3月23日、無事に大学を卒業することができました。これまで支えてくださった家族、先生方をはじめ、一緒に4年間過ごしてきた友人に感謝の意を述べたいと思います。
この4年間、学部の行事 (英語合宿や勉強会) 、サークル (児童文化研究会) 、ボランティア (大学受験対策学習支援) 、バイト (学習塾、英会話教室、大学食堂) など、大変充実していたと思います。その中でも自分にとって大きな存在の1つだったのが BBS というサークルでした。
思えばこの4年間、BBSというサークルには本当にお世話になってきました。BBSとはBig Brothers and Sisters Movements の略称で、非行少年と比較的近い存在として交流することで彼ら (彼女ら) の成長に良い影響を与えようという趣旨で行っています。わたしは東広島地区に所属してきましたが、近くの施設などで学習支援を行ったり、年に2回レクリエーションを行って自習時以外の子どもたちの顔を見たりしてきました。
あまり自分が丁寧に活動できたとは到底思えませんが、最も印象的だったのは保護観察処分の子どもたちと1対1で向き合う「ともだち活動」でした。自分の課題と少しずつ向き合っていく姿は見ていて嬉しくなりました。
( BBS の活動については、こちらをご覧ください。日本BBS連盟公式ホームページへリンクしております。)
先日のゼミ合宿で河合隼雄先生に関する講義があったため、この春休みに先生のご著書を数冊読んできましたが、その中でも特に自分との関係性が強かったのが『子どもと悪』です。河合先生の本は文体が読みやすく、本当に河合先生が自分に語りかけているようでとても好きです。 (といっても数冊読んだ程度ですがw)
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いつも通り、気になった点をまとめております。
更生保護・教育にご興味のお有りの方は、どうぞご覧下さい。
■ 悪は必ずしも否定的なものか~個性と悪~
『子どもと悪』では、必ずしも「悪」を否定的なものとして固定的にとらえていません。悪を排除しようというのではなく、悪を含む世界の中で子どもたちがどう成長するかというスタンスで書かれています。以下の序文がそれをよく表しています。
現代日本の親が子どもの教育に熱心なのはいいが、何とかして「よい子」をつくろうとし、そのためには「悪の排除」をすればよいと単純に考える誤りを犯している人が多すぎる。そのような子育ての犠牲者とでも呼びたい子どもたちに、われわれ臨床心理士はよく会っている。 (p.3)
よく日本では「臭いものには蓋をしろ」といいますが、仮に無菌状態の温室のような空間で子どもを育てるとすれば、温室に出たあとの社会に耐えられる子になれるのでしょうか。また、「悪」とは必ずしも避けられるべきものなのでしょうか。
第1章では、多くの小説家や芸術家が昔は「悪」とされがちなこと (夜間外出、反抗、ひきこもり) をしていたと証言しています。彼らの個性や創造性はこのような「悪い」ことから伸びることも考えられるのではないでしょうか。
たとえば、京大教授をなさっていた日高敏隆さんのインタビューでは、彼が学校に「三分の一ぐらいしか行ってない」 (p.8) とか、高校は通学に時間がかかるのでサボっていたとおっしゃっています。他にも鶴見俊輔さんは中学生のときに「カフェ」に入りびたっていた事実を明かしています (p.6) 。このような方々が個性を伸ばしていけたのは、学校教育の力というよりも「悪」の役割が大きかったのかもしれません。
個性を伸ばす、ということが日本の教育において、最近特に強調されるようになった。国際社会になって、日本人が画一的でなく、それぞれの個性を持った人間として他国の人とつき合う必要性を強く感じるようになったからである。従って、小学校教育の時点においてもそのことを大切にしなくてはならない、と考えられるようになった。しかし、端的に言ってしまうと、個性の顕現は、どこかで「悪」の臭いがするのではなかろうか。 (p.11)
仮に学校の教員が「悪」を排除しようとするのであれば、個性の顕現は妨げられるでしょう。本を読むのが好きな子が放課時間中教室で本を読んでいるのを見て、教育熱心な教師であれば「本もいいけど、外で遊んだらどう?」「友だちをたくさん作るのがいいよ」と声かけするのかもしれません。この場面では、「善い」=「友達をつくる」、「悪い」=「1人で過ごす」という図式が教師の中にあります。その上で河合先生は、「個性の発揮のはじまりは、その人の「好きなこと」に熱中することからだと思われる (p.12) 」と言います。たとえ1人で過ごしていたとしても、その子が好きなことをしているのであれば個性を発揮している場面ととらえるのです。
このように、教師の想定する悪には人の個性を伸ばしたり創造性をもたらしたりするという、肯定的な側面があると分かります。他にも「悪」には様々な良い側面があります。次の項では「怒り」の良い面について考えましょう。
■ 怒り
たとえば、「怒り」には周りの人を傷つけるという悪い面もありますが、同時に次の行動へのエネルギーを起こすという側面があります。
子どもが泣いたり起こったりするのは、大人から嫌われることが多い。すでに述べたように、子どもはいつも「上天気」であることが期待されている。しかし、怒りは前節に述べた笑いのように、思いがけない新しい地平を拓く力をもっている。あるいは、子どもが自分の世界を急激に広げようとするとき、怒りの感情が生まれる、と言っていいかも知れない。 (p.124)
本書では『思い出のマーニー』という作品のエピソードが紹介されています。少女が自分の感情を抑え付けて生きていたのですが、あるとき自分にやさしい態度をとってくれる人を前にして、自分の思いを吐露します。その最初の一言は怒りによるものでした。怒って自分をやさしくしてくれる相手にわめき散らします。この怒りの爆発が彼女の回復に貢献したのは言うまでもありません。
少し話はそれますが、漫画「ドラゴン桜」の第一話でも、無気力で勉強嫌いな高校生を目の前に桜木弁護士は彼らを徹底的に非難します。もちろん高校生たちは自分たちの生き方を非難されて怒ります。すると桜木弁護士は相手を諭すように、「このままだと人生だまされ続ける」「だから東大へ行け」と畳み掛けます。一度怒りを出した高校生たちは、自分達が今まで生きてきた世界から新しい世界へ踏み入れるチャンスを手に入れるわけで、桜木先生はそれを見越した上で怒りを喚起したのでしょう。
(このシーンは本ドラマのベストシーンの1つだと思うので、よろしければご覧ください。第1話のラストシーンです。)
とにかく、怒りには相手を傷つけるという面はたしかに「悪い」のですが、同時に当人にとって「良い」面もあることが分かります。すると、「怒り」を必ずしも排除する必要があるのか疑問に思えます。
■ 悪は「からだ」からのメッセージかもしれない
少し話はそれますが、河合隼雄先生の著書では、よく「身体(からだ)」が話題になります。以下の箇所では、デカルト以来の精神と身体の二元論的区分を基に、精神を上位(良い)と見なしたときの身体の位置づけについて議論されています。
人間にとって、「身体」というのは非常に不思議なものである。それは自分のものであるが、自分のままにならない部分がたくさんある。...
ここで、精神と身体という区分を明確にし、精神を善と考えると、身体は悪ということになる。特に、身体は食欲、性欲など精神によってコントロールするのが難しいことに関係するので、余計に悪者扱いされる。それに子どもの体験としては、大小便、唾、鼻汁、など自分の体から出てきたものが「汚い」として忌避されるのは、印象的なことであるに違いない。それを少し推し進めると、それらを排出してくるからだそのものも「汚い」、あるいは「悪」に結びつくことになる。 (p.105)
たとえば遊びにおいて子どもが破壊行動を見せることもしばしばあります。そのような大人からしたら「悪」と見えることも、子どもたちはこの上なく楽しみながら行っています。子どもの無意識にある部分が「遊び」というかたちで外化したのかもしれません。
これは、「意識」と「無意識」に置き換えて読んでもよいのかもしれません。
つまり、意識を善と考えると無意識は悪ということに、さらに無意識はコントロールすることができないため、意識にとっては厄介者と認識されます。
私がBBSで非行少年と関わっているとき、「なんとなく万引きした」とか「気がついたら殴ってた」というように、無意識下が原因で非行を犯す少年がいたことが驚きでした。自分が私学出身だったこともあり、あまり周りには非行と関わり深い友人はいなかったためでしょうが、自分の中の非行少年像は、「わざと相手を痛めつけたい」とか「自分の意志で万引きする」といったワルを想像していたため、はっきりした理由なく非行をするというのが理解できませんでした。ところが、この点も上の議論を踏まえれば納得できます。すなわち彼らの無意識の段階でなにか足りない部分があり、それを補うために「盗み」を働いたのだとすれば、あるいは周りから大切にされすぎて破壊的な性格が影にあり相手を殴ってしまったのだとすれば、理解できます。
そのため、「なんでこんなことをやったのだ」「悪いことだと知ってるか」と問い詰めてもあまり意味がないのかもしれません。むしろ、彼らの無意識下に潜む問題に直面することの方が大切なのでしょうし、無意識を大切にした対応が必要なのだと思います(が、具体的にどうすればよいかはわかりません。現場に出る友人たちに尋ねてみたいです。)
■ 両義的な悪のポジティブな側面を活かすために、周りの人ができる3つのこと
ここまで見てきたように、悪は良いところと悪いところを併せ持った両義的なものです。しかし私達が悪について考えるときは必然的に「悪い」部分のみに目が向きます。どのようにすれば私たちは悪の「良い」面を活かすことができるのでしょうか。以下に、(1) 一神教的態度と多神教的態度の区別の導入、(2) 並ぶ関係を築く、(3) 子どもの存在の受容の3点を述べたいと思います。((2) と (3) は少し似ているかもしれません...。)
(1) 一神教的態度と多神教的態度
河合先生が子どもの「悪」について、実に興味深い一節を残しております。
悪の問題を考えるときに、厳しい一神教的態度によって、善悪を裁断してしまうのは、問題であると私は考えている。それでは多神教的に考えるとどうなるのか、ということがある。ここで、わざわざ一神教的、多神教的という表現をして「的」をつけているのは、信仰としては一神教を信じていても、人生の考え方としては多神教的なものを取り入れることは可能と考える考え方があるからである。 (pp.29-30)
ここで言う一神教的態度と多神教的態度とはどのような態度を指すのでしょうか。先に分かりやすい一神教的態度から考えましょう。善悪の判断を「裁断」するという表現から分かるように、大人が「これは善い」「これは悪い」と一義的に判断することを指すのでしょう。仮に万引きという行為を判断するならば、「校則(法律)を犯しているのだから、悪いだろう」と一刀両断でしょう。
それに対して多神教的態度では、より多くの判断基準を持つはずです。「確かに法律では悪いとされているが、万引きをするほど追い詰められていたのではないか」「万引きをするというのは創造性の表れともとらえることができるのかもしれない」といったように、先ほどの一義的な考え方以外の基準を当然含みます。
河合先生は後者の多神教的態度を尊重してはいますが、ここで気をつけたいのは「万引きを肯定するのか?」「じゃあ万引きを全員すればよいか」という短絡的な判断をしてはいけません(これも一神教的判断の現われとも取れるのでしょうが...)。
このようにいろいろな例を見てくると、「悪」というのが実に一筋縄では捉えられない難しいものであることがわかる。それは無い方がいいと簡単に言い切れないし、さりとて、あるほどよいなどとも言っておられない。それは思いの他に二面性や逆説性をもっている。 (p.32)
多神教的態度では、つねに「割り切れない」「矛盾したような」という曖昧な表現を残します。現に本書中にもこのような議論が多くなされています。科学的な判断を好む方にはこれは不完全な議論、不十分な論証と映るかもしれません。しかし、そもそも人のこころを扱うために、割り切れる議論のみを期待することはできないのではないでしょうか。
本章を読んだ私の感想としては、子どもと接するときの私たちは悪の両義性を認め、一義的な判断を避けたうえで多くのことを考える姿勢を持つ多神教的態度をもつことがよいのだと思います。
(2) 並ぶ関係をつくる大人
子どもが何か悪さをしたときに、大人はそれを注意する存在なのでしょうか。それとも他の接し方があるのでしょうか。
目下の読書会で使用しているテクストである、やまだようこ著『喪失の語り』から「対面関係」と「並ぶ関係」の区別を導入したいと思います。
「対面関係」は人と人が向き合うため、「対話や論争がなされ」 (やまだようこ, 2007, p.140) ます。例えば、向かい合ってオセロや将棋をするときは、相手は敵に映ります。また教師が教壇に立っている限りは対面関係にいるため、<教える-教えられる>という関係になるでしょう。子どもが悪さをしたときの「対面関係」は、善悪を伝える存在・叱責する存在としての大人になるのだと思います。
それに対して、「並ぶ関係」は「自己と他者が同じ場所で同じものを共に見る共同注意」 (やまだようこ, 2007, p.140) をする関係で、たとえば親と子どもが手をつないで歩いているときに、親が「あれを見てごらん」といって一緒に花や鳥を眺めるような場合があります。彼らは先ほどの対面関係と異なり、<同じ立場で共に見る>関係にあります。やまだようこさんの議論では、「並ぶ関係」のときにことばが生まれる根源となると紹介されています。 (やまだようこ, 2007, p.140)
では、「並ぶ関係」で子どもの悪に対応するとはどのようなことでしょうか。河合先生は、以下のように述べております。
大人は子どもに根源悪の恐ろしさを知らせ、それと戦うことを教えねばならない。時によっては厳しい叱責も必要であろう。しかし、そのことと子どもとの関係を断つこと、つまり、悪人としての子どもを排除してしまうこととは、別のことなのである。自分自身も人間としての限界をもった存在であるという自覚が、子どもたちとの関係をつなぐものとして役立つのである。そして、そのような深い関係を背後にもって、悪も両義的な姿を見せてくると思われる。 (pp.59-60)
大人も根源悪を完全に克服した存在かといえば、当然そんなことはありません。ニュースを見ていて大人による事件が絶えないのと同じように、大人も自分に潜む悪と日頃戦っているのです。つまり、子どもたちが悪いことをしてしまうという悩みをかかえているのと同じように、大人も日々悪と向かい合っているのです。ここでは、子どもも大人も「並び合って」悪を見ることができます。このとき大人は<教える>存在ではなく、むしろ悪を経験してきた<先輩>として、<後輩>である子どもたちを迎え入れるのでしょう。「君もこのように悪と向かい合っているのだね。私もこのようなことがあったよ。」と語ることで、根源悪を子どもが知ることができ、大人もその子どもを受け入れることが易くなるのだと思います。
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(3) 子どもの存在 (who you are) の受容
日高さんの場合は素晴らしい担任教師がいた。鶴見さんの場合については詳しく語れなかったが、結局は母親から (そして、実は日本という母性社会から) 離すのがよいとして、アメリカに留学させることを決定した父親がいた。このように、悪がポジティブに変容するとき、そこに重要な他者がからんでくることも、ひとつの要因である。 (p.32)
以前BBSの活動の一環として、少年院を見学させていただく機会があり職員の方のお話を伺わせていただきました。学校の教師を目指すものとして、少年院の職員の方はどのような姿勢・態度で子どもと向き合っているのかを知るのを楽しみにしていました。少年院に厳しいイメージを抱いていた自分にとって、職員の方がお話になったことは少なからず自分の予想と反しました。
たとえば少年が万引きのように法律で「悪い」とされている行為をしたとします。すると職員の方はそれについて叱るのではなく、まずわけを尋ねるそうです。「なぜ万引きをしたんだい」「なにか万引きをせざるをえないことがあったのかい」。このような聞き方をすると、それまでうつむいていた少年も職員さんの顔を見上げるそうです。「大人は子どもの話をきいてくれないものだと思っていました」とか「暴力しないで教育してくれる大人にはじめて出会いました」というような感想を残す子もいると聞きます。彼らにとっては、まず自分のしたこと、あるいは自分という存在を受け止めてくれる大人が必要なのだと実感しました。
ただし受け止めるだけではなく、職員さんはそのあと「君の万引きした理由は分かるけど、~~という点でよくない」とおっしゃるそうです。そこで子どもは自分のしたことと向き合い、今後の課題を知るのでしょう。
矯正教育では過去の反省と将来の生活への準備をさせることが目標ですが、そのための職員さんの手立ては「きみは大事に、必要にされている。きみは愛されている。」というメッセージを送ることだと分かりました。
子どものしたこと (what you did) に目が行ってしまうこともあるかもしれませんし、子どもの行っている学校の種類や家庭の状況、肩書き (what you are) に目がいってしまうかもしれませんが、むしろ相手の存在自体 (who you are) を受け止める覚悟こそ求められるのでしょう。
■ 感想
ここまで読むと、そもそも「悪」とはなにかという問いに直面します。私たちが「悪」と呼んでいるものには、本来良い面があるのにもかかわらず見えていないだけなのでしょう。京都で開催された久保野先生の英語教育講演会でも、「すべての指導法には良いところと悪いところがある」と何度も繰り返されていました。正にその通りだと思いますし、それは英語教育の指導法に限定されないのかもしれません。すべての行為には背後に肯定的意図 (NLPでは positive intention といわれています) が隠れているので、子どもと関わる私たちに求められるのは、その背後にあるよい部分を見つけることなのだと思います。
NLPについては、関連記事を書いております。よろしければご覧ください。
河合隼雄先生の著書は今後も引き続き読んでいきたいと思います。
なお、更生保護については、以下の本がとても面白かったです。2年前の学部のプレゼンテーション大会でも本書を背景にした発表をさせていただきました。更生保護にご興味をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひご覧ください。
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