閲覧者もだんだん増えてきて嬉しい限りです。
昨日sava君と話していましたが、いつか先生になった時にこのブログを読み返したら恥ずかしいこともいっぱい書いているんだと思います(苦笑)
しかし、このブログのおかげで普段の読書や講演会への参加がより”主体的”になったように感じています。例えば、本を読むときも「誰かに伝えるとしたら、どこをどのように伝えよう」と考えながら読めるようになり、積極的に線を引いたり付箋を貼ったりするようになりました。少し話しは脱線しますが、先日NHKの「テストの花道」(毎週土曜日10:00-10:3再放送)で「レポータ勉強法」というものが紹介されていました。自分がレポーターになって”取材している”つもりで教科書を読んだり授業を聞けば、必要なポイントが頭に入り、さらに説明をすることで頭の中の記憶を取り出す練習もできる、というものです。
ここでの記事作りも一種の「レポータ勉強」なのかもしれません。少なくとも人様に読んで頂くというプレッシャーで、拙い表現力ながらもアウトラインを作ったり何度も推敲したりしております。自分の勉強にもとても役立ってると思います。そんなこんなで(?)、是非これからも末永く本ブログをよろしくお願いします(^^)
さて、本題です(笑)今回も書評になります。
S先生のこと | |
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研究テーマを翻訳にし、だんだん方向性が決まる中でゼミの教授に勧められたのがこの本です。
恥ずかしながら、尾崎先生のことも須山先生のことも本書を手に取るまでは存知上げませんでした。しかし、読み始めると止められなくなり、この美しい師弟関係の世界にしばし魅入りました。
もともとの目的からして、本記事では須山先生の翻訳論に焦点を当てることにしますが、ぜひ本書をお読みになる方は文学の魅力、師を持つことの意味など多くのことに思いを馳せて頂ければと思います。また、尾崎先生の語り口がとても優しくて読みやすいです。「文体で好きな作品はありますか」と以前先生に尋ねられたことがあります。その時は「好きな文体?」と固まってしまいましたが、本書を読みながら面白い表現だったり自分も使ってみたい言葉遣いだったりというのが次々と見つかり、もしかしたらこのようなことなのかもしれないと思いました。
さて、須山先生の翻訳論がよく現れている箇所をいくつか引用したいと思います。
〔1〕原文志向
翻訳をする際に「原文志向」と「訳文志向」という考えがあります。例えば、原文に忠実に訳そうとすると「原文志向」で、作者の意図などをそのまま伝えるのに成功します。しかし、訳文での読みやすさを第一とすると、いくらか原文からは離れた訳となります。このような考えを「訳文志向」といいます。
この二項対立においては、須山先生は「原文志向」であり、尾崎先生は自身を「訳文志向」とされています。どちらにもメリットはありますが、以下の一節から須山先生の原文尊重の強い信念が伺えます。
作者の頭の中に思い浮かんだ言葉の順序を、翻訳者が勝手に変えてはならない。これこそが、先生がお若いときから心がけていらした、望ましい翻訳のあり方だった。つまりは、黒衣主義。翻訳
者たるものは、創作者のプロセスにまで忠実であれ、ということ。それを改竄して読者に伝えてはならない、ということ。須山先生は、このポリシーにあくまで固執された。(p.69)
「黒衣主義」という言葉が強く響きました。以前通訳者の鳥飼先生の著書(『戦後史のなかの英語と私』)を紹介しましたが、そこにも「通訳者は自分の声を持つことができない」という意味深い一文がありました。鳥飼先生のこの文にも、翻訳者や通訳者は作者の声を届けるための「黒衣」という認識が現れています。
もちろんここでは、どちらの方が良い考え方だとは言えません。どちらにせよ、優れた翻訳作品がたくさん生まれているわけですから。一つ言えるのは、翻訳する上で上の2つの立場が常に関わってくるという点で、須山先生は「原文」を大切に翻訳されてきたのです。
〔2〕翻訳に必要な要素
翻訳(英語→日本語)をするのに必要なものは何でしょうか。多くの方は「英語力!」とおっしゃるかもしれません。あるいは翻訳を少しでも体験された方ならば「日本語力」とおっしゃるでしょう。実際に翻訳をしてみると、英語の意味を完全に理解することよりも、読み取った内容をいかに日本語で言うかに悩みます。
自分も大修館書店発行の「英語教育」の英文解釈演習教室に毎月投稿していますが、そこでは読み取った内容を日本語で表す時に毎回悩んでしまい、同じ箇所で30分や1時間かかってしまうこともありました。(これはひとえに自分の日本語語彙不足であることを示しているのだと思いますし、ブログを読んで下さっている皆様でしたら既にお気づきのことかと思います笑)
須山先生の体験を読んでいても、やはり日本語でどう表すかにこだわりを持たれていたことが伝わってきます。そのときに先生が取ったある手法があります。
先生は翻訳という仕事に関して、次のようなことを書かれています。翻訳の仕事を私はいくつかの段階に分けている。まず第一は、その作家の全作品を読むことだ。言葉の好み、癖、表現の特徴、文の調子、物の考えかた、そういったもののなかに自分をひたして、体の中にそれが自然にしみこむのにまかせる。」(「辞書以外の意外な辞書」、『翻訳の世界』一九八〇年四月号)(pp.143-144)
須山先生は、フォークナーの作品を訳しながら、彼が生み出したリーナ・グローヴという登場人物の心の置く不覚に入り込み、いわばリーナになり切って、彼女がこの瞬間に感じていたはずの絶望感や無力感を共有している。もはやここでは、リーナ・グローヴと須山先生、フォークナーと須山先生が、分かち難いことになっていると言っていいでしょう。(pp.149-150)
すなわちある本を訳すことになったとしたら、作者の全集を読み、文体や登場人物の言い回しなどに自分をひたします。そして、自らがそのキャラクターだったらどう言うだろうか、または作者が日本語を話せるとしたら何て言うだろうか、と思いを馳せながら訳すそうです。
とにかくその熱意に驚きます。私が英文解釈演習に投稿した際の話ですが、4月号ではある哲学者がスーパーマーケットで持論を展開するという話を訳すことになりました。そのとき、なんとか彼の言いたいことはわかったのですが、「この人はどのような語り口なのだろう」というところまで意識がおよびませんでした。先生に指摘されて初めて気づきましたが、語り口についてはまったくイメージが湧きません。例えば、彼は一人称は「私」なのか「自分」なのか。
須山先生のなさった全作品を読む、自分を作品にひたす、といった手法は、このような語り口を訳す際の困難点を解消したのではないでしょうか。作者の作品をとにかく読んで、自分が作者にな
ったつもりで訳す。これこそが名訳を生んだ影の努力なのでしょう。
このように述べてきましたが、やはり自分の未熟な翻訳経験で語るには限界があるようです。特に(1)の「原文志向」「訳文志向」は、まだ翻訳自体に必死で、意識するに至りません。まずは自分が翻訳をしたり、翻訳作品を鑑賞したりして経験を積んでいかねば・・・。
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