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2013年11月12日火曜日

竹田青嗣(2011) 超解読!はじめてのカント『純粋理性批判』 , 講談社現代新書

こんにちは。mochiです。

まずは近況報告から。

・BBSの中国地方60周年記念大会に参加させて頂きました。
友人が表彰されたり、新中B君が誕生したり、懇親会で他県の方と交流できたり、大変充実したものになりました。特に、ともだち活動について、保護観察所の方とお話できて良かったです。

・学園祭の漫才大会に出場してきました!
結果は見事3位!大学生活の良い思いでになりました。
 ※参加チームは3組だった模様。

・卒業論文の中間発表が終わりました!
とりあえず、このまま進めればよいのだと少し自信がつきました。教授方からの質問には緊張しましたが・・・。というより、質問自体の意味が理解できない自分って・・・。



さて、少し落ち着いたところで、読み溜めていた本のまとめを行っておこうと思います。


超解読! はじめてのカント『純粋理性批判』 (講談社現代新書)
超解読! はじめてのカント『純粋理性批判』 (講談社現代新書)竹田 青嗣

講談社 2011-04-15
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前回の英語教育みんなで書けば怖くない!企画のときは、多くの方がアクセスをして頂きました。拙文にも関わらず感謝です!それに対して、おそらく今回の記事は、タイトルから判断して、読む人が圧倒的に少ないだろうなとすでに予感しています(が、めげずに頑張ります!)。

さて、センター倫理(今は政治経済もあるんでしたね)をもうすぐ受験する高校生たちは、カントと聞いてどのようなことを思い浮かべるのでしょうか。

「感性」「悟性」「先天的(アプリオリ)」「善意志」「当為」「道徳命令」「仮言命法」「定言命法」「物自体」「コペルニクス的転回」...

確か、こんな用語が書いてあったように思います。

ただ、受験勉強のときは「コペルニクス的転回」のようなキーワードさえ覚えておけばセンターの問題はある程度対応できた覚えがあるのですが(あいまいな記憶で、間違っていたらすいません)、本書を読むとそのような理解は浅いことに気づかされます。

今回は、まだまだ浅い理解の段階ですが、現時点で分かったことをまとめたいと思います。

1. カントの問題意識


カント以前は「経験論」と「合理論」の対立が主だったようです。簡単に言えば、経験論は人間は経験によって学習するため、生まれてくるときにはまだ頭の中には知識は入っていない、という立場です。合理論は、すでに頭の中に知識が入っている状態で生まれてくるとする立場です。この両者の対立は、言語教育史的にはB.F. Skinnerらの行動主義とChomskyの生成文法理論(生得主義)の対立に非常に似ていると思います。Chomskyの普遍文法の考え方は、合理論的な考え方ともいえるのではないでしょうか。(自分もこのアナロジーで理解できました。)

しかし、カントはこのどちらの立場も否定するところから始まります。

原文の第1文目の"That all our knowledge begins with experience there can be no doubt."によって合理論の立場は否定されます。しかし、経験主義であればタブラ・ラサ状態であるはずが、"with"という前置詞を用いていることからも、頭の中には生まれる前から(ア・プリオリに)何かしら備わっていることが分かります。(詳しくは後述。)


2. 物自体という概念


ここで、1つのテーブルについて考えて見ましょう。

僕がパソコンを置いているこの机。自分の目には茶色と黄土色の中間に見え、触ると堅く、うっすら木の模様が入っています。

しかし、それは本当の「机」の存在なのでしょうか。

実際のところ、上の私の記述は、私の目に映った机にすぎません。現に他の人がこの机を見たら別のように記述するでしょうし、明日の私がこれと同じように述べるかどうか確証はありません。この机を晴れた日に外に出せば、もっと明るい色に見えるでしょう。

このように、ある実在するもの(あるいは世界)と私たちが認識しているもの(世界)は必ずしも同じものではありません。カントは、私たちの認識がlimited knowledgeであることを強調し、本来世界に存在しているのは物自体であるといいます。

世界の「完全な認識」は、「神」のような全知の存在だけに可能で、そのような世界のありようをカントは「物自体」(=世界それ自体)と呼ぶ。(p.28)

ここで重要なのは、私たちが認識している世界というのは、そもそも限定されているということです。


3. 感性、悟性、理性

私たちの認識は、「感性」「悟性」「理性」によって行われています。

人間は、およそ事物(対象)を「直観」によって知覚し認識する。つまり、事物は、われわれの五官の近くを通して、意識に表れてくる。これを「感覚」による直観というが、人間がもつこの「対象を感覚的に直観する能力」を、ここでは「感性」と呼ぶ。
しかし、われわれは、ものごとや事物対象を「感性」だけで認識するわけではない。「感性」のほかに、「悟性」と「理性」の働きが必要である。ここで「悟性」は、主としてものごとを概念的に判断する働き、「理性」は主として判断されたものをもとにしてこれを「推論」する能力を意味する。(pp.23-24)

それぞれには決まった役割がある。簡単に言えば、「感性」で感覚を通して事物を直感的に受け取り、「悟性」ではその直観をまとめて判断を行い、「理性」ではさらに推論によって全体像を導く。特に理性では「今・ここ」から離れた超越的な概念についても扱うことができる。


① 感性

感性には最初から備わっている部分があり、それを形式と呼ぶ。形式は主に「時間」と「空間」がある。それに対して質量の部分はア・ポステリオリな部分のため、世界から感覚を通して得た情報が当てはまる。

例えば、ある机を目で見た場合、机に関する様々な情報がア・ポステリオリに与えられる。しかし、そもそもその空間を直感的に把握する力は感覚にア・プリオリに与えられている。また、今見ている机と2分前に見た机について考えるときには、内面では時間という形式が働いている。これもア・プリオリに与えられたものである。



② 悟性

感性の次には、悟性が働く。

「悟性」は、この多様な直観をまとめあげ(綜合し)、それを一つの概念的な判断へとまとめあげる役割をはたす。(p.45)
つまり、経験的な対象(事物)の認識は、「感性」と「悟性」という二つの働きの結びつきによって可能となっているわけだ。「感性」はいわば受動的な働きであり、「悟性」は自発的、能動的な働きだといえる。(p.48)

知覚は意識を働かさなくても可能(see, hearなど)であるが、それらで得た情報について「これは何だろう」と考えるのは、能動的である。

感性と同様、悟性にもア・プリオリに与えられた形式が存在しており、それはカテゴリー(純粋悟性概念)と呼ばれている。

( p.58 より)


この表を見て、「おっ!知っている!」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これはGriceのCooperative Principleの公理と同じものになっています。(カントから影響を受けたものでしょう。)

また、「必然」「蓋然」などは、英文法ではモダリティの区分などにも用いられている。

cf) なお、「感性」と「悟性」の間には、厳密に言えば「構想力」(図式)がある。また、感性、構想力、悟性ら全てで伴いうる「私は考える」という意識が統覚(Apperzeption)と呼ばれている。


③ 理性


理性は、これまで述べてきた感性、悟性とはやや異なるものである。

理性は、悟性が作り出した対象存在についての諸判断を「推論」によって統一し、そのことで事象から何らかの「原理」(「普遍的なもの」)を取り出す能力だと考えればよい。(p.124)

理性によって、抽象的概念(コミュニケーション能力、哲学とは何かなど)についても我々は考えることが可能となるが、その際に考えるべき区別に「構成的原理(konstitutive Prinzip)」と「統制的原理(regulatives Prinzip)」がある。簡単に言えば、構成的原理はある概念をさらに細かく分けることで対象化するものであるが、統制的原理は以下の前提がある。

世界の全体についての推論は、経験の領域を超えたものだから、ここではわれわれは与えられたものから出発し、経験世界を超えてどこまでも推論を続けることで世界の全体像を想定する「統制的原理regulatives Prinzip」を用いるほかはない。(pp.205-206)

※本来ならアンチノミーという話題も避けて通ることができないのでしょうが、今日はここで断念しますw


まだまだカントの解読本を読み始めた身分で、誤っている解釈もたくさんあるかと思います。(特に図で表した部分。)お気づきの際はご教示頂ければ大変助かります。




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