同時通訳で有名で、現在は英語教育会の最前線に立たれる鳥飼玖美子先生の新著である。先生の英語学習歴や通訳歴、また英語教育に携わるようになった経緯などが詳細に記されている。鳥飼先生の名前は「翻訳学入門」の監訳者として伺っていたが、そんな先生が新著を出すということで興味を持ち手に取った次第である。ちょうど英語教育史の勉強にも役立つだろうし・・・という軽い気持ちで選んだが、読み始めると止まらず一日で読みきってしまった。(断っておくが、私は読書は特別に得意ではなく、むしろ苦手なほうである。)
英語教育を専攻されている方にはもちろん、直接関係ない方にも読みやすく伝わるものが多いだろう。このような本書の引用をするのは恐れ多いが、以下の3観点に基づいて紹介したい。
(1)戦後の英語教育史
最近、大学院入試対策のために英語教育史の勉強会を開いている。そこで戦後の英語教育史の流れや教材・指導法の変遷を学んでいるわけだが、本書ではその流れを実際に体験された鳥飼先生が直に語っている。当時の実情がよく伝わるし、何より歴史には記述されないが英語教育に影響を与えた多くの要素もしっかりと記されている。
たとえば、日本の敗戦直後に中学で英語を学んだ國弘正雄氏の英語学習歴を第1章から引用したい。
英語を一生懸命声を出して読んでいるけどね、外国…本国人、ネイティブは身の回りにいないわけでしょう。それから、今と違うからテレビもないし、ラジオの英語番組もないし何もないし、なにしろ英語なんているのは適性語だと、こういう時代でしょう。そうするとね、外国人に、本当に外国の人と英語で一言でも二言でも交わしたいと思うじゃない?中学二年生だけどね。思うじゃない?ところがいないじゃない?どうしたらいいだろうと思った。
そこで中学二年生の國弘少年は考えた末に、「捕虜収容所に行けばいい」と思いつく。(p.13)
國弘氏はそう思い捕虜収容所へ出かけていく。そして出会った1人の外国人に"What is your country?"と聞いてみる。
(本来ならWhere are you from?と聞くのが自然なのだろうが、当時に出てきた表現はこれだったようだ。)
しかし、この表現は見事通じることになる。これが國弘氏にとって「原体験」(p.17)となる。
英語教育史を勉強していても、戦後に出された教科書("Let's Learn English!")やその後出されたオーラル・アプローチ(Fries)といった事項は理解できるが、当時の風景や実態というものはなかなかわかりにくい。しかし、今のようにインターネットや洋書が使用可能ではない時代に、捕虜収容所の存在が英語学習への動機付けの役割を担ったというのはとても興味深い。(少なくとも、1人の少年に英語への憧憬を抱かせたことに変わりはない。)
他にもBeatlesやアポロ月面着陸、沖縄返還などが英語教育(あるいは通訳教育)にどのように影響を与えたかも書かれている。英語教育に携わる者として、もちろん教材や指導法の変遷も大事だが、こういった一つ一つの出来事が英語教育を変えていったことも知っておきたい。
(2)教師論
教師論に関する本は山ほどある。教育実習が終わってからあまりそのような類の本は読むことはなかった。本書はよくある「教師はこうあるべき!」というべき論を前面に掲げるわけでもなく、むしろ読み手の内面からふつふつと情熱を掻き立てるような感じだった。(この辺をうまく表現できないところに自分の表現力のなさを感じてしまう。笑)
当時小学6年生だった著者は、担任の先生に卒業する直前に「意欲を持ちなさい」といわれた。しかし、そういわれてもどのように意欲を出せば良いか分からなかった。本気でやる気を出したのは高校生からで、アメリカ留学を志したことがきっかけだった。つまり先生の「意欲を持ちなさい」という言葉は直接働かなかったことになる。当時の述懐を第6章「教育そして教師というもの」から一部引用する。
小学校を卒業間際に担任教師は私に対し、「中学に言ったら、意欲を持ちなさい」と諄々と説いた。私は素直に頷き、中学生になったらやる気を出すと約束した。しかし私は、中学ではやる気が出なかった。Aクラスに不合格になったのを救ってもらってからはまじめに勉強するようになったが、あれが意欲だったのかどうかは疑問の余地がある。私がやっていたのは、救ってくれた先生の恩に報いるために教科書をちゃんと勉強しただけで、それ以上のことをしたわけではない。では、担任の先生のアドバイスは無駄だったのだろうか。検証したところ中学で目に見える成果が出なかったという意味では、有効ではなかったと判定されるかもしれない。(途中省略)
教育には時間がかかる。そして、教育成果が目に見える形で現れることは少ない。因果関係が明確な科学実験とは違うから、結果はすぐには出ないし、検証も難しい。しかし教育は、本人もその効果を意識できないまま、長年かけて、影響を及ぼす。しかも教育はやり直しがきかない。だから教育は怖い。そして、だからこそ教育は人間にとって大切なのである。(pp.184-186)
では、この教師の実践(「意欲を持ちなさい」と言ったこと)は無駄に終わったのだろうか。結果的に見れば著者は一流の同時通訳者となったわけで、その意欲的な姿は本書に納められている。ゆえに成功と見ることもできる。かといって、直接的に教師の言葉が筆者の意識を変えたわけでもなさそうだ。本箇所から、教育学が科学的手法に頼りすぎてもいけないことが示唆されているようにも思えた。
(3)今日の英語教育へのメッセージ
最近英語教育はよく注目されている。例えば、小学校外国語活動の導入、高校学習指導要領の英語は原則英語での文言、最近ではTOEFLの大学入試導入などがあげられる。これらについて多くの英語教育論者が持論を述べていて、これまで自分はそれらの論を理解して終わりだった。しかし、本書の結びの以下の部分を読み、はっとさせられた。
今日の日本は、戦時中とはまったく逆の流れになっており、社会をあげて「英語は絶対に必要だ」と思い込み、「コミュニケーションに文法は不要」「受験英語があるから話せない」「大学入試はTOEFL/TOEICにすべき」という思い込みに浸っている。この状況が健全だとは思えない。戦時中の「英語は敵性語」が今や「英語は国際語」となったことは果たして進歩なのかどうか。コインの表と裏のように、主張は一八〇度異なるけれど、社会全体が根拠もなく思い込んでいる、という意味では同じで、本質は変わらないという気がしてならない。
このような「思い込み」が、いかに危険であるかは、二〇一一年三月一一日大震災とその後の原発の事故で、私たちは思い知ったはずである。
「思い込み」から脱却するには、個々人が批判的精神を持って、自分の頭で判断をするしかない。空気を読むのではなく、社会を覆っている空気が果たして安全なものであるのかどうか、自分の力で見極めるしかない。「英語は必要だ」という言説は、なるほどと思わせる説得力があるが、それが世界のすべてではない。本当に必要なのかどうか、必要だとして、それはなぜなのか、人に聞くのではなく、自分で確かめなければならない。(p.250)
2003年PISA調査より「批判的思考力育成」という言葉がよく飛び交うようになった。生徒に批判的に思考させるのは大事だが、私たち教育を語る者(学者や専攻者のみならず広く教育に関わる人を含む)こそまずは批判的に私たちの「思い込み」を疑う必要があるのだろう。かく言う自分も無条件に多くの意見をこれまで受け入れてきた。(おいおい!)なので、できるだけ相手の意見を多くの面から見て、長所・短所をバランスよく見極めて自分の判断ができるようになっていきたい。
最後にあくまで個人的な感想だが、著者の英語学習歴の経緯がよく紹介されている反面、その学習法についても知りたかった。どのような英語学習を学生時代に行なわれて、同時通訳者という職業につけたのかは、一人の外国語学習者としても興味があったため、少し残念に思った。しかし、そのような枝葉末節な点は敢えて外されて書かれたのだろう。その点を除けば、戦後の英語教育がどのように展開したのかを知るのには非常に価値のある一冊である。
戦後史の中の英語と私 | |
鳥飼 玖美子 みすず書房 2013-04-11 売り上げランキング : 2962 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
0 件のコメント:
コメントを投稿