また、昨日院生の友人と居酒屋に行ったのだが、途中から「教育学がいかに主観から抜け出せるか」という議論になった(次は「好きなジブリ」とかの類の、明るい話題をしたいと思うww)。そこでは人文出身の友人も多くいたので、そもそも教育学のような社会科学と人文の発想の違いのようなものを感じた (が、まだうまく言語化できないのでもどかしく感じている)。
せっかくなので、読書会で使用しているテクスト『現象学入門』 (竹田, 1989) の第1章まとめノートと共に、勉強会で議論されたことを簡単にまとめておきたい。
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現象学入門序説
ここでは、現象学がよく受ける誤解の2つをまとめる。
■現象学ヨーロッパの形而上学的「真理」を追究する学ではない。 (p.12)
・ヨーロッパでは従来<主観>と<客観>の一致こそが、形而上学的な「真理」であると考えられてきた。
・現象学の功績は、この「真理」がなぜ不可能なものであるかをはっきりさせた点にある。したがって、形而上学的「真理」を追究することはもともと目指していない。
cf) Russel, B. Problems of Philosophy (http://www.ditext.com/russell/russell.htmlより)
IS there any knowledge in the world which is so certain that no reasonable man could doubt it? (Chap. 1)
理性的な人ならば疑うことのない知識などこの世界に存在するか。
⇒この問いは実は答えるのは難しい。私たちが目の前にしている「机」も、見る角度から色や模様は異なるだろう。たとえば私が「これは茶色い机だ」と言っても、「いや、私には黄色だ」「あなたの茶色は私の茶色とは違う」と疑うことは実に容易い。
ラッセルはこの問いが西洋哲学認識論の重要な問いであったことを示しているが、まさにこれは<主観>と<客観>の一致を探究する型であると思える。
■ 現象学は独我論ではない。 (p.13)
・独我論 (solipsism) とは、「自身の精神のみが確かに存在しているという哲学的考え」「自身の外にある知識はすべて不確かとする認識論的考え」 である。
・現象学も<私>の場面から考えており、「独我論の立場を“出発点” (p.13) 」としているため、独我論と誤解されることもある。
・しかし、フッサールはこれを強く否定する。フッサールによれば、<主観/客観>図式の謎を解くには戦略的に独我論から始めるしかないと述べている。つまり、出発点が独我論であっても、現象学は最終的には独我論的な枠組みを飛び出している。
第1章 現象学の基本問題
■ 「志向性」
まずは以下の自己言及的な定義から導入されている。
「意識は必ずなにものかについての意識である」 (p.17)
cf) ブレンターノ: 記述心理学
われわれは音を、聞くという作用の第一の客体、聞くという作用自体を、聞くという作用の第二の客体と呼ぶことができる。というのは、時間的には両者は同時に登場するが、事象の本性からすれば音が第一のものだからである。聞くという作用の表象なしの音の表象は少なくとも最初から考えられないということはない。それに対して、音の表象なしの聞くという作用の表象は明らかな矛盾である。 (Psychologie aus dem empirischen Standpunkt, Bd.1, Hamburg, 1973, S. 180)
⇒ここで、「音」は意識対象 (ノエマ) であり、「聞く」は意識自体 (ノエシス) である。
■ 「実験心理学」と「記述心理学」(p.16)
実験心理学は、 仮説と実験を重ねて、経験則から一定のモデルを引き出すという近代科学のセオリーにほぼのっとったものであるのに対し、記述心理学:、意識の内部近くをよく反省、観察し、これをそのまま記述していく立場である。
⇒英語教育にも、実験心理学的な研究と記述心理学的な研究があるだろう。これらは両輪のようなもので、英語教育学に限定すればどちらも必要なのかもしれない。
⇒昨日の飲み会で「いかにして主観を乗り越えられるか」という話になった。(こだわりの強い院生同士で飲むとこのような話になるのか、と思った。)たとえば翻訳における言語意識に関して論文を書いたとしても、結局は主観の域から完全に抜け出すことはできない(テクスト選定や文献選択、実験方法など全て主観で選んでいるため、「これらは恣意的では?」というツッコミは入れ放題であろう)。最近大学院の授業で考えたが、そもそも「厳密な意味での客観」というのは到達不可能な目標 (toward the goal) なのかもしれない。むしろ日常慣用の意味での "ルースな意味での客観" を目指し、すなわち10人相手で6~7人に納得させる、くらい到達可能な目標としての「客観」 (to the goal) を目指し続けることが妥当なのかもしれない。これは、多様性を大前提とする教室空間での営みである教育を説明するためには、ある程度必要で妥当な考えではなかろうか。
(注)居酒屋でこのような話をしていて店員から白い目で見られなかったか、という点は触れないで次の「主観と客観の一致」へいきたい(店員さん、入院中なので許してください)。
■ 主観と客観の一致
・わたしたちは目の前の石ころを正しく見ることができない。
<認識としての石ころ>と<対象としての石ころ>が同じものだという保証は、いったいどこにあるのか。 (p.18)
・私たちは自分の意識を内省的に疑うことも可能だが、その疑い自体を疑い、…と繰り返すと、いつまでも真理にたどりつけない。
・近代の科学の発展は、仮説 (主観) をいかに実験による確証 (客観) によって示せるかという方法論であった。これは、中世以前の神学的な教義と異なる。
■ カントの貢献
・石ころを<正しく>認識できるかどうかわからないのに、ましてや世界とか神といった問題を解決するのはより難しい。にもかかわらず、当時はこれらの問題に客観的な答えを与えることが実証主義にかかわる大問題 (形而上学) だった。
・つまり、当時は自然科学の手法を用いて、形而上学に取り組もうとしていた。
・しかしカントは、形而上学が理性の能力を超えたものであるため、実証主義が形而上学を扱うべきではなく、形而上学は認識論の問題であると述べた。 (コペルニクス的転回)
・カントはそれまで混沌としていた議論を整理したが、十分な答えを与えたわけではない。次項以降参照。
■ デカルト
・デカルトは神の存在を証明しながら、人間の理性は現実を「ありのまま」に受け取っているとひとびとが保証できるように示した。 (p.26)
⇒近代哲学で、説明できない部分は「神」として片付けられている印象を受けた。これは、フロイトが無意識をどうしても表したくて "Es" (それ) としか名づけようがなかった、というのと似ているかもしれない。当時の哲学でも、「なんとか説明したいがどうにも説明できない部分」を神としていたのかもしれない。
つまり、デカルトにおいては、<主観>と<客観>のあいだを架橋するのは<神>にほかならない。これは逆に言えば、<神>の存在をもち出さなければ、<主観>と<客観>の「一致」を確証することは原理的に不可能だということを、彼も認めていたことを示している。 (p.27)
・神から与えられる観念には誤りがないため、主客と客観は一致している。だから正しい認識のための規則を求め、それに基づいて考えることで<真理>にたどりつけるとした。
■ カント
・カントは人間の理性が客観それ自体を完全に認識できないと論じた。
「物自体 (Ding an sich) 」: 物の本質、物の全体 (人の認識は制限されている。人に認識できない部分は可想界と呼ばれている。)
・たしかにわれわれ人間は可想界 (本質、道徳、美、善など) を認識することができなくても、それらを意志することはできる。
⇒たとえば、美とは何かという問いの答えをサッと言うことはできない。しかし、「私は美はこうあるべきと思う」と個人の意見を言ったり、「こういう美を目指したい」という志向をしたりはできる。
■ ヘーゲル
・カントの「認識」は、まるで道具であり、生長 (高度化) しないものととらえている。
・しかし、人の「認識」は生長するものではないか。
⇒たとえば、ある曲を聴くとき、音楽素人でロックとかジャズが何かわからない自分が聞いてもわけがわからないだろう。しかし、音大生にレクチャーしてもらった後で聞けば、少しは聴き方が変わっているだろう。この「変化」をカントの認識論では説明できないとした。
⇒あるいはこうもいえるかもしれない。たとえば、私は美術館が好きではない。美術館に行ってもあまりじっくり観ることなく、館内のカフェでコーヒーを飲みながら友人を待つということがほとんどである。そこではあまり「感性」から認識をしていないのかもしれない。ところが、あるときフェルメールの「静けさ」に関する理論を知ったり、芸術論で多くの説明をできると知れば、おそらく絵の見方も大きく変わり、認識可能な部分が増大するといえないか。これも「感性」が「理性」によって生長したといえるだろうか。
ヘーゲルも上と同様、認識が「変化」「生長」するものとして見なしていた。
人間の認識は、決まり切った「道具」ではなく、それ自体が生き物のように生長 (高度化) していく性質をもっている。認識の能力は徐々に“高まって”いくのだ。その極限に<神>の持つような「完璧」な認識があると想定すればいい。すると、<主観/客観>の難問は解ける。そうヘーゲルは言うのだ。 (p.30)
⇒つまり、私たちが今、<主観>と<客観>が一致しないのは、私たちの認識が発展途上であるからということ。もっと発展・成長をすれば(仙人みたいに極めたら?)、完全に物自体全てを認識できるようになる。
・ヘーゲルの考え方は肯定的評価を受けた。人が考えたり認識したりすることの意味があることがわかったからだ。
・その一方で大きな反発を招いた。「完全な知」にいきついてしまえば、「決定論」にいきついてしまうかもしれないからだ。
・ここまでくると、<主観/客観>図式自体が怪しいものであることに気づく。
すなわち、<主観/客観>という前提から出発するかぎり、わたしたちは、論理的には必ず極端な「決定論」か、それとも極端な「相対論」、「懐疑主義」、「不可知論」かのどちらかにいきつくことになるのである。 (p.31)
■ ニーチェ
・主観/客観という図式を排した。
・かわりにカオス (混沌) とその解釈という二項を提示する。
⇒ウィトゲンシュタインや野矢茂樹氏は「アスペクト的」という言葉でこれを説明するかもしれない。あるコップ1杯の水も、喉が渇いた人にとっては飲み水に見えるが、ガーデニング中の人にとっては「花にやる水」として映る。現実世界はカオスであるが、それをどのように解釈するかは、その人によって当然異なるだろう。
・現実客観は存在せず、私たちの認識は現実をどう解釈するかにすぎないとした。
・認識は「力」に奉仕する。 (p.32)
⇒強いもののいうことは通る。弱いのものの意見は通らない。強いものの言うことは、次第に他の人たちへ影響を与える。すると、市民はパラダイム・イデオロギーとなった価値観によってものごとを見るようになり、それが認識となる。これは私たちの直観に非常に近い。研究者が論文を多く執筆する必要があるのも、この「力」を得るためなのかもしれない。
・しかし、この認識論は、「共通認識」を説明することはできなかった。
⇒これら4人の哲学者のそれぞれの反省点を見つけながら、フッサールの議論(第二章~)へと入っていくことになる。
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