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2014年8月30日土曜日

熊倉伸宏 (2002) 『面接法』 新興医学出版社

こんにちは、mochiです。

最近、久しぶりに高校の頃の友人と会うことができました。お互いの道を進んでいると実感し、自分も負けられないと思いました。

さて、今日は熊倉伸宏さんの『面接法』という本をご紹介いたします。熊倉さんの本は、以前ゼミの先生の紹介で『肯定の心理学』を読んだのがきっかけで、前から興味がありました。本書は採用試験の関係で帰省する新幹線で読んだのですが、方法論の羅列ではなく、面接にとって大事な心構えも多く述べられており、とても面白く読めました。本書が分かりやすいので、かなり上手くまとめられた部分も多かったのですが、ここでは敢えて私の関心に応じて「他者」意識を軸にまとめております。

面接法
面接法熊倉 伸宏

新興医学出版社 2002-01-10
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こころの問題に興味をお持ちの方は、どうぞ手にとって頂ければと思います。


1.面接(者) とは


■ 面接家は専門家だが、完全な存在ではないことを自覚する必要があり、理論のみならず来訪者という人間を目の前にしていることを忘れてはいけない。

私たちからすれば、「心の専門家」なら悩みや不安を何でも解決してくれるイメージがあるかもしれません。しかし、このような考えを熊倉さんは強く戒めます。

そもそも優れた面接者とは何であろうか。…もともと、自分に人を癒す能力などあるはずはないし、いつ誤りを犯すか分からないと思っている人、要するに、「私のような凡人に出来ることは、相手の話をよく聞くことと、十分に学ぶこと以外にない」、そう思っている人ではないだろうか。 (p.8)
私にとって優れた面接者とは、著名な人の言葉と、目の前にいる来訪者の言葉が同じ重さを持っていることに気がついている人たちであった。(p.9)

専門家であれば多くの理論や専門知識を自分のものにしているはずですが、その前提で目の前にいる来訪者を丁寧に見られることが必要です。なので、日常語と専門語の両方で考えることが求められます。

日常語は、ウィトゲンシュタインやクワインが指摘する通り、常に意味が単一に固定されるのではなく、使われながら意味が変わっていきます。「死ね」という言葉ももともと相手に命を絶つよう命令する文のはずですが、子供たちやテレビの出演者が使ううちに意味が弱くなっていき、もともとの強烈な意味は (少なくとも「死ね」という当の本人たちの中では) もうありません。

それに対して、専門語は定義が求められるため、単一の意味しか持ちえません。私の研究論文で「翻訳」ということはがでたら、少なくとも論文中で定義した意味以外では用いてはいけません (そうでないとしたら批判がくるでしょう) 。そのため論理的な思考には専門語は向いています。しかし、先ほどの日常世界とは少し離れているようにも感じられます。

このような日常語と一般後の兼ね合いについて、熊倉さんは以下のように補足しています。

来談者は、日常語で生活の問題を語る。その訴えには色々な意味が含まれているので、面接者は、専門語を道具として、来談者の訴えの多義性に切り込んでいく。そして、訴えの背後にある日常的な問題を、専門語で捉えようとする。(p.73)


■ 来訪者を対象化するのではなく、関係性の中で相手をする。

大学院の授業で「切断の論理」と「関係性の論理」という言葉を知りました。「切断の論理」とは物事を対象化して、わたし(主観) がその対象 (客観) を観察するという構図で把握されますが、「関係性の論理」はわたしと対象のつながりを重視するという立場になります。たとえば、学校教育でも、生徒の偏差値や出席日数、宿題の提出率を以って生徒を客観的に把握する (切断の論理) ことも可能かもしれませんが、わたしという一教員がその生徒とどのような関係性の中で何を評価するか (関係性の論理) も考慮することはできるでしょう。

もちろん、面接者は「関係性の論理」によって面接を行わなくてはなりません。

英語で面接をインタビュー inter-view という。人と人が互いに顔を付き合わせるという意味である。対等に出会い、話し合い、問題解決を目指す。…彼らは、決して、単なる観察対象、モノではないのは、当然である。来談者を技法の対象、観察対象にすることで、失われるものがある。対象化した時に見えなくなるものがある。それは、来談者の生きた声である。 (p.15)


2.面接における他者


■ 面接家は、「ほどよい他者」くらいの距離が良い。

面接者は来談者の心に寄り添うことがもちろん必要ですが、かといって完全に来談者と同調し、同一化してしまっては相談の意味がありません。やはり面接をするからには、面接者は相手にとっての「他者」である必要があります。かといって、あまりに異質な「他者」であり続ければ、来訪者は(特に初回面接で)不安に感じてしまいます。そこで、丁度良い「他者」である必要があります。熊倉さんは、自己と他者が一体と感じつつ(共感しつつ)も「他者が居る」という感じを与えることが必要と言います。

共感ばかりであっては、いつまでも、「私たち」から抜け出せない。自分が感じられないし、そこに他者がいるという手応えもない。「一人ぼっち」ではなくて、「二人ぼっち」の孤独感が生ずる。逆に、あまりに距離感が遠く感じられると、本当に、「一人ぼっち」になる。付かず離れずの、適当な距離が必要なのである。自己と他者としての節度が、必要なのである。 (p.56)

では、どのようにすれば「ほどよい他者」になれるのでしょうか。中庸を目指すというのは常に難しいことですが、本書では「適切な問いを発すること」が具体例として挙げられています。面接の場では、来談者が語る上で自分に関するストーリーを持っており、彼(女)の語りを通して面談者もストーリーを思い描きます。両者のストーリーは完全に一致することはほぼないと言えるでしょう。面談者は語りという限られたメディアを通してストーリーを形成するわけなので、常に「わからない部分」が生まれます。したがって、そのわからない部分を明確にして相手に問うことで、面談者は少なからず意外性を感じます。それは自分にとってあまりに些細なために意外なのかもしれませんし、自分が思いも付かなかった点を聴かれたためにそう感じたのかもしれません。しかしこの意外性が、眼前に「他者」がいるという実感を与えます。

「よく聞いてくれる」という実感を来談者が持つときには、些細な問いが縦横にめぐらされた会話が成立している。来談者の話の邪魔にならないように、要所で、新しい問いを立てる。その問いの意外性こそが、他者が共に居るという手応えである。こうして、すべての問いが、一つの仮説的ストーリーをめぐって構造化され、一つの大きなストーリーへと結晶して行く。 (p.60)

これはカウンセリングという特殊なインタビュー形式のみならず、友人と会話をしている時もそうなのかもしれません。映画を見に行ったときに自分と全く同じ感想を相手が仮に持ったとしたら、おそらくあまり楽しくはないでしょう。同じ映画を見ても感想や解釈が異なるからこそ、自分とは異質な他者であることを私たちは実感しているのではないでしょうか。



■ 他者は無際限性を有している。

無際限性とは、「人とは基本的に捉え尽くせないもの、無限なもの、『分からない』もの、謎である」 (p.76) ということで、さらに換言すれば「他者は分かり合えない」というこのブログのおなじみのテーゼに向かいます(笑)。他者はもともと完全に分かることはできないという前提を持っておくことが重要で、この前提があるかないかで、信頼感が大きく異なります。

この点は、本書の話題からずれますが、もう少し述べたいと思います。

たとえば、ニクラス・ルーマンが援用したスペンサー・ブラウンの記号を用いれば、「他者のストーリーを分かる」というのは、他者の語りを理解する結果(観察した結果)になります。観察では、「他様でもありえたストーリー」は盲点となるので、まだ分かりきっていないことになります。



この観察を2回続けたとしても、まだ分かっていない部分があります。この観察を何回続けても、やはり「他様でありえたストーリー」や「分からない部分」は残り続けます。つまり、どれだけ面接者が来訪者の語りを聞いて観察し続けたとしても、相手について完全に理解しきるということは、原理上ありえず、むしろ「分かりきれない」からこそコミュニケーションをしているのではないかという気さえします。(なので、この「無際限性」こそが、社会システムの構造上の欠如 (Defizit) ではないかという気がしていますが、あくまで自分の主観です。)

ただ、「分かりきれない」からといって他者理解が不可能とは言うつもりはなく、この観察を何回も続ければ、少しずつ他者に関するストーリーを更新することができるようになり、他者理解へとつながるはずです。しかし、来談者のことを何でも知ってやろうと考えてしまうと、相手は窮屈に感じてしまうかもしれません。だからこそ、他者を完全に理解することはそもそも不可能という前提を有していることは重要でしょう。

では、どのようにして無際限性を克服するのでしょうか。面談者はそのためにも、構造化された観察を行います。構造化された観察とは、面接前に定めた観点に基づいて観察を行うことで、これによって本来は複雑性の高い他者(メディア)を、1つのストーリー(フォルム)へと複雑性の縮減を行うことで、理解しようとするわけです。



■ 不在の他者にも目を向ける

さて、他者を「眼前」「不在」「非存在」の3区分でとらえることにします。「眼前の他者」とは目の前にいる他者で、来談者にとっては同じ空間を共有する面談者になります。それに対して、「不在の他者」は存在はしているけれど目の前にはいない他者、非存在の他者とはそもそもいない他者です。前節までは他者としての面接者(眼前の他者)に関して述べてきましたが、それ以外にも、「不在の他者」にも注意すべきです。面接者にとっての不在の他者とは、家族や友人はもちろん、カウンセリングに関する師匠や先生、さらにユングやフロイト、河合隼雄といった著名人も含みます。彼らの影響があって今の面接者ができているのであって、彼らの影響を排除することはできません。それと同様に、来訪者にとっても、面接室という場には存在していないとしても、彼らに影響を与える人間はたくさんいるわけで、面接ではそんな不在の他者についても話します。すると、不在の他者に関する話をすることで、来訪者自身の内面が投影されます。面接者はその語りに耳を傾けることで、来訪者の内面を一種のメタファーとして推測します(ストーリーの形成)。

面接の場には、時に応じて多彩な「不在の他者」が登場する。そのお陰で、面接室は、あたかも多くの人たちの心が充満した世界のように、時々刻々と多彩に変化する。(p.68)


3.他者を「分かる」ことと「受け止める」こと


熊倉さんは、面接を大きく2区分するとしたら、「分かる」段階と「受け止める」段階と言います。

■ 「分かる」段階:相手についてのストーリーを読むことで、そのストーリーは常に更新される。面接者はできれば希望のストーリーへと導く。

「分かる」とは、来訪者のストーリーを読むことで、無際限な他者を少しでも理解するために面接者は来訪者についてのストーリーを紡ぎだします。ここで重要なのは、ストーリーが面接中にどんどん変容するということです。たとえば、来訪者Aさんは友達とケンカして面談者を訪れ、「あいつなんか死ねばいい」と何度も言うとします。しかし、Aさんが言葉で発する「訴え」と彼が本当に心の中に持っている「来訪理由」は区別しなければなりません。これらの区別をすることが面談者の「理解」であって、これをルーマンのコミュニケーションの三極図で表すと以下のようになるでしょうか。



面接者は、「あいつなんか死ねばいい」という言葉もそのまま受け取るのではなく、彼がこの言葉で私に伝えようとしている本当の気持ちは何かを推し量ろうとする必要があり、そこにストーリーが生まれます。そのストーリーとは「Aさんは本当に死んで欲しいと思っているわけではないかもしれない」と最初に思いついたとしましょう。すると面接を続ける中で、「仲直りできない自分が悔しい」という言葉がAさんの口から出てきます。すると先ほどのストーリーは「Aさんは仲直りできない自分が悔しくて、その思いを友人に投影しているかもしれない」というストーリーに更新されます。また、「早く仲直りしたい」とAさんが言えば、「仲直りもしたいと思っている」とストーリーが追加されます。このように刻一刻とストーリーは更新され続けます。先ほどの「適切な問い」の話でも出ましたが、面接者自身がそのストーリーを自覚しておけば、そのストーリーでまだ分かっていないことを相手に確認できます。


来訪者も自分についてのストーリーをおそらく立てていますが、その多くは悲観的なものかもしれません。そこで面接者はそのストーリーを少しでも希望あるものに導くべきです。

面接が進行するに従って、ストーリーが展開していく。面接では、人は大抵、絶望か不信のストーリーを持って来談する。面接者が、そこに希望のストーリーを読み取ることが仕事である。 (p.80)

そして相手のストーリーを更新するには、面接者と来談者の信頼関係が必要となります。

可能なストーリーは無限にあっても、固定したストーリーを持ち続ける。例え不幸なストーリーでも、自分が信じ込んでいるストーリーを捨てることは、大変な痛みや不安を伴う。自己の大きな変革を求められるからだ。
だから、新しいストーリーが読み取られるには、面接者と来談者の信頼関係が必要なのである。面接者が「一緒に見ること」、「見守ること」が重要なのである。 (p.81)

他にも熊倉さんはストーリーには「生きたダイナミズム」 (p.83) があるといいます。ストーリーが静的 (static) ではなく、常に移り変わるものである点を言い表しているのだと思います。

さて、先ほどのAさんのストーリーも更新され続け、ついに「なぜ人は分かり合えないのだろう」という問いを彼が抱えていることがわかったとします。これはある意味で人生の究極の問い (Question of Life) といえそうで、とてもすぐに答えが出せそうにありません。この段階まで言ったら、「分かる」段階から「受け止める」段階へと移行すべきでしょう。(もちろんはっきりとした線引きはできませんが。)




■ 「受け止める」段階:来談者が究極の問いを立てたとき、面談者にできるのは「受け止める」ことである。

先ほどの「分かる」段階では、相手のストーリーを読み取るために対等な信頼関係を持つ必要がありました。ここでストーリーを更新し続けると、来談者が究極の問いを発していることに気づくかもしれません。

面接が対等な話し合いであるという意味は、来談者の主張・問い掛けの方が、面接者より深い場合があるということである。面接者が来談者に問い掛けるだけではない。来談者の問い掛けの重みに気付くことが大切なのである。 (p.86) 
実は、面接が、面接者さえ答えられないテーマへと展開すること自体は、驚くべきことではない。それは、むしろ喜ぶべきことである。...
その時、来談者は、初めて、自分が抱える困難を、自分の問題として語りえたからである。来談者の訴えが本当に解決困難であると面接者が感じたとき、面接者は、もっとも大事な点を理解したのである。この時、人生上の対等な者同士として話し合い、その重さを分かち合う所まで、ようやく二人で来たのである。 (p.86)

もしかしたら傲慢な自分であれば、「ああ、人は分かり合えないというのは、○○理論で説明できます。それは~~」と偉そうに語ってしまったり、「そんなのどうせ私たちにはわかんないですから、考えないほうが楽になれますよ。」と会話を停止させてしまったりするかもしれません。これらは来訪者のストーリー更新を止める行為であり、本記事の冒頭で述べたとおりもっと謙虚になる必要があるでしょう。

では、このような究極な問いが出たとき、面接者に出来ることは何でしょうか。それは、「一緒に見る」ということです。たとえば、Aさんに対して、「なぜ人が分かり合えないか、ですか。それは私にも正直言って分かりません。一緒に考えてみませんか。」と伝えることが考えられます。これはAさんの問いに対する一問一答にはなっていませんが、Aさんは「見守ってくれている」と感じるかもしれません。私たちはそのような究極な問いを前にすれば、誰しも1人の人間で、各々にとっての正解を持っているが究極な答えなど見つかるはずもありません。ならば、お互いの思う正解を出し合ったり。一緒に問いに向き合うことが必要でしょう。このときは、面談者と来訪者の間に人為的関係や上下関係は一切なく、究極な問いを前にした対等の2人の存在です。

すると、それまで自分の自身のなかった来談者も、少しずつ「自分」の意識が形成されるようになります。

「私にもわからないことだから、一緒に見ていこうね」と告げたとき、来談者は、「本当に、先生でも分からないのですか」と驚く。そして自責から解放され、自分で考え行動し始める。面接者は、一緒にいて、ただ見守る立場でいればよい。来談者が「見守ってくれた」と感じればよい。比喩であるが、一人歩きし始めた幼児は、親の不安を面白がって冒険する。それでも何時も親の視線を感じている。「一緒に見る」時期に、この「一人歩き」が始まる。謎の存在への洞察において、はじめて、心の深い部分において、「自分」の意識が形成される。 (p.92)

「一人歩き」の段階までいけば、もしかしたら自立への道はだいぶ進んでいるのかもしれません。ここでカウンセリングは終わるかもしれませんし、まだまだ続くかもしれません。一ついえるのは、最初のAさんよりも明らかに成長しているということではないでしょうか。


4.感想


上のまとめは、本当に自分の恣意的な解釈に基づいているので、少しでも気になった方はぜひ実物をご覧頂きたく存じます。

さて、本書を読んでいてまず思ったのは、熊倉さんの面接に対する謙虚さです。本書は方法論を紹介しつつも理念部分や考え方などを中心にまとめられていましたが、「絶対的な方法などそもそもない」「面接者は目の前の一人の来訪者に対してできることをすべき」という考え方が通底していたように感じます。改めて、臨床心理やカウンセリングという世界が複雑なものであることが少しでも知れてよかったです。

また、上で述べられることはある程度、教育にも当てはまるのではないでしょうか。もちろん教師には母性的原理のみならず父性的原理も兼ね備えておく必要があるでしょうから、常に相手を待つということはできません。しかし、非行少年の更生などを学部時代に学んだときにも思いましたが、人の成長はそんなに早く起きるわけはなく、植物が生長するのと同じでとても時間がかかるものではないでしょうか。だからこそ、教師には待つことがどうしても求められる気がします。(とすると、いついつまでにこれだけ達成する、というビジネス的な数値目標の立て方がどこまで教育学で通用するのか、疑問に思います。)

私もカウンセリングに行ったことがありますが、そこでは自分の話を丁寧に聴いてくださったという印象が強かったです。また、「不安があるときどうすべきか」という悩みに対しては、「点数をつけてみるといい」とか「ノートでグラフをつけると、自分が不安になるときの傾向が分かってくる」などと今でも実践しているアドバイスも頂きました。本書を読んで、改めてカウンセラーの方々があの時にどのようなことを考えたらっしゃったのかが少し分かった気がしますが、やはりすごいな~と素人目線で思う限りです(笑)

本書はとても印象深い言葉が多くありましたが、もっとも印象に残った一節を最後に紹介します。傷ついた相手にどう接するか、という話です。

第二段階で面接者に求められるのは共感である。しかし、面接者は共感という言葉を不用意に用いすぎたようである。共感とは、「辛いだろうね」とか、「分かる」という言葉を口にすることではない。大体、本当に辛いと共感できるならば、傷口に触れるような安易な言葉は避けるがよい。安易な共感は相手には哀れみと受け取られ、哀れみを掛けられた者は、そこには隠された軽蔑があることを鋭敏に感じ取る。そして、自分を惨めに感じる。慰めの言葉は相手を十分に理解した上で用いなくてはならない。...
共感という言葉に値するのは、来談者の抱えた解決不可能な課題から、面接者が眼をそらさなかった時である。解決不可能な問題にであったという驚きは、「深い」心の相談でもっとも重要な所見である。その時でも、その困難から身を引かずに、「一緒に見ていきましょう」と言い切れば、本当に共感したといえよう。 (p.91)

本当に傷ついた相手の力になるには、相談に乗る側もある程度コストを払わなければならないわけで、甘い言葉を2,3かけるだけで済むわけではないということでしょう。この点については、熊倉さんの『肯定の心理学』でより深く考察されています。私が「ことば」というものに関心をもったきっかけの1冊で、「こころ」や「コミュニケーション」などの問題を考えるのにも良いと思います。こちらもぜひ読んでみてください。


肯定の心理学-空海から芭蕉まで
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2014年8月17日日曜日

ビルドゥングスロマンとしての『思い出のマーニー』

こんばんは、mochiです。この1~2週間、色々なことがありました。文芸翻訳のワークショップ、教育哲学の集中講義、オープンキャンパス、全国英語教育学会、帰省、学部の友人との飲み、小学校コースや社会科教育コースの友人との飲み...。たくさん書きたいことがあるのですが、とりあえず最近観た映画の感想を書くことにします。笑

『思い出のマーニー』という映画を観てきました。本作品は、新訳で先月読んだのですが、良い意味で原典を活かしている印象を受けました。ある意味原作本がある作品を映画化するというのも、本から映画への「翻訳」と呼べるかもしれません。この作品は、原典への忠実性や敬意を据え置きつつ、必要な翻案を行っていたためで、自分にとっては丁度良い翻訳に感じました。

以下に、できるだけストーリーの核心部分に触れないように感想を書きました。ただし、ストーリーの内容自体には触れているので、まだ映画を観ていなくて知りたくない方は読まないでください。


■ 無気力な少女アンナの「ビルドゥング」:他様でもありえた姿

私はこの作品を、アンナという少女の内的成長の物語と取りました。物語冒頭ではやる気を見せない少女で、学校の先生からは「内気」「物静か」という印象を受けるかもしれません。もしかしたら、私たちが抱く「映画のヒロイン像」とは離れているかもしれませんし、彼女がこれから1時間40分のストーリーでメインに立つとはあまり思いにくいかもしれません。しかし、実際には彼女のような子(あるいは大人)はたくさんいるのではないでしょうか。彼女は常に普通の顔をしようとしますが、今の子達も「冷めてる」といった言葉で形容されることが多いですよね。クラスにいると、元気な子や勉強が得意な子、逆にとてもおとなしい子や勉強が苦手な子、などには先生は目を多く配ると思います。しかし、「普通の子」は比較的、先生の目からこぼれ落ちてしまうのではないでしょうか(自分の中高時代を回想しながらw)。

そんな彼女が田舎の親戚の家で療養生活を開始し、マーニーという少女との出会いを通して、少しずつ変容していきます。それは、彼女の声の調子や表情といった細かい描写からも十分読み取ることができますし、交友関係や言動にも徐々に表れていきます。これを彼女の人間形成(ビルドゥング)と理解すると、本作品はビルドゥングスロマンというジャンルに属すると言っても良いかもしれません。

ビルドゥング (Bildung) はドイツ語で、日本語や英語に対応する概念がなく、他にも「教養」「陶冶」などと訳されるそうです (山名, 2014) 。ビルドゥングという言葉については、教育哲学の教科書から一部引用しておきます。

「修業」「遍歴」などとも語られるこの「ビルドゥング」は、少年から青年にかけての人格形成の軌跡である。平凡で素朴な青年が、自己を完成させようとする内側から沸き起こる衝動(ゲーテのいう「形成衝動Bildungtrieb」) をもって、人生のあらゆる経験を、自らを磨く機会として活かそうとする。...
そうであれば「ビルドゥングロマン」は、現実社会との折り合いを主題とせざるを得ない。若い主人公は可能性のすべてを開花させたい。しかしそれはいつまでも許されることではない。いずれ断念するときがくる。...ということは、ビルドゥングは限定としてのみ「完成」する。現実社会のなかでは、自己限定によって初めて、自己を実現することができる、その展開が「ビルドゥング」なのである。 (西平, 2014, pp.74-75)


この作品がアンナの人間形成の物語だとすれば、彼女が物語結末部でスクリーンに見せた姿は、彼女が本来なりえた姿の総体のほんの1つにすぎません。言い換えると、彼女は物語を通じて他様に変容することも(あるいはしないことも)ありえたのに、そうではなく「あのアンナ」になったといえます。このような言い回しにあまり意味がないと思われるかもしれませんが、冒頭の無気力な少女が療養生活をしても何も変わらなかったりむしろ傷ついて帰ったり、という可能性も本来残されていたはずです。この可能性を踏まえて本作品を見ると、彼女が変容するきっかけとなったいくつかのポイントが見えてくると思います。(そういえば本作品が百合だと論じられている方もいらっしゃいます。前半部では私もその気を感じましたが、後半部を見れば百合的要素が物語りの表面部分であり、その深層には別のテーマが流れていると思いました。)



■ 河合隼雄氏の解釈:怒りの効果

本作品を私が知ることになったキッカケは、臨床心理家の河合隼雄先生が書かれた『子どもと悪』という作品を読んだことでした。河合先生はどうやら本作品がお好きだったようで、他の著書にも多く紹介されています。

河合氏が本作品で特に注目されているのは、アンナの人間形成の過程の一部である、彼女の「怒り」です。アンナは療養中にペグおばさんの家に住むことになりますが、ある日別のおばさんがアンナのことを悪く言うのをたまたまアンナが聞いてしまいます。ペグおばさんはそれを黙って聞いてくれて、その日に友達の家に行こうとしていた予定をキャンセルして家にいてくれます。そんな献身的なおばさんを見て、アンナは心の中でおばさんに怒りをぶつけます。どうして自分なんかのために予定をキャンセルしたのか。映画版ではこの部分の描写が見当たりませんでした(もしかしたらあったかもしれません)が、河合氏はこの怒りに大きな意味を見いだします。

アンナは何もペグ夫妻にまで怒ることないじゃないか、などという人はアンナの怒りの深さ、その意味を理解できない人の言うことだ。アンナは、運命に対して、ほとんどの人々に対して、世界に対して怒りをぶっつけたいほどなのに、辛抱して辛抱して「ふつうの顔」をして暮らしてきたのだ。しかし、彼女はどうやら自分の怒りを受けとめてくれそうな人たち、ペグ夫妻を見いだした。...「そんなに八つ当たりをしてはいけない」...などと言って、ここで「悪」の烙印を押してしまうと、アンナはもう「ふつうの顔」さえできない子どもになってしまったかも知れない。しかし、実際は、この怒りを契機として、アンナの感情が動きはじめる。 (河合, 1997, pp.126-127)

怒りは周りの人にとっては迷惑に感じられてしまうかもしれませんが、本人にとってはこころで感じた思いがほぼそのまま外面に表出化されたものなので、怒りによって次の行動に結びつくことも大いにあります。ドラマ「リーガルハイ」では古美門先生が村の老人たちを罵倒することで怒りを奮い立たせ、訴訟を起こす気持ちにさせたというエピソードもあります。あるいは「ドラゴン桜」でも、桜木先生が始業式で「バカとブスこそ東大に行け」と言って生徒達を怒らせ、東大進学を目指させようとします。このように怒りには、気持ちをそのまま出す作用があって、本人にはプラスの効果があるのかもしれませんね。



■ 『マーニー』にみられる承認問題

最後に、アンナの人間形成を左右した「承認」について感じたことを述べます。苫野 (2014) では「人間の欲望は自由を承認してもらうこと」とされており、山竹 (2011) も現代人が「認められたい」という気持ちを多く持っていることを考察しています。

アンナも物語前半では他者からの承認をあまり受けていませんでした。学校の先生からもコミュニケーションを途中で打ち切られてしまったり、母親との会話のシーンが映画では描かれなかったり。しかし、物語中盤のマーニーとの出会いによって、彼女は親密な承認を多く受けることになります。それによって彼女は少しずつ元気になっていきます。

すると今度は、アンナが他者を承認するシーンも見られるようになります。この頃にはアンナ自身を承認することもできていたのだと思います。(ストーリーの中核部分であまり詳しく述べられないのが残念ですが...。)


以下のトレイラー冒頭で「この世には目に見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、私は外側の人間。でもそんなのはどうでもいい。私は、私が嫌い。」ということばが出てきます。この言葉が個人的に一番好きだったのですが、これも承認の欠如(疎外)を表しているものとも取れます。アンナの「輪」の変化についても、(直接的に描かれていませんが)、1つの注目ポイントだと思います。


人間形成に承認が大きく関わるというのも(強引ですが)納得できるような気がします。




久しぶりの映画でしたが、とても面白かったです!


参考文献
河合隼雄 (1997) 『子どもと悪』東京:岩波書店
苫野一徳 (2014) 『自由はいかに可能か-社会構想のための哲学-』NHKブックス
西平直 (2014) 「ビルドゥングとビオグラフィ-あるいは、Bildungstheoretische Biographieforschung-」.L・ヴィガー ・山名淳・藤井佳代編著『人間形成と承認-教育哲学の新たな展開-』
山竹真二 (2011) 『「認められたい」の正体-承認不安の時代』講談社現代新書
山名淳・藤井佳世 (2014) 「原第において人間形成(ビルドゥング)に向き合うことは何を意味するか」.L・ヴィガー ・山名淳・藤井佳代編著『人間形成と承認-教育哲学の新たな展開-』


2014年8月2日土曜日

関連性理論まとめ②:表意と推意、意味、用法、応用


こんにちは、mochiです。いよいよ夏休みが始まりました。それにしても最近ブログの更新率が高いですね~!特にsava 君がついに書きましたね~。これで「1年除籍処分」を間逃れたと本人は言っていましたが、これから記事を更新しないメンバーについては、タイトルのフォントサイズを少しずつ小さくしていくことにしました(笑)







記事をアップしないで半年すると、タイトルの「もちサバニン日和」の自分の名前が少しずつ小さくなり始めますので、メンバーの皆さん気をつけてください。3年後はフォントサイズを「1」とさせていただきます。(といって3年後には全員消えてたりしてww)以上、業務連絡でした(笑)


さて、関連性理論勉強会のまとめ第二回をアップします。


今回は特に、表意と推意、概念的意味と手続き的意味、記述的用法と解釈的用法、関連性理論の応用、について扱いましたので、これらのまとめを載せます。

前回・今回は『現代言語学の潮流』を基に行いましたので、本書の3-B の「関連性理論」の範囲をもとに行っております。関連性理論の概要については前回のNinsora君のまとめノートに詳しいのでそちらを参照してください。以下では関連性理論の原則そのものというより、関連性理論で用いられる区分や用語の説明が中心になります。


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■ 表意 (explicature) と推意 (implicature) 

表意とは「発話された言語表現から聞き手がキャッチできる明示的な (explicit) 命題 (あるいは想定)」 (東森, 2003, p.158) である。たとえば、「あれが欲しい」という発話を私がしたとき、次のような表意を作ることができる。

(1) 「私はあれが欲しい」
(2) 「私はソファが欲しい」
(3) 「私はソファが欲しいと私があなたに言う」

(1) は主語、(2) は指示語、(3) は発話行為がそれぞれ補完されており、より完全な命題形式にとなっている。表意を形成するには他にも複数の解釈が可能な意味・構造を限定したり、文から必然的に補充できる語を付け加えたりできる。


表意は他にもアドホック概念形成も含まれる。アドホックとは「その場限りの」を意味し、本来その語が持たない意味がその場限りで創発される用法を指す。たとえばfish という語は本来「魚一般」を指すが、 The fish savagely attacked the young swimmer.という文においてfish は「サメのような大きく凶暴な魚」を指し、イワシやアジのような小魚は排除される。あるいはflatmate が「部屋を共にする人」という意味であるが、Here's my new flatmate (referring to a newly acquired cat). では、「人」のみならず「猫」も含んだ意味でのflatmateである。このように、従来その語が持つ意味が狭まったり広がったりすることでアドホックな概念が形成される。

それに対して推意はその文が直接言っていなくても暗示しているものを指す。冒頭に出した「あれが欲しい」という文も、「mochiがあなたにこのようなことを言うということは?」と前提を考えれば、「あなたにソファを買って欲しがっている」という結論が導き出されるかもしれないし、「mochiは最近バイトをがんばっている」という前提があれば、「mochiはソファを自分で買おうとしている」という異なった結論が得られるだろう。



■ 概念的意味と手続き的意味

概念的意味は「世界の状況を記述したもの」 (東森, 2003, p.160) であるのに対して、手続き的意味は「計算のための情報を記号化したもの」(ibid, p.160) である。概念的意味は名詞(りんご、ゴリラ、ベル、パソコン、など)や副詞(うれしく、悲しく)、形容詞(赤い、黄色い、)などがあり、これらは世界にあるものや様子を記述するために使われます。それに対して、手続き的意味はディスコースマーカー(しかし、えっと)などがあり、これらは世界に対応するものが存在しません。また、概念的意味は私たちは言葉で説明することが可能ですが、手続き的意味はあらためて言葉で説明することはむずかしいです。



■ 記述的用法と解釈的用法

記述的用法 (desriptive use) の発話は現実の状況を表示するのに対し、解釈的用法 (interpritive use) の発話は他人の発話や思考を解釈して表示する。たとえば、「この部屋は広い」とか「私が使っているパソコンは黒色だ」は現実の状況を表示するため記述的用法であるのに対し、「彼の今の発言はつまりこういうことだ」とか「この文学作品はそういうことだろう」は現実の状況でなく他人の思考や発話を発話者が解釈して述べたもので解釈的用法にあたる。

たとえばカウンセラーは来訪者が話したことを「つまり、~~ということだね」と繰り返したり、「君は・・・という気持ちだったのだね」と感情の反映を行ったりしますが、これらは解釈的用法になります。あるいは翻訳者は原作者が表示した発話(原典)を解釈して、その結果を他言語で訳すため、翻訳は解釈的用法と言えるでしょう。この点についてはGutt (1991) が詳しいです。


■ 関連性理論の応用

最後に、関連性理論の応用について紹介します。(勉強会でももっとも盛り上がった部分です。) 本書では広告の例を用いて説明してあってとても分かりやすかったのですが、ここではアドバイス(メタファー)を例にとって説明してみたいと思います。(ここからは勉強会中に出た話しなので誤りがあるかもしれません。お気づきの点ございましたらご指摘頂ければ幸いです。)

高校3年生の進路面談で、担任の先生が次の2つの台詞を言う時、印象はどのように違うでしょうか。


(a) 生きていると私たちは悩んだり迷ったりすることもある。しかしそれでも前に進み続けているわけだから、この時期に1つの志望校や進路先に決めてしまわなくても良くて、もう少し進路を複数考えても良いのではないでしょうか。

(b) 人生は旅なのだ。

(a) では先生が言いたいことがそのまま表されています。これなら勘違いをすることは減るでしょうし、先生が言いたいことを推測するのもそこまで大変ではありません。それに対して、(b) は先生が言いたいことがあまりよく分かりません。そのため、勘違いをする可能性もあります。しかし、先生が言いたいことを推測するために、生徒は処理労力を多くかける必要があります。また、「先生が面接でこんな短いアドバイスをするなんて」と生徒の注意をひきつける可能性もあります。そのため、(b) の方が生徒の頭の中により長く残る可能性もあります。

もちろん中には「えっ、先生、何いってるんスか。人生は旅じゃないッスよ。え、人生って旅なんスか、違うんスか?」というふうに推意を取ろうとしない生徒さんもいらっしゃるかもしれません(笑)その意味ではリスキーですが、(b) だと生徒が処理労力を多くかけ、それに見合うだけの認知効果が得られたとすれば、生徒にとって関連性が高い発話と言えるのではないでしょうか。




以上、関連性理論まとめノート第二弾でした~。

みなさん、よい夏休みを (^^)

2014年8月1日金曜日

陽気に生きようこの人生をさ

【作詞】宮沢 勝之
【作曲】宮沢 勝之

  やけに寂しそうな 顔をしてるじゃないか
  僕達の人生って そんなはずじゃないぜ
  たとえ今日が 寂しすぎても
  涙をふこうよ 明日の為にさ
   ※夢が 夢が あるから 歌おうじゃないか
    もっともっと陽気にさ 僕達の人生をさ
    夢が 夢が あるから 歌おうじゃないか
    もっともっと陽気にさ 僕達の人生をさ





  やけにしょぼくれた 顔をしてるじゃないか
  僕達の人生って そんなはずじゃないぜ
  たとえ一人でしょぼくれたって
  僕らの人生変わりはしないさ
  ※繰り返し






  やけにむなしそうな 顔をしてるじゃないか
  僕たちの人生って そんなはずじゃないぜ
  たとえ今が 闇の中でも
  陽気に生きよう この人生をさ
  ※繰り返し



                                                              


 お久しぶりです! Savaです。約一年ぶりの更新です笑。他の二人は一生懸命勉強していますねぇ! 難しいことをわかりやすい言葉や例を交えて紹介してくれていて、とても勉強になっています。



 さて、今回は最近知った曲の紹介をしたいと思います。その名も”陽気に生きようこの人生をさ”
です。歌詞はこのページの上に載せているものです。曲はyoutubeなどで検索して聞いてみてください。

 聞いていると元気になります!別に病んでいるわけではないですが笑。



なんという雑な記事!!

まあこれで除籍は一年は伸ばせたでしょう笑
暑い日が続きますが、陽気に生きていきましょう!

Sava