は「中断」「停止」として記述されている。 

■美しいリスク

教育の課題は、抵抗の経験に形を与えることであり、それによって世界の多様性と統一性の経験が本当に可能になるのである。このことはまた、抵抗の経験と出会い、これに取り組むための時間を与えることを意味している。あるいは、より役立ちそうで興味深い表現を用いれば、抵抗の経験をとおして取り組むのである。(p.31)

少し話を変えて、「葛藤」ということばの意味について考えるときに、異なる2つの価値観に挟まれることで悩むという意味だが、その際の内面には、弁証法的に新しい価値観が生み出されるのかもしれない。弁証法には否定を伴うのだから、自己否定も当然発生する。このような動的過程として葛藤を考えることで、多少は「葛藤」についての理解が進んだとも思える。