最近、久しぶりに高校の頃の友人と会うことができました。お互いの道を進んでいると実感し、自分も負けられないと思いました。
さて、今日は熊倉伸宏さんの『面接法』という本をご紹介いたします。熊倉さんの本は、以前ゼミの先生の紹介で『肯定の心理学』を読んだのがきっかけで、前から興味がありました。本書は採用試験の関係で帰省する新幹線で読んだのですが、方法論の羅列ではなく、面接にとって大事な心構えも多く述べられており、とても面白く読めました。本書が分かりやすいので、かなり上手くまとめられた部分も多かったのですが、ここでは敢えて私の関心に応じて「他者」意識を軸にまとめております。
面接法 | |
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こころの問題に興味をお持ちの方は、どうぞ手にとって頂ければと思います。
1.面接(者) とは
■ 面接家は専門家だが、完全な存在ではないことを自覚する必要があり、理論のみならず来訪者という人間を目の前にしていることを忘れてはいけない。
私たちからすれば、「心の専門家」なら悩みや不安を何でも解決してくれるイメージがあるかもしれません。しかし、このような考えを熊倉さんは強く戒めます。
そもそも優れた面接者とは何であろうか。…もともと、自分に人を癒す能力などあるはずはないし、いつ誤りを犯すか分からないと思っている人、要するに、「私のような凡人に出来ることは、相手の話をよく聞くことと、十分に学ぶこと以外にない」、そう思っている人ではないだろうか。 (p.8)
私にとって優れた面接者とは、著名な人の言葉と、目の前にいる来訪者の言葉が同じ重さを持っていることに気がついている人たちであった。(p.9)
専門家であれば多くの理論や専門知識を自分のものにしているはずですが、その前提で目の前にいる来訪者を丁寧に見られることが必要です。なので、日常語と専門語の両方で考えることが求められます。
日常語は、ウィトゲンシュタインやクワインが指摘する通り、常に意味が単一に固定されるのではなく、使われながら意味が変わっていきます。「死ね」という言葉ももともと相手に命を絶つよう命令する文のはずですが、子供たちやテレビの出演者が使ううちに意味が弱くなっていき、もともとの強烈な意味は (少なくとも「死ね」という当の本人たちの中では) もうありません。
それに対して、専門語は定義が求められるため、単一の意味しか持ちえません。私の研究論文で「翻訳」ということはがでたら、少なくとも論文中で定義した意味以外では用いてはいけません (そうでないとしたら批判がくるでしょう) 。そのため論理的な思考には専門語は向いています。しかし、先ほどの日常世界とは少し離れているようにも感じられます。
このような日常語と一般後の兼ね合いについて、熊倉さんは以下のように補足しています。
来談者は、日常語で生活の問題を語る。その訴えには色々な意味が含まれているので、面接者は、専門語を道具として、来談者の訴えの多義性に切り込んでいく。そして、訴えの背後にある日常的な問題を、専門語で捉えようとする。(p.73)
■ 来訪者を対象化するのではなく、関係性の中で相手をする。
大学院の授業で「切断の論理」と「関係性の論理」という言葉を知りました。「切断の論理」とは物事を対象化して、わたし(主観) がその対象 (客観) を観察するという構図で把握されますが、「関係性の論理」はわたしと対象のつながりを重視するという立場になります。たとえば、学校教育でも、生徒の偏差値や出席日数、宿題の提出率を以って生徒を客観的に把握する (切断の論理) ことも可能かもしれませんが、わたしという一教員がその生徒とどのような関係性の中で何を評価するか (関係性の論理) も考慮することはできるでしょう。
もちろん、面接者は「関係性の論理」によって面接を行わなくてはなりません。
英語で面接をインタビュー inter-view という。人と人が互いに顔を付き合わせるという意味である。対等に出会い、話し合い、問題解決を目指す。…彼らは、決して、単なる観察対象、モノではないのは、当然である。来談者を技法の対象、観察対象にすることで、失われるものがある。対象化した時に見えなくなるものがある。それは、来談者の生きた声である。 (p.15)
2.面接における他者
■ 面接家は、「ほどよい他者」くらいの距離が良い。
面接者は来談者の心に寄り添うことがもちろん必要ですが、かといって完全に来談者と同調し、同一化してしまっては相談の意味がありません。やはり面接をするからには、面接者は相手にとっての「他者」である必要があります。かといって、あまりに異質な「他者」であり続ければ、来訪者は(特に初回面接で)不安に感じてしまいます。そこで、丁度良い「他者」である必要があります。熊倉さんは、自己と他者が一体と感じつつ(共感しつつ)も「他者が居る」という感じを与えることが必要と言います。
共感ばかりであっては、いつまでも、「私たち」から抜け出せない。自分が感じられないし、そこに他者がいるという手応えもない。「一人ぼっち」ではなくて、「二人ぼっち」の孤独感が生ずる。逆に、あまりに距離感が遠く感じられると、本当に、「一人ぼっち」になる。付かず離れずの、適当な距離が必要なのである。自己と他者としての節度が、必要なのである。 (p.56)
では、どのようにすれば「ほどよい他者」になれるのでしょうか。中庸を目指すというのは常に難しいことですが、本書では「適切な問いを発すること」が具体例として挙げられています。面接の場では、来談者が語る上で自分に関するストーリーを持っており、彼(女)の語りを通して面談者もストーリーを思い描きます。両者のストーリーは完全に一致することはほぼないと言えるでしょう。面談者は語りという限られたメディアを通してストーリーを形成するわけなので、常に「わからない部分」が生まれます。したがって、そのわからない部分を明確にして相手に問うことで、面談者は少なからず意外性を感じます。それは自分にとってあまりに些細なために意外なのかもしれませんし、自分が思いも付かなかった点を聴かれたためにそう感じたのかもしれません。しかしこの意外性が、眼前に「他者」がいるという実感を与えます。
「よく聞いてくれる」という実感を来談者が持つときには、些細な問いが縦横にめぐらされた会話が成立している。来談者の話の邪魔にならないように、要所で、新しい問いを立てる。その問いの意外性こそが、他者が共に居るという手応えである。こうして、すべての問いが、一つの仮説的ストーリーをめぐって構造化され、一つの大きなストーリーへと結晶して行く。 (p.60)
これはカウンセリングという特殊なインタビュー形式のみならず、友人と会話をしている時もそうなのかもしれません。映画を見に行ったときに自分と全く同じ感想を相手が仮に持ったとしたら、おそらくあまり楽しくはないでしょう。同じ映画を見ても感想や解釈が異なるからこそ、自分とは異質な他者であることを私たちは実感しているのではないでしょうか。
■ 他者は無際限性を有している。
無際限性とは、「人とは基本的に捉え尽くせないもの、無限なもの、『分からない』もの、謎である」 (p.76) ということで、さらに換言すれば「他者は分かり合えない」というこのブログのおなじみのテーゼに向かいます(笑)。他者はもともと完全に分かることはできないという前提を持っておくことが重要で、この前提があるかないかで、信頼感が大きく異なります。
この点は、本書の話題からずれますが、もう少し述べたいと思います。
たとえば、ニクラス・ルーマンが援用したスペンサー・ブラウンの記号を用いれば、「他者のストーリーを分かる」というのは、他者の語りを理解する結果(観察した結果)になります。観察では、「他様でもありえたストーリー」は盲点となるので、まだ分かりきっていないことになります。
この観察を2回続けたとしても、まだ分かっていない部分があります。この観察を何回続けても、やはり「他様でありえたストーリー」や「分からない部分」は残り続けます。つまり、どれだけ面接者が来訪者の語りを聞いて観察し続けたとしても、相手について完全に理解しきるということは、原理上ありえず、むしろ「分かりきれない」からこそコミュニケーションをしているのではないかという気さえします。(なので、この「無際限性」こそが、社会システムの構造上の欠如 (Defizit) ではないかという気がしていますが、あくまで自分の主観です。)
ただ、「分かりきれない」からといって他者理解が不可能とは言うつもりはなく、この観察を何回も続ければ、少しずつ他者に関するストーリーを更新することができるようになり、他者理解へとつながるはずです。しかし、来談者のことを何でも知ってやろうと考えてしまうと、相手は窮屈に感じてしまうかもしれません。だからこそ、他者を完全に理解することはそもそも不可能という前提を有していることは重要でしょう。
では、どのようにして無際限性を克服するのでしょうか。面談者はそのためにも、構造化された観察を行います。構造化された観察とは、面接前に定めた観点に基づいて観察を行うことで、これによって本来は複雑性の高い他者(メディア)を、1つのストーリー(フォルム)へと複雑性の縮減を行うことで、理解しようとするわけです。
■ 不在の他者にも目を向ける
さて、他者を「眼前」「不在」「非存在」の3区分でとらえることにします。「眼前の他者」とは目の前にいる他者で、来談者にとっては同じ空間を共有する面談者になります。それに対して、「不在の他者」は存在はしているけれど目の前にはいない他者、非存在の他者とはそもそもいない他者です。前節までは他者としての面接者(眼前の他者)に関して述べてきましたが、それ以外にも、「不在の他者」にも注意すべきです。面接者にとっての不在の他者とは、家族や友人はもちろん、カウンセリングに関する師匠や先生、さらにユングやフロイト、河合隼雄といった著名人も含みます。彼らの影響があって今の面接者ができているのであって、彼らの影響を排除することはできません。それと同様に、来訪者にとっても、面接室という場には存在していないとしても、彼らに影響を与える人間はたくさんいるわけで、面接ではそんな不在の他者についても話します。すると、不在の他者に関する話をすることで、来訪者自身の内面が投影されます。面接者はその語りに耳を傾けることで、来訪者の内面を一種のメタファーとして推測します(ストーリーの形成)。
面接の場には、時に応じて多彩な「不在の他者」が登場する。そのお陰で、面接室は、あたかも多くの人たちの心が充満した世界のように、時々刻々と多彩に変化する。(p.68)
3.他者を「分かる」ことと「受け止める」こと
熊倉さんは、面接を大きく2区分するとしたら、「分かる」段階と「受け止める」段階と言います。
■ 「分かる」段階:相手についてのストーリーを読むことで、そのストーリーは常に更新される。面接者はできれば希望のストーリーへと導く。
「分かる」とは、来訪者のストーリーを読むことで、無際限な他者を少しでも理解するために面接者は来訪者についてのストーリーを紡ぎだします。ここで重要なのは、ストーリーが面接中にどんどん変容するということです。たとえば、来訪者Aさんは友達とケンカして面談者を訪れ、「あいつなんか死ねばいい」と何度も言うとします。しかし、Aさんが言葉で発する「訴え」と彼が本当に心の中に持っている「来訪理由」は区別しなければなりません。これらの区別をすることが面談者の「理解」であって、これをルーマンのコミュニケーションの三極図で表すと以下のようになるでしょうか。
面接者は、「あいつなんか死ねばいい」という言葉もそのまま受け取るのではなく、彼がこの言葉で私に伝えようとしている本当の気持ちは何かを推し量ろうとする必要があり、そこにストーリーが生まれます。そのストーリーとは「Aさんは本当に死んで欲しいと思っているわけではないかもしれない」と最初に思いついたとしましょう。すると面接を続ける中で、「仲直りできない自分が悔しい」という言葉がAさんの口から出てきます。すると先ほどのストーリーは「Aさんは仲直りできない自分が悔しくて、その思いを友人に投影しているかもしれない」というストーリーに更新されます。また、「早く仲直りしたい」とAさんが言えば、「仲直りもしたいと思っている」とストーリーが追加されます。このように刻一刻とストーリーは更新され続けます。先ほどの「適切な問い」の話でも出ましたが、面接者自身がそのストーリーを自覚しておけば、そのストーリーでまだ分かっていないことを相手に確認できます。
来訪者も自分についてのストーリーをおそらく立てていますが、その多くは悲観的なものかもしれません。そこで面接者はそのストーリーを少しでも希望あるものに導くべきです。
面接が進行するに従って、ストーリーが展開していく。面接では、人は大抵、絶望か不信のストーリーを持って来談する。面接者が、そこに希望のストーリーを読み取ることが仕事である。 (p.80)
そして相手のストーリーを更新するには、面接者と来談者の信頼関係が必要となります。
可能なストーリーは無限にあっても、固定したストーリーを持ち続ける。例え不幸なストーリーでも、自分が信じ込んでいるストーリーを捨てることは、大変な痛みや不安を伴う。自己の大きな変革を求められるからだ。
だから、新しいストーリーが読み取られるには、面接者と来談者の信頼関係が必要なのである。面接者が「一緒に見ること」、「見守ること」が重要なのである。 (p.81)
他にも熊倉さんはストーリーには「生きたダイナミズム」 (p.83) があるといいます。ストーリーが静的 (static) ではなく、常に移り変わるものである点を言い表しているのだと思います。
さて、先ほどのAさんのストーリーも更新され続け、ついに「なぜ人は分かり合えないのだろう」という問いを彼が抱えていることがわかったとします。これはある意味で人生の究極の問い (Question of Life) といえそうで、とてもすぐに答えが出せそうにありません。この段階まで言ったら、「分かる」段階から「受け止める」段階へと移行すべきでしょう。(もちろんはっきりとした線引きはできませんが。)
■ 「受け止める」段階:来談者が究極の問いを立てたとき、面談者にできるのは「受け止める」ことである。
先ほどの「分かる」段階では、相手のストーリーを読み取るために対等な信頼関係を持つ必要がありました。ここでストーリーを更新し続けると、来談者が究極の問いを発していることに気づくかもしれません。
面接が対等な話し合いであるという意味は、来談者の主張・問い掛けの方が、面接者より深い場合があるということである。面接者が来談者に問い掛けるだけではない。来談者の問い掛けの重みに気付くことが大切なのである。 (p.86)
実は、面接が、面接者さえ答えられないテーマへと展開すること自体は、驚くべきことではない。それは、むしろ喜ぶべきことである。...
その時、来談者は、初めて、自分が抱える困難を、自分の問題として語りえたからである。来談者の訴えが本当に解決困難であると面接者が感じたとき、面接者は、もっとも大事な点を理解したのである。この時、人生上の対等な者同士として話し合い、その重さを分かち合う所まで、ようやく二人で来たのである。 (p.86)
もしかしたら傲慢な自分であれば、「ああ、人は分かり合えないというのは、○○理論で説明できます。それは~~」と偉そうに語ってしまったり、「そんなのどうせ私たちにはわかんないですから、考えないほうが楽になれますよ。」と会話を停止させてしまったりするかもしれません。これらは来訪者のストーリー更新を止める行為であり、本記事の冒頭で述べたとおりもっと謙虚になる必要があるでしょう。
では、このような究極な問いが出たとき、面接者に出来ることは何でしょうか。それは、「一緒に見る」ということです。たとえば、Aさんに対して、「なぜ人が分かり合えないか、ですか。それは私にも正直言って分かりません。一緒に考えてみませんか。」と伝えることが考えられます。これはAさんの問いに対する一問一答にはなっていませんが、Aさんは「見守ってくれている」と感じるかもしれません。私たちはそのような究極な問いを前にすれば、誰しも1人の人間で、各々にとっての正解を持っているが究極な答えなど見つかるはずもありません。ならば、お互いの思う正解を出し合ったり。一緒に問いに向き合うことが必要でしょう。このときは、面談者と来訪者の間に人為的関係や上下関係は一切なく、究極な問いを前にした対等の2人の存在です。
すると、それまで自分の自身のなかった来談者も、少しずつ「自分」の意識が形成されるようになります。
「私にもわからないことだから、一緒に見ていこうね」と告げたとき、来談者は、「本当に、先生でも分からないのですか」と驚く。そして自責から解放され、自分で考え行動し始める。面接者は、一緒にいて、ただ見守る立場でいればよい。来談者が「見守ってくれた」と感じればよい。比喩であるが、一人歩きし始めた幼児は、親の不安を面白がって冒険する。それでも何時も親の視線を感じている。「一緒に見る」時期に、この「一人歩き」が始まる。謎の存在への洞察において、はじめて、心の深い部分において、「自分」の意識が形成される。 (p.92)
「一人歩き」の段階までいけば、もしかしたら自立への道はだいぶ進んでいるのかもしれません。ここでカウンセリングは終わるかもしれませんし、まだまだ続くかもしれません。一ついえるのは、最初のAさんよりも明らかに成長しているということではないでしょうか。
4.感想
上のまとめは、本当に自分の恣意的な解釈に基づいているので、少しでも気になった方はぜひ実物をご覧頂きたく存じます。
さて、本書を読んでいてまず思ったのは、熊倉さんの面接に対する謙虚さです。本書は方法論を紹介しつつも理念部分や考え方などを中心にまとめられていましたが、「絶対的な方法などそもそもない」「面接者は目の前の一人の来訪者に対してできることをすべき」という考え方が通底していたように感じます。改めて、臨床心理やカウンセリングという世界が複雑なものであることが少しでも知れてよかったです。
また、上で述べられることはある程度、教育にも当てはまるのではないでしょうか。もちろん教師には母性的原理のみならず父性的原理も兼ね備えておく必要があるでしょうから、常に相手を待つということはできません。しかし、非行少年の更生などを学部時代に学んだときにも思いましたが、人の成長はそんなに早く起きるわけはなく、植物が生長するのと同じでとても時間がかかるものではないでしょうか。だからこそ、教師には待つことがどうしても求められる気がします。(とすると、いついつまでにこれだけ達成する、というビジネス的な数値目標の立て方がどこまで教育学で通用するのか、疑問に思います。)
私もカウンセリングに行ったことがありますが、そこでは自分の話を丁寧に聴いてくださったという印象が強かったです。また、「不安があるときどうすべきか」という悩みに対しては、「点数をつけてみるといい」とか「ノートでグラフをつけると、自分が不安になるときの傾向が分かってくる」などと今でも実践しているアドバイスも頂きました。本書を読んで、改めてカウンセラーの方々があの時にどのようなことを考えたらっしゃったのかが少し分かった気がしますが、やはりすごいな~と素人目線で思う限りです(笑)
本書はとても印象深い言葉が多くありましたが、もっとも印象に残った一節を最後に紹介します。傷ついた相手にどう接するか、という話です。
第二段階で面接者に求められるのは共感である。しかし、面接者は共感という言葉を不用意に用いすぎたようである。共感とは、「辛いだろうね」とか、「分かる」という言葉を口にすることではない。大体、本当に辛いと共感できるならば、傷口に触れるような安易な言葉は避けるがよい。安易な共感は相手には哀れみと受け取られ、哀れみを掛けられた者は、そこには隠された軽蔑があることを鋭敏に感じ取る。そして、自分を惨めに感じる。慰めの言葉は相手を十分に理解した上で用いなくてはならない。...
共感という言葉に値するのは、来談者の抱えた解決不可能な課題から、面接者が眼をそらさなかった時である。解決不可能な問題にであったという驚きは、「深い」心の相談でもっとも重要な所見である。その時でも、その困難から身を引かずに、「一緒に見ていきましょう」と言い切れば、本当に共感したといえよう。 (p.91)
本当に傷ついた相手の力になるには、相談に乗る側もある程度コストを払わなければならないわけで、甘い言葉を2,3かけるだけで済むわけではないということでしょう。この点については、熊倉さんの『肯定の心理学』でより深く考察されています。私が「ことば」というものに関心をもったきっかけの1冊で、「こころ」や「コミュニケーション」などの問題を考えるのにも良いと思います。こちらもぜひ読んでみてください。
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