今のゼミに入って早2年が経ちました。少しずつですが、自分にとって魅力的な「師」が見つかってきました。たとえば、教育哲学であれば苫野一徳、他者論であれば柄谷行人や木村敏、翻訳 (小説) であれば村上春樹、ぼんやりと魅力を感じているウィトゲンシュタイン、ヘーゲル、ルーマン、などが当たります。もちろんまだまだ理解にはほど遠いですが、少なくともほとんど読書しなかった高校時代に比べれば、多少は成長したのかもしれません。
今回紹介する『演技と演出』を書いた平田オリザ先生も、間違いなく上に該当します。平田先生は演出家という立場で、英語教育専攻の自分とは接点がないはずですが、著書にはとても共感するところが多く、「他者」の捉え方やコミュニケーション観についてもうなずけるところばかりです。(だからこそ、まだ現段階では批判的に読むことができていないのかもしれませんが。)
最近自分が演劇ワークショップに参加したこともあり、また来年から中学校の教師として現場に出ることもあってか、とても示唆に富んだ読書となりました。ただ、せいぜい数回演劇体験をしただけの自分には、ここに書いてある内容が頭での理解に留まっており、まだ身体実感を伴った理解に至っていません。
そこで、本書の中心主題である「演劇」について正面から紹介することは避け、むしろ自分の得意分野(?)である「言語教育」に絡めて本書の魅力を紹介したいと思います。したがって、平田先生の核となる考えをまとめるといった類ではなく、言語教育専攻の院生が本書を通じてぼんやり考えたことを文章化したものだと理解してお読みください。
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■ ワークショップにおける平田先生の「表現」観
平田先生は小学校国語の教科書執筆にも関与されており、学校でワークショップを開くことも多いそうです。ワークショップでは「仲間を集める」というコミュニケーションゲームから始めるようで、たとえば「好きな果物!」というお題であれば、参加者が「イチゴ」「メロン」のように好きな果物を言って、同じ果物のグループを作ります。この時に、同じ果物の相手がいなくても、あるいは「果物は嫌い」という答えであっても構いません。こういったアイスブレイク活動を通して、声を出すことへのバリアーを取り除くことが期待されますし、何より声を出すことの楽しさを知ってもらえるという意義 (p.19) があります。
ただし、中学生を対象としたワークショップではうまくいかないことも多いようで、中学生同士が目配せしながら「バナナにしとく?」「そうだな」「おれも入れて」のように、声を出して欲しいという運営者の意図が成功しないこともあります。そういった場合は、相談を禁止するのではなく、相談できないようなお題(例:電話番号の下四桁、生まれた月など)を設定することで、対応するようです。ただし、それでも中学生同士で適当に話しをつけて仲の良い友達同士でばかりチームを作ってしまうこともあるそうで、その場合はあまり無理に強制せず、ただ少しでも場の雰囲気が変わるのを期待するようです。個人的にこの部分はとても好感が持てて、教育現場の対応には普段みられないゆとり(あそび)が子どもたちに良い作用を及ばすのではないかという気がします。
もちろん、これでも相談してしまう中学生はいるかもしれません。それはもう仕方のないことだと諦めます。演劇は、マジックではないからです。...
しかし一方で、そうなってしまった子どもたちだからこそ、少しでも私たちのワークショップが、彼らの心に揺さぶりを与え、何人かが勇気を出して、自分の好きな色や果物を、大きな声で言えるようになればとも思います。そして、時間はかかりますが、半年、一年と続けて行くうちには、実際に何人かの子どもたちは、少しだけ表現の階段を上り始めるようになります。私は、表現教育というものは、その程度のものだし、その程度のものでいいと思っています。 (p.22-23)
最近の勉強会で話題になったのですが、私たちは「表現」という行為をあまりに単純に捉えてしまっているのかもしれません。外国語科の「外国語表現の能力」という評価規準(観点)は、個人の能力として、英語で話したり書いたりすることを生徒に求めます。まるで、「表現力」というものを授業でつけて、その力を「客観的に」評価するように。ただ、表現という行為を、個人という枠組みでなく「相互行為」「社会」という観点から見れば、聞き手の関心、コミュニケーションの意思 (Willingness to communicate) 、相互承認関係の構築度合いなど、多くの要因が複雑に絡み合って成立する行為として見なせます。平田氏は、従来の教育的な「個人単位の表現力」ではなく、「場・環境との相互作用」「複雑的現象」として表現を見なしており (p.138) 、もしワークショップがうまく行かないとしても仕方ない、ワークショップは万能薬ではない、そういった信念が上の引用から見て取れます。
こういった「複雑系」の中で演劇体験を行うのであれば、はっきりとした短期目標は示すことが難しくなるかもしれません。もっと言えば、「今日の授業でこの技能を獲得させる」というのはほぼ不可能となるでしょう。演劇という複雑な行為を「台詞を話す」「歩く」といった部分に分けてマニュアル化して一つずつ獲得させていくというやり方もありえるかもしれませんが、「部分の総和は全体にならない」というように、必ずしも演劇の場で生きる力がつくとは限りません。
■ 他人が書いた言葉を「自分の言葉として」話す
劇にはもちろん台本が存在し、俳優が読むのは、自分の言葉でなく他人の書いた言葉です。しかし演劇では、他人が書いた言葉をあたかも自分の身体から出たように「自分の言葉として」言うことが求められます。
しかし、この技術は簡単ではありません。なぜなら、他者の言葉の使い方はほとんどの場合自分とは異なるからです。平田先生はこれを「コンテクスト」 (p.91) という言葉で説明します。たとえば、劇のワンシーンとして、電車に乗っていて隣の人に「旅行しますか」というたった一言かけるだけであっても、普段からこのような会話をしていない人にとっては自然に話すことが難しいでしょう。つまり、脚本家が考える「旅行ですか」と演者にとっての「旅行ですか」では使い方が異なっており、この微妙なコンテクストの違いが「自分の言葉として」話すのを困難なものとします。
また、平田先生はここで、人間が犯しやすい大きな思い込みである「間主観性の一致」の説明をします。これはすなわち、自分がある言葉を発して表明した考えや物事について、他の人もまったく同じ言葉を用いるだろう、と(誤って)想定することです。たとえば、マクドナルドのことを「マクド」と普段言っている人は、当然他の人も「マクド」と言うと想定してしまいます。(だから、友人が「マック」と言うと、「え?」「あ、マック派なの?」というよくある反応が生まれます。笑)
去年、大学院で出会った友人が言っていましたが、平田先生のコンテクストの刷り合わせの議論は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論と合わせることもできるかもしれません。言語使用は客観的な意味を機械的に引き出すのでなく、その人の「生活形式 (Lebensform) 」込みで成立する営みといえます。人によって人生・生活が異なっているのだから、言語使用が人によって異なるのも当然です。上の例では、関西で生活しているのか関東で生活しているのかで「マック」か「マクド」かは異なるでしょう。
ここまで来て、俳優は、他者のコンテクストを自らのコンテクストと刷り合わせて台詞を読むという力が求められることに気づきます。演出家にとって、それを助ける(イメージの補助線を引く)のも仕事です。
思えば、この技術は翻訳家にも求められる能力ではないでしょうか。翻訳家は多くの場合、外国語の起点テクスト(原書)を読み、そこに書いてある内容を母語で再表現します。そこでは起点テクストとの一貫性や忠実性も問題となりますが、何より自然で読みやすい日本語に書くことが求められます。ただ、起点テクストを「自分の言葉として」書くことはもちろん難しいでしょう。言語の異なる原著者のコンテクストを、自分のコンテクストで相当するもので表すことが求められます。その時、自分のコンテクストに豊富な言語があればそこまで困らないのかもしれません。村上春樹さんのように優秀な翻訳家は、起点テクストを読んで、その内容を日本語で的確に、しかもリズムを崩さないように訳します。しかし、そうでなければ、狭い選択肢から、しかも実感の湧かない日本語を書き連ねることしかできません。普段の読書によって自分のコンテクストを広げておけば、原著者のコンテクストとすり合わせやすくなるのでしょう。あるいは、その著者の他の作品を読むことで、著者のコンテクストに自分も少しずつ入り込んで行くこともできるかもしれません。
「俳優」「翻訳家」(ここに「教師」も入るかもしれませんが)は仲介者であるという点で共通しています。なにか台本や原書があって、それをお客さんや読み手に届けるという意味では両者は似た作業が求められるのでしょう。それは、自分の言葉ではない異質な言葉を、いかに聞き手(読み手)にぴたりと来る言葉や動作で言い換えるかという力です。認知言語学では entrenched といった概念で説明できるかもしれませんが、これをするには、普段の読書経験、他者理解の姿勢、そして人生経験の全てが関わってくるでしょう。
■ 観客の想像力の誘導
演劇は、それを観る観客が必ずいます。つまり演劇での脚本や演技の挙措全て、観客のために行われます。
平田先生は、高校生から「演出家って何ですか?」と尋ねられた際、「演出家というのはたぶん、その芝居を、どのように観客に見せればいいかを、一番一生懸命に考えている人のことだと思う。」 (p.127) と答えており、演出家にとっての「観客」の存在の大きさを物語っていると言えます。
演出家が観客の想像力を誘導する際、二つの方法がありますー想像力を開くことと閉じることです。想像力を開くとは、自由な解釈を許すことで、例えば男の子と女の子が二人で何も話さずに座っていれば、「お互い好きなのか?それともけんかしているのか?」と観客は自由に解釈をしていきます。それに対して想像力を狭めるとは、解釈を限定することで、例えば先ほどの男の子が急にそわそわしだしたり、女の子が恥ずかしそうに下を向いていたら、「ああ、好きなのか」と決め付けることができます。
平田先生はこの2つをうまく使うことで観客に「やっぱり」と思わせるよう心がけるそうです。先ほどの男の子と女の子であれば、ただ何も話さずに座り続けていては、もやもやして結局何が言いたかったのか分かりません。また、2人が最初からそわそわしていたら、解釈の幅を広げる間もなく、「なんだ、好きなのか」としか思えません。しかし、ある程度、2人が何も話さずに座っている時間があれば、観客はあれこれ想像することができます。「もしかしたら好きなのか、それとも何も気がないのか?」。そこで絶妙なタイミングで2人がもじもじしだしたら、「あ、やっぱり好きだったんだ。俺もそう思った!」と、先ほど拡げた解釈の中から自分の解釈を選べるでしょう。この「絶妙なタイミング」というのが素人には難しいですが、これが平田先生の言う「観客の想像力の誘導」です。
これを読んで自分が思ったのは、授業づくりもこれと同じなのかもしれないということです。もし授業という営みが効率的な情報伝達のみを目指すならば、想像力を閉じ続けることで授業は淡々と進むのがよしとされるでしょう。しかし、そのような授業は面白くもなんともありません。平田先生も、若手の演出家が説明を多くしすぎる傾向にあり、そのような劇を「つまらない学校の授業」 (p.125) と揶揄していますが、ある意味つまらない学校の授業は想像力を閉じることで効率的な情報伝達を目指しているのかもしれません。
しかし、授業の中に想像力を開くという段階を取り入れるなら、授業も多少は面白く感じられるかもしれません。例えば小学校算数で、「面積の求め方は、縦の長さ×横の長さです」といきなし教えてしまうのでは、先ほどの「つまらない授業」止まりかもしれません。しかし、「どうやったらこの四角形の面積を求められるかな」と問いかけ、学習者が想像力を開き(縦と横の長さを足すのかな?かけるのかな?もしかしてまったく別のやり方かな?)、絶妙なタイミングで「実は、縦×横ですよ」と教えるなら、「ああやっぱり!僕が思ったとおりだ!」と、あたかも自分で答えを見つけられたように感じられるでしょう。
こういった仕掛けを、授業者が演出家になったつもりで、学習者の思考過程を先読みしながら授業を設計するという姿勢も、教師には求められるのかもしれません。
(もちろん学習者の反応は予想しますが、予想しきれないのが授業の面白さかもしれません。)
以上が本書の紹介+自分の雑感でした!
演劇は子どもの頃から観ており、また人前で話したり目立ったりするのが昔から好きだったこともあり、かなり興味がありました。これからもワークショップへの参加や観劇、演劇論についての読書などを通じて、趣味の一つとして続けたいなと思います (^^)
「想像力を開く」「想像力を閉じる」って面白い表現ですね。何事においても人間は「完全に決まりきっている」ことも「全くもって想像がつかない」こともあまり好まないような気がしますね。その間の絶妙なバランスを求めている感じです。まさに教師という仕事の面白さもそこに一因があるような気がしました。
返信削除コメントありがとうございます。
返信削除平田オリザさんの言い方をさらに使えば、いわゆる「前衛的芸術」は想像力が開いている方が良い (前衛的芸術を求める人は想像力を働かせたい) ことになります。
演劇も授業も、聞き手が次の予想をすることができれば楽しいだろうなと思います。ただ、英語授業の場面で想像力を開くという機会がなかなか入れにくいかもしれません。これを絶妙なバランスでできたら良いのでしょうが…。自分の授業はあまり想像力を開くことができていないので、もう少しでも工夫できればなと思います。