ここ最近、「定義」について考えるようになった。例えば、ディスカッションの勉強会を行っていても”ITC”という言葉でお互い意味する範囲が異なって誤解が生じたことがあった。このようにお互いの想定がズレるのは英語に限らない。日本語ディスカッションを行っていても、「言ってることが噛み合わなかった気がする」という感想がしばしば聞かれる。
また教育哲学演習の授業では、ある子どもが「白」という概念をどのように習得するかに関する説明を受けた。例えば、ある子どもが持っている「白(Aとする)」がある。その子どもが「白」に見える色を指してこのような対話を大人とする。
子「ねぇ、これって白い?」
大「いや、これは白ではないね。」
子「ふーん、そうなんだ。」
上の例で大人が持っていた白を「白B」とすると、白A≠白Bであることが分かる。また、大人の「いや、これは白ではないね。」によって、子どもは自らが持っていた白Aの概念を更新せざるを得なくなる。ここで新しくできた概念を白Cとする。
ここでできた「白C」は「白A」「白B」とも異なる「白」である。すなわち、人によって「白」が意味するものは異なる。これが色だけならまだしも、ディスカッションする際のキーワードであれば混乱が生じることも容易に想像できるはずだ。
科学論文等における定義とは異なり、日常生活で使う定義(一般的定義)はいわゆる<他者性>によって曖昧になりがちのようだ。そこで、本記事ではイズラエル・シュエフラー(1987)「教育の定義」『教育のことば―その哲学的分析』(村井実監訳)を基に、日常生活で用いる定義を分類することを試みる。
(1) 規約的定義(stipulative
definition)
「被定義語を明示し、ある特定の文脈中ではそれを他に示された何らかの誤や記述と同等なものとみなすように指令すること」(p.19)である。規約的定義は被定義語が定義される前に持っていた用法によってさらに区分される。すなわち、被定義語に定義以前の用法がない場合は「創作的(inventive)規約」と呼ばれ、もともと何かしらの用法がある場合は「非-創作的(non-inventive)規約」とされる。
上記の説明のみでは想像がつきにくいかもしれないので、大学のセメスターが終わると出される成績を例に説明する。我々の成績表には“S”“A”“B”…といったアルファベットが出されて、この一文字一文字に一喜一憂する訳だが、もともとこれらのアルファベットには用法(意味)は存在していない。したがって、「本カリキュラムを優秀な成績で修めた」を“S”にすることは、創造的規約の定義となる。それに対して、「合格」「不合格」のいずれかも成績表に書かれているが、これらの単語にはもともと意味がある。したがって、「あなたは本カリキュラムの単位を修めた。」を「合格」と表すのは非-創造的規約の定義である。
これらの定義をする目的は、コミュニケーションの便宜上短いことばで言い換えることにある。もし規約的定義を用いなければ、いちいち成績表には「本カリキュラムを優秀な成績で修めた」「あなたは本カリキュラムの単位を修めた。」と記されることになる。しかし、これでは読みづらいし、話し言葉ではこのようなまどろっこしい言葉は避けられる。したがって“S”や「合格」といった言葉を定義づけて用いているのだ。
(2) 記述的定義(descriptive
definitions)
記述的定義とは、「被定義語を、その従来の用法を記述することによって説明する(p.23)」である。
・・・気づかれた方もいらっしゃるだろうが、上の文も記述的定義となる(笑)。記述的定義はこのように意味の明確化のために用いられる。
例えば、英語教育専攻の太郎君と哲学専攻の良子さんがおしゃれなカフェで以下の会話をしたとする。
太郎「あのさ、CEFRって便利だと思わない?これで生徒の力を図れるよ。」
良子「うーん、わかんないな。私たち言語ゲームが成立していないように思えるわ。」
太郎「ゲームか。そういえば、ゲームみたいなコミュニケーション活動もいいけど、僕はフォーカス・オン・フォーム派かな。」
良子「いろんな立場があるのね。いわゆる大陸論と合理論みたいなものかしら。」
このようなカップルがいればぜひお目にかけたいものだが(笑)この会話を記述的定義を用いたら上手く会話になるかもしれない。
太郎「CEFRって便利だと思わない?あっ。CEFRっていうのはヨーロッパで使われてる言語熟達度を示す共通の参照枠のことなんだけど。これで生徒の力を図れる。」
良子「へぇ、便利ね。私たちの言語ゲームは成立してるようね。ちなみに言語ゲームとは後期ウィトゲンシュタインの基本概念で、言語による生活の成立を示しているんだけど。」
(以下省略)
まぁ、記述的定義を用いてもこのカップルの不自然さはむしろ強調されたわけだが(笑)「明確化」という意味は分かって頂けたかと思う。(てか、良子何もの?笑)
(3) プログラム的定義(programmatic
definitions)
一般的定義による実践的役割が意図される場合、その定義を「プログラム的定義」という。例えば、以下の文章を読んでいただきたい。
今までは明らかに「専門職」という語の適用範囲の外におかれていたWというある種の仕事を想定してみよ。そして、「専門職」という語を結果としてWという仕事にも適用できるような定義が提示されると考えてみるがよい。文脈から考えて、この定義はコミュニケーションを容易にする削除や省略の工夫を採用するためだけに用いられているのではないことは明白である。[…]当の定義をする人の目当ては、それらの定義とは異なった点にあるのである。彼は、Wという仕事に、定義以前の用法の「専門職」という語を適用することができるほかの種類の仕事と動揺の処遇を請けさせたいのである。(pp.33-34)
ここでは、「Wは専門職だ」という定義づけによって、コミュニケーションの便宜化でもなければ明確化でもない、他の効果が期待されている。このように名づけによる語用論的な言語行為(speech act)とも言えるタイプをプログラム的定義と呼ぶ。
※言語行為(speech act)…”An action performed by the use of an utterance to communicate”(George
Yule, 1996)。簡単に言えば、ある発話によって期待される効果である。例えば、「のど渇かない?」という良子の発話によって、太郎がジュースを買いに走らされたとしよう。この時、「のど渇かない?」の言語行為が「太郎がジュースを買いにいく」という行為である。
このように3種類の定義を紹介してきたが、これらは明確に区分されるとは限らず、文脈によっては重複することももちろんありえる。(例えば法律的文脈ではこのような現象がよくおきる。)
このように長々と説明してきたが、これら定義の区別をしておくだけでも、発表の際などで自分がどのような定義を今必要としているか把握することもできるだろう。さらに、それぞれの定義が目指そうとしている点を重視することができれば、不必要な議論を避けることもできるかもしれない。
これら三種類の一般的定義を互いに競わせたり、そのうちのいずれかの定義、もしくはすべての定義と科学的定義を競わせたりすることは、明らかにまったく的外れな企てである。それぞれの定義にはすべて完全に正当な目的があるのであり、ある種の定義に対して賛否を決定したり、一定の価値のものさしですべての定義をランクづけたりすることはまったく必要ではない。必要なことはむしろ、いずれの定義にとっても、それについての批判的な評価はそれぞれの低が用いられる場合に問題となっている論点に対して行われなければならないということである。これまでに試みてきた定義間の区別は、そのことに役立つことであろう。(pp.36-37)
【参考文献】
イズラエル・シュエフラー(村井実監訳) (1987)「教育の定義」『教育のことば―その哲学的分析』(pp.15-63)東洋館出版社
George Yule(1996)”Pragmatics”Oxford University
Press (p.134)
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