また、私と同じくこの3月で大学を卒業した友人の多くは、4月から日本各地で小学校、中学校、高等学校の教師として働き始めます。
来週には、つい先日まで近くにいた友人が社会人として日々奮闘しているというのは、何とも不思議な感覚です。彼らとまた語り合えるのを楽しみにしています。
さて、春からは大学院に進学する自分ですが、実はちょうど1年前には、現場に出る彼らと一緒に教員採用試験の勉強をしておりました。(あっ、察し)
今回紹介させていただく本は、自分の教員採用試験の体験と照らし合わせながら読みました。
読んでいる過程で、日本の道徳教育の現状とその「問題点」は、ずっしりと自分(もしかすると他の大学生も?)の中に根を下ろしていて、下手をすれば今後も脈々と受け継がれていくのではないか、というある種の危機感を感じました。
モラルが高いとしばしば言われる日本人ですが、そのモラルは極めて表面的な、与えられたモラルなのかもしれません。
もちろん、モラルが無いよりは絶対的に良いと確信を持って言えます。かの有名な錬金術師 エドワード・エルリックも、「やらない善よりやる偽善」を掲げていました。(真面目)
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■ 「道徳」とテンプレート
上手く言うことができないのですが、今になって思い返してみると、私の教員採用試験の対策は、ふわふわした自分の理想論を、抽象的な日本語に変容させて置き換えていく作業、という印象でした。(フワッ)
言い換えると、「実感の伴わない決まり文句的知識の詰め込み」、とでも言えるでしょうか。
ですから、非常に辛かったのを思い出します。
もちろん現場経験が無いのは当然なので、こんなことを言うと一緒に勉強していた友人達や、現在進行形で教員採用試験の勉強を頑張っている素晴らしい後輩たちに怒られそうで怖いのですが、これが去年の試験対策中に自分が抱いていた正直な感想です。
要は、私の教員採用試験の対策自体が「正解」(或いは「綺麗事」)をひたすら詰め込む勉強であった、ということです。
一応断っておきますが、もちろんこの勉強法が悪いと批判するつもりはありません。あくまで私自身がそう感じていたというだけの話です。また、私と同じような勉強をしても、結果として教員として必要な資質や考え方を身につけることができたという人もたくさんいることでしょう。
本書で小川氏は、学校で行われる道徳教育を鉤括弧付きの「道徳」と 記し、通常の意味の道徳と区別しました。(通常の意味、というのがまた難しいですが笑)
本書の冒頭で、小川氏は「道徳」を以下のように批判します。
いま行われている道徳教育の実態は、ある意味で価値観の押しつけにすぎない・・・別の言い方をすれば、あらかじめ「正しい」とされる答えを身につけさせることに終始している・・・(p.3)
「赤信号では渡ってはいけない」「駆け込み乗車はいけない」「お年寄りには席を譲らなければいけない」
とは言えても、「それが決まりだから」「常識だから」という言葉で思考を停止させて、「なぜそうすべきなのか」と徹底的に考えていなければ、本当の意味での道徳性は身についたとは言えない、というのが小川氏の主張です。
つまり、現状を鑑みると、「道徳」の授業はあらかじめ用意された「一つの模範解答」に子どもを導くだけの形式のものになっていて、それ故に子どもはある種の思考停止状態になってしまっている、とまとめることができるでしょうか。
加えて小川氏は、思考停止状態が意見の多様性の喪失に繋がることも問題視しています。
アメリカの市民教育を見れば分かるように、多様な意見というのは、「主体的な政治参加」の基本となります。現在の「道徳」教育では、一市民としての「公共性」や「主体性」の涵養は期待できません。
私は、ここで小川氏が挙げた「道徳」についての問題点が、私自身の教員採用試験対策のモヤモヤと類似しているように思います。理想のテンプレート化とでも言えるでしょうか。
これは教員採用試験に限らず就活でも言えることかもしれないのですが、正直なところ、採用されるためにはある程度理想をテンプレート化して話さなければならないことがありますよね。
例えば、「生徒一人ひとりの発達段階に合わせて授業を考えるべきだ」とか、「生徒(或いは会社)のためなら身を粉にして働きます」とか。
もし、「個人の発達段階は考慮せず授業します」とか、「疲れたら休みたいです」なんて言ってしまうと、「これだからゆとりは・・・」なんて言われて批判の対象になるのでしょう。
許容範囲はあっても、これ以外の正解はほとんど無いように思えてきます。
もちろん、公立の教師は学習指導要領や教育関係法規の大きな枠組み(縛り)の中で動かないといけないわけですから、ある程度のテンプレートを言えるかどうかも重要なことなのかもしれません。ただ、たとえそれがほとんど与えられたに等しい回答だとしても、そのテンプレート的回答に対して「なぜ」と問い続け、自分の物語と結びつけて語ることをしなければ、「私」意識の存在しない、薄っぺらい教育ロボットになってしまうのではないか、と私は思います。
考えすぎかもしれませんが、全員が同じことを言ってのける世界は、究極的には全体主義みたいなもんですから、皆が安易に思考停止してしまったら怖いですよね。
※参考までに、中学校学習指導要領総則の「道徳」の項目を載せておきます。
学校における道徳教育は,道徳の時間を 要 として学校の教育活動全体を通じて行うものであり,道徳の時間はもとより,各教科,総合的な学習の時間及び特別活動のそれぞれの特質に応じて,生徒の発達の段階を考慮して,適切な指導を行わなければならない。
道徳教育は、(中略)人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し,個性豊かな文化の創造を図るとともに,公共の精神を尊び,民主的な社会及び国家の発展に努め,他国を尊重し,国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。■ 立場が変われば、「正しさ」は変わりうる
本書では、○○ニズムや△△主義の考え方の相違点を基にして、「立場が変われば「正しさ」が変わる」ということが説明されています。本書の中核を成すテーマといっても良いかもしれません。
自分は「哲学」や○○ニズム、△△主義といった言葉に非常に弱いのですが、本書はそれらが分かりやすくまとめられていて、自分でも理解しながら読み進めることができました。
「正しさ」が変わることを示す、分かりやすい例を本文中から一つ引用すると、自然を「保全(conservation)」する立場と「保存(preservation)」する立場における対立が挙げられます。
前者は、現代を生きる私達が利用するために自然を保護する立場(人間中心主義)、後者は自然の美と尊厳そのものを守ろうとする立場(自然中心主義)です。
両者とも、「自然を保護するべきだ」という主張は似ていますが、その根幹には実用的功利主義と超越的精神主義の両者の「正しさ」の対立構造があります(p.125)。
簡単に言えば、前者の場合、自然は保護しますが、人間が生きるために必要な分は利用します。利用可能な自然がなくならないように保護するのが、前者です。
対して、自然に手を加えたり、自然から搾取することを一切嫌うのが後者です。
無論、ここでは「どちらが正しいか」という議論は無駄です。たとえ議論したとしても、そもそもの「正しさ」が異なるため、議論は終着しません。立場が変われば、「正しさ」も変化するからです。
少し話は変わりますが、教員採用試験の面接などでは、「こういう場合、あなたならどうするか」という質問をされることが多くあるようです。
しかし、ここで試験官が言う「あなた」が指すのは単なる「私」ではなく、「教員としての私」です。そのため、単に「私」個人の価値観で話してしまい、ある程度テンプレート化された回答をしないと、「この人は教員に向かないな」と安直に判断されてしまうわけです。(滅茶苦茶普通のことですね・・・)
先ほどは回答のテンプレート化には否定的な意見を述べましたが、採用する立場は採用される立場に対して、必然的に優位ですから、やっぱり時と場合によってはそれを言うことも必要なようですね。
上でも述べましたが、このときにどれだけ(テンプレートから外れすぎず)「私」を出していけるかが大事なのかもしれません。
教員という立場上、迅速な判断と行動が求められる場合も多いはずです。しかし、教員として当然の判断・行動は、いくら迅速で正しくても非難の対象になってしまうということは大いにあり得ます。
実際、体罰の問題やいじめの問題に関しての近頃の教員に対する批判は、そういった「正しさ」の違いから生じるものなのかもしれません。このような批判は、立場が異なるため、真っ向から対立したら絶対に帰着しないんでしょうね。
■「公共性」に可能性を見出す
上では「立場が変われば正しさも変わる」ため、「正しさ」についての議論は無駄だと書きました。しかし、それでは正しさが乱立し、そのどれも「正しい」、何でもありのカオスな社会になってしまいます。
それでは、どのようにすれば多様な「正しさ」をまとめることができるのでしょうか。
小川氏は、「私」と「公」をつなぐ「公共性」にその可能性を見出しています。先ほどの自然保護の議論も、縦の公共性(世代間倫理)の観点から考えることで、議論をより良い「正しさ」に繋げていく可能性を見出すことができるようです。
少し考えてみると、先ほど述べた「あなたならどうするか」という教員採用試験の面接での質問で求められているのは、「私」と「公」の両者をどのように尊重していくかという「公共性」の問題なのかもしれないですね。(思いつき)
■おわりに
最後になりますが、本書は学校教育に限定した話はほとんどありません。むしろ、社会教育的な語り口だと感じました。なので、社会を生きる全ての人におすすめできる本だと感じています。
良書です。
教育現場は、ある意味他の社会から隔離された空間です。教員も、一度自分の価値観の「正しさ」に固執してしまうと、それを変容できるような刺激に出会うことも必然的に少なくなります。
教員、或いは教員を目指す身であれば特に、「正しさ」の是非ではなく、その「正しさ」の根源を探る過程こそ、重要視すべきなのかもしれません。
4月から新しい環境でがんばるみなさん、是非あたまを柔らかくして、多くの「正しさ」を吸収していってくださいね!
遊びに戻ってきたら、いっぱい話しましょう!
あ、ついでに、面接官に好まれるテンプレート教えてください(切実)