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2013年6月25日火曜日

生成文法入門を振り返って

昨年10月に教育実習を終えた時、学部の有志6名で文法勉強会なるものをはじめました。趣旨としては英語教師として文法の知識をより深めよう!と、ふんわりした雰囲気で始動しました。

この勉強会では担当が週ごとに替わるのですが、担当は自分がやりたいテーマを選ぶことができます。これまで扱われて来たのはセンター文法問題の過去問演習、翻訳、英文解釈、英語史、メタファー(語彙の意味拡張)などで、バリエーションに富んでいるのが特徴です。その中で自分は「生成文法入門」と題して、これまで4回に渡って生成文法の基礎知識を扱ってきました。以下は、自分が担当してきた「生成文法入門」を振り返りたいと思います。


■ 概要・意図
生成文法をテーマに選んだ理由は、イギリス留学中にチューターから進められた本(The Language Instinct)でXバー理論が登場し、「なんかよぉわからんけど、かっこぇぇ!」と感じたことでした(笑)(まあ、せっかく調べるわけですし。モチベーションはあるに越したことはありません。大概、学習動機などは単純なものです。)これまでのテーマは以下の通りです。



第1回:樹形図を描いてみよう!(Xバー理論、普遍文法)
第2回:アルゴリズム的指導法を考える。(移動、Xバー理論)
第3回:高校英文法を生成文法の切り口で考える。(句構造規則、補文標識、原理とパラメータのアプローチ)
第4回:anyとnotはどちらが先?(C-Command条件、否定極性表現、時制句)



我ながら、参加者に無配慮で行ったなと実感しています。(参加して頂いた皆さんに本当に感謝しています。)また、予め断っておきたいのですが、「生成文法を教えるなんてたかだか数冊読んで程度の学生にできるか?」というお言葉は最もです。しかし、今回は生成文法の基礎知識を使って文法観を拡げることが目的でした。従って、「教えるー教えられる」関係というより、むしろ「(お題を)提供する―思考して吟味する」関係を目指して行いました。なので、専門家でも何でもない分不正確な部分も多かったことは認めます。

■ 教材
使用教材は固定はしていないのですが、参考にした書籍としては以下があります。(Chomskyの原著を読んでいないのは大変なことだと思います。申し訳ありません。)


渡辺明(2009)『生成文法』(東京大学出版)
町田健(2000)『生成文法がわかる本』(研究者出版)
ダニー・D・スタインバーグ(1995)『心理言語学への招待』(大修館書店)
Steven Pinker(2009)"The Language Instinct: How the mind works" (W. W. Norton & Company; Reissue edition)
George Yule(2005)"The Study of Language"(Cambridge)

特に渡辺(2009)には大変お世話になりました。院生の先輩からご紹介頂いた書籍で、とてもわかりやすく日常言語使用と結びつけながら考えることができました。



■ テスト解答・講評

第4回のときに、簡単なテストを行いました。今回出題したのは、以下のような問題でした。

生成文法入門①~④を通してあなたが学んだことを、中学生または高校生に紹介することになった。(彼らは割りと言葉に興味はあるが、難解なメタ言語は勿論学んでいない。)勉強会で学んだ事柄のうち、どれでも良いから1つ選んで、それを面白く、分かりやすく説明せよ。

テストという題目で行ってはいますが、評価をするという意図は全くありません。むしろ、自分の説明でどれだけ理解できているかを知りたかったからです。それに加えて、言語学で抽象的に語られる事柄も、うまく扱えば言語の面白さ・深さを味わう絶好のチャンスとなると私は思います。言語教師として「言語観」は必要なわけで、言語の面白さを伝えられる人でありたいと(少なくとも自分は)思うので、このような問題を作ってみました。(従って、評価基準も採点基準も一切決めておりません。提出した時点で皆さん100点です笑)

以下は私が用意した解答例です。



テーマ:1つの文でいろいろな意味になってしまう?!   対象:中3(男子校) 
よく、英語のテストで「以下の下線部を日本語に直しなさい。」ってあるよね。そんな問題がテストに出ていると、なんだかまるで答えが1つしかないように感じてしまう。すなわち、ある1つの英文は1通りにしか日本語に訳せないみたいに。
でも、実際はどうだろうか。1つ英語の文を読んでみようか。
突然だけど、すごく美人なお姉さんからこんなお願いをされたら、君ならどうする?
“Please paint me without any clothes on”
さて、断るかな?それとも引き受けるかな?
実はこの文は2通りに意味を取ることができる。
1つ目は、without any clothes onがpaintにかかって、「私の絵を、(あなたが)何も着ないで書いてください。」という意味。もちろん、これは恥ずかしいから断るよね。(いや、断りなさい。)
2つ目は、without any clothes onがmeにかかって、「服を着ていない私の絵を描いてください。」という意味。これは・・・まぁ、引き受けるよね笑。(こんなことないだろうけど。)
このように、1つの英文でも複数の解釈ができてしまうんだ。これを構造的あいまい性と言うんだけど、要するに1つの文であいまいな意味になってしまう、ということ。
これからもっと文法を勉強していくと、こんな面白い発見もできるから、私のことは嫌いになっても、文法のことは嫌いにならないでね(笑)
参考文献
門田et.al(2012)『音読指導ハンドブック』(大修館)

まぁ、下ネタですが(笑)構造的あいまい性も言語の複雑性を表す1つの例だと思います。ある英語の文は1つの訳し方しかないと仮に思い込んでいる生徒がいれば、彼にとっては自分の考えを見直すきっかけになると思います。

では、参加者の方の解答を以下に示します。(本人からの許可は既に得ています。)


(1) I君
テーマ:英語と日本語って別のもの?  対象:中3(最初くらい) 
ほい。今日から中3のスタートだね。中学校で2年間英語を学んできて英語が好きな人も嫌いな人もいると思います。英語がきらいな人に日本語とぜんぜん違うからっていう人が要るけど、本当にそうかな。え、先生なんすか?英語と日本語って別じゃないんすか?一緒なんすか?それでは今日は、英語と日本語の同じところ、違うところを明確にしてみよう!
※グループで英語と日本語の違い(同じところ)について話し合わせる。
 予想される答えには、「動詞がある」「母音がある」「文字が違う」がある。
実は、言語の研究の中には、文法に関して全ての言語に共通する部分があるという考え方があるんだ。それを普遍文法というんだよ。みんなの出た答えの中でいうと「主語と動詞がある」が近いものだね。英語も日本語も(隠れている時もあるけど)主語と動詞があるよね。でも語順は利がうよね。いつも口をトリプルアクセルさせて言っているように、英語は語順が大切だ。今年も語順に気をつけて勉強していこう。

【講評】
言語の共通性という点を入り口に、「原理とパラメータのアプローチ」を中学生にも分かり易いように示しているようです。「トリプルアクセル」「え、先生なんすか?」らへんに解答者らしさが表れています(笑)
ちなみに、「日本語にも英語にも主語・動詞がある」については、最近では日本語主語不要論も存在することも併記しておきたいと思います。

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(2) T君
テーマ:全ての言語に共通すること 対象:高1 
そんなことあるんかって思うやろ?
名詞句で考えてみよう。名詞句の中心となる語は……名詞。つまり、"pen"か"ペン"。この2つの場所に注目してみよう。


どっちも一番最初の「名詞句」のところから見たら2つ目にきてるやろ?中心となる語が2つ目にくる法則をXバー理論っていって、これはどの言語にも当てはまるんやで。


【講評】
一番難しかった(と個人的に思っている)Xバー理論を選んでくれたのは、純粋に嬉しかったです。例も分かりやすく、面白いと思います。彼自身がXバー理論の回で感動したようです。
やはり、先生自身が「すごい!」と思ったことは、なんらかの形で生徒にも伝われば嬉しいですよね^^Xバー理論は自分もまだ理解が曖昧だと思うので、お互い新しいことが分かったら情報交換したいですね。




(3) F君
テーマ:文でも句でも言いたいことは1つ!それを見抜け! 
学年があがると文構造はどんどん複雑になっていく。それでも結局言いたいことは1つだ!それを見抜いていけば、難解な文も読めるようになるかも!?例えば、以下の英文があったとする。
"The artists who succeeded best in doing so often produce the most exciting works."
これを分解すると、まず名詞句と動詞句に分けられる。ここでは、"so"までがNP(名詞句)、often以下がVP(動詞句)だ。(区切り方に注意!)これを深~~く見ていくと、それぞれの句の一番大事な部分はartistsとproduceだと分かるね!ここまで考えることができたら、もっと複雑な文でも分かりやすくなるよ!


【講評】句の主要部についてを英文解釈で活かす、という試みをしてくれました。複雑な英文になると匙を投げてしまう生徒も多いと思います。しかし、「結局この長い部分は何が言いたいの?」と考えてみるとはっきりすることもありますよね。(a red pen which my father gave me the day before yesterdayは結局penのことを言っている、といったように。)ちなみに、このような句に注目した指導は既に先行研究も存在しています。(山岡, 2001 "A Proposal for the Instruction of English Phrases: Focusing on the Endocentricity":以下から参照可能 http://hb8.seikyou.ne.jp/home/amtrs/mokuji.htm)こちらもよろしければご参照ください。




これらを読んで頂いてお分かりのことと存じますが、別に生成文法の話を中学生にしてもらいたいという考えは私にはいっさいありません。学習会で学んだことをどれだけ他者に分かりやすく説明できるか、特に自分が面白いと思った点を説明することが重要と思い、このような設問を出した次第です。皆さんの解答を読みながら、「普遍文法」や「句の主要部」といった学習会の主なテーマの部分が伝わっていることが実感できました。(但し、他の周辺部については記述がなかったため、説明方法や資料が悪かったと反省しております。)

改めて、今回の文法勉強会は自分を成長させてくれたと実感しており、主催者のsava君には大変感謝しております。また教採直前にも関わらず参加してくれた参加者の皆さん、参加できなくてもプリントだけもらってくれて復習してくれた皆さん、ありがとうございました。自分にとっても大変良い学びの機会となりました。
また10月から再開できるのを楽しみにしております。そして、興味のある方は(学年の違いに関係なく)ぜひご参加してもらえたら嬉しいです(^^)




2013年6月15日土曜日

三田紀房(2009)『個性を捨てろ!型にはまれ!』(だいわ文庫)



今回紹介するのは、マンガ『ドラゴン桜』の作者である三田先生が書かれた『個性を捨てろ!型にはまれ!』という本です。

この本を学部の控え室で読んでいると、向かい側で勉強していた友人が「えっ?これっていいの?」と言っていましたが、彼女の気持ちはとてもよく分かります。なぜなら教育の世界では「個性を大切に」というのが暗黙の了解だからです。実際、生徒指導提要も「個性の伸長」という言葉を用いているわけです。ところが、なぜ個性を伸ばすことが当たり前なのでしょうか。逆に「型にはまる」ことは否定されるべきなのでしょうか。

このような「暗黙の了解」こそ、疑ってみると面白いのではないでしょうか。特にタイトルを見て「そんなバカな!?」と思われた方にこそ、この本を読んでもらいたいです。そして、本書の鋭い視点に対してどのように反応するか。

以下、私が個人的に面白いと思った箇所を引用し、私見を述べてあります。ぜひ考えてみてください。



■ 型を学んでからの「型破り」

さて、本書は以下のような啓発的な文章で幕をあけます。

個性って、そんなに大事なものなのだろうか?個性が育てば、この国が抱える問題は一挙に解決するのだろうか?僕は、そうじゃないと思う。むしろ、この不気味な個性幻想が若者たちの足を縛り、身動きをとれなくしている。まるで「個性がなければ人にあらず」といった風潮になり、数多くの若者が文字通りの意味で路頭に迷っている。だからこど、僕は言いたい。「個性を捨てろ!型にはまれ!」と。(p.6)

よい例かどうか分かりませんが、例えばあなたがバドミントン部の2年生だとします。新しく入った後輩があなたに向かってこのように言います。「なんか~、おれって型にはまるのは好きじゃないんすよね~。てか、オリジナルのフォーム作るんで、とりあえず素振りの練習は参加しないッス。まぁ、そういうことで、お疲れーッス。」さて、どのようにこの後輩に対応しますか。

中学生と以前このような話をしたら、「ランニングの周回数を倍にする(なるほど、体で分からせるのか)」「殴る(コラ!)」「笑顔で諭す(意外とこちらの方が怖いかも…)」などの答えが出ました。皆さんもこれに近いことを考えられたのではないでしょうか。すなわちオリジナルを生み出すには、ある程度の型が必要になるわけです。だから、多くの方はこの後輩に向かって「いやいや、まずは基本も大事だから素振りは参加しなさい」といったことを伝えるはずです。

すなわち、「型」があってこそ「型破り」になるわけです。

きっと、世間の人たちがなかなか素直に『型』がほしいと言えない背景には、次のような思い込みがあるのだろう。「才能がないヤツだけが『型』を求めるんじゃないの?」[...]これは多くの人が誤解しているところだけど、本当に才能がないヤツは『型』など求めない。むしろ才能がないヤツほど、自分の「秘められた才能」を信じている。[...]基礎がしっかりしているからこそ、応用もできる。基礎のない応用なんてありえないのである。(pp.40-42)

これは自分も教育実習前によく陥っていた失敗なのですが、模擬授業の計画を立てているとき「これじゃ普通の授業だな」「もっとオリジナルにしなきゃ!」「クリエイティブじゃないね~。」(当時はクリエイティブという言葉が周りで流行っていたので、きっとそう言っていたのでしょう笑)しかし、変に凝って作った授業は穴が多かったように思います。もちろん教師として多くの手法を引き出しとして持っておくことは重要です。しかし、まずは授業のオーソドックスな型(導入→展開→練習→まとめなど)を身に着けることが先決なのではないでしょうか。もし教育実習前の自分に1つアドバイスができるなら、間違いなく「オーソドックスな授業を当たり前に出来るようになるまでは、チャレンジはそこまでしなくて良い」と伝えます。

ドラゴン桜本編でも似たようなシーンがありました。以下、ドラマのシーンから引用します。

数学教師「お前たちは計算マシーンとなるのだ」
矢島(生徒)「おいおい、人のこと機械みたいに言ってんじゃねぇよ。…俺たち人間なんだから、機械とかマシーンみたいに型にはめられるのがむかつくんだよ。」
数学教師「型がなくてお前らに何ができる?…大体、素のままの自分からオリジナルが生み出されると思ったら大間違いだ。」


私はドラゴン桜の中で特にこのシーンが好きです。中学生の頃に見ていた時は矢島の意見の方が正しいと思っていたのですが、最近では教師の言うことも分かるようになりました。きっと作者もこの部分には特別な思いを込めたのではないかと予想します。オリジナルは結局「型」の組み合わせということを忘れないようにしたいと思います。




■ 真似すること

なにかを発明することばかりに躍起にならず、既存のアイデアを堂々とパクろう。そして、それをどう応用していくかについて、もっと真剣に取り組もう。われわれ日本人には、そうした「模倣と応用」を得意とするDNAが宿っているのだ。どうしてそれを活用しないのだろう?カレーを発明したインド人は偉いけど、そこからカレーうどんをつくった日本人も同じくらいに偉いのである。(p.62)

「おいおい、それパクリじゃん」と言われるのは誰でも嫌なものです。そのせいで誰かのやっていることを真似するのが億劫になってしまうことが自分もよくあります。しかし、真似(すなわち型にはまること)によって新たな自分のアイデアが生まれることもまた事実です。カレーにうどんを入れた日本人のように、他人のコピーをすることで新たな結びつきができるのではないでしょうか。

また話が変わりますが、大学受験生に自由英作文を指導する機会が最近増えました。そこでも、「さぁ、自由なことをのびのびと書くのです。オリジナリティ溢れる作品を楽しみにしてます」と指示したところで、文法的にボロボロな文章ができることは目に見えます。(もちろん、稀に教師を唸らせる作品を書く天才型もいるでしょうが。)むしろ、「ここにあるモデル文を大いに参考にして、まずは50語頑張って書いてみましょう」のような指示でも良いはずです。これを繰り返していけば、「これは前回マネした文と今回の文を組み合わせれば表現できる」という気づきに繋がる可能性もでてきます。(蛇足ですが、最近自由英作文指導をする時は、モデル文の誤りを生徒と一緒に直していき、それを基に各自が文章を書くというスタイルにしています。詳細は「まとまりのある文章を書くことの指導(2)-視写・書き加え・書き換えによる段階的指導-」(山岡, 2007)をご参照ください。

このように、マネをするのも立派な学びなのです。(学びという言葉が「マネび」から来ているという説もあるようです。)現に、私の自由英作文の授業も上の実践報告を参考に行っているものに過ぎません!(威張って良いのやら悪いのやら。笑)




■ オリジナルは不可能なのか

ここまで考えると、「何事も既存の型にはまることが第一」なのだから、「個性なんて必要ない」とやや悲観的になってしまいそうです。確かに、氏もこの論点からぶれてはないのですが、以下のような譲歩はされています。いかにして「真の個性」が作られるのか、についてです。

僕が言いたいのは、「人と違うこと」が個性ではない、ということだ。たとえば、オンリー湾とかオリジナルとかにあこがれている人は、自分を一種の美しい胡蝶蘭のように考えている。周囲の花々とは違う圧倒的な存在感を放ち、他を威圧するようにして咲き誇る。それが個性であり、自分もそうなるべきだと思っている。しかし、何万本と咲く菜の花畑の一本にも、個性はある。同じ場所に咲き、同じ色をして、同じくらいの大きさで、遠めにはまるで区別がつかないくらいの花だけど、そこにも個性はある。(pp.183-184)

つまり、最初からオリジナルなどありえないのです。ある程度型にはまった上で、他と均質な状態になった上で自分が出せるオリジナリティを出せばよいのです。さもなくば、自分の考えた企画に対して「これはオリジナルじゃない」と悩む必要もなくなります。

最後にこのような綺麗な例が出されていますが、全体を通して本書は非常に厳しい語り口で書かれています。私の記事を読んでも「結局この人は型にはまれ、としか言ってないじゃないか」と思われるでしょうから、気になった方はぜひ手にとってみてください。この記事では伝わらない、作者のメッセージが読み取れるかと思います。(ちなみに教育問題としては、ゆとり教育、国旗掲揚の是非なども述べられています。)

本書を読まれた方と意見交流できれば幸いです(^^)

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2013年6月10日月曜日

受験英作文の問題文一行から<他者>について考えてみる



最近、大学入試の自由英作文の問題を見る機会が増えた。問題文は各大学趣向が凝らしてあり、読んでいるだけでも意外と面白い。答案作成に使えるであろう専門用語がご親切に乗せてあったり、写真のせりふを書かせる形で出題したり…。その中で、以下のような一文を問題文に入れた大学があった。

「70語でかけ。但し、How are you?は3語で数えよ。」


この文の意味がお分かりだろうか。受験生によっては、"?"のような記号も1語と数えるのかもしれないと危惧し(あるいはそのような実例があったのだろうか)、このような但し書きが添えられたのである。大学側のサービス精神と考えるのが妥当だろう。



しかし、この文も偏屈な受験生の銃剣四太郎(じゅうけんしたろう)君にはこう解釈されてしまうかもしれない。

「つまり、大文字で書き出す単語は数えてはいけなくて、"are" "you" "?"の3語と数えるってことね。」


あるいは、同じくらい偏屈な丹生静香(にゆうしずか)さんはこうも解釈するかもしれない。(最近、オリジナルキャラクターの名前を捩るのにはまっています笑)

「ふーん、この大学ではbe動詞は1語に数えないで"How", "are", "?"の3つに数えてるのね。(じゃあ、be動詞は使わないで一般動詞を用いた文をいっぱい書かなきゃ♪)




現実的にこのような受験生が存在するかどうかは置いておいて、問題文の記述がこれまでで3通りに解釈されたことになる。

(1)「?のような記号は語数に数えない。」(問題作成者が意図した内容)
(2)「大文字で書いてある英語は語数に数えない。」(四太郎の解釈)
(3)「be動詞の活用形は語数に数えない。」(静香の解釈)


ここまで読んで「何を馬鹿な」と思われた読者の方は、いたって正常である!(笑)ほとんど全ての受験生は上の文を(1)にしか読み取らないためである。では、どうして私たちは(1)のような解釈が可能だったのだろう。なぜ四太郎や静香は(2), (3)の解釈にいたったのだろう。


この問題に答えるため、ウィトゲンシュタインの<他者性>概念を用いたい。

結論から言ってしまえば、ウィトゲンシュタインにとって「他者」とは私の言葉をまったく知らない者=同じ規則を共有しない人である。以下は、『哲学探究』の第20節の一部である。


20 われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが「石版をもってこい!」という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か「建材」といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない……。

柄谷(1992)はこの一節に対して次のような説明を試みている。

「われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人」は、ウィトゲンシュタインにおいて、たんに説明のために選ばれた多くの例の一つではない。それは、言語を「語る-聞く」というレベルで考えている哲学・理論を無効にするために、不可欠な他者をあらわしている。言語を「教える-学ぶ」というレベルあるいは関係においてとらえるとき、はじめてそのような他者があらわれるのだ。私自身の“確実性”をうしなわせる他者。(p.8)

柄谷氏はある2人の関係を「語る-聞く」と「教える-学ぶ(教えられる)」の2種類に分類している。両者の決定的な違いは何だろうか。それは、前者では話が通じるのに対し、後者の場合はお互い共通の規則を持っていない点だ。現に予備校や教育実習などで子ども(生徒など)に教えた経験のある人は心当たりがあるだろうが、自分にとって当たり前のことを、相手である生徒はまった
く分かっていないのだ。これもお互いの共通規則がない一つの例である。

しかし、共通規則を持たない生徒に対して私たち教師は「教える」という行為をしなければならない。そこで「命がけの跳躍」が必要となる。(これについては、後日詳しく述べたい。)簡単に言えば、、自分とは違う前提を持つ<他者>に対して、自分の教えたい内容を伝えることだ。この時の「教える-学ぶ」関係は、一見すれば権力関係が働いているようだが、柄谷氏はすぐにこれを否定している。

第二に、「教える-学ぶ」という関係を、権力関係と混同してはならない。実際、われわれが命令するためには、そのことが教えられていなければならない。われわれは赤ん坊に対して支配者であるよりも、その奴隷である。つまり、「教える」立場は、ふつうそう考えられているのとは逆に、けっして優位にあるのではない。むしろ、それは逆に、「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。(pp.8-9)

この考え方は、自分は本書(『探究I』)を手に取るまではしたことがなかった。感覚的には気づいていたのかもしれないが、「教師」が従属的立場とは逆説的に聞こえる。

ここまでを踏まえて、もう一節『哲学探究』から別の箇所を引用したい。

185 われわれは、いまかれにもうひとつ別の基数列を書き出すことを教え、たとえば「+n」という形の命令に対しては、0, n, 2n, 3n, 等々の形の数列を書き出すようにさせる。すると、「+1」という命令を与えれば、基数列が得られることになる。-われわれが練習をし、1000までの数空間におけるかれの理解能力の抜き打ちテストをしたとしよう。いま、生徒に1000以上のある数列(たとえば「+2」)を書き続けさせる。-すると、かれは1000, 1004, 1008, 1012と書く。われわれはかれに言う。「よく見てごらん、何をやっているんだ!」と。ーかれにはわれわれが理解できない。われわれは言う、「つまり、きみは2を足していかなきゃいけなかったんだ。よく見てごらん、どこからこの数列をはじめたのか!」-かれは答える。「ええ!でもこれでいいんじゃないのですか。ぼくはこうしろと言われたように思ったんです。」-あるいは、かれが数列を示しながら、「でもぼくは〔これまで〕同じようにやってきているんです!と言った、と仮定せよ。-このとき、「でもきみは……がわからないのか」と言い-かれに以前の説明や例をくりかえしても、何の役にも立たないだろう。-われわれは、そのような場合に、よっとするとこう言うかもしれない。この人間は、ごく自然に、あの命令を、われわれの説明にもとづいて、ちょうど「1000までは常に2を、2000までは4を、3000までは6を、というふうに加えていけという命令をわれわれが理解するように、理解しているのだ、と。

この例でも、「生徒」は柄谷氏が上で述べた「外国人」のように、<他者>として描かれている。すなわち、この数学教師の持つ規則は彼には通じなかったのだ。このような<他者>を相手に教えるのは骨が折れそうだ。互いの規則が違うのだから、教師には小まめに相手の理解を確かめる作業、自分の規則を言語化する段階が求められるのだろう。

ここまでくれば、最初の自由英作分の問題文も解釈の違いが出ることに説明がつく。受験生ももちろん全員<他者>であり、問題作成者が「当然」と思って作った文も、規則の異なる相手には異なる解釈をされてしまうかもしれない。

<他者>を相手とする教育現場。教師に何が必要かは、これから考えていくしかない。


【参考文献】
ウィトゲンシュタイン(藤井訳)『哲学探究』(大修館書店)
柄谷行人(1992)『探究I』(講談社学術文庫)

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※追記※
ここまで読んでいただいてありがとうございます。読むに値するものだったかどうかは皆さんの判断にゆだねます(笑)

自分の表現力の拙さで難しすぎる話になってしまったと思います。最近教育哲学演習の授業を受けている時や、ディスカッションをしているときによく頭に浮かんだことについてを『探究I』をベースにまとめたものになります。自由英作文の例は「そういえば!」と思いついて含めてみました。もちろんだからと言って「あの問題文は不適切だ!」と言う気は全くありません。ただ、受験問題のほんの一文からこんな想像も可能ですね、という例を示したにすぎません。あくまでこの記事は、<他者性>について自分の頭の中に溜まったもやもやを文章にすることが目的です。

この<他者性>を元にして、「いじめ」や英語教育、あるいは翻訳について考えを深められないだろうかと考えておりますが、まだまだ理解が追いついていないので、マイペースに読んでいけたらと思ってます。(なんと吞気な。)

なお、他者性に関しては丸山恭司(2000)「教育において<他者>とは何か-ヘーゲルとウィトゲンシュタインの対比から-」『教育学研究』第67巻第1号(2000)が大変参考になります。興味のある方はぜひ読んでみてください。

さて、そろそろ次の記事はサバ君が書いてくれるだろうから、ここらへんで終わりにしましょう。笑

さよーならーー!!

2013年6月3日月曜日

「定義」を定義する


ここ最近、「定義」について考えるようになった。例えば、ディスカッションの勉強会を行っていても”ITC”という言葉でお互い意味する範囲が異なって誤解が生じたことがあった。このようにお互いの想定がズレるのは英語に限らない。日本語ディスカッションを行っていても、「言ってることが噛み合わなかった気がする」という感想がしばしば聞かれる。

また教育哲学演習の授業では、ある子どもが「白」という概念をどのように習得するかに関する説明を受けた。例えば、ある子どもが持っている「白(Aとする)」がある。その子どもが「白」に見える色を指してこのような対話を大人とする。


子「ねぇ、これって白い?」
大「いや、これは白ではないね。」
子「ふーん、そうなんだ。」


上の例で大人が持っていた白を「白B」とすると、白A≠白Bであることが分かる。また、大人の「いや、これは白ではないね。」によって、子どもは自らが持っていた白Aの概念を更新せざるを得なくなる。ここで新しくできた概念を白Cとする。





ここでできた「白C」は「白A」「白B」とも異なる「白」である。すなわち、人によって「白」が意味するものは異なる。これが色だけならまだしも、ディスカッションする際のキーワードであれば混乱が生じることも容易に想像できるはずだ。

科学論文等における定義とは異なり、日常生活で使う定義(一般的定義)はいわゆる<他者性>によって曖昧になりがちのようだ。そこで、本記事ではイズラエル・シュエフラー(1987)「教育の定義」『教育のことば―その哲学的分析』(村井実監訳)を基に、日常生活で用いる定義を分類することを試みる。


(1) 規約的定義(stipulative definition)


「被定義語を明示し、ある特定の文脈中ではそれを他に示された何らかの誤や記述と同等なものとみなすように指令すること」(p.19)である。規約的定義は被定義語が定義される前に持っていた用法によってさらに区分される。すなわち、被定義語に定義以前の用法がない場合は「創作的(inventive)規約」と呼ばれ、もともと何かしらの用法がある場合は「非-創作的(non-inventive)規約」とされる。

 上記の説明のみでは想像がつきにくいかもしれないので、大学のセメスターが終わると出される成績を例に説明する。我々の成績表には“S”“A”“B”…といったアルファベットが出されて、この一文字一文字に一喜一憂する訳だが、もともとこれらのアルファベットには用法(意味)は存在していない。したがって、「本カリキュラムを優秀な成績で修めた」を“S”にすることは、創造的規約の定義となる。それに対して、「合格」「不合格」のいずれかも成績表に書かれているが、これらの単語にはもともと意味がある。したがって、「あなたは本カリキュラムの単位を修めた。」を「合格」と表すのは非-創造的規約の定義である。

これらの定義をする目的は、コミュニケーションの便宜上短いことばで言い換えることにある。もし規約的定義を用いなければ、いちいち成績表には「本カリキュラムを優秀な成績で修めた」「あなたは本カリキュラムの単位を修めた。」と記されることになる。しかし、これでは読みづらいし、話し言葉ではこのようなまどろっこしい言葉は避けられる。したがって“S”や「合格」といった言葉を定義づけて用いているのだ。


(2) 記述的定義(descriptive definitions)


記述的定義とは、「被定義語を、その従来の用法を記述することによって説明する(p.23)」である。

・・・気づかれた方もいらっしゃるだろうが、上の文も記述的定義となる(笑)。記述的定義はこのように意味の明確化のために用いられる。

例えば、英語教育専攻の太郎君と哲学専攻の良子さんがおしゃれなカフェで以下の会話をしたとする。

太郎「あのさ、CEFRって便利だと思わない?これで生徒の力を図れるよ。」
良子「うーん、わかんないな。私たち言語ゲームが成立していないように思えるわ。」
太郎「ゲームか。そういえば、ゲームみたいなコミュニケーション活動もいいけど、僕はフォーカス・オン・フォーム派かな。」
良子「いろんな立場があるのね。いわゆる大陸論と合理論みたいなものかしら。」

 このようなカップルがいればぜひお目にかけたいものだが(笑)この会話を記述的定義を用いたら上手く会話になるかもしれない。

太郎「CEFRって便利だと思わない?あっ。CEFRっていうのはヨーロッパで使われてる言語熟達度を示す共通の参照枠のことなんだけど。これで生徒の力を図れる。」
良子「へぇ、便利ね。私たちの言語ゲームは成立してるようね。ちなみに言語ゲームとは後期ウィトゲンシュタインの基本概念で、言語による生活の成立を示しているんだけど。」
(以下省略)

 まぁ、記述的定義を用いてもこのカップルの不自然さはむしろ強調されたわけだが(笑)「明確化」という意味は分かって頂けたかと思う。(てか、良子何もの?笑)


(3) プログラム的定義(programmatic definitions)


 一般的定義による実践的役割が意図される場合、その定義を「プログラム的定義」という。例えば、以下の文章を読んでいただきたい。

 今までは明らかに「専門職」という語の適用範囲の外におかれていたWというある種の仕事を想定してみよ。そして、「専門職」という語を結果としてWという仕事にも適用できるような定義が提示されると考えてみるがよい。文脈から考えて、この定義はコミュニケーションを容易にする削除や省略の工夫を採用するためだけに用いられているのではないことは明白である。[…]当の定義をする人の目当ては、それらの定義とは異なった点にあるのである。彼は、Wという仕事に、定義以前の用法の「専門職」という語を適用することができるほかの種類の仕事と動揺の処遇を請けさせたいのである。(pp.33-34)

ここでは、「Wは専門職だ」という定義づけによって、コミュニケーションの便宜化でもなければ明確化でもない、他の効果が期待されている。このように名づけによる語用論的な言語行為(speech act)とも言えるタイプをプログラム的定義と呼ぶ。

※言語行為(speech act)”An action performed by the use of an utterance to communicate”(George Yule, 1996)。簡単に言えば、ある発話によって期待される効果である。例えば、「のど渇かない?」という良子の発話によって、太郎がジュースを買いに走らされたとしよう。この時、「のど渇かない?」の言語行為が「太郎がジュースを買いにいく」という行為である。

このように3種類の定義を紹介してきたが、これらは明確に区分されるとは限らず、文脈によっては重複することももちろんありえる。(例えば法律的文脈ではこのような現象がよくおきる。)

このように長々と説明してきたが、これら定義の区別をしておくだけでも、発表の際などで自分がどのような定義を今必要としているか把握することもできるだろう。さらに、それぞれの定義が目指そうとしている点を重視することができれば、不必要な議論を避けることもできるかもしれない。

これら三種類の一般的定義を互いに競わせたり、そのうちのいずれかの定義、もしくはすべての定義と科学的定義を競わせたりすることは、明らかにまったく的外れな企てである。それぞれの定義にはすべて完全に正当な目的があるのであり、ある種の定義に対して賛否を決定したり、一定の価値のものさしですべての定義をランクづけたりすることはまったく必要ではない。必要なことはむしろ、いずれの定義にとっても、それについての批判的な評価はそれぞれの低が用いられる場合に問題となっている論点に対して行われなければならないということである。これまでに試みてきた定義間の区別は、そのことに役立つことであろう。(pp.36-37)

【参考文献】
イズラエル・シュエフラー(村井実監訳) (1987)「教育の定義」『教育のことば―その哲学的分析』(pp.15-63)東洋館出版社

George Yule(1996)”Pragmatics”Oxford University Press (p.134)

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