今回紹介するのは、マンガ『ドラゴン桜』の作者である三田先生が書かれた『個性を捨てろ!型にはまれ!』という本です。
この本を学部の控え室で読んでいると、向かい側で勉強していた友人が「えっ?これっていいの?」と言っていましたが、彼女の気持ちはとてもよく分かります。なぜなら教育の世界では「個性を大切に」というのが暗黙の了解だからです。実際、生徒指導提要も「個性の伸長」という言葉を用いているわけです。ところが、なぜ個性を伸ばすことが当たり前なのでしょうか。逆に「型にはまる」ことは否定されるべきなのでしょうか。
このような「暗黙の了解」こそ、疑ってみると面白いのではないでしょうか。特にタイトルを見て「そんなバカな!?」と思われた方にこそ、この本を読んでもらいたいです。そして、本書の鋭い視点に対してどのように反応するか。
以下、私が個人的に面白いと思った箇所を引用し、私見を述べてあります。ぜひ考えてみてください。
■ 型を学んでからの「型破り」
さて、本書は以下のような啓発的な文章で幕をあけます。
個性って、そんなに大事なものなのだろうか?個性が育てば、この国が抱える問題は一挙に解決するのだろうか?僕は、そうじゃないと思う。むしろ、この不気味な個性幻想が若者たちの足を縛り、身動きをとれなくしている。まるで「個性がなければ人にあらず」といった風潮になり、数多くの若者が文字通りの意味で路頭に迷っている。だからこど、僕は言いたい。「個性を捨てろ!型にはまれ!」と。(p.6)
よい例かどうか分かりませんが、例えばあなたがバドミントン部の2年生だとします。新しく入った後輩があなたに向かってこのように言います。「なんか~、おれって型にはまるのは好きじゃないんすよね~。てか、オリジナルのフォーム作るんで、とりあえず素振りの練習は参加しないッス。まぁ、そういうことで、お疲れーッス。」さて、どのようにこの後輩に対応しますか。
中学生と以前このような話をしたら、「ランニングの周回数を倍にする(なるほど、体で分からせるのか)」「殴る(コラ!)」「笑顔で諭す(意外とこちらの方が怖いかも…)」などの答えが出ました。皆さんもこれに近いことを考えられたのではないでしょうか。すなわちオリジナルを生み出すには、ある程度の型が必要になるわけです。だから、多くの方はこの後輩に向かって「いやいや、まずは基本も大事だから素振りは参加しなさい」といったことを伝えるはずです。
すなわち、「型」があってこそ「型破り」になるわけです。
きっと、世間の人たちがなかなか素直に『型』がほしいと言えない背景には、次のような思い込みがあるのだろう。「才能がないヤツだけが『型』を求めるんじゃないの?」[...]これは多くの人が誤解しているところだけど、本当に才能がないヤツは『型』など求めない。むしろ才能がないヤツほど、自分の「秘められた才能」を信じている。[...]基礎がしっかりしているからこそ、応用もできる。基礎のない応用なんてありえないのである。(pp.40-42)
これは自分も教育実習前によく陥っていた失敗なのですが、模擬授業の計画を立てているとき「これじゃ普通の授業だな」「もっとオリジナルにしなきゃ!」「クリエイティブじゃないね~。」(当時はクリエイティブという言葉が周りで流行っていたので、きっとそう言っていたのでしょう笑)しかし、変に凝って作った授業は穴が多かったように思います。もちろん教師として多くの手法を引き出しとして持っておくことは重要です。しかし、まずは授業のオーソドックスな型(導入→展開→練習→まとめなど)を身に着けることが先決なのではないでしょうか。もし教育実習前の自分に1つアドバイスができるなら、間違いなく「オーソドックスな授業を当たり前に出来るようになるまでは、チャレンジはそこまでしなくて良い」と伝えます。
ドラゴン桜本編でも似たようなシーンがありました。以下、ドラマのシーンから引用します。
数学教師「お前たちは計算マシーンとなるのだ」
矢島(生徒)「おいおい、人のこと機械みたいに言ってんじゃねぇよ。…俺たち人間なんだから、機械とかマシーンみたいに型にはめられるのがむかつくんだよ。」
数学教師「型がなくてお前らに何ができる?…大体、素のままの自分からオリジナルが生み出されると思ったら大間違いだ。」
私はドラゴン桜の中で特にこのシーンが好きです。中学生の頃に見ていた時は矢島の意見の方が正しいと思っていたのですが、最近では教師の言うことも分かるようになりました。きっと作者もこの部分には特別な思いを込めたのではないかと予想します。オリジナルは結局「型」の組み合わせということを忘れないようにしたいと思います。
■ 真似すること
なにかを発明することばかりに躍起にならず、既存のアイデアを堂々とパクろう。そして、それをどう応用していくかについて、もっと真剣に取り組もう。われわれ日本人には、そうした「模倣と応用」を得意とするDNAが宿っているのだ。どうしてそれを活用しないのだろう?カレーを発明したインド人は偉いけど、そこからカレーうどんをつくった日本人も同じくらいに偉いのである。(p.62)
「おいおい、それパクリじゃん」と言われるのは誰でも嫌なものです。そのせいで誰かのやっていることを真似するのが億劫になってしまうことが自分もよくあります。しかし、真似(すなわち型にはまること)によって新たな自分のアイデアが生まれることもまた事実です。カレーにうどんを入れた日本人のように、他人のコピーをすることで新たな結びつきができるのではないでしょうか。
また話が変わりますが、大学受験生に自由英作文を指導する機会が最近増えました。そこでも、「さぁ、自由なことをのびのびと書くのです。オリジナリティ溢れる作品を楽しみにしてます」と指示したところで、文法的にボロボロな文章ができることは目に見えます。(もちろん、稀に教師を唸らせる作品を書く天才型もいるでしょうが。)むしろ、「ここにあるモデル文を大いに参考にして、まずは50語頑張って書いてみましょう」のような指示でも良いはずです。これを繰り返していけば、「これは前回マネした文と今回の文を組み合わせれば表現できる」という気づきに繋がる可能性もでてきます。(蛇足ですが、最近自由英作文指導をする時は、モデル文の誤りを生徒と一緒に直していき、それを基に各自が文章を書くというスタイルにしています。詳細は「まとまりのある文章を書くことの指導(2)-視写・書き加え・書き換えによる段階的指導-」(山岡, 2007)をご参照ください。
このように、マネをするのも立派な学びなのです。(学びという言葉が「マネび」から来ているという説もあるようです。)現に、私の自由英作文の授業も上の実践報告を参考に行っているものに過ぎません!(威張って良いのやら悪いのやら。笑)
■ オリジナルは不可能なのか
ここまで考えると、「何事も既存の型にはまることが第一」なのだから、「個性なんて必要ない」とやや悲観的になってしまいそうです。確かに、氏もこの論点からぶれてはないのですが、以下のような譲歩はされています。いかにして「真の個性」が作られるのか、についてです。
僕が言いたいのは、「人と違うこと」が個性ではない、ということだ。たとえば、オンリー湾とかオリジナルとかにあこがれている人は、自分を一種の美しい胡蝶蘭のように考えている。周囲の花々とは違う圧倒的な存在感を放ち、他を威圧するようにして咲き誇る。それが個性であり、自分もそうなるべきだと思っている。しかし、何万本と咲く菜の花畑の一本にも、個性はある。同じ場所に咲き、同じ色をして、同じくらいの大きさで、遠めにはまるで区別がつかないくらいの花だけど、そこにも個性はある。(pp.183-184)
つまり、最初からオリジナルなどありえないのです。ある程度型にはまった上で、他と均質な状態になった上で自分が出せるオリジナリティを出せばよいのです。さもなくば、自分の考えた企画に対して「これはオリジナルじゃない」と悩む必要もなくなります。
最後にこのような綺麗な例が出されていますが、全体を通して本書は非常に厳しい語り口で書かれています。私の記事を読んでも「結局この人は型にはまれ、としか言ってないじゃないか」と思われるでしょうから、気になった方はぜひ手にとってみてください。この記事では伝わらない、作者のメッセージが読み取れるかと思います。(ちなみに教育問題としては、ゆとり教育、国旗掲揚の是非なども述べられています。)
本書を読まれた方と意見交流できれば幸いです(^^)
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