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2014年6月22日日曜日

英語教育と創作活動



創作活動というのは、英語教育ではあまり縁がないのかもしれません。しかし、自己表出・自己変容を伴う創作活動を媒介としたコミュニケーションも、英語と絡めて行うことができないでしょうか。最近の自分の経験、大学院で受けている初等国語の授業、今日参加してきた中国地区英語教育学会、といったところで感じたことを頼りに、以下3点でまとめてみることとします。


(1) 語りによる自己解放・吐き出すための語り

一つ目に、語りによる自己解放が上げられます。先日の石戸先生の記事や、やまだようこさんの「喪失の語り」などでたびたび言及してきましたが、私たちは「語る」という行為によって自己解放することができるのだと最近強く思います。



学部の頃に観た英語授業のビデオで、中学3年生が中学校生活の思い出や将来の夢について英語でスピーチをしながら、自分の気持ちが抑えきれなくなって涙してしまうという場面がありました。これも、自分のカタルシスを英語という媒体によって表出することで、「自分はこれだけ中学生活に思い出があった」「もうすぐ目の前の友達と別れるのだ」ということを実感したために泣いたのだと思いました。私たちはそのような思いを直接語ることに、しばしば抵抗を感じます。しかし、英語という日常生活で用いない言語のおかげで、しばしば言いにくいことが言いやすくなるのではないでしょうか。


あるいは、「語り」は自己浄化作用があるのかもしれません。たとえば、千と千尋の神隠しに登場するカオナシというキャラクターがいます。カオナシは欲望を軸にコミュニケーションすることで、多くの不純物を体内に摂取します(暴飲暴食の結果)。また自分が気に入らない相手を丸呑みしてしまい、彼らを自分に「取り込んで」しまいます。そこで千がカオナシと対峙するときに、河の神様からもらった苦団子を食べさせます。するとカオナシは、自分がこれまで溜めてきたものを全て吐き出します。カエルまで全て吐き出したカオナシは、もとのカオナシになり、千とともに銭婆の元へ向かうこととなり、自分が自分でいられる場所を見つけるのでした。

カオナシの例は「語り」という例としては不適切かもしれませんが、吐き出すという行為の重要性は示してくれるように思えます。英語が先ほど述べたように日常使うことばではないため、吐き出すためには便利なことばなのかもしれません。




(2) 物語という虚構内でのストーリー作成

大前提として、物語は虚構世界です。だから、起き得ないことなど虚構世界にはありませんし、思ったこと全てを出しても良いのだと思います。

私は学習塾で中学2年生の英語の授業を担当していますが、そこで Andy and Jimmy という教材を扱いました。内容としては、猫のAndyがねずみのJimmy を食べようと捕まえたら、Jimmyが「自分の家族にさよならを言わせて」と言いますが、Jimmyの家族は100匹以上いるため、AndyはJimmyを待っていることができずに諦めて帰ってしまいます。

授業ではこの文章を1ヶ月かけて内容理解・文法解説・音読・朗読してきました。現在は時間を測って音読する練習をしている段階で、もうじき朗読的な指導をしようと計画しています。先日、「Andy and Jimmy という作品の another story を作れ」という課題を出しました。最初は戸惑っていた彼らでしたが、次の週には色とりどりの個性的な(なかには残酷なw)作品が出揃いました。

彼らが書いてくれた文章を読み返して思うのは、ストーリー作成というのは、自分の内的世界で行う作業であるということです。今日求められる外的世界でのコミュニケーション活動とは、一見つながりがないように見えますが、合理的な生活を求めるほど私たちが虚構世界やフィクションを欲することは、経験的にも私は納得できます。ストーリー作成のタスクは、自分の内的世界から紡がれることばを英語で表す活動といえないでしょうか。

→ストーリーテリングの活動は、協働学習の方法論として取り上げられるのを見聞きしてきましたが、上で述べた理由から、個人で行うストーリーテリングもアリではないか、という気もします。(もちろん思いつかない子が多い、という問題もありますね...。)




(3) こだわりを持った翻訳 (creative translation)

最後に、こだわりを持った翻訳を、しれっと追加しておきます(笑)。

翻訳過程において、訳者がこだわりを表すことができるのは以下の5点です。

・言語間の言い換え(このときはあまり解釈を介しませんが、少なくとも訳者の経験が反映されます。)
・原文の中からどの要素を訳そうとするか選ぶ作業
・原文から読み取ったイメージに、自分で付け加えをする
・イメージを、目的に応じて訳先言語で表す
・新しい言葉を創って、イメージを表す

上の分類は、Kussmaul (2000) Types of creative translating という論文のまとめで、さらにこれを自分なりに図示したのが下になります。









翻訳も創造である、という点をこの論文から改めて学びました。この「こだわり」は文法や語彙の選択という点に現れるかもしれませんし、原文を読んだときの自分の世界観が反映されるかもしれません。訳がただの言語変換作業のみならず、それぞれの個性が表れるものとみなされれば、お互い比べてみたり発表しあったりする協働学習も可能となるかもしれませんね。







と、いきおいに任せて書いてみましたが、最後に述べるべきは以下の点ですね。


英語教育の目標は、コミュニケーション能力を養うことである!


上のような活動を提案してみましたが、これらが4技能のいずれかの能力の伸長に関わることはやはり必要だと思いますし、ただのパフォーマンスをするだけなら英語授業で扱う必要はないと思います。

ただ、英語に対して本当に拒否反応を示す生徒さんや、高校に行くことを考えておらず英語学習の必要性を感じていない子も、創作活動としての英語には興味を示してくれるのではないか、と感じます。

今回は、「創作活動」とか「感性」といった、自分の苦手分野(笑)で記事を書いているので、あまり筋が通っていないところが多いかと存じます。よろしければ皆さんのご意見も教えて頂ければ幸いです。


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2014年6月15日日曜日

石戸教嗣 (2003) 『教育現象のシステム論』勁草書房

こんにちは。mochiです。
昨晩、学部の頃の友人(現在社会人)と研究室仲間の計5人で飲みに行きました。社会人の友人に、「院生に足りないものは何だと思う」と尋ねたところ、「常識」と即答されてしまいました(反省)。

塾や英会話教室のバイトはもちろん、できるだけ外に出ながら院生生活をしないと、社会から排除されてしまうな~と感じた次第です(涙)


この1年くらい私は「ルーマン読書会」という会合に参加しています。そこでは、『システム理論入門』『社会理論入門』といったルーマンの講義録を各章担当者がレジュメ形式で発表し、議論するというものです。生憎、社会学もルーマンもかじったことすらなかった自分ですが、「どうせ素人なんだから、できるだけ素朴な疑問を出してください」と先生方からおっしゃっていただき、気楽に参加させていただいています。最近は院生の友人も一緒に参加し、ルーマンの用語のどくとくの使い方(ルーマン語?)にも少しずつ慣れてきて楽しくやっています。


本日は、そんなルーマンの社会システム理論を援用しながら教育現象について考察した『教育現象のシステム論』をご紹介します。



教育現象のシステム論 (教育思想双書)
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とても面白く読んでいますが、やはりルーマンの用語が分かっていた方が読みやすいので、もしお読みになりたい方でルーマンの用語が心配でしたら、以下の用語集を参照しながらだと分かりやすいと思います。


GLU―ニクラス・ルーマン社会システム理論用語集
クラウディオ バラルディ エレーナ エスポジト ジャンカルロ コルシ Claudio Baraldi
4772005331

また、今回のまとめノートでは「第1章」と「第2章」のみを扱っています。第3章以降は、学習やカリキュラムなどの少し踏み込んだ話になっているので、社会背景やルーマンの教育に関する概観を扱うには第1・2章の方が良いと思ったからです。

そして、自分にはまだルーマン語を翻訳する力はないので、以下のノートではルーマンの用語をそのまま使っています。分かりづらく申し訳ございません。


(※)記号としては、
■:項目タイトル(自分で勝手につけています。)
・:できる限り本書の内容を忠実にまとめた箇所
⇒:自分なりの言い換え、意見、感想、批判
△:疑問点

でまとめています。



第1章 公共圏としての学校のシステム論的再編
アレントの「見捨てられた境遇」からルーマンの「尊厳」へ



■ 教育における「公共性」とは、ネオリベラリズムの論理で排除された存在を再度社会システムに組み込むプロセスである。

・ネオリベラリズム(新自由主義)の論理によって、1990年代以降の教育は行われてきた。

・ネオリベラリズムは、競争から敗退する者を必然的に多く生み出すが、その理論的根拠は保たれる。

・その「排除された存在」を再度社会システムに組み込む必要がある。その組み込みプロセスが「公共性」である。

・第1章ではアーレントとルーマンの公共性概念を比較検討する。

・ネオリベラリズムとコンサーバティズムという二項対立では、もはや今日の教育問題を捉えられず、システム論的に以下の3区分が必要である。 (pp.5-6)

(1) 空間概念としての公私(組織システム)
→学校という公的期間は家庭という私的機関との空間的差異において存在する

(2) 関係概念としての公私(相互作用システム)
→学校における教師と生徒・保護者はそれぞれ公と私の側に立つ関係にある

(3) 心理システムとコミュニケーション・システムの間のシステム準拠の差異を指示する概念としての公私(心理システム)
→同時に、学校においては<心理システム=私>/<コミュニケーション・システム=公>というシステム区分も存在する (つまり、教師と生徒はともに私的関心を持って公的コミュニケーションに参加する




■ 学校が「市民にさせる場」であると同時に、生徒個人の心理システムの居場所となるべき。

・学校は生徒たちが社会化し、市民としての資質を身につける場である。しかし、それと同時に生徒の心理システムの居場所となるべきである。

・それは、「われわれの目の前にいる子どもは多様なニーズを抱える生身の一個の存在として学校に関わるようになってきている」 (p.7) からである。

→ 教育システムのコードはあるだろうが、学校という空間は生徒が安心して居られる場所でもあるべき。どこか息が詰まったような学校空間も日本にはあるだろうが、そのような学校では生徒は居場所を見出すことができているのだろうか。

→家族の弱体化によってもこの傾向は顕著にあるのかもしれない。



■ アーレントの「学校」観と問題意識

・アーレントにとって学校とは、公共性を身につける場所。

・学校はそもそも家族(私的領域)から世界(公的領域)への移行を可能にするために、その中間の段階として設置したものである。

・学校で学ぶのは、家庭(私的領域)ではなく、国家・公的世界(公的領域)が要求すること。

※「私的領域」:private として、発揮すべき人間的能力が剥奪されている場。暴力によって支配される。
※「公的領域」:人間的本質が現れる場。価値観の異なる相手と対話することが求められる。

→もともと私的領域で公的に出せない部分を出しておき、公的領域では適切に振舞うことができた。しかし、近代では私的領域を公的領域が厳密に区別されなくなり、社会的領域という新たな空間が生まれる。アレント自身は社会的領域の出現に対して否定的にみている。

・学校が機能するには、私的領域としての家庭が機能することが前提条件。
アレントは、異質で多様な存在としての子どもが大人に庇護されつつ互いに出会う空間としての学校を理想としたが、そのためには、子どもが隠れる場所としての家族が確立されていることが条件となる。家族における庇護を失って、むきだしのまま学校にやってくる子どもたちを目の当たりにしている。 (p.12)

すなわち、子どもを保護する機能を家族は果たせていない。それゆえに、子どもを見捨てているのは家族であると。

⇒今日、家族とも良好な関係を築くことができず、いわば私的空間を持たないままで学校にやってきてしまうため、ストレスを発散できなかったり息苦しさを感じてしまう子が多いのだろうか。

・子どもが社会的領域において見捨てられるのと、私的領域が機能しない、というのは実は同じ問題である。

・近代社会では、すべての市民が機能システムへと「組み入れ」られる。しかし、その「組み入れ」られたシステム内で自分の存在を見出すことが求められる。

→学校教員は、教育システムに組み入れられて、子どもたちの発達に寄与する。しかし、その教育システムに自分が完全に組み入れられれば「オレの人生って何だろう」と悲観的になるかもしれない。学校教育に携わりながらも「自分」というものを見出さなければならない。




■ ルーマン的解釈:語りによるシステムへの再組み込み

・ルーマンは上のように大衆社会(社会的領域)が人格を排除するとは考えない。

・社会が機能的に分化すると、人格に依拠するようになる。

→(全体)社会は「経済システム」「政治システム」「教育システム」「学問システム」「芸術システム」「医療システム」...と各々の機能によって分化していく。その機能システムでは、人格(心理システム)の持つ影響が強くなる。

・「排除」は機能システムへ「組み入れ」ることで必ず起きる影としてとらえるべき。

・システムからの排除とは、システムのなかで人的ネットワークが形成されない状態(p.18) 。

→システムから排除されるとき、人は物理的にそのシステムに属しているが、そこで自分の尊厳を見出せない。

⇒学校で教育を受けている子の中にも、自分の尊厳が見出せないで苦しんでいる子は多いだろう。(自分もそんな時期がありましたが。)

・自分の尊厳を見出せないとき、私たちは自己表出(語り)を行う。

・ルーマンは自己表出の条件として、「自由」(制度的条件)と「尊厳」(人的条件)を挙げている。「自由」は環境としての「語りやすい雰囲気」であり、「尊厳」は当人の内面としての「語りたいという欲求」である。これら両方がなければ、自己表出は起きない。

cf) 村上春樹『風の唄を聴け』の冒頭部も、主人公が語りによって救われるというエピソードからはじまる。

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・子どもが排除された状態にあるのなら、彼(女)らに「語る」ことができる相手を保障することが必要である。そうすることで、自己表出の条件としての「自由」は少なくとも提供でき、彼らが再度システムの人的ネットワークに組み入れることができるだろう。

・では、ルーマンのいう「公共性」とはなにか。

・それは、システムから見捨てられた者を可視化するプロセスである。

→つまり、システムに属している人とシステムから排除された人を区分することによって、システムから排除された人を指示し、その人たちが語ることができるようにするのが公共性である。

・家族システムが自己表出・語りをしやすい場として機能しないのなら、学校(教師)が彼らの話を黙って聴くことも必要かもしれない。あるいは、語れる場を提供することが必要かもしれない。





第2章 「個を生かす教育」を生む社会システム


■ 「個性化」

・「個」を尊重する、ということが絶対的善としてとらえられ、子どもを野放しにすることが「もの分かりのよさ」と混同されている。また、個性重視の教育が進められているが、従来の受験競争の構造がまだ存在してしまっている。これらの課題から、「個を生かす教育」はいかに可能であるか。

・高度経済成長が危ぶまれ、人々の関心が内面に向くようになった。それによって、教育においても内面を重視しようという動きがある。また、現代社会が政治・法・経済・家族・教育など多くの機能システムへと分化して複雑化したことにより、「個」が全体像を持ちえず<分裂した自己>となることにも、「個」を重視しようとする原因があるのかもしれない。

→「私とはなにか」という問いに対して、「私とは××である」と一言で言えるほど個性とは単純なものではない。むしろ、Aという場面では「△△」で、Bという場面では「~~」で、Cという場面では...としか言うことができないものである。本質主義的な定義(「AはBである」)では、複雑化した今日における個性概念を把握できない。むしろ、オートポイエーシス的な定義(「AはAである」)を用いて、「私は、私である」とトートロジー的に定義することが限界である。


■ 「個」の再帰性

「個」は、自分について、あるいは他者について観察した心理システムのあり方に他ならない。 (p.27)

・個人が「個性的」存在であるのは、それが内面において独自な自己言及を行うからである。

・現代の「個」は、他者による評価を気にしすぎており、自分の空虚さにも気づかされるという苦境に立たされる。

・そのような背景もあり、今日は「共依存」関係が注目を集めている。

・「共依存」とは、複数の心理システムが互いに依存することで、社会的システムに拘束されることである。しかし、彼ら彼女らが自ら抱える空虚さを埋めるための準拠対象としては、他人という心理システムは身近である。

・例として「家庭」を挙げている。

・家族は地域と離れることで、「閉鎖的」システムとしての性格を強く帯びる。そのような閉鎖システムの中で、子どもたちが親の期待に応えようとするが、それによって彼らの内面や身体にはストレスがため込まれる。なぜなら、子供たちは「家族システム」を維持するために、「心理システム」としての子どもが自らの役割を演じる必要があるためである。そのような子どもの将来を思いやる母親、そんな家族を支える父親は自分の存在を実感できる。
家族システムが循環するためのメディアとして「成績」がある。子どもたちが成績を追求しても自己評価が低いのは、空虚な成績という価値でさえ、それをともに追求することで家族システムが維持できるからである。

・家族システムが子どもたちの心理システムの空虚さを埋めきれないとき、別の場所で自己アイデンティティを得ようとする。たとえばいじめーいじめられる、の関係に安住したり、シンナーや万引きといった非行社会で活躍したりする。

・さらに、「依存的自己」の問題もある。

依存的自己とは、自己という心理システムがより大きなシステムに組み込まれていることが見えなくなって、そこから抜け出せることができない状態にある自己のあり方である。 (p.36)

→いじめっこしか相手がいなくてついて回るいじめられっ子、非行社会にいる子どもたち、現場でトップダウンの指示を受け続けることで自分の存在を見失う教師、など。

⇒たとえば、ある大学院生が自分の存在意義を見出せないとする。彼が抱える問題は多くあるだろうが、システム論的に一分析を以下のとおり提示することができる。
彼の心理システムにおける作動が続いていると思っていて(自己言及していて)、自分のやりたいことをやりたいようにやっていると思っていたとする。しかし、そんな彼がどうも憤りを感じている。そのとき彼は心理システムよりもさらに広い「学問システム」というシステムにすでに組み込まれているかもしれない。つまり、「先行研究を調べなければならない」とか「先行の研究にいわれていないオリジナリティを出さなければならない」、「“客観的に”示さなければならない」といった焦りが出るかもしれない。これらの諸作動はすでに学問システムに組み込まれているのだが、問題は心理システムがこの事実に気づいていないという点である。もしも心理システムの観察により気づいていれば(あるいは自分の行っている作動を二次的に観察し、その区別の方法を客観視することで新たな地平を見出せることができれば)、もう少し余裕を持って行動できるだろうし、もはや「依存的自己」から脱しているといえるだろう。

(やはり、具体的な話をしてみると自分の理解はまだ不完全だと実感。う~む。反省。)



■ オートポイエーシス的自己論

・オートポイエーシス (Autopoiesis) とは、しばしば「自己創出」と訳される。これは、システムが環境との関係において、システム自体を定位しつつシステムの状態を常に更新し続けることである。 (p.40)

→たとえば、自分の生命システムは環境に応じて自らの生命体を他の環境と区別しながら、つねに内部で自分を生み出している。現に新しく免疫ができればそれまでの自分から「更新」されたことになるだろう。

・ルーマンによると、自己とは自分の視点を固定しないで柔軟に視点を変えながらものごとを考えること、自己を環境と区別しながら自分の行為やコミュニケーションを変化させることである。

→(1) 自分というシステムが定位する、(2) 自分というシステムが閉鎖的にならず、柔軟に環境や他システムと接触しながら変容をともなう、という2点が指摘されている。

・最後に、以下の引用文で締める。

「個性」とは、心理システムが環境との関係においてその心理システム独自に展開するしなやかなオートポイエーシスのあり方であるということになる。 (p.45) 







長々と読んでいただきありがとうございました。

自分用のお勉強ノートを、少しだけ分かりやすく書き直したものにすぎないので、興味をお持ちになった方は、ぜひ本書を読んでみてください。

本書から自分が学んだのは以下の点です。

★ 子どもが学校に入る瞬間教育システムに組み込まれるが、教育システムには峻別機能があるため一定の子を排除しようとするかもしれない。そのような子たちが自己の尊厳を再度見出して教育システムに参入するには、自己表出が必要であり、教師(としての自分)は少なくとも良い聴き手として機能することができる。

★最近「個性」を重視した教育が注目されているが、そもそも自分の「個性」なんて言葉で定義することはできなくて、自分の個性の全体像を把握することは不可能だろう。そのために共依存関係や依存的自己が問題となっている。しかしルーマンに言わせれば、自己というシステムはオートポイエーシス的に自己変容を伴いながら自分の存在を定位するという認識でよい。したがって「自分」というものがある、と信じて探し続けても答えは出ず、個性とはその変化自体と言っても良いだろう。

記事をまとめながら、やっぱりルーマンは難しいなあと実感したのでした。(泣)

2014年6月6日金曜日

C.G. ユング(1995)『自我と無意識』を読みながら考えたことを思うがままに綴った結果

こんばんは。 mochi です。

ユング『自我と無意識』を一部まとめました。作業や課題から解放されて少し落ち着いたからか、ようやくユングの無意識へと関心が戻ってきました。

自分は今後、質的研究という立場で「半構造化インタビュー」という手法を取るつもりですが、そこでは面接者がコントロールするのではなく、できるだけ被面接者が思ったことを言いやすい環境を作ることが最優先とされます。河合隼雄やユングらの著書を読んで「こうでなければ」と思いつつ、塾や研究室ではべらべら喋ってしまいます(オイ!)

自分が少しでも成長できるように、ということで、本書のまとめを試みます。ただ、翻訳学を勉強しているくせに、多くの曲解やミスリーディングな表現を用いています。興味のお有りの方は必ず本書を手にとってご覧下さい。また、本記事に関する訂正や指摘がございましたら、何卒お願いします。


自我と無意識 (レグルス文庫)
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■ フロイトは無意識を抑圧されたものとしてのみ考えたが、ユングは意識に上らないものすべてを指した。

・フロイトが提唱した無意識は、あくまで意識から抑圧されたものが押し込められる領域であった。しかし、ユングのいう無意識には、もうひとつのちがった側面がある。それは、抑圧された内容ばかりでなく、意識の閾にまで到達しないあらゆる心的要素も服務という点にある。

・ユング自身は「これらの要素が識閾下にあることを、すべて抑圧の原理で説明するのは無理である。 」(p.19)とのべている。


■ 患者の声を拾うために「夢」に着目する。

・あるときユングが相手をしたのは、父親コンプレックスを抱えた少女のカウンセリングであった。彼女はユングとの面接を行うにつれて、徐々にユングへ恋愛感情を持つようになった。その際ユングはそれを拒むでもなく、自然に任せながら「満足のいく解消」へと向かう道を探した。(もっと適切にいえば、ユング自身はそのような道が生まれるのを待ったのかもしれない。)

・その際にユングが着目したのは、患者の夢だった。夢に登場する象徴物の正体を対話によって少しずつ明らかにしていき、彼女が自分の気持ちと向き合えるようにした。(そこでもユングは自らの手で行った、という言い方はもちろん避けている。)


もとより私は、どんな混乱状態にあっても何をなすべきかが正確にわかるような良識なるものを、自分がもっているなどとはうぬぼれていなかったし、患者にしても同様だったので、せめて私たちの知ったかぶりや作意の通用しない心の領域からやってくる例の活動に、耳を澄ましてみようと彼女に提案した。それはまず第一に、夢であった。 (pp.25-26)

・夢は意識界で生活している私たちが、無意識からメッセージを受けられる場面である。
cf) 『ユング的悩み解消術』

夢には、私たちが意識的に意図してつくり出すのではないイメージや想念が含まれている。それらのイメージや壮年は私たちに関係なく自然発生的に生じ、したがって、私たちの恣意に左右されない心的活動を表している。だから夢は元来きわめて客観的な、いわば心の自然の産物なのである。 (p.26)



■ 自我肥大

・以下の図は、先日読んだ老松氏の『ユング的悩み解消術』のブログ記事に際して作成したものである。



・この図でいう意識の部分は時に肥大してしまい、個人としての限界を超えた人格の拡張がおきることがある。たとえば、家でも職場でも「先生」の顔をしているお父さんを考えよう。彼の職場での「先生」としての役割は集団の中での機能にすぎず、完全に彼の人格と同一視する必要はない。なのに「先生としてのわたし」を異常に拡張してしまい、家庭でも「先生」の顔のままになってしまうと、自分の外にある特性を簒奪することになる。

⇒自我肥大は、意識の暴走ともいえるだろうか。



■ 個性化

・個性化というと、私たちは「他の人とは違う」ということを考えてしまいがちではないか。(個性的な人、というと、どうも周りに溶け込めない人をイメージしてしまうのは私だけだろうか。)そうではなく、ユングは以下のように述べている。

個性化とは個性ある存在になることであり、個性ということばが私たちの内奥の究極的で何ものにも代えがたいユニークさを指すとすれば、自分自身の自己になることである。したがって、「個性化」とは、「自己自身になること」とか、「自己実現」とも言い換えることができるだろう。 (p.93)

⇒上田先生の『生きる意味』で述べられていた「original」の説明と近いかもしれない。


・個性化と似ているようで違うのが「利己的」という概念である。ユングは利己的が「集団における配慮や義務とは対立すると考えられた特質を意図的に際立たせ、強調すること」 (p.94) と述べており、上でいった個性化とははっきり区別している。

・個性化はそもそもなぜ行うか。それは、「ペルソナの偽りの被いから解放すること」と「無意識のさまざまなイメージの暗示的な力から解放すること」が目的である。 (p.95)

⇒さきほどの「家でも先生」を想い出していただきたい。彼は社会で被ってきたペルソナが外せなくなってしまっている。そんな彼が家庭で誰かに本当の自分をさらけだせるとしたら、それこそ個性化なのかもしれない。

⇒「ありのままの姿見せるのよ」という歌があるが、あれこそ個性化なのかもしれない(笑)



■ 無意識の不可侵性

・無意識は意識には持っていない考え方や特性があるかもしれない。だから私のような低俗な人間は、無意識に羨望のまなざしを向け、アクセスしたいと考えてしまう。

・しかし、ユングはそのような甘い考えを見破るかのように(笑)、「「自然の内奥に、被造物の精神は入り込めない」――無意識の中へも同様である。」(p.99)と、無意識への不可侵性を戒める。

⇒意識が無意識からのメッセージを受け取ることはできても、その逆はできないのだろうか。やはりまだまだユング心理学を理解するには人生経験が浅すぎるのかもしれないw



■ アスペクト的な自己

・アスペクト的(相貌的)とは、野矢茂樹先生の『語りえぬことを語る』から採った語である。すなわち、ある混沌とした対象も主観の観点(立場)によって解釈が異なるということであり、自己もどの立場から見るか、あるいはいつみるかによってまったく違った姿が立ち上がる。

・むしろ自己が完全に一貫している、という人の方が怖いのかもしれない。自己を「上位」のものとしてみなすことで、私たちは常に多面的な自己像を思い描くことができるのかもしれない。

われわれは、それぞれに部分的な魂をもっていると考えることができよう。そこでわれわれにとって自分自身をたとえばペルソナとして見ることはたやすい。しかし、われわれが自己として何ものであるか明らかにすることは、われわれの想像力を超えている。それには、さしずめ部分が全体を把握することができねばならない。われわれには、自己というものを近似的にさえ意識することが望めない。われわれがどんなに多く意識化することができようとも、さらに、無意識という無規定的で規定不可能な量は以前として存在するだろう。そして、それを除いては自己の全体像はありえないからである。こうして自己は常にわれわれの上位にあるものであり続けるだろう。 (p.100) 

⇒初等国語の授業でいわれたが、「複数の自己」とか「分裂した自己」と言い換えてよいかもしれない。













自分の気が向くままにまとめノートを作成したが、やはり分かっているようないないような...という感じである。(自分の理解力の限界を実感。)


最後に、無意識という点に直接関係ないために上で示さなかったが、これから質的研究の手法を勉強する際に、以下のユングの引用箇所は自分の原点としてもっておきたい。

もし、私が研究者であるよりも治療者であるならば、楽観的な判断を隠さないだろう。そのときはまなざしはどうしても、治癒された人間の数に行くだろうからである。しかし、私の研究者としての良心は、人間の数にではなく、質に目を向ける。自然はまさに貴族主義的であって、価値あるひとりの人間は、他の十人に匹敵する。私のまなざしは、価値ある人間の後を追い、彼らから純粋に個人的な分析の結果に見られる二義性を学び、さらにこの二義性の根拠について理解することを学んだ。 (p.54)

つまり、数によって、おきている事象が曲げられてしまうことを恐れるべきということであろう。今日の特研でも先生から、事象に立ち返れ、という話があった。いくら優れたデータを収集することができたとしても、そのデータを数値や偏った見方で分析してしまえば、事象が曲解される恐れがある。さらに、人間を相手にする研究をするのだから、自分が研究者としての良心・感性・倫理感を持たなければ成立しないだろう。私はこういった点には本当に自信がない。

ただ、ここでの考え方は教育現場に自分が出たときも生きると考える。目の前の生徒と対峙するときや授業を自己批判的に分析する際、事象に立ち返るということはまさに「言うに易し、行うに難し」だろう。少なくとも自分の修士での研究を通して、

・「相手を聴く」
・無意識からのメッセージを待つ
・コントロールするだけでなく、流れに身を任せる

といった点を少しでも体得したいと願う。


...なんか、すごく中二病的な締め方ですが(笑)、以上です。

2014年5月22日木曜日

老松克博 (2011) 『ユング的悩み解消術-実践!モバイル・イマジネーション-』平凡社新書

こんにちは、mochi です。


最近英語教育に関する記事をまったく書いてないと思っていたら、なんと半年書いていないことが分かりました(笑)。そろそろ英語教育関連の記事を書かねば...と思いながらも、今日もまったく関係のない話題で書くこととなりますw


今日は、ゼミ面談で先生からお勧めいただいた『ユング的悩み解決術』という本をご紹介します。


本書は、新書に分類されるでしょうが、かといって理論的背景もきちんと述べられており、またモバイル・イマジネーション(後述)の具体例も載せてあったので、1冊でかなりお得な感じがしました。ユング関連の書籍は、これまで河合隼雄さんの『ユング心理学入門』やユングの『自我と無意識』などを読んできましたが、老松先生の本書を最初の導入として読んでいれば、もっと理解できたかもしれない、という印象を受けました。(あくまで主観ですが。)


ユング的悩み解消術-実践!モバイル・イマジネーション (平凡社新書601)
ユング的悩み解消術-実践!モバイル・イマジネーション (平凡社新書601)老松 克博

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本書は、すでに社会に出て働いている友人たちにはまずお勧めです。特に学校現場で働いている友人たちにとっては、彼ら自身のみならず子どもたちの悩み解消( "解決" ではない)にも役立つかと存じます。あるいは高校生くらいであれば本書も読むことができると思うので、自分との対話をするのにも良いかもしれません(理論背景は難しいかもしれませんが...)。ただ、高校生の場合は、本書の巻末に掲載されている短編小説「ちのわくぐり」だけでも読むのをお勧めしたいと思います。(塾の生徒にもまた機会があれば紹介しようと思います。)


では、いつもながら、分かりづらいまとめノートですが、よろしければご覧ください。



■ 目的と原因

私たちは日常生活で多くの問題を抱えます。教員であれば日々学校内外で湧き起こる問題に対処するでしょうし、大学院生であれば山のような課題を片付けながら自分の研究を進めなければなりません。そんなときに悩みを持つこともしばしばあるかと思います。


悩みを解決しようとするときに、一般的には「原因」を探ろうとします。たとえば、院生研究室で「なんかもやもやする。悩みがある。」という場合、「どうしてこんな感情を抱いているのだろうか」という、悩みの原因に目が行きがちではないでしょうか。もちろん悩みの原因を突きとめれば悩みが解消するかもしれません。(たとえば研究室の机の上に積み重なっている資料や本を読まなければならないと焦っていたから悩んでいた、と分かれば、早速課題をやれば解決するでしょう...泣。)しかし、現実問題の悩みはより複雑で、悩みの原因を突き止めたからといって解消するとは限りません。


原因を探って結果をコントロールするのは意味のあることだが、それだけでは足りないらしい。では、何が足りないのか。端的に言えば、目的を考慮することが抜け落ちているのである。どの悩みや葛藤にも、原因があるだけでなく、目的というものがあるのだ (Jung, 1916a) 。...悩みや葛藤は、その状態の実現を目的として生じてきており、基本的にはこの目的が成就されるまで消失することはない。目的を明らかにして、実現を図ること。これが欠かせない。因果論のみならず目的論も念頭に置いておかないと、いかなる努力も小手先の目くらましに終わってしまう。 (p.16)


(あまり良い例ではないかもしれませんが、)不登校を例に考えましょう。ある子が不登校であるとき、その原因はおそらくあると思います。しかし、老松さんの上の論では、その「目的」を考えることが必要です。すなわち、今不登校である子は今後どのようになりたいか(なんのために今不登校の状態にいるのか)を問い続けて解決することで、彼(女)の本当の「悩みの解消」になると言えるでしょう。私の友人が言っていたのですが、不登校もいじめなどを原因とした<低迷期>としてのみならず、これからの成長のための<さなぎ>として受け止めることができるかもしれません。


仮に不登校の生徒に、「君が不登校になった原因には、AとB,Cの3つがある」と、いかに体系立てて説明したところで、その子が納得するかどうかは疑わしいです。むしろ、その子がこれからどうしたいのか、という点に焦点を当てることが必要なのでしょう。


このような「目的」という点は、本人ですら意識できていないかもしれません。しかし、無意識の段階ではそのようなことは感じ取れているのかもしれません。次に、意識と無意識についてみてみましょう。



■ 無意識との対話の重要性


私たちは大人になるにつれて、意識を使うことが求められます。たとえば英語授業を行うときも、はっきりとした目的をもってアクティビティを設計するでしょうし、英文法の説明もおそらく意図をもって例文を選ぶでしょう。ところが、意識にあまり過信してしまうのも考え物かもしれません。意識は完全なものではなく、意識できないこと(盲点)が存在することを、老松氏は以下のように説明します。

なぜ意識に盲点が生じてしまうのか。それは、意識がいっさいを二項対立に基づいて意識しようとするためである。つまり、意識はあらゆるものごとを、白か黒か、善か悪か、美か醜か、高か低か、熱か冷か、といった対立しあう属性の一方を持つものとして分類し把握しようとしている。そうやって割り切ってしまえば、世界はずっと理解しやすくなる。(p.65)


割り切りが得意な意識を補償する役割を担うのが無意識です。つまり、意識と無意識を足してはじめて心の完全形となります。


ということなので、意識は意識にしかできないことが、無意識には無意識にしかできないことがあるわけで、無意識からのメッセージにも耳を傾ける必要があります。そのメッセージというのが「夢」であり「モバイル・イマジネーション(次項参照)」にあたります。


ここまでをまとめると、「意識は無意識から学べ!」ということになるかと思います。(ざっくりしたまとめで申し訳ございません。)


※ここから少しマニアックになるので、興味のない方は次の項へお進みください※

さらに無意識は、個人的無意識と集合的無意識に分けられます。

ユングは無意識を層に分けて考え、個人的無意識 (personal unconscious) と普遍的無意識 (collective unconscious) とに区別する。 (河合, p.89)

個人的無意識は、

意識内容が強度を失って忘れられたか、あるいは意識がそれを回避した(抑圧した)内容、および、第二に意識に達するほどの強さをもっていないが、何らかの方法で心のうちに残された感覚的な痕跡の内容から成り立っている (河合, p.94)

のに対し、普遍的無意識は、

表象可能性の遺産として、個人的ではなく、人類に、むしろ動物にさえ普遍的なもので、個人の心の真の基礎 (河合, p.94)

です。普遍的無意識は神話に現れるといいます。たとえば、ギリシア語が読めない人の妄想の内容にギリシア神話と共通する要素がみられることにユングは注目しました。ギリシア語が読めなければ神話も読めないはずなのに、なぜギリシア神話の内容と共通する妄想が出たのか。この問いに対して、ユングは普遍的な無意識の層の仮定という形で答えを出しました。

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ここまでの意識・個人的無意識・普遍的無意識を図に表すと以下のように描けると思います。(探求読書会で知ったものを少し改変しました。情報提供のK君、ありがとう!)



この図の「セルフ」という部分は、「心の最深部にあって、あらゆる対立と無縁なあり方をしている。あるいは逆に、あらゆる対立を包摂していると言ってもよい。」 (p.70)



■ モバイル・イマジネーション

さて、ようやく本書のメインテーマであるモバイル・イマジネーションに入ります。(いつもながら導入が長いw)


モバイル・イマジネーションは、無意識からのメッセージを受け取るための手段の一つで、気軽に試すことができるのが魅力である。


イマジネーションは、意識と無意識が交信するための有効な手段である。意識にも無意識にも自律性があり、いずれも独自の意思を持っているが、ふだんは連絡があまり円滑でない。...イマジネーションは、まさに内的なコミュニケーションのツールと呼ぶにふさわしい。 (p.32)

つまり、先ほどの図の赤い矢印の部分に相当するわけですが、このメッセージを受け取るのも意識の裁量にゆだねられます。意識内では私たちは言語による思考を行うことが可能ですが、無意識は言語を用いずに「イメージ」でメッセージを伝えるので、意識側がそれを受け止める準備がないと、無意識からのメッセージを読むことができなくなってしまいます。


簡単な手順を示すと、リラックスした状況で物語を作り、その登場人物に自分を重ねた上でストーリーが進むのを見守る、といった形になります。このときストーリーはできるだけ無意識が進めます(ので、意識的にストーリーを操作しないように注意する必要があります)。その無意識が作り出すストーリーを、後に意識的に省察(あるいは記述、スケッチ)をし、今無意識はどのようなメッセージを自分に送ろうとしているのかを解釈します。それによって、意識では感じ取れなかった部分を無意識が教えてくれる可能性が十分にあります。



(自分の書き方では、あたかもスピリチュアルなものにみえてしまうかもしれません。しかし本書ではわかりやすく、なおかつユング心理学の理論背景と共に理解できるので、実践をしてみたい方は必ず本書を参照していただきたいと思います。)


モバイル・イマジネーション自体は非常に分かりやすい手法ではありますが、老松氏が再三に渡って強調するのは、手っ取り早い手法にはそれだけの限界があるということです (p.28) 。仮にモバイル・イマジネーションを行うとしても、長期的に(数週間)続ければ無意識の変化にまで目を向けることが可能となり、より多くのメッセージを得ることができるかもしれません。


モバイル・イマジネーションは癒しや救いをもたらしうる。ただし、その効果は一時的なものでしかない。短期間で得たものは短期間で失われるのが世の常である。外的なそれであれ内的なそれであれ、せっかく生じた変容も、あとのフォローがなければたいていは無に帰してしまう。 (p.110)

■ 動きの階梯

心というものはなかなかつかみどころのない存在ですが、それは無意識が意識でコントロールできる部分ではないからです。老松氏は無意識同様に、意識によってコントロールできない器官をあげます。それが身体です。身体も無意識同様に意識の統制を受けないため、身体が心を理解する助けになります。現に日本では座禅や瞑想といった形で心を和らげようとする営みはされてきましたし、ヨガを行うことで気持ちを静めたという型の話も聞いたことがありますw。そういった意味で、心と身体は「両輪」 (p.86) の関係にあるといえます。ユング派心理学では、これらの関係を「共時性」 (p.87) と説明しています。

共時性とは、二つの事象間の非因果的な連関の原理を意味する用語である。...あえてやや因果論的な理解の仕方をするとすれば、心と身体を、共通の幹から伸び出た二本の大枝というふうに考えてみるのがよいかもしれない。幹で何かが起きれば、それがどちらの大枝にも反映されるのだ、と。...心における事象と身体における事象に共時的なつながりがあるなら、身体の動きや感覚を手がかりにして心の様相を知ることができるはずである。あるいはその逆も言える。 (p.89)

ということで、「意識は身体から学べ!」と言える(笑)。

本書ではここで7つのチャクラ(Wikipedia 参照)について述べています。日常生活における身体は、外的な要因を多く受けているため、このチャクラの解釈はできませんが、モバイル・イマジネーション中の身体感覚の解釈へは応用可能です。



■ 最後に

いつもながら散漫したまとめ記事になってしまいましたが、改めて本書の魅力をまとめます。


・意識のみではなく、無意識や身体の声を聴く重要性を教えてくれる。
・ユング深層心理学が提唱するアクティブ・イマジネーションのような難しいものではなく、あくまで初心者が体験できるモバイル・イマジネーションを分かりやすく理解することができる。
・ユング心理学の超入門書として、理論背景をざっくり理解することができる。(ただし必要であれば、河合隼雄先生やユング先生自身の本も参照するべきでしょうが。)
・「ちのわくぐり」というモバイル・イマジネーションの実例を用いながら、解釈例を知ることができる(し、しかも作品自体面白い)。


大学院や学校現場などで疲弊しているとき、もしも時間が取れたらぜひ読んでみることをお勧めします。これから自分も、教採対策や合同研究などで忙しくなると思いますが、できるだけ身体や無意識の声を聞きのがさない様に、あるいは『モモ』でいうところの「灰色の男」たちによって自分が侵されないように気をつけたいと思います(笑) 。



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2014年5月17日土曜日

竹田 青嗣 (1989) 「現象学入門」まとめと、「主観―客観」に関する思考の整理

最近院生(と学部生1名)で、「現象学」の読書会を開催している。その第一回を今週開催したが、非常に面白い議論ができたと感じた。

また、昨日院生の友人と居酒屋に行ったのだが、途中から「教育学がいかに主観から抜け出せるか」という議論になった(次は「好きなジブリ」とかの類の、明るい話題をしたいと思うww)。そこでは人文出身の友人も多くいたので、そもそも教育学のような社会科学と人文の発想の違いのようなものを感じた (が、まだうまく言語化できないのでもどかしく感じている)。

せっかくなので、読書会で使用しているテクスト『現象学入門』 (竹田, 1989) の第1章まとめノートと共に、勉強会で議論されたことを簡単にまとめておきたい。


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現象学入門序説


ここでは、現象学がよく受ける誤解の2つをまとめる。

■現象学ヨーロッパの形而上学的「真理」を追究する学ではない。 (p.12)

・ヨーロッパでは従来<主観>と<客観>の一致こそが、形而上学的な「真理」であると考えられてきた。

・現象学の功績は、この「真理」がなぜ不可能なものであるかをはっきりさせた点にある。したがって、形而上学的「真理」を追究することはもともと目指していない。

cf) Russel, B. Problems of Philosophy (http://www.ditext.com/russell/russell.htmlより)
IS there any knowledge in the world which is so certain that no reasonable man could doubt it? (Chap. 1)
理性的な人ならば疑うことのない知識などこの世界に存在するか。

⇒この問いは実は答えるのは難しい。私たちが目の前にしている「机」も、見る角度から色や模様は異なるだろう。たとえば私が「これは茶色い机だ」と言っても、「いや、私には黄色だ」「あなたの茶色は私の茶色とは違う」と疑うことは実に容易い。
ラッセルはこの問いが西洋哲学認識論の重要な問いであったことを示しているが、まさにこれは<主観>と<客観>の一致を探究する型であると思える。


■ 現象学は独我論ではない。 (p.13)

・独我論 (solipsism) とは、「自身の精神のみが確かに存在しているという哲学的考え」「自身の外にある知識はすべて不確かとする認識論的考え」 である。

・現象学も<私>の場面から考えており、「独我論の立場を“出発点” (p.13) 」としているため、独我論と誤解されることもある。

・しかし、フッサールはこれを強く否定する。フッサールによれば、<主観/客観>図式の謎を解くには戦略的に独我論から始めるしかないと述べている。つまり、出発点が独我論であっても、現象学は最終的には独我論的な枠組みを飛び出している。



第1章 現象学の基本問題


■ 「志向性」

まずは以下の自己言及的な定義から導入されている。
「意識は必ずなにものかについての意識である」 (p.17)

cf) ブレンターノ: 記述心理学
われわれは音を、聞くという作用の第一の客体、聞くという作用自体を、聞くという作用の第二の客体と呼ぶことができる。というのは、時間的には両者は同時に登場するが、事象の本性からすれば音が第一のものだからである。聞くという作用の表象なしの音の表象は少なくとも最初から考えられないということはない。それに対して、音の表象なしの聞くという作用の表象は明らかな矛盾である。 (Psychologie aus dem empirischen Standpunkt, Bd.1, Hamburg, 1973, S. 180)

⇒ここで、「音」は意識対象 (ノエマ) であり、「聞く」は意識自体 (ノエシス) である。




■ 「実験心理学」と「記述心理学」(p.16)

実験心理学は、 仮説と実験を重ねて、経験則から一定のモデルを引き出すという近代科学のセオリーにほぼのっとったものであるのに対し、記述心理学:、意識の内部近くをよく反省、観察し、これをそのまま記述していく立場である。

⇒英語教育にも、実験心理学的な研究と記述心理学的な研究があるだろう。これらは両輪のようなもので、英語教育学に限定すればどちらも必要なのかもしれない。


⇒昨日の飲み会で「いかにして主観を乗り越えられるか」という話になった。(こだわりの強い院生同士で飲むとこのような話になるのか、と思った。)たとえば翻訳における言語意識に関して論文を書いたとしても、結局は主観の域から完全に抜け出すことはできない(テクスト選定や文献選択、実験方法など全て主観で選んでいるため、「これらは恣意的では?」というツッコミは入れ放題であろう)。最近大学院の授業で考えたが、そもそも「厳密な意味での客観」というのは到達不可能な目標 (toward the goal) なのかもしれない。むしろ日常慣用の意味での "ルースな意味での客観" を目指し、すなわち10人相手で6~7人に納得させる、くらい到達可能な目標としての「客観」 (to the goal) を目指し続けることが妥当なのかもしれない。これは、多様性を大前提とする教室空間での営みである教育を説明するためには、ある程度必要で妥当な考えではなかろうか。




(注)居酒屋でこのような話をしていて店員から白い目で見られなかったか、という点は触れないで次の「主観と客観の一致」へいきたい(店員さん、入院中なので許してください)。




■ 主観と客観の一致

・わたしたちは目の前の石ころを正しく見ることができない。

<認識としての石ころ>と<対象としての石ころ>が同じものだという保証は、いったいどこにあるのか。 (p.18)

・私たちは自分の意識を内省的に疑うことも可能だが、その疑い自体を疑い、…と繰り返すと、いつまでも真理にたどりつけない。

・近代の科学の発展は、仮説 (主観) をいかに実験による確証 (客観) によって示せるかという方法論であった。これは、中世以前の神学的な教義と異なる。


■ カントの貢献

・石ころを<正しく>認識できるかどうかわからないのに、ましてや世界とか神といった問題を解決するのはより難しい。にもかかわらず、当時はこれらの問題に客観的な答えを与えることが実証主義にかかわる大問題 (形而上学) だった。

・つまり、当時は自然科学の手法を用いて、形而上学に取り組もうとしていた。

・しかしカントは、形而上学が理性の能力を超えたものであるため、実証主義が形而上学を扱うべきではなく、形而上学は認識論の問題であると述べた。 (コペルニクス的転回)

・カントはそれまで混沌としていた議論を整理したが、十分な答えを与えたわけではない。次項以降参照。



■ デカルト

・デカルトは神の存在を証明しながら、人間の理性は現実を「ありのまま」に受け取っているとひとびとが保証できるように示した。 (p.26)

⇒近代哲学で、説明できない部分は「神」として片付けられている印象を受けた。これは、フロイトが無意識をどうしても表したくて "Es" (それ) としか名づけようがなかった、というのと似ているかもしれない。当時の哲学でも、「なんとか説明したいがどうにも説明できない部分」を神としていたのかもしれない。

つまり、デカルトにおいては、<主観>と<客観>のあいだを架橋するのは<神>にほかならない。これは逆に言えば、<神>の存在をもち出さなければ、<主観>と<客観>の「一致」を確証することは原理的に不可能だということを、彼も認めていたことを示している。 (p.27)

・神から与えられる観念には誤りがないため、主客と客観は一致している。だから正しい認識のための規則を求め、それに基づいて考えることで<真理>にたどりつけるとした。


■ カント

・カントは人間の理性が客観それ自体を完全に認識できないと論じた。

「物自体 (Ding an sich) 」: 物の本質、物の全体 (人の認識は制限されている。人に認識できない部分は可想界と呼ばれている。)

・たしかにわれわれ人間は可想界 (本質、道徳、美、善など) を認識することができなくても、それらを意志することはできる。

⇒たとえば、美とは何かという問いの答えをサッと言うことはできない。しかし、「私は美はこうあるべきと思う」と個人の意見を言ったり、「こういう美を目指したい」という志向をしたりはできる。

■ ヘーゲル

・カントの「認識」は、まるで道具であり、生長 (高度化) しないものととらえている。

・しかし、人の「認識」は生長するものではないか。

⇒たとえば、ある曲を聴くとき、音楽素人でロックとかジャズが何かわからない自分が聞いてもわけがわからないだろう。しかし、音大生にレクチャーしてもらった後で聞けば、少しは聴き方が変わっているだろう。この「変化」をカントの認識論では説明できないとした。

⇒あるいはこうもいえるかもしれない。たとえば、私は美術館が好きではない。美術館に行ってもあまりじっくり観ることなく、館内のカフェでコーヒーを飲みながら友人を待つということがほとんどである。そこではあまり「感性」から認識をしていないのかもしれない。ところが、あるときフェルメールの「静けさ」に関する理論を知ったり、芸術論で多くの説明をできると知れば、おそらく絵の見方も大きく変わり、認識可能な部分が増大するといえないか。これも「感性」が「理性」によって生長したといえるだろうか。


ヘーゲルも上と同様、認識が「変化」「生長」するものとして見なしていた。

人間の認識は、決まり切った「道具」ではなく、それ自体が生き物のように生長 (高度化) していく性質をもっている。認識の能力は徐々に“高まって”いくのだ。その極限に<神>の持つような「完璧」な認識があると想定すればいい。すると、<主観/客観>の難問は解ける。そうヘーゲルは言うのだ。 (p.30)

⇒つまり、私たちが今、<主観>と<客観>が一致しないのは、私たちの認識が発展途上であるからということ。もっと発展・成長をすれば(仙人みたいに極めたら?)、完全に物自体全てを認識できるようになる。

・ヘーゲルの考え方は肯定的評価を受けた。人が考えたり認識したりすることの意味があることがわかったからだ。

・その一方で大きな反発を招いた。「完全な知」にいきついてしまえば、「決定論」にいきついてしまうかもしれないからだ。

・ここまでくると、<主観/客観>図式自体が怪しいものであることに気づく。

すなわち、<主観/客観>という前提から出発するかぎり、わたしたちは、論理的には必ず極端な「決定論」か、それとも極端な「相対論」、「懐疑主義」、「不可知論」かのどちらかにいきつくことになるのである。 (p.31)

■ ニーチェ

・主観/客観という図式を排した。

・かわりにカオス (混沌) とその解釈という二項を提示する。

⇒ウィトゲンシュタインや野矢茂樹氏は「アスペクト的」という言葉でこれを説明するかもしれない。あるコップ1杯の水も、喉が渇いた人にとっては飲み水に見えるが、ガーデニング中の人にとっては「花にやる水」として映る。現実世界はカオスであるが、それをどのように解釈するかは、その人によって当然異なるだろう。

・現実客観は存在せず、私たちの認識は現実をどう解釈するかにすぎないとした。

・認識は「力」に奉仕する。 (p.32)

⇒強いもののいうことは通る。弱いのものの意見は通らない。強いものの言うことは、次第に他の人たちへ影響を与える。すると、市民はパラダイム・イデオロギーとなった価値観によってものごとを見るようになり、それが認識となる。これは私たちの直観に非常に近い。研究者が論文を多く執筆する必要があるのも、この「力」を得るためなのかもしれない。

・しかし、この認識論は、「共通認識」を説明することはできなかった。

⇒これら4人の哲学者のそれぞれの反省点を見つけながら、フッサールの議論(第二章~)へと入っていくことになる。

2014年4月28日月曜日

Sen und Ohngesicht 


ゴールデンウィーク前で何となくうきうきしている、mochi です。


今回の記事は、「千と千尋の神隠し」 "Miyazaki's Spirited Away"(英語版) 、そして Chihiros Reise ins Zauberland (ドイツ語版)を用いて、千 (千尋) とカオナシ (Ohngesicht)についてまとめてみました。


千と千尋の神隠し(ドイツ語版) Chihiros Reise ins Zauberland
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というのも、この作品の中で、個人的に顔なしというキャラクターが最も好きだからかもしれません。

千と千尋の神隠し(Wikipedia 参照) 


カオナシが劇中で他のキャラクターとコミュニケーションを取るシーンは非常に少ないです。おそらく以下に列挙したものが全てでしょう。(★の場面は、後ほど翻訳を比べてみてみます。)


・雨の中顔なしが油屋の庭にいると、千が窓をあけてくれる
・千が新しいお湯の札が欲しくて困っていると、顔なしが渡してくれる
・もっと欲しいだろうと思って札を持っていくが、千に拒否される。
・夜に青蛙が金を欲しがるのであげる。その後、青蛙を食べる。
・油屋の人たちに金を出してあげる。
・千に金を出すが、またもや拒否される。
・男と女を1人ずつ丸呑みしてしまう。
・座敷で飲み食いする。湯婆に「千をくれ!」と言い続ける。
★千に迫るが、またもや拒否される。
★千が苦団子を食べさせて、3人とも吐き出す
・千と一緒に銭婆のところへいく。
・銭婆に編み物の作り方を教えてもらう。
・銭婆のもとでお手伝いをすることになる。


多いように見えますが、作中であれだけインパクトを放っている割には、他者とのコミュニケーションが少ない気がしないでもありません。


上を見渡すと、彼にとってのほとんどのコミュニケーション原理が「欲望を満たす/満たされる」であることに気づきます。例えば、金を出してあげる、お湯の札を欲しい、というように、彼のコミュニケーションは常に相手の欲望によって成り立ちます。
したがって、彼がコミュニケーションを取れない相手は、欲望を出さない人物、つまり千と銭婆だけです。ここまでは大学の講義で聞いた話の受け入りですが....


こう言ってしまうと、カオナシはコミュニケーションを取れない存在、とか、どうしても彼の「異質性」が前景化してしまいますが、結構こういう人は周りにもいるような気がします。相手の顔色を伺ったり、お金で解決したり(笑)

そんな顔なしが水につかった線路をとぼとぼ歩いて、電車が来るときの波に押されて倒れてしまうシーンがあるのですが、顔なしが一気にかわいそうに見えて印象が変わります。もしかしたらこの作品の中で一番好きなシーンかもしれません。

そんなこんなで、カオナシというキャラクターは個人的に気に入っています。


以下では、文化翻訳の観点から、日本語原作の「千と千尋」が、英語やドイツ語ではどのように翻訳されたかを概観したいと思います。特に顔なしと千のコミュニケーションに焦点を当てています。


■ 千と顔なしの対峙シーン(★)

先ほどのシーンをほんの一部、ご紹介します。まずは、このシーンの日本語版から。

カ:これ食うか?うまいぞ。金を出そうか?千の他には出してやらないことにしたんだ。こっちへおいで。千は何が欲しいんだ。いってごらん。
千:あなたはどこから来たの?私すぐ行かなきゃならないところがあるの。あなたは来たところへ帰ったほうが良いよ。私が欲しいものはあなたには絶対出せない。おうちはどこなの。お父さんやお母さんいるんでしょ。
カ:いやだ、いやだ。さみしい、さみしい。
千:おうちが分からないの。
カ:千欲しい。千欲しい。


では、英語版。

カ:Try this. It’s delicious. Want some gold? I ‘m not giving it to anybody else. Of course Sen. What would you like? Just make it.
千:I would like to leave sir. I’ve some place I need to go to right away, please.You should go back to where you come from. Yubaba doesn’t want you in this Bathhouse any longer. Where is your home? Don’t you have any friends or family?
カ:No. No. I’m lonely. I’m lonely.
千:What is it that you want?
カ:I want Sen. I want Sen. 


最後に、ドイツ語版。

カ:Probier mal! Lecker! Willst du Gold? Außer dir kriegt keiner mehr was.
Nur nicht so schüchtern. Was willst du haben? Sag`s mir.
千:Wo kommen Sie her? Es gibt einen Ort, wo ich unbedingt hin muss. Sis sollten besser nach Hause gehen. Das, was ich mir über alles wünsche, können Sie mir sowieso nicht geben. Wo ist denn Ihre Familie? Haben Sie keine Mama und keine Papa?
カ:Nein! Nein! Ich bin allein. Gany allein.
千:Sie müssen doch irgendjemanden haben.
カ:Ich will Sen! Ich will Sen! Ich will Sen!


これらを見比べると、いくつか面白い点が見えてきます。

① 「私が欲しいものはあなたには絶対出せない」という日本語は、英語版では訳されていないがドイツ語版では訳出されている。。

ドイツ語は Das, was ich mir über alles wünsche, können Sie mir sowieso nicht geben. (That, which I want at all, you cannot give me in anyhow.) という訳で、上の日本語と非常に似ているように感じました。それに対して英語では、この意味に値する表現は出さずに、代わりに Yubaba doesn’t want you in this Bathhouse any longer. (湯婆はあなたにここにいて欲しくないの)という表現を付加しています。
英語版は作品全体を通して、付加が多かったように思えます。沈黙を消すためか、原作にない台詞も多く入れられていますので、興味のある方はぜひご覧ください。


② 「おうちが分からないの?」は、英語版もドイツ語版も別の言い方をしている。

英語版は、 "What is it that you want?"(あなたが欲しいものは何なの。) という表現で代えており、ドイツ語版は、 "Sie  müssen doch irgendjemanden haben."( でもあなたにも誰かいるはずよ。) とされています。両方とも「あなたはどこから来たの」に値する台詞は、前半に千が言っているので、重複を避けて変えたのではないかと自分は考えました。(本当のところは分かりませんが、このように翻訳者の意図を考えてみるのも面白いですね^^)



③ 日本語は「~したほうがいいよ」と少し親しい口調を用いている(ように感じた)が、英語版は "... please, sir" などかなり丁寧な言葉遣いをしている。ドイツ語版も相手を "Sie" という遠称を用いている。

最後は、千とカオナシの人間関係についてです。

カオナシと千は、最初は客-油屋のスタッフという関係ですが、次第に狙う人-狙われる人、助けられる人-助ける人というように、人間関係が変わっていくので、それに応じて彼女らの使う言語も変わっていきます。この場面では、客-スタッフという関係を持ちつつ。狙う人-狙われる人、という緊張関係もあるため、訳版では丁寧な言葉づかいが用いられています。

しかし、原作では千は凛とした態度で、相手を諭しているような印象を受けました。この違いは、翻訳者の意図なのでしょうか。あるいは意図せずに出てしまったのでしょうか。

ともかく、並べてみると面白いので、興味のある方は、ぜひDVDをご覧ください。


■ du と Sie の移り変わり


③との関連で、最後に1つ面白いと思った話を述べておきます。

ドイツ語では、2人称の表現 (英語で言う you ) に du (親称) と Sie (敬称) の二通りがあります。


ドイツ語文法(ウィキペディア)「親称・敬称」参照。


たとえば、千はハクと初めて出会ったときからずっと、du (親称) を用います。(Ich kann dich berühen.: あなたに触れるわ、など。)これは、両者とも年が近く、15歳未満であるために、最初から du を用いるのが自然なためでしょう。(そう思うと、日本語にはこのような使い分けがはっきりとは現れないのに、ドイツ語翻訳は「親称・敬称」の区別もしなければならないとは, 翻訳家さんも大変ですね...。)


それに対して、千が大人と話すときは、たいてい Sie を用いて話しています。子どもから大人は基本的には Sie を使うそうです。


さて、今回のテーマである、Sen と Ohngesicht はどうだったのでしょうか。実は、最初千はカオナシのことを Sie と呼んでいたのですが、ある瞬間から du になります。



それでは、千がカオナシに対して発した言葉の中で、二人称主語のものを全て取り上げてみました。
1つずつみていきましょう。(日本語は拙訳。)

(1)千が戸を開けると、雨に打たれて濡れた顔なしが立っている。 
あの、ずぶ濡れじゃないですか?
Verzeihung, aber werden Sie nicht ganz nass?


(2)川の神様をお迎えした次の日に会う。 
本当にありがとうございました。助けてくれて。
Vielen Dank für Ihre Hilfe im Bad!

※ ちなみに、 Ihre は Sie の活用形です。(所有格)

(3) (2) の直後 
失礼します。
Entschuldigen Sie mich!

★シーン(全て Sie でしたね。上を参照。)

(4) 銭婆のところへ電車でいく。振り返ると顔なしが立っている。 
え?ああ。一緒に行きたいの?
Wie? Ach so! Möchtest du auch mitfahren?

(5) 電車に入って座ると、顔なしがどうしたらよいか分からず立っている。 
座って。でもおとなしくしててね。
Setz dich, Aber benimm dich anständig, ja?


ということで、千がカオナシに対して Sie から du を使うようになるのは、カオナシが油屋から出て、全て吐き出した後におとなしくなって一緒に電車に乗ろうとするときだったわけです。


日本語だったらこういう SIe と du の関係は、敬語とかに現れるのでしょうか。まだドイツ語はアマチュアなので分かりませんが、日本語版の作品を解釈してドイツ語独特の言語体系で表現するというのは、さぞ大変なのだろうと垣間見ることができました。


一応翻訳学の勉強、というつもりで千と千尋を何回も巻き戻してみましたが、やっぱり良い映画ですね~。楽しい日曜日を過ごすことが出来ました。笑


さて、課題をやらねば。(泣)

2014年4月21日月曜日

言語教育における「他者」

学部と院は同じ建物・敷地にあるかもしれませんが、まったく異なった世界であるとやっと気づいた mochi です。

以下は、先週に行った読書会で発表した「他者」に関する資料です。読みづらい文章で大変恐縮ですが、よろしければご覧ください。


1. はじめに:自分の関心は「他者」である。

 小学校の頃から学校の先生になるのが夢だった。人に説明してわかってもらった時が嬉しかったからか、黒板にすらすら字を書く先生に憧れていたからか、あるいは楽しい授業に参加するのが好きでそんな授業をしてみたかったからなのか、決め手となった理由は覚えていない。中学の英語の先生の説明がとても上手だった。彼のような先生になりたいと思って、文法や長文読解の勉強に力を注いだ。

 いざ大学の教育学部に入ったとき、求められる教師像と自分の教師像のずれを感じた。今日では「学ばせる教師」 (teacher as a facilitator) が求められており、英語教育界にも「どう教えるか」 (英語教育方法学) のみならず、「どう学ぶか」 (第二言語習得論) という分野が脚光を浴びていた。私の理想では学習者要因は除かれた授業設計を極めることだったために面食らったことを覚えている。

 教師像のずれを感じたとき学習者の「異質」性をはっきり感じた。ボランティアや塾のバイトをしていると、自分が当たり前のようにできた be 動詞や一般動詞の区別がいつまでたってもできない子に会うこともある。自分にとって当たり前であることが当たり前でない相手にどう教えればよいのか。しかも「教え込み」だけでなく「学ばせる」ことを主眼にして。ここから、自分の「他者」に対する関心は始まったと思う。また、非常に主観的だが、今日は「他者」を直面することが減っていて他者性を意識する機会がないことも問題意識を持っている。

 最後にもう1つ。本論では西洋哲学のウィトゲンシュタインの「他者」観を援用するが、その理由は自分がウィトゲンシュタイン以外の他者論に疎いからである。ウィトゲンシュタインは学部3年の頃に『哲学探究』の読書会に参加し、彼の言語教育を用いた思想の展開が圧巻だったのを学部生ながらに感じた。つまりウィトゲンシュタイン論を使う必然性はないが、その意義はあると思っている。


2. (言語) 教育における「他者」は、規則を共有しない相手である。

 まずは「他者」とはなにかをぜひ考えていただきたい。

 以下では、言語哲学から柄谷氏のウィトゲンシュタイン論を援用して、「他者」の定義および「他者」の理解可能性について検討したい。また、導入として、演劇論の平田オリザ氏の論考を一部取り入れた。

2.1. 平田の論考―会話と対話

 まずは、上の用語の区別から導入したい。平田 (1998) は、日本語では「会話」と「対話」という言葉が曖昧に使用されていると指摘した上で、以下のように両者を区別した。

「対話」 (dialogue) とは、他人と交わす新たな情報交換や交流のことである。他人といっても、必ずしも初対面である必要はない。お互いに相手のことをよく知らない、未知の人物という程度の意味である。
一方、「会話」 (conversation) とは、すでに知り合っている者同士の楽しいお喋りのことである。家族、職場、学校での、いわゆる「日常会話」がこれにあたる。
なぜ、近代演劇において、対話がもっとも重要な要素となるのだろうか。
ここまで読んできた読者には、すでに答えはお判りだろう。場所を決定する際に説明した通り、日常会話のお喋りには、他者 (観客) にとって有益な情報はほとんど含まれていない。家族内の会話だけでは、お父さんの職業さえ観客に伝わらない。 (平田, 1998, pp.121-122)

たとえば演劇の場として家の中を設定しても、登場人物が家族のみかお客さんがいるかによって、話される内容は大きく変わる。もしも家族のみであれば、お互いが知り合っている者同士という関係の「会話」が展開されるため、「お父さん、今日どうだった」「今日は1000だよ」「うわー、大変だね」でも成り立つ。しかしこれを読んでいる私たちには全く意味がわからない。それに対して、その家にお客さんが来ていたらどうだろうか。「お仕事は何をされていますか」「銀行で働いていまして、今日は1000人もお客さんがいらっしゃって、本当に大変だったんです」という「対話」になり、私たちにもわかり易くなる。


2.2. 柄谷 の論考-他者とはなにか

2.2.1. 言語ゲームを共有しない相手としての他者

 柄谷 (1992) は、対話を「言語ゲームを共有しない者との間にのみ起きる」と説明した。言語ゲームとは、ウィトゲンシュタインが言語使用について述べるために用いた言葉で、後期ウィトゲンシュタインの中核をなす概念ともいえる。

7. 第2節の言語を実際に使用する場合、一方が語を叫び、もう一方がそれに従って行動を起こす。だが、その言語の教育においては、次のような過程も見出せるだろう。つまり、教える人が石を指したら、教わる人が対象の名を呼ぶ、すなわち、語を話す、という過程だ。いや、さらに単純な練習もある。教師が発した単語を生徒が復唱する、というものだ。 ―― どちらの例も言語使用に似た過程だ。またこう考えることもできる。第2節の言語使用の全過程は、子供たちが彼らの母語を習得するための手段とするゲームの一つである、と。このようなゲームを、私は「言語ゲーム (Sprachspiel) 」と名付けよう。そして時に、原初的な言語についても、言語ゲームとして語るだろう。
 すると、石の名を呼ぶ過程と、教師の後について復唱する過程を、ともに言語ゲームと呼ぶことができるだろう。わらべ歌における語の多くの使用についても考えよ。
 私はまた、言語と、言語が織り込まれる活動の全体を「言語ゲーム」と呼ぶ。
(ウィトゲンシュタイン, 1953)

ウィトゲンシュタインにとっての言語ゲームは、あくまで「言語と、言語が織り込まれる活動の全体」であり、そこには依頼、命令、質問、挨拶、翻訳、といった多くのゲームが含まれる。

 さて、先ほどの家族の例において、お客さんや観客という存在は「他人」という言葉で説明されていた。本論では「他人」と「他者」に区別を設けず、哲学論で主流な「他者」を用いてその概念を説明する。

 柄谷 (1992) は「他者」を「自分と言語ゲームを共有しない者との間のみにある」と説明する。すなわち、自分が生活経験の上で行ってきた言語ゲームと異なるゲームをしてきた相手が「他者」なのである。家族はほとんど日常生活を共にしていれば、同じ言語ゲームをしている時間が長く、彼らの言語ゲームの大部分は共有されているといえるかもしれない。それに対して、お客さんの存在は、家族が共有してきた言語ゲームを知らない人物であるため、家族が普段通り話していてもお客さんにはそのゲームに参加することはできない。

(ある小学校で流行っている「ずくだんずんぶんぐんゲーム」に転校生がすぐに入ることができないのも無理は無いだろう。)

2.2.2. 命がけの跳躍

 さらに柄谷 (ibid.) は共同体を「1つの言語ゲームが閉じる領域」と定義した。先ほどの例では、家族やある小学校が1つの単位となって、それぞれが行っているゲームが共有されており、逆に共同体から飛び出せば自分のゲームは通用しないこととなる。

 では仮に同じ共同体に属さない相手と対話をしなければならない状況では何が起きるか。上の劇の例のようにミスコミュニケーションが起きることは予想されるだろう。柄谷 (ibid.) は、異なる共同体に属する相手と対話をする際には「命がけの跳躍」が必要と論じ、経済行為においてあるものの価値が決まるのが<他者>の関係で決定することと同様、ことばの意味も規則によって決まっているのではなく言語ゲームが成り立つ範囲で意味が見出されることを説明した。

 また、教えるものと教えられるものの関係について、以下のように述べている。

「教える-学ぶ」という関係を、権力関係と混同してはならない。実際、われわれが命令するためには、そのことが教えられていなければならない。われわれは赤ん坊に対して支配者であるよりも、その奴隷である。つまり、「教える」立場は、ふつそう考えられているのとは逆に、けっして優位にあるのではない。むしろ、それは逆に、「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。 (柄谷, 1992, pp.8-9)

このように異なる共同体に属する「他者」になにか伝える際には、相手に「教える」立場でありつつも、相手に従属する弱い立場であることが指摘されている。この行為が命がけの跳躍であると考える。

2.3. ウィトゲンシュタインの論考-数列のパラドックス

→省略。ウィトゲンシュタイン『哲学探究』183節をご参照ください。


3. 教育界における「他者」観の重要性

3.1. 諏訪 (2005) 『オレ様化する子どもたち』の議論

ブログ記事をご覧ください。

3.2. 「他者」への意識を上げるにはどうしたら良いか

 ここまでの議論を振り返ると、以下の点が指摘できる。
 他者は異なる言語ゲームをしている。
 そのような他者に対して教えるといったコミュニケーションをするには、命がけの跳躍が必要である。
しかし、現在の子どもたちはオレ様化しているため、他者を「他者」として意識することができないのではないか。
したがって、どのようにすれば子どもたちが「他者」を意識することができるのかを考えたい。この点は未だ自分の課題となっている点であるため、思いつき程度で下にまとめる。

(1) 言語教育において他者と自分を「つなぐ」存在である言語を教える。
→たとえば音読もただのぶつぶつ読み段階から、相手に聞かせる音読 (朗読) の段階も経る必要があるかもしれない。

(2) 道徳教育で「他者」の理解し難さを実感させる。
→異文化コミュニケーションは必然的に理解し難い相手を想定するため、この点で貢献できるかもしれない。

(3) コミュニケーションする場面を多く取る。
→言語活動として「形」だけ相手を必要とする場面を取るのも重要だろうが、本当に相手が必要な活動を考える必要があるのかもしれない。たとえばジャンケンで負けた人が無理やり前に出されて行うスピーチのみならず、自分が本当に相手に知って欲しいことを伝えるスピーチなど。

4. 最後に:自己批判と今後の展望

 今後も教育における「他者」については関心を広げたいと思っている。そのための自己批判と今後の展望を示す。
 批判点として、他者概念の広さと理論援用の必要性を指摘する。まず、他者概念はとても広いもので、本稿で十分に理解したとはいえない(気がする)。より分析的に他者について考察する必要性を感じている。また、ウィトゲンシュタインや柄谷の理論枠組みを用いた必然性については十分示せなかった。
 (他の点の批判は最後の質疑応答のところでお願いします。)

 最後に今後の展望を述べる。今後は、ウィトゲンシュタイン以外の他者論を学んだ上で、「他者」について複眼的に考察を進めたい。具体的には、言語使用を他者との交流ととらえたバフチン、他者論で有名なレヴィナス、現象学的な他者論のフッサールとディルタイ、などを考えている。
 言語教育に携わる皆さんの「他者」観や、言語教育が「他者」性をはぐくむ具体的方策などについて議論できればありがたいです。

以上で終わりです。
読みづらく面白くない発表であったことは重々承知の上ですが、皆様からのご意見・ご批判をよろしくお願いします。

【参考文献】

ウィトゲンシュタイン. (1953). 『哲学探究』. (今回は以下のサイトより引用しました。も
し正しいものが必要な場合は、大修館書店の同名の書籍をご参照ください。
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
柄谷行人. (1992). 『探求 I 』. 講談社学術文庫.
諏訪哲司. (2005). 『オレ様化する子どもたち』. 中公新書ラクレ.
平田オリザ. (1998). 『演劇入門』. 講談社.
丸山恭司. (2000). 「教育において<他者>とは何か―ヘーゲルとウィトゲンシュタインの
対比から―」. 『教育学研究』.第67巻, 第1号. (2000).



最後に、友人からのコメントと、それに対する自分の所感を掲載しておきます。

・他者と自我はどちらから生まれるか、という問いに対して、「他者」が先にできてその後に自我ができるという考え方もあるのではないか。

→そのとおりだと思います。たとえば、とても感性が鋭い友人がいたとして、その子と一緒にいると「自分には感性はないな」と自己評価を下すかもしれません。その評価は、「他者」の存在によって生まれたものであるため、自我より他者が先に存在するということもあるでしょう。

・私は、他者を考える前に自分を考えるべきだと思う。自分は意識的な自我と無意識的な自己に分かれていて、自我が自己を把握する形で「わたし」が形成されると思う。また、自己は単一なものではなくコンプレックスであり、場面に応じて変化しうるものだと思う。

→話す相手によって自分の話し方が変わったり、自分の意見が変わったりすることを鑑みれば、唯一の自己が多様に映るというより、複数の自己が現出すると考えるのも面白いかもしれませんね!


・ディオゲノスの「自由」論が参考になるかもしれない。

→時間ができたら読んでみます!ありがとうございます!



目下のところ、バフチンの言語論(特に「対話」)をもっと知りたいと思いました。翻訳論でもたまに出てくる名前なので、今月~来月で勉強してみようと思います。




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