ユング『自我と無意識』を一部まとめました。作業や課題から解放されて少し落ち着いたからか、ようやくユングの無意識へと関心が戻ってきました。
自分は今後、質的研究という立場で「半構造化インタビュー」という手法を取るつもりですが、そこでは面接者がコントロールするのではなく、できるだけ被面接者が思ったことを言いやすい環境を作ることが最優先とされます。河合隼雄やユングらの著書を読んで「こうでなければ」と思いつつ、塾や研究室ではべらべら喋ってしまいます(オイ!)
自分が少しでも成長できるように、ということで、本書のまとめを試みます。ただ、翻訳学を勉強しているくせに、多くの曲解やミスリーディングな表現を用いています。興味のお有りの方は必ず本書を手にとってご覧下さい。また、本記事に関する訂正や指摘がございましたら、何卒お願いします。
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■ フロイトは無意識を抑圧されたものとしてのみ考えたが、ユングは意識に上らないものすべてを指した。
・フロイトが提唱した無意識は、あくまで意識から抑圧されたものが押し込められる領域であった。しかし、ユングのいう無意識には、もうひとつのちがった側面がある。それは、抑圧された内容ばかりでなく、意識の閾にまで到達しないあらゆる心的要素も服務という点にある。
・ユング自身は「これらの要素が識閾下にあることを、すべて抑圧の原理で説明するのは無理である。 」(p.19)とのべている。
■ 患者の声を拾うために「夢」に着目する。
・あるときユングが相手をしたのは、父親コンプレックスを抱えた少女のカウンセリングであった。彼女はユングとの面接を行うにつれて、徐々にユングへ恋愛感情を持つようになった。その際ユングはそれを拒むでもなく、自然に任せながら「満足のいく解消」へと向かう道を探した。(もっと適切にいえば、ユング自身はそのような道が生まれるのを待ったのかもしれない。)
・その際にユングが着目したのは、患者の夢だった。夢に登場する象徴物の正体を対話によって少しずつ明らかにしていき、彼女が自分の気持ちと向き合えるようにした。(そこでもユングは自らの手で行った、という言い方はもちろん避けている。)
もとより私は、どんな混乱状態にあっても何をなすべきかが正確にわかるような良識なるものを、自分がもっているなどとはうぬぼれていなかったし、患者にしても同様だったので、せめて私たちの知ったかぶりや作意の通用しない心の領域からやってくる例の活動に、耳を澄ましてみようと彼女に提案した。それはまず第一に、夢であった。 (pp.25-26)
・夢は意識界で生活している私たちが、無意識からメッセージを受けられる場面である。
cf) 『ユング的悩み解消術』
夢には、私たちが意識的に意図してつくり出すのではないイメージや想念が含まれている。それらのイメージや壮年は私たちに関係なく自然発生的に生じ、したがって、私たちの恣意に左右されない心的活動を表している。だから夢は元来きわめて客観的な、いわば心の自然の産物なのである。 (p.26)
■ 自我肥大
・以下の図は、先日読んだ老松氏の『ユング的悩み解消術』のブログ記事に際して作成したものである。
・この図でいう意識の部分は時に肥大してしまい、個人としての限界を超えた人格の拡張がおきることがある。たとえば、家でも職場でも「先生」の顔をしているお父さんを考えよう。彼の職場での「先生」としての役割は集団の中での機能にすぎず、完全に彼の人格と同一視する必要はない。なのに「先生としてのわたし」を異常に拡張してしまい、家庭でも「先生」の顔のままになってしまうと、自分の外にある特性を簒奪することになる。
⇒自我肥大は、意識の暴走ともいえるだろうか。
■ 個性化
・個性化というと、私たちは「他の人とは違う」ということを考えてしまいがちではないか。(個性的な人、というと、どうも周りに溶け込めない人をイメージしてしまうのは私だけだろうか。)そうではなく、ユングは以下のように述べている。
個性化とは個性ある存在になることであり、個性ということばが私たちの内奥の究極的で何ものにも代えがたいユニークさを指すとすれば、自分自身の自己になることである。したがって、「個性化」とは、「自己自身になること」とか、「自己実現」とも言い換えることができるだろう。 (p.93)
⇒上田先生の『生きる意味』で述べられていた「original」の説明と近いかもしれない。
・個性化と似ているようで違うのが「利己的」という概念である。ユングは利己的が「集団における配慮や義務とは対立すると考えられた特質を意図的に際立たせ、強調すること」 (p.94) と述べており、上でいった個性化とははっきり区別している。
・個性化はそもそもなぜ行うか。それは、「ペルソナの偽りの被いから解放すること」と「無意識のさまざまなイメージの暗示的な力から解放すること」が目的である。 (p.95)
⇒さきほどの「家でも先生」を想い出していただきたい。彼は社会で被ってきたペルソナが外せなくなってしまっている。そんな彼が家庭で誰かに本当の自分をさらけだせるとしたら、それこそ個性化なのかもしれない。
⇒「ありのままの姿見せるのよ」という歌があるが、あれこそ個性化なのかもしれない(笑)
■ 無意識の不可侵性
・無意識は意識には持っていない考え方や特性があるかもしれない。だから私のような低俗な人間は、無意識に羨望のまなざしを向け、アクセスしたいと考えてしまう。
・しかし、ユングはそのような甘い考えを見破るかのように(笑)、「「自然の内奥に、被造物の精神は入り込めない」――無意識の中へも同様である。」(p.99)と、無意識への不可侵性を戒める。
⇒意識が無意識からのメッセージを受け取ることはできても、その逆はできないのだろうか。やはりまだまだユング心理学を理解するには人生経験が浅すぎるのかもしれないw
■ アスペクト的な自己
・アスペクト的(相貌的)とは、野矢茂樹先生の『語りえぬことを語る』から採った語である。すなわち、ある混沌とした対象も主観の観点(立場)によって解釈が異なるということであり、自己もどの立場から見るか、あるいはいつみるかによってまったく違った姿が立ち上がる。
・むしろ自己が完全に一貫している、という人の方が怖いのかもしれない。自己を「上位」のものとしてみなすことで、私たちは常に多面的な自己像を思い描くことができるのかもしれない。
われわれは、それぞれに部分的な魂をもっていると考えることができよう。そこでわれわれにとって自分自身をたとえばペルソナとして見ることはたやすい。しかし、われわれが自己として何ものであるか明らかにすることは、われわれの想像力を超えている。それには、さしずめ部分が全体を把握することができねばならない。われわれには、自己というものを近似的にさえ意識することが望めない。われわれがどんなに多く意識化することができようとも、さらに、無意識という無規定的で規定不可能な量は以前として存在するだろう。そして、それを除いては自己の全体像はありえないからである。こうして自己は常にわれわれの上位にあるものであり続けるだろう。 (p.100)
⇒初等国語の授業でいわれたが、「複数の自己」とか「分裂した自己」と言い換えてよいかもしれない。
自分の気が向くままにまとめノートを作成したが、やはり分かっているようないないような...という感じである。(自分の理解力の限界を実感。)
最後に、無意識という点に直接関係ないために上で示さなかったが、これから質的研究の手法を勉強する際に、以下のユングの引用箇所は自分の原点としてもっておきたい。
もし、私が研究者であるよりも治療者であるならば、楽観的な判断を隠さないだろう。そのときはまなざしはどうしても、治癒された人間の数に行くだろうからである。しかし、私の研究者としての良心は、人間の数にではなく、質に目を向ける。自然はまさに貴族主義的であって、価値あるひとりの人間は、他の十人に匹敵する。私のまなざしは、価値ある人間の後を追い、彼らから純粋に個人的な分析の結果に見られる二義性を学び、さらにこの二義性の根拠について理解することを学んだ。 (p.54)
つまり、数によって、おきている事象が曲げられてしまうことを恐れるべきということであろう。今日の特研でも先生から、事象に立ち返れ、という話があった。いくら優れたデータを収集することができたとしても、そのデータを数値や偏った見方で分析してしまえば、事象が曲解される恐れがある。さらに、人間を相手にする研究をするのだから、自分が研究者としての良心・感性・倫理感を持たなければ成立しないだろう。私はこういった点には本当に自信がない。
ただ、ここでの考え方は教育現場に自分が出たときも生きると考える。目の前の生徒と対峙するときや授業を自己批判的に分析する際、事象に立ち返るということはまさに「言うに易し、行うに難し」だろう。少なくとも自分の修士での研究を通して、
・「相手を聴く」
・無意識からのメッセージを待つ
・コントロールするだけでなく、流れに身を任せる
といった点を少しでも体得したいと願う。
...なんか、すごく中二病的な締め方ですが(笑)、以上です。
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