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2014年7月26日土曜日

村上春樹 (2012) 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文春文庫


教員採用試験の一次が終わり、少し身の回りが落ち着いたように思えます。集団討論の試験が終わって自宅に帰る途中、たまたま寄った本屋で本書を見つけました。前から読みたいと思っていたので早速購入。 (一緒に、『思い出のマーニー』の新訳も発売されていたので購入しましたが、こちらもかなり面白かった!友人に勧められたものだったので、早く感想を交流したいです。)

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)村上 春樹

文藝春秋 2012-09-04
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本書は村上春樹のインタビューを19本採録したもので、彼の小説観や作品に関するコメントはもちろん、「ランニング」「集団と個」「無意識」といった多くのテーマについても語られており、大変読み応えがありました。最近『海辺のカフカ』の舞台版を観にいったり『スプートニクの恋人』を後輩に勧められて読んだりと、少しマイブーム状態だったので(笑)個人的にはとても面白かったです。

以下、印象に残ったテーマについて紹介します。ただし、予め断っておきますが、私自身村上春樹の作品それほど網羅しておらず、『ねじまき鳥』『アフターダーク』を始めとする多くの作品をまだ読んでいません。分かった風な口調で自分が本書を暴力的に翻訳してしまわないよう、できるだけ直接引用 (良識の範囲内で) と、それに対する自分の感想や個人的経験、という形で書きます。また選んだテーマも自分の関心に合うもののみで、以下が本書を要約できているとは到底思えません。どうぞご興味のお有りの方は、本書を直接手にとってお読みいただくことをお勧めします。

では、「身体」「無意識」「語り」「他者への説明」「翻訳」を観点に、以下にまとめます。



■ 身体は重要である

まずは、私が大学院に入った初日に教授から言われた話をします。これから研究を頑張ろう、たくさん本を読んでやろう、と意気込んで初日に教室に行くと、「研究をするのも大事だが、感性を忘れないで欲しい」「研究者は身体が第一ですよ。私はテニスをしていまして (ry) 」と仰ったために拍子抜けした記憶があります(笑)ただ本書を読みながら、やはり感性や身体といった部分の重要性を思い知りました。感性については後ほど「地下室」の項で紹介するので、ここでは身体について紹介します。


小説を書き出して、毎日毎日休みなくこつこつとそれを書き続けます。するとそのうちに、暗黒のようなものが訪れてきます。そして僕にはその中に入っていく準備ができている。でもそういう段階に達するためには、時間が必要です。今日書き出して、明日にはもうその中にすっと入れるというものではありません。日々の厳しい労働に耐えて、集中力を高めなくてはならない。それは作家にとってもっとも大切な要素だと思います。だから僕は日々走って、身体性を強化しています。身体トレーニングというのは大事なんです。多くの作家はそうは考えていないみたいだけど(笑) (p.27)

小説家、漫画家、あるいは研究者、....といった机に向かいっきりの時間が長い職業は、不健康なイメージがどうしてもついて回ります。なので村上氏の上の引用箇所はとても不思議に感じました。以下はさらに、身体トレーニングによって、「あたま」や「こころ」もよい影響を受けることを示しています。

フィジカルなことをやっていると、すごくラクになるんです。体育が嫌いな子どもだったから、昔は身体を動かすようなことはあまりしなかったけど、大人になってやると、フィジカルな作用とメンタルな作用がいかに結びついているかがよくわかる。それに、自分の身体に積極的な関心を持つのって、大事なことだと思うんです。ハンサムになることはなかなかできないけれど、身体を引き締めることなら意図的にできるじゃない(笑)。 (p.65)

最近はインタビューで得たデータの質的分析をしているのですが、どうも机に向かっていても良いカテゴリー分けが出てこなくて、むしろ家に帰る途中とか塾の授業中とかに、「おっ!」と閃くときの方が良いアイデアだったりします。質的分析をされている先輩にこのことを話したところ、先輩もお風呂に入ってるときの方がよく思い浮かぶと仰っていました。なので、身体トレーニングを研究の合間にしていればよい発想が閃くこともあるかもしれませんね。


ここまで読むと、研究者も身体が大事なのかという気がしてきますね。教授方がおっしゃる通り、自分も身体をなまらせないようにランニングを続けるよう頑張ろう!(三日坊主になりませんように...。)





■ 人間の存在は二階建ての家で、地下室に行って戻ってこれるのが小説家。

以下の引用箇所は、特に本書でも重要だと思いました。


仮に、人間が家だとします。一階はあなたが生活し、料理し、食事をし、家族といっしょにテレビを見る場所です。二階にはあなたの寝室が在る。そこで読書したり、眠ったりします。そして、地下階があります。それはもっと奥まった空間で、ものをストックしたり、道具を置いたりしてある場所です。ところがこの地下階のなかには隠れた別の空間もある。それは入るのが難しい場所です。というのも、簡単には見つからない秘密の扉から入っていくことになるからです。...そこでは、奇妙なものをたくさん目撃できます。目の前に、形而上学的な記号やイメージや象徴がつぎつぎに表れるんですから。それはちょうど、夢のようなものです。無意識の世界の形態のようなね。けれどもいつか、あなたは現実世界に帰らなければならない。そのときは部屋から出て、扉を閉じ、階段を昇るんです。 (p.165)


私は普段、意図的に「地下」へ向かったりそこから出たりという経験はしません。ただ、稀に〈良いもの〉と触れ合った時に、自分が普段日常生活ではしないような感じ方をすることはあります。あるいは、とても落ち込んだ時に心のどす黒い部分と直面させられることはあります。そのときの地下室との往来は self-uncontrollable なため、地下に行こうと思って行けるものではないし、抜け出そうと思っても抜け出せないかもしれません。

ミヒャエル・エンデの『モモ』でも、マイスターホラによってモモが自分の心の中の花畑に連れて行かれる描写がありました。上の引用箇所を読んだとき、自分は『モモ』のそのシーンのことを思い浮かべていました。もしかしたらモモのように花畑だけではなく、闇のような部分も地下室には隠れているでしょうし、意識が考え付かないようなものが潜んでいることもあるかもしれません。しかしモモのその場面で、誰しもそのような世界を持っているという希望があるように思えます。

また、『海辺のカフカ』で佐伯さんが最後カフカに言うのは「あなたは元の世界に戻って」で、カフカ君が地下に居続けることは許されませんでした。彼は再び現実世界へと戻ります。彼もまた地下との往来を体験したのかもしれません。映画『風たちぬ』のラストも菜緒子さんが「あなたは生きて」といって夢の世界で消えていく場面でしたが、これも主人公に地下から地上へ帰って欲しいという思いがあったのではないでしょうか。

少し話は変わりますが、小説家のみならず人は、ときに地下室へ行くことを無性に求めるのかもしれません。そんなとき、人はファンタジー・虚構世界を求めて小説に手を伸ばし、作品の世界に浸りながらそこに自分の地下室を映すのではないでしょうか。 (少なくとも『思い出のマーニー』を読んでいる時も自分はそのような気持ちになりました。「輪」の内側と外側という感覚は多くの人が共感するのではないかと推察します。)

あるいは自分の地下室に少しでも入ってみようと臨むとき、老松先生の「モバイル・イマジネーション」が地下室を少し覗いてみるための方法論と言えるのではないかと思います。以前自分がモバイルイマジネーションを実践したときは、暗い部屋から白い影がどんどん出て行き、明かりが次第に消えていくというイメージを見ました。そのときは意識では「まだ大丈夫」と思っていた時期だったので、地下室に潜むどす黒い部分を垣間見たときに恐ろしく感じたのを覚えています。

作家の場合はこのような自らの毒と向き合うことも必要と、村上氏は言います。


小説を書いているとき、僕は暗い場所に、深い場所に下降します。井戸の底か、地下室のような場所です。そこには光がなく、湿っていて、しばしば危険が潜んでいます。その暗闇の中に何がいるのか、それもわかりません。それでも僕はその暗闇の中に入っていかなくてはならない。なぜならそれこそが、小説を書いているときに僕がいる場所だからです。僕はそこで善きものに巡り会い、悪しきものに巡り会い、ときには危険に遭遇します。そしてそれらを文章で描写します。 (p.359)

作家が物語りを立ち上げるときには、自分の内部にある毒と向き合わなくてはなりません。そうした毒を持っていなければ、できあがる物語は退屈で凡庸なものになるでしょう。ちょうど河豚のようなものです。河豚の身はとてもおいしいのですが、卵巣、肝臓などの部位には致死量の毒を含んでいることもあります。僕の物語は、僕の意識の暗くて危険な場所にあり、心の奥に毒があるのも感じますが、僕はかなりの量の毒を処理することができます。それは僕に強い肉体があるからです。 (p.442)

ここまでで、地下室には希望(e.g.花畑)と毒(e.g.部屋から抜ける影)があることが分かってきました。もちろんこれは自分が読んで思った感想ですが、意識が推し量れない「無意識」のメッセージにより寛大になるためにも、物語を私たちは必要としているのだと思いました。ときには読むことも、たまには書く(語る)ことも。そして語るためには、自分の話を聴いてくれる存在も。




■ 一貫した自己を持つことが強要される現代、物語(語り)が果たす役割


「ありのままの姿見せるのよ」という歌があるのですが、それを聴くたびに私は、ありのままの姿などあるのだろうかと疑問に思ってしまいます。私が私たりうる所以や本質といったものなどあるのでしょうか。ルーマンが認識論の議論を「観察という作動の結果」としましたが、私も「自分自身」というのは後になって「こうだったのか」と分かるものと (特に最近) 強く感じます。

しかし、日常生活に「ありのままの自分」という言葉がよく登場するからこそ、私たちは観念的に「ありのままの自分」を想定しているのでしょう。村上氏は、そのような自分らしさは「語る」(あるいは「書く」)という行為に表れると言います。


今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。僕はこういうふうに文章で表現して生きている人間だけど、自己表現なんて簡単にできやしないですよ。それは砂漠で塩水飲むようなもんなんです。飲めば飲むほど喉が渇きます。にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押し付けているわけです。教育だって、そういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差異を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。でも、物語という文脈を取れば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。 (pp.115-116)


あるいは大学院の授業で紹介された "Who you are depends on how you act." という言葉も、これに近いことを言っているように思います。学校現場でも「自己紹介しましょう」とか「自分のアピールポイントを書いてみましょう」といった実践が多くなされるように思えますが、これらの活動を苦痛に思う子も上に述べた理由でいるのかもしれません。

私が大学院で所属しているゼミでは年に1回合宿が開かれます(と言ってもまだ1回しか開催されていませんが笑)。そこでは先生とゼミ生がこだわっていることについて語る20分間のプレゼンテーション発表会がメインにされます。たとえばバドミントン部に所属される先輩は、バドミントンのプレーについてや英語教育とバドミントン指導の共通点について熱弁をふるっていましたし、ギターが大好きな先輩は、自分のギターの弾き方とプロの引き方をビデオで見せながらその違いについて解説していました。他にも、写真や漫画、映画、麻雀(!?)、オーケストラ、など、とにかく自分がこだわるトピックについて語ります。合宿で感じたのは、自分が好きなことについて語るときにその人らしさが表れるかもしれないということでした。現にどの発表者も自分のこだわりについて語るときは楽しそうにしていました。

国語教育の実践に「偏愛マップを用いた話す活動」というのがあるらしいです。上と同様に自分がとことん好きなものを書いていって、それについてペアやグループで話し合うというものです。偏愛マップ実践も体験しましたが、自分がとことん好きなもの(好きな居酒屋のビール、ハリーポッターのルーピン先生、中川家の漫才、etc...) について話していると、自分について語っているわけでないのに自分が語られている感じがしました。

もしかしたら、英語教育でも偏愛マップの実践は可能かもしれませんね。(ある程度の英語技能は必要ですが。)好きなことを語るときに自分らしさが出る、だからこそ「語る」ことが自己治癒効果があったり、自己(他者)理解につながったりするのではないでしょうか。





■ 「何かを人に呑み込ませようとするとき、あなたはとびっきり親切にならなくてはならない」

上の題は、教師を目指す自分にとってとても印象に残りました。人に何かを説明するときや文章を書くとき、それを聞いたり読んだりする人に親切にならなければなりません。村上氏は特に地下室からイメージが出てくるのを待ち、出てきたものを言葉にして表すため、私が塾で3単現のSを教えるよりずっと伝えるのが難しいはずです。氏はどのように読者に伝えるのでしょうか。

最初にひとつのイメージがあり、僕はそこにあるひとつの断片を別の断片に繋げていきます。それがストーリーラインです。それから僕はそのストーリーラインを読者に向かって提示し、説明する。うまく呑み込ませる。何かを人に呑み込ませようとするとき、あなたはとびっきり新設にならなくてはならない。「いや、自分さえわかっていればそれでいいんだ」という態度では、ほとんど誰もついてきてくれない。簡易な言葉と、良きメタファー、効果的なアレゴリー。それが僕の使っているヴォイスというか、ツールです。僕はそのようなツールを使って、ものごとを注意深く、そしてクリアに説明します。 (p.210)

ここでは大前提として読者に親切であることが挙げられます。氏は「簡易な言葉」「メタファー」「アレゴリー」をツールとして用いていると言います。確かに『スプートニクの恋人』では「僕」の台詞中に登場するメタファーの数が尋常ではありません。他にも『海辺のカフカ』の大島さんが「万物はメタファー」というゲーテの言葉を引用しており、作中の象徴的なもの(入り口の石など)が何を象徴しているか考えることも読者はできます。これくらい親切にしてようやく人に何かを呑み込ませようとできるのです。

ただし、氏の作品の多くは解釈が定まらず、なにか1つの答えを呑み込ませようとしているわけではないことが分かります。現に『海辺のカフカ』の解釈について読者から質問が来ても、氏は「わかりません」と返すそうで(舞台版『海辺のカフカ』パンフレットより)、呑み込ませる何かは厳密な答えではなくてルースな意味での答えなのだと思います。

ここからはまた個人的な話になってしまいますが、先日院の研究発表でデータの質的分析結果を提示したときに、自分の分析結果のみを本文に載せて、インタビューのデータをAppendix に載せて各自参照という形にしました。この提示方法が聴き手に不親切だったという指摘を後に頂き、本当にその通りだと感じました。その後ゼミの先生に、「ではどのように提示すれば最も親切なのでしょう」と相談に言ったところ、「いやいや、それは一般論で語ることではない」といわれました。自分の発表の聴き手が誰かによって、その人の関心や背景知識の量などは当然異なります。あるいは自分が扱うデータの質によってもふさわしい提示方法は異なるでしょう。

Ninsora 君と行っている関連性理論勉強会でも、相手が処理労力をかけないでより多くの認知効果を得られるような伝え方には、一般法則などなくて、読み手・聴き手次第ではないか、と結論が出ました。一文の長さを例にとっても、「どれくらい長い文だったら2文に区切った方がいいんすか?」という質問は意味をなしません。その文章を読む人、その文が含む情報量、段落内での文の位置づけなど多くの要因を踏まえたうえで、読者にとびっきり親切になってようやく決定できることです。

タイトルには「とびっきり親切に」と軽く書いてしまいましたが、実践するのは本当に難しいことだと思います。心がけだけでなく、とびっきり親切な伝え方を考えて伝え、その結果を自己反省することで伝え方がうまくなるのかもしれません。




■ 翻訳は、その作品を好きな人が訳すべき。

最後に、翻訳について本書が言及する箇所を紹介します。といっても、村上氏の翻訳論は『翻訳夜話』シリーズを読まれることをお勧めしますので、ここでは簡単にご紹介します。



私 (mochi) は翻訳経験が浅く、まるで自分自身が苦手だから研究テーマに選んだのではないかと思うほどです。また読書経験もあまりないため、翻訳をしていて苦痛に感じることが本当に多いです。でも、その中に楽しみが見出されることがあります。たとえばBBSのスローガンの翻訳は本当にわくわくしましたし、好きな漱石の作品の特定部分がどう翻訳されているだろうとあれこれ考える分にはとても楽しいです。

翻訳は多大な労力をかける作業で、それを続けるにはやはり訳す本人が楽しむことができなければならないでしょう。村上氏も多くの翻訳経験を積んでいるのでこの点を強く言います。

―あなたの本の翻訳についてうかがいたいのです。あなた自身が翻訳者であるから、翻訳の持つ危険性についてよくご承知だと思うのです。どのようにして翻訳者を選んでいるのですか? 
(村上)僕には英語に限っていえば、今のところ三人の翻訳者がいます。...彼らが僕の小説を読み、誰かが「これは素晴らしい!」と思う。それがいちばんいいやり方だと思うのです。気に入った人が訳してくれればいい。僕自身の翻訳者としての経験からいえば、熱意というのは翻訳にとってとても大事な要素です。たとえ優れた翻訳者であっても、彼がテキストをそんなに好きでなければ、まったく話になりません。長い小説の翻訳はひどく骨が折れるし、時間もかかります。深い愛情と共感がものを言う作業なのです。 (p.236)


翻訳する際の情意面やモチベーションの研究も翻訳プロセス研究では行われており、やはり作品への思い入れがないとやっていけないのだろうと思います。

逆に言えば、こだわりのある作品だったら翻訳してやろう!という気も起きるのでは??とも感じます。中高生(あるいは大学生)が本当に好きな日本文学や英文学作品を1つ選び、その1節でも訳してみるという経験は、どこかであっても良いのかもしれません。最近塾の子が課題ノートに「アナと雪の女王」の原作本の一節を書き抜いて翻訳してきてくれましたが、それも好きだからやるわけで、やらされる翻訳はしんどいだろうと思います。





教採や特研が終わって、このような良書をゆっくり読むことができて本当に良かったです。村上春樹の本は、今日『スプートニクの恋人』を読み終えましたが、これもかなり面白かったです!(特に今の自分には相当ひびきましたw)先ほど『女のいない男たち』を買ってきたので土日に読み、夏休み中に『羊を巡る冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』『ねじまき鳥クロニクル』などを読んでいきたいと思います (^^)

(追記)2014/08/25
村上春樹氏の英語でのインタビューが紹介された記事を見つけました。上で述べている内容を、英語ですが、村上氏のことばで語られています。もちろんここで紹介しなかったことについても多く述べられていますので、どうぞご覧ください。

Haruki Murakami: 'My lifetime dream is to be sitting at the bottom of a well'

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