オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ) | |
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高校の先生が書かれただけあって、とても説得力があるように感じました。特に、「贈与」と「等価交換」の教育原理や、主体に働きかける教育、生徒の「他者」的認識、という点は、最近の自分の関心とも合致していたので、面白く読みました。
教育現場での問題は世間からは「教師の問題」と見なされてしまいますが、本書はそれのみならず「生徒の問題」にも焦点をあてる、という立場で書かれています。学習者要因の軽視への反省という近年の教育学の傾向にもあっていると思うので、もっと早くに読んでおくべきだったと反省です。
1. オレ様化する子ども達
オレ様化という現象は、以下のように定義されています。
今や「客観的」と「主観的」の境界はなくなった。主観と客観の近代の二分法はもはや成立しない。「自分がこう思う」ことはみんなも思っているに違いない (あるいは、思うべきである) と子どもたちは確信している。これが「オレ様化」した子どもたちの真実のひとつである。 (p.52)
例えば、授業中にこの程度のおしゃべりをしても周りには迷惑がかからないだろう、という「主観」がある。諏訪氏の主張では、昔 (のちにより分析的な区分になるのですがあえて曖昧な言葉遣い) は注意をされたら、自分の主観と他人の感じ方(客観)が異なることを知ることができた。しかし、今日の「オレ様化」した子は、仮に注意されたとしても「うるせー」「別に周りに迷惑かかってないから良くない」と、「主観」と「客観」が同体となってしまっているといいます。つまり、自分の価値観こそが絶対的だと信じ込んでいるわけです。
昔自分がスイミングスクールに通っているときの話をしたいと思います。ある男の子が友達にちょっかいを出して、不機嫌な顔になっても続けているのを見て、先生がこのような叱り方をしたのを覚えています。「君はこのようなちょっかいを出されても平気かもしれないけど、他の人も同じように思うかどうかは分からない。」そのときは男の子も反省して(ふてくされて)素直に先生の言うことを聞いていたと思います。このような場合でも「オレ様化」している子であれば、先生の注意を受けても「別に平気でしょ」と続けるのでしょうか。
これと同様に、自分について他者から評価されることを嫌がる子も増えているようです。
子ども (生徒) たちはすべからく自分について「外」から批評されることを拒むようになった。「外」や「まわり」の助けや支えなしに自立していると勘違いしているのであろうか。 (p.56)
子ども (生徒) たちは知識や学力についてはともかく、人間的な価値というか、生き方や考え方についての「外」からのコメントを受け付けなくなった。自己の「個」としてのありようを拒んでいるように見える。「この私」について語られたくない。「この私」は絶対に特別なのである。 (p.60)
これも、主観(自己評価)と客観(他者による自己の評価)との違いを受け入れられないために、他の人からとやかく言われるのが嫌なのかもしれません。上の引用文の「この私」というのは自分は who I am と読みかえ、自分の価値観や信条を指すものとして理解しました。
つまり、「大学生だから読書はしなよ」とか「高校生のうちは英語やっときんさい」といったアドバイスは、自分の身分 (what I am) に関する批評だから受け入れたとしても、「君のさっきの発言は良くなかった」とか「君のこのような部分は直したほうが良い」は、自分自身 (who I am) に向けられたもので、本人にとっては受け入れづらいのでしょう。 (実際に受け入れづらい助言ではありますが、時代の変遷とともにますますこの傾向は顕著になっていくようです。詳しくは次章で。)
このように、子どもたちは自分を客観的に見ることがしにくくなっている、というのが氏の本書を通じたテーマの1つです。
2. 共同体社会と市民社会
諏訪氏はここで、「共同体社会」と「市民社会」という二区分を提示します。この二区分の提示によって、「なぜ」「どのようにして」昔と今では子どもたちにこのような変化が起きたのかを解明します。
2.1. 個-集団観
「共同体社会」は「子どもはこうあるべきといった世の中的な基準から子どもを論じる」 (p.78) 立場で、より保守的と言えるでしょう。それに対し、「市民社会」はむしろ「子どもの「個」というものに基準をおいて子どもを語る」 (p.78) ため、リベラル (進歩的) な立場になります。本書の第一章ではこの大きな二区分から、以下のような違いが出ていることを示します。
諏訪氏が、
子どもが「共同体的な子ども」から「市民社会的な子ども」に変わった (p.82)
と述べているように、上の子どもたちの変化は共同体的な見方から市民社会的な見方へと変化したことが原因として挙げられています。
以下では表のそれぞれの観点について、コミュニケーション原理、学校教育内容、他社性の3点について説明します。
2.2. コミュニケーション原理
「贈与」は「基本的に与えられる側からの一方向的なものであり、与えられる側に「負債」の意識を与える」 (p.80) コミュニケーションで、例えば愛は贈与的なコミュニケーションと言えます。例えば恋人にプレゼントを贈るのも見返りを求めてではなく、一方的に与えるものでしょう。あるいはキリスト教的な「アガペー (無償の愛) 」というのも、何かしてもらうためにするのではなく、相手への愛という行為自体に価値を見出すために行うため、贈与的と言えると思います。「贈与」では「お返し」は本来想定されていません。なので、友達から誕生日プレゼントをもらった後に、「大体値段は~~円だから、それ程度の金額で相手が喜ぶものを、相手の誕生日に贈らないと...」という発想は贈与的ではありません。
それに対して「商品交換」は、「双方向的な相互行為 (コミュニケーション) であり、売り手の手にするものと買い手の手にするものの価値は同じ」 (p.80) になります。よくある費用対効果という考え方は「これだけの努力をしたのだから、これだけの結果は返ってくるだろう」という想定で、見返りを求めている時点で商品交換的な発想と言えるのかもしれません。
「等価交換」はまさに近代そのものであるが、そこに「愛」は不在である。 (p.97)
という一文も、重く受け止める必要があるのかもしれません。
共同的なコミュニケーションでは、子どもは本来共同体に属していない未熟な存在で、そのような彼ら・彼女らを一人前にするために、大人たちは見返りを求めずに子どもへ教育をします。これは贈与であり、教師はそれに見合う成果は期待していません。それに対して、近年の市民社会的価値観では、子どもの「個」を尊重しているため、子どもの望むもの (学びたいもの) を教える、という等価交換を成立させようとします。あるいは、(極端な例かもしれませんが)速読指導を10回続けたのだから、文章を読む速度が進むだろう、という見返りを求めるかもしれません。
以下の数文は、一見当たり前のように見えつつ、教師として重く受け止めなければならないのかもしれません。 (組田先生の講演会に以前参加したときも、これと似ていることをおっしゃっていました。やはり現場の先生のご講演には来年度も足を運びたい...。)
もともと教育の原点は子育てと同じように「贈与」にある。いつの時代でも子どもは生まれた時点から広い意味での教育をされていくが、そのとき「受け手」 (子ども) は自分で望んでいるわけではない。ただただ「贈与」として受け入れるしかない。子どもは私たちの生育の過程からもわかるように、「贈与」としての教育を一方的に受けていくなかで「商品交換」的なコミュにケーションを身につけていく。 (p.99)
2.3. 学校教育内容
学校で教える内容も、両パラダイムでは異なった解釈がなされる。
共同体的な教育とは、社会が必要であると判断したものを子どもたちに学ばせようとするものである。市民社会的な教育とは、子どもの「個」が必要とし、望むものを子どもが学べるように支援しようというものである。 (p.86)
共同体的パラダイムでは、未熟な子どもが社会の成員となるために必要なものを与えるという価値観であるため、学ぶ内容も社会によって規定される。それに対して市民社会パラダイムでは、子どもが個として尊重されるため、学ぶ内容は子どもの興味・関心によって選ばれるし、それを支えるのが教師の役目となる。
2.4. 教師の感じる生徒の他者性
もともと教師にとって生徒は「他者」である。
哲学的に、自分達には見えない、あるいは理解できない存在を「他者」と呼ぶ。教師たちは生徒たちが「他者」であることは、最近は実感していると思う。もともと、教育における生徒は「他者」であったのだが、かつては教育や学校が国家や地域(コミュニティ)や家庭などの共同体によって強く守られていたので、子ども (生徒) たちの「他者」性がそれほど浮き立たなかった。 (p.35)
共同体的な価値観では、子どもは「個」としてはあまり見られない。学校にいる生徒は、「この私」 (who I am) が浮き出ず、生徒としての「私」 (what I am) をもてればよいため、その「異」質性は低く済むために他他者性がそこまで強く感じられないのだろう。それに対して、近代の市民社会では、「個」を重視するため、一人ひとりの「異」質性がいっそう感じられる。
もちろん「個」を重視する姿勢を貫く教育論では、「他者」性はそこまで問題視されることはないでしょう。しかし、現場で毎日子ども達の相手をする教師にとって、彼らの「他者」性 (理解しがたさ) はコミュニケーションをいっそう困難なものにするため、教育を難しいものとするかもしれません。
※教育における「他者」性については、以前の記事「受験英作文の問題文一行から<他者>について考えてみる」をご参照ください。
3. 無意識 (主体) に働きかける
最近、ゼミ合宿で「もののけ姫のユング的解釈」に関する講演を聞く機会があったり、河合隼雄先生の『ユング心理学入門』を読んだり、無意識というのが自分にとってひとつのキーワードになっているような気がします。
3月から開く学部の後輩と院の友人の読書会でも、「無意識」「語り」をキーワードに、やまだようこ先生の「喪失の語り」を輪読します。 (第一回ではお互いの関心をひたすら話し合ったのですが、早速刺激的でした。開催がとても楽しみです。)
そんななか、本書にも無意識に関する記述があったので、ここも引用しつつ自分なりの意見を付け加えたいと思います。
教育 (論) は考え方として「無意識」と言う「主体」を排除してしまっているが、現実の教育の営みは「無意識」を排除しては成り立たない。間抜けな教師は子ども (生徒) が「自我」で動いていると考えるが、真目な教師は子ども (生徒) が「自我」のみで動いているわけではないことを知っている。 (p.199)
「言えば分かる」とか「説明すればわかる」というのは、自我しか考慮に入れておらず、それを支える「意識」や「無意識」というものを軽視しています。しかし「無意識」を軽視した教育では、生徒のこころには響かない、無味乾燥な働きかけになってしまうかもしれません。
河合先生の『ユング心理学入門』にも、自分の意識を補償する作用を無意識が担うという説明がありました。(これについては、春休み中にきちんと記事にまとめようと思います。)例えば、表向きでいい子を演じている場合、その個の無意識(影)では攻撃的な性質を持つかもしれません。森田芳光氏の映画「家族ゲーム」でも、沼田家の子どもたちは親の機嫌を取りながら「よい子」を演じていたため、抑圧された無意識の悲鳴が時に見られました (例、最後の食事シーンでの兄弟げんか) 。例えば、生徒による自己紹介という意識化された自己把握の語りを聴くだけでは、教師はその個を理解することはできないのかもしれません。その子の無意識からのメッセージを受け取るのも教師の役割なのだと思います。
ただ、もちろんこのような点も考慮して働きかけをする必要があるのでしょうが、実際にどのようにすれば生徒の無意識にも配慮できるのかは皆目見当がつきません...。改めて教職の難しさを実感しました。
まとめると、
・教師は生徒の意識に働きかけるだけでは不十分。
・ただ、無意識に働きかけるとは、具体的にどのようなことだろう。(あまり想像できない...。)
4. 感想・意見
鋭い切り口からの意見で、とても刺激的な読書体験になりました。
本書は第一章・第二章に分かれており、上で紹介したのはほとんど第一章の内容になります。第二章は、現在主流といわれている教育論者の考え方に対する批判的考察が中心となっています。
第二章については私自身がその方々の著書を読んでおらず、片側からの意見のみではアンフェアだと感じたので必要最低限の言及にとどめました。
それを除いては、本書の意見には同意できる点が多くありました。現に自分も市民社会的価値観の下に育ってきたわけで、コミュニケーションの商品交換的発想も心当たりがありました。誕生日プレゼントは、現に大学で何度も何度も感じました。必要な礼儀であることはもちろんですが、やはり「等価交換」的な発想は深く根ざしているのかもしれませんし、「頑張っても (結果がなければ) 無駄」「この問題集1冊やったら点数何点上がる?」という発想はよくしていたように記憶します。
最後に、教師側の視点で。
ここまでの意見を踏まえて、教師は「共同体的」教育と「市民社会的」教育の両方を行ったり来たりしながら、バランスのとれた教育を目指さなければならないといえると思います。(言うは易く行うは難し。) 現に「個」を無視した教育では息の詰まった教室になると思いますが、あまりにも迎合してしまうと授業そのものが成り立たなくなるのではないかと危惧します。
この「丁度よさ」が、現場で養われる力なのだろうと感じます。
現場に出る友人とは、今後も連絡を取り続けたいですね。
ということで、広島県を離れる教英の皆さん。忙しい期間が続くというのは重々承知ですが、時間ができたらぜひぜひ大学に顔出してください(^^)。いろいろ話を聞かせてもらえるのを楽しみにしています!!
本書は自分の教育観を揺さぶるのにも良いと思います。教育学部の方は、ご興味の方はぜひお読みください。(あるいは、とっくの昔に読まれている方はご感想等交流できれば幸いです。)
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