本年度8月に京都大学で開催されたE.FORUMに参加をし、石井英真先生の講義が大変勉強になった。「教材は”材”。どのような価値があるか?どのように没入させるか?」「共同注視関係で、教師と生徒が一緒に材を見る」など、それ以降の自分の授業観に大きく影響を与える言葉に出会えた。
その中で、「認知的不協和がある授業づくり」「もやもやする授業」があってもよいという話を伺った。これは、「葛藤」を引き起こす授業づくりに通じると思い、著書『授業づくりの深め方:「よい授業」をデザインするための5つのツボ 』を購入し読み始めた。大変面白く読み進め、その中で「葛藤」に関連する記述において参考文献にあげていたのが今回の図書である。
宮崎清孝 (2009) 『子どもの学び教師の学びー斎藤喜博とヴィゴツキー派教育学』一莖書房
授業のストーリー作りや生徒の発言の拾い方などについて、熟練の教師たちが当たり前のようにやっていることが記述されており、とても勉強になった。本書の教育哲学は齋藤氏の記述が中心となっているが、その理論背景にはヴィゴツキー(Vygotsky)とイーガン(Egan)の教育理論があり、 実践には著者の宮崎氏が目にした様々な熟練教師の授業が記述されている。
ところで、なぜ石井先生の「認知的不協和がある授業」に関心があったかというと、自分が7月に行った授業に由来する。授業では国語の教科書の詩を英訳させ、その作品発表をさせたのだが、最終的な模範解答を示さなかったことで、「何でもあり(何を書いても良い)」授業になってしまったという自省があった。そこで、「もやもや」しつつもなにか「答え」めいたものに出会える授業が必要なのではないかという問題意識を持っている。以下は、この問題意識に応じて必要な記述と自分の解釈・経験を交えて書いた文章である。
■ 物語と授業
齋藤の授業論では、物語 (Story Grammar) では問題・謎・葛藤から始まり、その解決にいたる展開で成り立つ。その問題が解決する場合もあれば、新たな問が引き起こされることもある。授業づくりもそれと同じで、生徒が謎に出会い、その謎に取り組みながら解消・解決しつつ、次の問いに出会う。
従来の教育学では「学習課題との出会い(接近)」というだろうが、筆者はこのような目標から逆算して活動を配列し、評価をするという機械的・流れ作業的な授業に対置して齋藤の授業論を展開している。
また、齋藤は教材解釈(研究)において教師が全人的に教材と向かい、教師自身が悩みながら問いを見出すことの重要性を説いている。そのためには、教材研究において「少しずつずれたものを探す (p.64)」ことが大切である。複数の要素を見つけたときに、それらが何かしらの共通点・差異によって組織化されている場合は、それらを言語化し、分類をしていく。それにより、二項対立(AかBか)が見つかり、授業で学習者が出会う「謎・課題・葛藤」の形を取る。
第2章では佐久間勝彦先生(千葉経済大学短期大学部)の「店ってなんだろう」の実践が紹介されている。詳しい記述は本書に譲るが、とても面白い授業である。授業冒頭では5枚の写真「八百屋」「床屋」「コインランドリー」「自動販売機」「行商のおばあさん」を黒板に貼り、まずは「八百屋」について「これはお店ですか?」と問う。生徒のほとんど全員がお店と答えたところで、「床屋」を指さし、「ではこれは?」と問いかける。ここで生徒たちの反応は「店派」と「店ではない派」に分かれ、販売するものが有形か無形かという新しい区別が導入される。これを続けていき、「販売員の存在は必要か」「店は移動してもよいか」などの問いが次々と導入される中で、生徒たちは自分たちが信じていた「店」の定義が揺れ動き、最終的には「銀行が店なのかどうかわからなくなった」のようなもやもやとした記述が授業感想にあらわれる。この授業の中で生徒たちは1つの問いの答えが見えたと思ったら、次の問いに出会い、「以前の謎解きの経験が、新しい謎解きを可能にする」(p.42)展開に巻き込まれていく。(個人的には授業の最後に教師が出した問いが一番秀逸である。詳しくは本書を手に取ってぜひ確認いただきたい。)
■ファミリアとストレンジ
イーガンの教育論でしばしば引用されるこの2つの用語。デューイ以来の進歩主義的な教育観では、ストレンジなものをファミリアに(言い換えると、未知を既知に)することが目指されていたが、イーガンはむしろその逆で「ファミリアなものをストレンジに」(慣れ親しんでいたものの中に隠れている素敵なことを見て取らせる)という方向性を重視している。日常的でよく知っていると思ったことの中に、実は学問的に深い問いが隠れている。
先ほどの「店ってなんだろう」実践でいえば、「店」という子供たちが日常に利用している「わかりきっている」はずのファミリアな存在が、授業を通して異質なものとなり、得体のしれない存在に浮かび上がり、そこから、新しい問いが次々と生み出される「学習材」として活用されている。
この授業を可能にするのは、授業者自身の教材研究でさまざまな区別が引かれ、生徒の発言を効果的に拾えた教師の力量によるものである。
■イーガンの段階論
「個体発生は系統発生を繰り返す」を引用し、子供の発達を時代の進展に喩えて以下の表のような発達段階があるとしている。(表は第4章の内容をまとめたものである。)
個人的に面白かったのは、「前言語→話し言葉→書き言葉」という発達の上にあるのは、第4段階の哲学的理解で「二項対立」によって問いに対する答えを出し続ける段階ということ。この二項対立において、「変則例(理論があてはまらない別の事例)」と出会うことで思考が深まる様子を差している。ただし、哲学的理解段階では、あくまでも1つの答えが出されることが想定されており、そのプロトタイプにヘーゲルの「絶対知」が引用されている。第5段階アイロニー理解段階では、「結局のところ、どんな正解・理論にもつねに限界がある」と自己批判を続けてさらに思考を深めていく。
以上をまとめると、自分からしたら第4・5段階はリニアな発達ではなく「哲学的考察(答えを出す)⇔批判(その答えで良いのか)」という往来関係にあると理解した。また、アイロニー段階を強調してしまうと、「なんでもOK」「正解なんてない」の知的ニヒリズム(p.130)に陥ることになってしまう。
表. イーガンの段階論
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系統 |
何歳 |
特徴 |
文化史 |
認知的道具 |
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身体的理解 |
0~ (乳児期) |
・言葉が存在しない ・身体を用いて理解しようとしている |
(おそらく)動物 |
使っていない |
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神話的理解段階 |
2~8歳 |
・言葉を用いる ・現実の世界と想像の世界との区分が確立されていない (幼稚園児の遊び) ・ |
書き言葉以前の段階 |
・物語 ・二項対立 ・イメージ ・メタファ ・韻・リズム ・冗談・ユーモア ・ゴシップ |
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ロマン主義的理解(リテラシー) |
8~ |
・書き言葉(リテラシー)で客観的なものの見方が可能に。
*ただし、文字リテラシーを身に着ければ自然に発達するわけでもない。文字がなくても、situated learningに成功している現地民族はたしかにいる。 *書き言葉に固執することで失われる能力もあり、一つは「メタファー」である。 |
BC5 ギリシャの奇跡
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・「現実感覚」(対象化) ・「収集と趣味」 ・ナラティブ |
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哲学的理解段階 |
16~ |
・理論的な枠組みを作り世界を理解しようとする。 ・人はいろいろなことを一般化し図式化して説明したくなる。 ・この考えで説明できるぞという主張に対して「いや、こんな場合にはそれはおかしい」という反対の形が使われる。 *結局のところ1つの正解がある |
ヘーゲル |
変則例の使用
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アイロニー |
? |
「結局のところ、どんな正解・理論にもつねに限界がある」
*「結局正解何てものはない」という知的ニヒリズムに陥る危険性がある *包括的なアイロニーを生み出すことも可能(哲学的理解により理論的な認識を作り出し、アイロニーによる理解によってその一面性をチェックする) |
ソクラテス、ニーチェ、ポストモダン |
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■生徒の意見の拾い方
上記の「店ってなんだろう」実践を可能にしたのは、生徒の意見を拾って組織化する教師の技である。本書では齋藤氏の「授業とは炭火のようなものですよ。子供たちが、一人ひとりばらばらでは、力になりません。一人ひとりの考えを大切に積み上げていった時に、はじめて力を発揮するのです。それぞれの子どもの考えを、炭火を積み上げるように、一つひとつくみ合わせ、寄せ合わせていって、先人ののこした文化遺産をかくとくさせるのです。(p.164)」というメタファーが紹介されており、まさに生徒の発言をまとめる技量に画一的なレシピがないことを物語っている。
生徒の発言を字義的に理解して板書したり反証したりする(現実態)だけではよい授業にならず、生徒が言いたかったことや、気づきかけていることを言語化することで、その生徒の発言の価値を何倍にも増幅させる(可能態)こともできる。それを可能にするのもやはり教材研究なのである。
齋藤氏は生徒の発言に対して以下の7パターンを紹介している。
1,教えてしまい、その場で解決してしまったほうがよいもの
2,捨ててしまったほうがよいもの
3,問題はあるが、授業の展開には役立つもの。
4,曖昧なもの。この場合は問い返してもう一度言わせたり、教師が補足することに寄手はっきりさせる。
5,完全にまとめて表現しているが少しも内容のないものーーこれも捨ててしまう。
6,断片的で不完全な表現だが、内容を持ち、発展の可能性を十分に持っているもの。
7,子供の表現はちがっているが、子供の心の底にあるものは、表現されているものとは違うものであり、重要な問題を提出しているもの。――この場合は、教師が子どもの心の底にある本当のことを読み取ってやり、問い返すことによって引き出してやったり、教師が「こういうことか」と云って、子供のほんとうに云おうとしていることを表現してやったりする。 (p.170)
上のパターン4・7は教育学ではrevoicingと呼ばれる技法である。1970年代にIRE(Initiation-Response-Evaluation)構成が批判され、1990年代にIRF(Initiation-Response-Follow Up)が提唱されることになり、教師が評価を下さずに生徒の発言を膨らませたり確認したりすることの重要性が高まっている。
■感想
ここで、先日自分が行った授業に対して、ある教員から「なんでもOKの授業になっていないか?」という批評を受けたことを思い出した。翻訳において生徒のこだわり・根拠を基に発表をさせていき、どれも良い訳だね~という雰囲気で進行しようとした。ただ、生徒たちにも、「結局正解なんてないのかと思った」という意見が出たように、「なんでもOK」という上記の知的ニヒリズムに陥った授業になってしまった。
では、どうするべきだったのか。授業者としては、ふたたび別の二項対立をだして、どちらが良いか?を問う(第4段階に戻る)ことが必要だったのだと今では理解した。たとえば、翻訳鑑賞で二通りの例が出たら、「原文著者に近いのはどちらだろう」とか「英語として読みやすいのはどちらかな」と尋ね、Aの訳は原文の良さを生かしていて、Bの訳は翻訳者の解釈が前に出ているね。それでは、翻訳においては「翻訳者は透明であるべきか色を出すべきか、どちらだと思う」?のような問いかけをすることで、再び学習者を程よい葛藤状態に戻すことができる。
また、翻訳という行為は、常に何かをそぎ落とし諦める作業でもある。学習者が自分の産出した訳の限界を語るという作業が、「アイロニー的理解段階」を推し進める手立てになるのではないかと思った。今後はこの「学習者が自信の訳の犠牲を直視する」活動というのも検証していきたい。(参考:藤本一勇(2009)「外国語学」ーなぜ外国語を学ぶかー )また、生徒の声の拾い方についても大きな示唆があった。翻訳授業で当てはめるなら、生徒の訳文を見て、生徒のこだわりを聞いて、生徒がなにか言おうとしていえないことを「見取る」力が授業者に求められる。そのためには、生徒が想定するパターンの訳出はせめて教師自身も事前に把握をしておきたい。(=教材研究)
また、11月には学部生に対して教材研究について講義をすることになっているので、教科は違えど齋藤氏のことばを紹介しつつ、教材研究をなぜするのか?という点まで忘れずに見せたいと思った。