ページ

2015年5月26日火曜日

平田オリザ (2004) 『演技と演出』講談社現代新書

こんにちは、mochiです~。

今のゼミに入って早2年が経ちました。少しずつですが、自分にとって魅力的な「師」が見つかってきました。たとえば、教育哲学であれば苫野一徳、他者論であれば柄谷行人や木村敏、翻訳 (小説) であれば村上春樹、ぼんやりと魅力を感じているウィトゲンシュタイン、ヘーゲル、ルーマン、などが当たります。もちろんまだまだ理解にはほど遠いですが、少なくともほとんど読書しなかった高校時代に比べれば、多少は成長したのかもしれません。

今回紹介する『演技と演出』を書いた平田オリザ先生も、間違いなく上に該当します。平田先生は演出家という立場で、英語教育専攻の自分とは接点がないはずですが、著書にはとても共感するところが多く、「他者」の捉え方やコミュニケーション観についてもうなずけるところばかりです。(だからこそ、まだ現段階では批判的に読むことができていないのかもしれませんが。)

最近自分が演劇ワークショップに参加したこともあり、また来年から中学校の教師として現場に出ることもあってか、とても示唆に富んだ読書となりました。ただ、せいぜい数回演劇体験をしただけの自分には、ここに書いてある内容が頭での理解に留まっており、まだ身体実感を伴った理解に至っていません。

そこで、本書の中心主題である「演劇」について正面から紹介することは避け、むしろ自分の得意分野(?)である「言語教育」に絡めて本書の魅力を紹介したいと思います。したがって、平田先生の核となる考えをまとめるといった類ではなく、言語教育専攻の院生が本書を通じてぼんやり考えたことを文章化したものだと理解してお読みください。

演技と演出 (講談社現代新書)
演技と演出 (講談社現代新書)平田オリザ

講談社 2004-06-20
売り上げランキング : 14684


Amazonで詳しく見る
by G-Tools



■ ワークショップにおける平田先生の「表現」観

平田先生は小学校国語の教科書執筆にも関与されており、学校でワークショップを開くことも多いそうです。ワークショップでは「仲間を集める」というコミュニケーションゲームから始めるようで、たとえば「好きな果物!」というお題であれば、参加者が「イチゴ」「メロン」のように好きな果物を言って、同じ果物のグループを作ります。この時に、同じ果物の相手がいなくても、あるいは「果物は嫌い」という答えであっても構いません。こういったアイスブレイク活動を通して、声を出すことへのバリアーを取り除くことが期待されますし、何より声を出すことの楽しさを知ってもらえるという意義 (p.19) があります。

ただし、中学生を対象としたワークショップではうまくいかないことも多いようで、中学生同士が目配せしながら「バナナにしとく?」「そうだな」「おれも入れて」のように、声を出して欲しいという運営者の意図が成功しないこともあります。そういった場合は、相談を禁止するのではなく、相談できないようなお題(例:電話番号の下四桁、生まれた月など)を設定することで、対応するようです。ただし、それでも中学生同士で適当に話しをつけて仲の良い友達同士でばかりチームを作ってしまうこともあるそうで、その場合はあまり無理に強制せず、ただ少しでも場の雰囲気が変わるのを期待するようです。個人的にこの部分はとても好感が持てて、教育現場の対応には普段みられないゆとり(あそび)が子どもたちに良い作用を及ばすのではないかという気がします。

もちろん、これでも相談してしまう中学生はいるかもしれません。それはもう仕方のないことだと諦めます。演劇は、マジックではないからです。...
しかし一方で、そうなってしまった子どもたちだからこそ、少しでも私たちのワークショップが、彼らの心に揺さぶりを与え、何人かが勇気を出して、自分の好きな色や果物を、大きな声で言えるようになればとも思います。そして、時間はかかりますが、半年、一年と続けて行くうちには、実際に何人かの子どもたちは、少しだけ表現の階段を上り始めるようになります。私は、表現教育というものは、その程度のものだし、その程度のものでいいと思っています。 (p.22-23)

最近の勉強会で話題になったのですが、私たちは「表現」という行為をあまりに単純に捉えてしまっているのかもしれません。外国語科の「外国語表現の能力」という評価規準(観点)は、個人の能力として、英語で話したり書いたりすることを生徒に求めます。まるで、「表現力」というものを授業でつけて、その力を「客観的に」評価するように。ただ、表現という行為を、個人という枠組みでなく「相互行為」「社会」という観点から見れば、聞き手の関心、コミュニケーションの意思 (Willingness to communicate) 、相互承認関係の構築度合いなど、多くの要因が複雑に絡み合って成立する行為として見なせます。平田氏は、従来の教育的な「個人単位の表現力」ではなく、「場・環境との相互作用」「複雑的現象」として表現を見なしており (p.138) 、もしワークショップがうまく行かないとしても仕方ない、ワークショップは万能薬ではない、そういった信念が上の引用から見て取れます。

こういった「複雑系」の中で演劇体験を行うのであれば、はっきりとした短期目標は示すことが難しくなるかもしれません。もっと言えば、「今日の授業でこの技能を獲得させる」というのはほぼ不可能となるでしょう。演劇という複雑な行為を「台詞を話す」「歩く」といった部分に分けてマニュアル化して一つずつ獲得させていくというやり方もありえるかもしれませんが、「部分の総和は全体にならない」というように、必ずしも演劇の場で生きる力がつくとは限りません。


■ 他人が書いた言葉を「自分の言葉として」話す

劇にはもちろん台本が存在し、俳優が読むのは、自分の言葉でなく他人の書いた言葉です。しかし演劇では、他人が書いた言葉をあたかも自分の身体から出たように「自分の言葉として」言うことが求められます。

しかし、この技術は簡単ではありません。なぜなら、他者の言葉の使い方はほとんどの場合自分とは異なるからです。平田先生はこれを「コンテクスト」 (p.91) という言葉で説明します。たとえば、劇のワンシーンとして、電車に乗っていて隣の人に「旅行しますか」というたった一言かけるだけであっても、普段からこのような会話をしていない人にとっては自然に話すことが難しいでしょう。つまり、脚本家が考える「旅行ですか」と演者にとっての「旅行ですか」では使い方が異なっており、この微妙なコンテクストの違いが「自分の言葉として」話すのを困難なものとします。

また、平田先生はここで、人間が犯しやすい大きな思い込みである「間主観性の一致」の説明をします。これはすなわち、自分がある言葉を発して表明した考えや物事について、他の人もまったく同じ言葉を用いるだろう、と(誤って)想定することです。たとえば、マクドナルドのことを「マクド」と普段言っている人は、当然他の人も「マクド」と言うと想定してしまいます。(だから、友人が「マック」と言うと、「え?」「あ、マック派なの?」というよくある反応が生まれます。笑)

去年、大学院で出会った友人が言っていましたが、平田先生のコンテクストの刷り合わせの議論は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論と合わせることもできるかもしれません。言語使用は客観的な意味を機械的に引き出すのでなく、その人の「生活形式 (Lebensform) 」込みで成立する営みといえます。人によって人生・生活が異なっているのだから、言語使用が人によって異なるのも当然です。上の例では、関西で生活しているのか関東で生活しているのかで「マック」か「マクド」かは異なるでしょう。

ここまで来て、俳優は、他者のコンテクストを自らのコンテクストと刷り合わせて台詞を読むという力が求められることに気づきます。演出家にとって、それを助ける(イメージの補助線を引く)のも仕事です。

思えば、この技術は翻訳家にも求められる能力ではないでしょうか。翻訳家は多くの場合、外国語の起点テクスト(原書)を読み、そこに書いてある内容を母語で再表現します。そこでは起点テクストとの一貫性や忠実性も問題となりますが、何より自然で読みやすい日本語に書くことが求められます。ただ、起点テクストを「自分の言葉として」書くことはもちろん難しいでしょう。言語の異なる原著者のコンテクストを、自分のコンテクストで相当するもので表すことが求められます。その時、自分のコンテクストに豊富な言語があればそこまで困らないのかもしれません。村上春樹さんのように優秀な翻訳家は、起点テクストを読んで、その内容を日本語で的確に、しかもリズムを崩さないように訳します。しかし、そうでなければ、狭い選択肢から、しかも実感の湧かない日本語を書き連ねることしかできません。普段の読書によって自分のコンテクストを広げておけば、原著者のコンテクストとすり合わせやすくなるのでしょう。あるいは、その著者の他の作品を読むことで、著者のコンテクストに自分も少しずつ入り込んで行くこともできるかもしれません。

「俳優」「翻訳家」(ここに「教師」も入るかもしれませんが)は仲介者であるという点で共通しています。なにか台本や原書があって、それをお客さんや読み手に届けるという意味では両者は似た作業が求められるのでしょう。それは、自分の言葉ではない異質な言葉を、いかに聞き手(読み手)にぴたりと来る言葉や動作で言い換えるかという力です。認知言語学では entrenched といった概念で説明できるかもしれませんが、これをするには、普段の読書経験、他者理解の姿勢、そして人生経験の全てが関わってくるでしょう。



■ 観客の想像力の誘導

演劇は、それを観る観客が必ずいます。つまり演劇での脚本や演技の挙措全て、観客のために行われます。

平田先生は、高校生から「演出家って何ですか?」と尋ねられた際、「演出家というのはたぶん、その芝居を、どのように観客に見せればいいかを、一番一生懸命に考えている人のことだと思う。」 (p.127) と答えており、演出家にとっての「観客」の存在の大きさを物語っていると言えます。

演出家が観客の想像力を誘導する際、二つの方法がありますー想像力を開くことと閉じることです。想像力を開くとは、自由な解釈を許すことで、例えば男の子と女の子が二人で何も話さずに座っていれば、「お互い好きなのか?それともけんかしているのか?」と観客は自由に解釈をしていきます。それに対して想像力を狭めるとは、解釈を限定することで、例えば先ほどの男の子が急にそわそわしだしたり、女の子が恥ずかしそうに下を向いていたら、「ああ、好きなのか」と決め付けることができます。

平田先生はこの2つをうまく使うことで観客に「やっぱり」と思わせるよう心がけるそうです。先ほどの男の子と女の子であれば、ただ何も話さずに座り続けていては、もやもやして結局何が言いたかったのか分かりません。また、2人が最初からそわそわしていたら、解釈の幅を広げる間もなく、「なんだ、好きなのか」としか思えません。しかし、ある程度、2人が何も話さずに座っている時間があれば、観客はあれこれ想像することができます。「もしかしたら好きなのか、それとも何も気がないのか?」。そこで絶妙なタイミングで2人がもじもじしだしたら、「あ、やっぱり好きだったんだ。俺もそう思った!」と、先ほど拡げた解釈の中から自分の解釈を選べるでしょう。この「絶妙なタイミング」というのが素人には難しいですが、これが平田先生の言う「観客の想像力の誘導」です。

これを読んで自分が思ったのは、授業づくりもこれと同じなのかもしれないということです。もし授業という営みが効率的な情報伝達のみを目指すならば、想像力を閉じ続けることで授業は淡々と進むのがよしとされるでしょう。しかし、そのような授業は面白くもなんともありません。平田先生も、若手の演出家が説明を多くしすぎる傾向にあり、そのような劇を「つまらない学校の授業」 (p.125) と揶揄していますが、ある意味つまらない学校の授業は想像力を閉じることで効率的な情報伝達を目指しているのかもしれません。

しかし、授業の中に想像力を開くという段階を取り入れるなら、授業も多少は面白く感じられるかもしれません。例えば小学校算数で、「面積の求め方は、縦の長さ×横の長さです」といきなし教えてしまうのでは、先ほどの「つまらない授業」止まりかもしれません。しかし、「どうやったらこの四角形の面積を求められるかな」と問いかけ、学習者が想像力を開き(縦と横の長さを足すのかな?かけるのかな?もしかしてまったく別のやり方かな?)、絶妙なタイミングで「実は、縦×横ですよ」と教えるなら、「ああやっぱり!僕が思ったとおりだ!」と、あたかも自分で答えを見つけられたように感じられるでしょう。

こういった仕掛けを、授業者が演出家になったつもりで、学習者の思考過程を先読みしながら授業を設計するという姿勢も、教師には求められるのかもしれません。

(もちろん学習者の反応は予想しますが、予想しきれないのが授業の面白さかもしれません。)








以上が本書の紹介+自分の雑感でした!

演劇は子どもの頃から観ており、また人前で話したり目立ったりするのが昔から好きだったこともあり、かなり興味がありました。これからもワークショップへの参加や観劇、演劇論についての読書などを通じて、趣味の一つとして続けたいなと思います (^^)

2015年4月27日月曜日

佐川光晴 (2012) 『おかえり、Mr. バットマン』河出書房新社



このブログではこれまで新書を中心に紹介してきましたが、今回ひょんなことからとても面白い小説に出会いました。小説の紹介をしたことはありませんが、挑戦してみたいと思います。

来月に学部生の前で翻訳論の話しをさせて頂く機会があり、その準備の一環で手に取ったのですが、これがめっぽう面白かったです!翻訳家が主人公なので、翻訳家の仕事の裏側や悩みなどが主人公やキャラクターの台詞を通して伝わってくるのも面白かったですし、ストーリーにもどんどん引き込まれました。(特に今の自分には訴えかけるものがあったのかもしれません。笑)個人的に、英語を学んでいる高校生にも読んでもらいたい、そんな本です。

自分の関心から、まとめは翻訳論に関する部分が大きくなってしまいました。ですが、何度も言った通り作品としても面白く、あっという間に読めました。ぜひ興味がある方は読んでみてください。


おかえり、Mr.バットマン
おかえり、Mr.バットマン佐川 光晴

河出書房新社 2012-04-12
売り上げランキング : 1106941



■ あらすじ

翻訳家の山名順一は今年で48歳。妻の遼子は英語の教師で、忙しさから家事も子育ても順一に任せきり。次第に夫婦の仲は冷えきっていく。息子の順平が大学に合格して家を出てから、順一は遼子とろくに会話もせずに翻訳の仕事をしていた。そんな順一に、ひょんなことから仕事が舞い降り、冷え固まった山名家に新たな風が吹き込む・・・。

■ 本作品を読んだ感想

本作で山名順一の語りを借りて登場する翻訳論はもちろん面白かったのであとで紹介することにして、私は純粋に物語としても楽しんだ。特に、本作品が順一の寂しさ・喪失感を扱っているにもかかわらず、物語の根底には温かさが流れている。言い換えるなら、山名家の家庭の冷え冷えした感じと、主人公を取り巻くキャラクターとのリズミカルな会話、そして主人公や作家たちの翻訳・創作への熱意が感じられる、そんな作品のように感じた。

物語は現在の視点と回想が組み合わされており、少しずつ順一の家庭の過去が明らかになっていき、順一の語りと本音のずれのようなものが徐々に浮かび上がってくる。そんな順一の前に現れる若い美女のアガサ、翻訳仲間の田中、既に亡くなったが順一の敬愛する作家のフィリップ、・・・。彼らとの対話から順一の本音が浮かび上がっていく。

物語後半は急展開で、ある種突き放された感じを受けるかもしれない。しかし、決して居心地の悪い感じではなく、きちんと、読み終わった後に満足感を与えてくれる。そういった作品である。



■ 翻訳家=コウモリ

作中で翻訳を職業とする山名の翻訳観が面白く感じた。エッセンスの部分のみ引用。

そうした状況でも、山名順一は翻訳の醍醐味を味わっていた。まずは原作を注意深く読みながら小説の世界に入っていく。ところどころ日本語に置き換えつつ、英語で読み進めていくうちに物語が体の隅々にまでしみとおり、やがて英文と並行しておぼろげな日本語訳が頭にあらわれてくる。かたやアルファベット、かたや漢字・ひらがな・カタカナの三週混淆と、文字もちがえば文法もちがう二つの言葉が頭の中で響き合う。自分がどちらの言語で読書をしているのかが曖昧になって、英語からも日本語からも解き放たれながら、同時に英語と日本語の両方を味わい尽くしているような感覚がつづく。
山名はその状態を「こうもりの愉楽」と呼んでいた。こうもりが鳥と獣の性質を併せ持つように、翻訳家は母語と外国語のどちらにも通じている。つまり、翻訳家はこうもりであり、こうもりにはこうもりにしかわからない喜びがあるのだ。 (p.36)

イソップ童話では、こうもりは鳥と獣のいずれにも取り入ろうとする卑怯者として描かれている。しかし、間違っているのは鳥や獣のほうではないのか。こうもりは鳥であり、獣でもある生きものとして、自分なりに宙を舞っているにすぎない。それなのに、鳥なのか獣なのかはっきりしろと二者択一を迫ってくるから、こうもりはその場しのぎを承知で相手に合わせて返答をした。それを卑怯と決め付けるのは、言いがかりもいいところだ。翻訳家はこうもりとして、一つの言葉だけに囚われている連中には不可能な動きで、広い世界を飛び回る。 (p.37)


この引用箇所のほとんどは、野崎『翻訳教育』のあとがきにも紹介されていた。(私が本作品を知るきっかけになったのもこの本である。)

よく日本人が英語を学ぶとき、「1対1の関係から離れろ」といわれることもある。しかし、いきなりそのような芸当ができれば苦労はない。私が初学者としてドイツ語を学ぶときも、まずは1対1の関係から入らざるを得ない。しかし、その時点では日本語と英語のどちらかの世界に縛られており、ある意味がんじがらめになっている状態なのかもしれない。

それがいつしか、両言語間をコウモリのように飛び回り、自分が一方の言語で読み取った世界をもう一方の言語で伝えなおすことができる。そのような存在が翻訳家であり、学校で解く「英文和訳」と大きくかけ離れた仕事である。

すでに亡くなられた駿台予備校の伊藤和夫先生の『英文解釈教室』の序文に、「英語⇒物事⇒日本語」の話しが紹介されていた。伊藤先生の「訳」は、英語を日本語へ移し変える作業というより、英語で読み取った世界を日本語で語りなおすことである。この「訳」の力がつくと、次第に私たちもコウモリのように自由に飛び回ることができるのかもしれないし、その楽しさは翻訳作品と原著を読み比べたり、実際に翻訳体験をしたりしていれば頷けるものだろう。

ただ、急いで付け加えると、コウモリもやがては飛べなくなってしまう。コウモリが飛び続けるには、作中で主人公が見せていたように、面白い日本語表現を見つけたらメモをする習慣や、原文を無我夢中で読みふける経験、そして原著者の世界を何とかして日本語読者に伝えたいという熱意が不可欠だろう。主人公が原著者(フィリップ)に抱いた敬意と愛情は、翻訳をする際にとても大事なことを教えてくれる。



と、このように口だけでは語ることができても、実際にすると難しいのが翻訳であるが、(そして自分はつくづく翻訳が苦手と実感するが笑)、この「翻訳家」を「コウモリ」というメタファーで表す本作の翻訳論は、大変面白かった。

翻訳教育
翻訳教育野崎 歓

河出書房新社 2014-01-21
売り上げランキング : 294974


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

2015年3月31日火曜日

内田樹 (2012) 『街場の文体論』ミシマ社


こんにちは、mochiです。

いよいよ2014年度もラスト1日ですね(泣)。
4月からが早速憂鬱ですが、ぼちぼち頑張りたいと思います。

さて、今回は内田樹先生の『街場の文体論』の紹介をします。翻訳に関する内田先生のお話に興味があって手に取ったのですが、翻訳以上に文章を書くということ、大学コミュニティの問題点、言語、などの多くの問題について考えさせられました。


以下、あくまで自分が気になった点をまとめます。特に、学部生でこれからレポートや卒論を書こうとしている皆さんに向けて、できるだけわかりやすく書こうと思います。自分の理解を確かめる意味でも時々見慣れない用語を用いていますが、その後に簡単な例を出すなどしています。よろしければ読んでみてください。

街場の文体論
街場の文体論内田樹

ミシマ社 2012-07-14
売り上げランキング : 44339


Amazonで詳しく見る by G-Tools

■ 文章を書くときの読み手意識・他者意識


内田先生は、学生が書く文章の欠点を指摘した上で、文章を書くときに読み手との間に「距離」を感じることが重要だといいます。

敬意というのは「読み手との間に遠い距離がある」という感覚から生まれます。自分がふだん友だちと話しているような、ふつうの口調では言葉が届かない。教師に対して失礼であるとかないとかいう以前に、そういう「身内の語法」では話が通じない。自分のふだん使い慣れた語彙やストックフレーズを使いまわすだけではコミュニケーションが成り立たない。そういう「遠い」という感覚があると、自分の「ふだんの言葉づかい」から一歩外に踏み出すことになります。自分がふだん使わない言葉づかいで語るようになる。 (pp.15-16)

この「距離」は、他者性と言い換えることもできるかもしれません。柄谷行人の言い方であれば言語ゲームを共有しない者です。たとえば、大学生が友だちに対して話すときは友だち同士でのみ通じる文法があります。仲の良い友だちであれば、省略語を多用し、使う言葉もいちいち説明・定義を要さないでしょう。それに対して、同じ話しを、初めて出会う社会人にするとなれば、同じ話し方では居られなくなるはずです。先ほどまで省略していた語を正式な語で言いなおしたり、説明せずに使っていた言葉についても説明しなければならないでしょう。


我々は異なる言語ゲームを有する他者に対しては、友だちに話すとき以上の気配りをしなければなりません。村上春樹の言い方を借りれば「とびっきり親切になる」必要があります。この親切さこそが文章作成の際に必要になります。


教育哲学の授業を学部時代に受けたときも、授業の結論で「哲学は異なる他者と対峙する際に必要となる。自分の考えを受け入れない他者に対して、相手の目線で受け入れられるように語りなおすには、自分の考えを再度噛み砕く必要がある」といわれました。このときの「相手の目線で」という部分が読み手への「敬意」にあたるでしょう。




■ メタ・メッセージの宛て先性

ここから、もう1つのことが言えます。それは、言語に必ず宛て先があるという点です。この点を論じる前に、メタ・メッセージという言葉を導入しておきます。メタ・メッセージとは「メッセージの読み方を指示するメッセージ」 (p.164) を指します。たとえば、「おまえ、アホやな~」という発話は、場面・状況に応じて意味が大きく異なります。仲の良い友だち同士が、教科書を忘れた子に対して言う「おまえ、アホやな~」なのか、スマブラ(というゲーム)を一緒にしていて友だちが間違えて自滅してしまったときの「おまえ、アホやな~」なのか、はたまた教師がテストで悪い点数をとった生徒に対して低い声で薄ら笑いを浮かべながらの「おまえ、アホやな~」なのか。それぞれ受け取られるメッセージは大きく異なると思います。それは、これらの状況で発話された「おまえ、アホやな~」にはそれぞれメタ・メッセージが埋め込まれていて(あるいはひっついていて)、「今の『おまえ、アホやな~』は友だち同士の冗談だと思って受け取ってね」というメッセージが、友だちの笑顔や声の調子などから読みとめるわけです。逆に、教師の場合は、「おれの『おまえ、アホやな~』は本気で受け取れよ」というメタ・メッセージが付け加えられているために、生徒は傷つくわけです。

さて、このメタ・メッセージはひとつ重要な特性を持っています。それが、「宛て先性」です。

メタ・メッセージのもっとも本質的な様態はそれが宛て先を持っているということです。
それが自分宛てのメッセージだということがわかれば、たとえそれがどれほど文脈不明でも意味不明でも、人間は全身を耳にして傾聴する。傾聴しなければならない。もしそれが理解できないものであれば、理解できるまで自分自身の理解枠組みそのものを変化させなければならない。それは人間のなかに深く内面化した人類学的命令なのです。 (p.176)

メタ・メッセージに必ず宛て先があるということは、文章を書く者にとって重要な考えです。なぜなら、文章を書くときに、不特定多数に書いたり、どうせ誰も読みはしないだろうと重いながら欠いたりしては、読み手として困ってしまうからです。このブログ記事も、(たまにヤケクソで適当に文章を書くことはあるにせよ笑)、基本的には「この記事は学部生に向けて」とか「これは院生レベルの方々に」と、読者の想定をできるだけするようにしています。そうすることで、この文章の宛て先が自分の中ではっきりして、言葉遣いを選んだり、情報量や説明のタイミングを調整することができます。(できているかどうかは分かりませんが。。)


(参考)
バフチン言語学でも addressivity (宛て名性)という用語があり、そこでの議論に近いような気がします。桑野 (2011) 『バフチン』より以下を引用しておきます。

言葉とは、わたしと他者のあいだに渡された架け橋である。その架け橋の片方の端をわたしが支えているとすれば、他方の端は話し相手が支えている」 (桑野, 2011, p.58)

あるいは、関連性理論の「意図明示的刺激」も、発話が聞き手に対して宛て先性を有していると言い換えることも(ある程度)可能なのかもしれません。(参考記事:●関連性理論まとめ①




■ 「大人」とは他者を意識できる者

ここまで読む限り、文章を書くということは他者を意識するということに非常に近いのかもしれません。もし書く媒体が日記であれば構わないのですが、他者に何かを伝えるための文章を書くというのはやはり大変な作業のように思えます。

内田先生はここで、他者との仮想的な同一化ができる人を「大人」という言葉で表します。 (p.228)

とりあえずは、他者との仮想的な同一化ができる人のことを「大人」と呼んだ。大人とは、自分たちがどういう状況にあって、何が起きていて、どこに何があって、どこに危険があって、どこに救いがあるか「わかる」人のことです。
自分の「立場」がわかっている人、自分の「分際」がわかっている人、自分がどういう場面で、どのような責務を果たすことを来たいされているのかがわかる人が「大人」です。...社会的成熟というのは、単に身体が大きくなるとか、知識があるとか、有用な技術を身につけているということではありません。同期できる他者の数が増えたことによって、上空から「自分を含む風景」を見ることができるようになることです。 (p.228)

では我々はいかにして同期できる他者の数を増やすことができるのでしょう。また、他者に同期するとは何を指すのでしょうか。

簡潔に言えば、自分のなかに「他者」の目をたくさん育てることです。たとえば、この『街場の文体論』という本について、中学三年生に伝えるには、中学三年生がこの話しのどこでつまづくか予想したり、彼ら彼女らが理解しやすいような順番で話しを並び替えたりしなければなりません。もしくは、これまで話してきたことの一部をカットして、もっと易しい内容にしてから伝えると思います。これができるのは、私のなかにいる中学三年生にわかる言葉を用いようとするからで、授業づくりのプロセスと少し似ているかもしれません。

これと同じ原理で、学部生に説明したり院生に説明したりすることは自分にとってはそれほど難しくないと思います(実際は難しいのですが、とりあえず可能ということにします。)しかし、この本についてを60歳の方に説明することは自分にはまだできないかもしれません。それは自分のなかに60歳の他者が十分に育っておらず、60歳の方がどのようなところでどう反応するか予想できないからです。あるいは宇宙人にこの本の説明をすることは自分にはできないでしょう。宇宙人の世界では「書く」という行為がどのような意味を持つのか、文体という概念を持っているのか、「街場」という日本語(地球語)独特のニュアンスが伝わるか、私には皆目検討がつきません。

このように、自分のなかには他者の目というのが少なからず育っています。自分が小学生のときは、今ほど他者の目が育っておらず、せいぜい自分が書ける文章といえば家族や友だちへの手紙や学校に配る全校通信、テストの採点者に読んでもらう答案くらいのものでした。しかし今では他者の目が当時よりたくさんあるため、その分「大人」に近く、より広い読者層に向けた文章を書くことができるようになったはずです。




■ 翻訳:原著者=他者と身体のリズムが同調するまで読み、そこで読み取ったことを読者=他者へと伝えること

ここからは翻訳実践をされている内田先生ならではの議論です。

先生がレヴィナスの翻訳をされるとき、原文の伝える意味がなかなかとれずにひたすら向き合っていると、ある日自身と原文の「呼吸が合っている」と感じることがあるそうです。レヴィナスが次に何を言うか、どう表現するか、どこで文が区切れるか、などが分かるようです。これは先生がいう「身体のリズムの同調」であり、これこそ道の思想に接近する唯一の方法としています。

身体が同期すると、自分の身体の内側に自分の知らなかった感覚が生じます。前代未聞の感覚だけれど、それが「僕の身体で起きている出来事」である以上、言葉にできないはずはない。現にそうやって自分の身体で起きている出来事を、思考にしろ感情にしろ、赤ちゃんのときから語彙を増やし、修辞や論理を学んで、言葉にできるようになったわけですからね。赤ちゃんにできたことが、大人にできないはずはない。 (p.236) 
自分の知性の水準やスケールを超える知見を自分の言葉で表現しようと望むなら、どうしても、この「もどかしさ」の領域を通過しなければならない。でも、それは発生的にはごくごく自然なことなんです。幼児が言語を獲得してゆくプロセスは、まさにそのような「もどかしさ」の連続だったはずですから。 (p.237)

内田先生の議論はここまでですが、先ほどまでの「読み手への敬意」や「他者の目」といった論点を踏まえ、翻訳者の仕事が(1)原文の読み取り、(2) 訳文の作成、の2段階に仮に分けられるとすれば、以下のようにいえるのではないでしょうか。翻訳者は身体レベルでリズム同調を体験するほど原文と向き合ったあと、別の他者(読者)に対してそのリズムや原著者の思想・声などを再現しなければなりません。それも、新しい読者の目的や環境に合わせて。

今日も研究室にいるときに議論になりましたが、翻訳の評価を○か×かですることは難しく、△が連続していると考えたほうが良いかもしれません。ただ、翻訳者の方々はできるだけよい△をめざし、少しでも○に近づけるように言葉にこだわり続ける仕事と言えるかもしれません。

さらに話しを広げると、自分の関心である翻訳と英文和訳にも上の話を応用できる気がします。学校教育では翻訳という「読み手を意識した (2) の段階も重視した訳」が行われることはあまりなく、英文和訳という「読み取りが(それなりに)適切・正確かどうか、 (1) の段階のみしか考慮しない訳」を用いることが多いのではないでしょうか。もちろん目的によっては英文和訳を正当化することも可能なのかもしれません。受験者人数が多すぎて一度に採点する場合は英文和訳という評価方法はやはり優れているでしょう(妥当性の問題はおいといて。)

しかし、たまには翻訳活動というものを取り入れることも考えても良いのではないでしょうか。翻訳することで、言語に対して自覚的になり、外国語と母語とのつながりがより有機的になるよい機会だと思います。そうなると、外国語科と国語科が分断された科目ではなく両者の連携も視野に入れる必要があるかもしれません。


と話しが膨らんでしまいました。ちなみに、内田先生の翻訳に関するお考えは、大津・江利川・斉藤・鳥飼 (2014)『学校英語教育は何のため?』の巻末の鳥飼先生との対談にも表れていると思います。関心のお有りの方は、そちらも面白いと思います。




■ 借り物の言語から我々の言語は豊かになる

私たちは学校で「オリジナル神話」を教え込まれてきたといいます。

たしかに就職面接では自己PRが求められますし、小中学校でも「自分の言葉で」表現しましょうといわれます。しかしこの「オリジナル」「自分の言葉」というのは、無理に行うものではないはずです。(参考記事:「個性を捨てろ!型にはまれ!」

内田先生もまずは他者の言語を借りながら自分の言語を豊かにすることが先ではないかと論じます。


できるだけ「できあいの言語」を借りずに、自分の「なまの身体実感」を言葉に載せれば、オリジナルな言語表現ができあがると思い込んだ。でも、これはたいへん危険な選択です。僕達の言語資源というのは、他者の言語を取り込むことでしか富裕化してゆかないからです。先行する他社の言語を習得し、それを内面化し、用法に合うような身体実感を分節するというしかたでしか僕達の思考や感情は豊かにならない。 (p.240)

ここまで読めば、バフチンの adaptation (換骨奪胎) の議論を思い出す人がいるかもしれません。自分もこの部分を読みながらバフチン言語論と非常に親和性が高いと感じました。バフチン言語論ではよく引用される以下の一節を紹介します。 (引用元はLaviosa 2014 Translation and Language Education)

As a living, socio-ideological concrete thing, a heteroglot opinion, language, for the individual consciousness, lies on the borderline between oneself and the other. The word in language is half someone else’s. It becomes ‘one’s own’ only when the speaker populates it with his own intentions, his own accent, when he appropriates the word, adapting it to his own semantic and expressive intention. (Bakhtin in Kramsch 2009: 115) (Laviosa, 2014, p.48)
以下、日本語訳。

社会-イデオロギー的な実在生命体として、多様な意見 (言語) は、個人の意識にとって、自我と他我の境界線に存在している。ことばの半分は別の人の借り物であって自分のものではない。それが、話し手自身の意図、アクセントで述べられ、換骨奪胎し、自らの意味や表現意図に合うように調整されたときに初めて、話し手自身の言葉となる。


このように、我々は、他者の言語を借りてきて自分なりにアレンジしながら使ってだんだんと自分の言語にしていきます。ところが、どうも最近はオリジナル信仰が強い気がしてなりません。

でも、他人の言葉を模倣することを潔しとしない人たちがいる。...この言語についてのイデオロギーによって日本人の言語資源は恐ろしいほど貧しくなったと僕は見ています。そういう人たちの言語能力が劣化しているのは、身体実感をたいせつにしているからではないんです、身体実感を重んじるあまり、用法の拡大や精密化に興味を示さなかったからです。 (pp.240-241)

以前「生きる意味」という記事でも話題に上げましたが、どうも最近はオリジナル志向な言語活動や自己表現をする活動が多いように思えます。しかし、「他の人と違う」オリジナルさを追求したり、自己表現をさせられたりするのが果たして本当に良いのでしょうか。国語教育では芦田と友納の自己表現に関する議論があります。私は、自己表現を強いる活動では学習者の身体・こころに根ざした言語使用が生まれにくいと思います。ならばむしろ、「嘘日記」や「作り話(ストーリーテリング)」のような活動で言語使用を促すので悪くないと思います。



■ なぜ外国語を学ぶのか

最後に、「なぜ外国語を学ぶのか」という問いに対する内田先生の意見をご紹介します。「種族の思想」の檻の壁という言葉は、本書前半のエクリチュール・スティルなどの用語に対応していると読みました。つまり、母語を使っていることで無意識的に従っている思考の枠組みのようなものだと思ったらよいと思います。


理解できない言葉、自分の身体のなかに対応物がないような概念や感情にさらされること、それが外国語を学ぶことの最良の意義だと僕は思います。浴びるように「異語」にさらされているうちに、あるとき母語の語彙になく、その外国語にしか存在しない語に自分の身体が同期する瞬間が訪れる。それは、ある意味で、足元が崩れるような経験です。自分が生まれてからずっとそこに閉じ込められていた「種族の思想」の檻の壁に亀裂が入って、そこから味わったことのない感触の「風」が吹き込んでくる。そういう生成的な経験なんです。外国語の習得というのは、その「一陣の涼風」を経験するためのものだと僕は思います。「英語ができると就職に有利」といった「手持ち」の理由で外国語を学ぶ人たちは、どれほど語彙が増えても、発音がよくなっても、自分の檻から出ることができない。 (p.245)

簡単に言い換えれば、外国語という異なるものを学ぶことによって、自己を相対化することができるから外国語を学ぶということになります。自分がこれまで参考にしてきた『外国語学』や4人組の議論に似ているように思えます。

以下は外国語を学ぶ目的から少し離れますが、他者と関わるという人間の欲求を的確に表しているように思えます。


生き生きとした言葉を習得したいと願うのは人間の本性です。自分の外側にある他者に同期すること、それによってそれまでの自我がいったん解体して、より複雑でより精度の高い自我として再組織化されること、このプロセスは生命の自然にかなっています。だから、わざわざ利益誘導しなくても、人間は自然に他者の言語に仮想的に同一化して、他者に同期しようとするんです。 (p.247)


ここから、外国語を学ぶ理由を無理やり定式化すれば、

他者の言語である外国語を学び同化することで、自己を相対化し更新することができる(し、それが人間の自然な欲求である)。

となるでしょうか。

ただ、外国語を学ぶ実利的な理由を完全に否定することは今日は難しいかもしれません。現に検定試験や入試、就職試験などで英語の成績が貨幣的指標としての性質を持っている以上、実用的な目的で学んでいる学習者にも上のような他者への同化・自己の相対化/更新などの体験を積ませることが、より現実に即しているかもしれません。










以上、『街場の文体論』でした。




個人的な感想を述べると、本論には、内田先生らしくレヴィナスの他者論がベースにあるような印象を受けました。文章を書くという行為において「読み手」を想定せよ、というのは良く言われることですが、その読み手が「他者」であるという前提を改めて突きつけられた感じがしました。

レヴィナス以外にも、バフチンの思想が少し垣間見えたのが面白かったです。他にもエクリチュールの議論などは言語ゲームと絡めることもできるのではないかと思いました。

最後に昨日あったできごとについて。

昨日ゼミ教授との個人面談を終えましたが、教授も「日本語の文章をきちんと書けるようになりなさい」と仰っていました。印象的なのは、先生が何冊も本を書かれていて翻訳書も出されているのに、「いまだに自分の文章は分かりにくい」とお話されていたことです。

本書は文章を書くことに携わる全ての方にとって必読書だと思います。また、本書は言語論や翻訳論のみならず、他者意識に関する記述やフランス哲学の紹介、教育への言及などもあり、幅広い読者を想定されているのだと思いました。(だとすると、本書自体が内田文体論に自己言及しているようにも思えます。)

なにはともあれ、自分も読み手に配慮した文章を書けるようにしないと。。というわけで、新年度はもう少し記事の更新頑張りますので、よろしければご覧ください(笑)

バフチン (平凡社新書)
バフチン (平凡社新書)桑野 隆

平凡社 2011-12-16
売り上げランキング : 21759


Amazonで詳しく見る by G-Tools

(追記) 2015/03/31

記事の最初の書名が間違っていたので訂正しました。大変失礼いたしました。
街場の教育論 → 街場の文体論

ご親切に訂正して下さり、ありがとうございました。

2015年3月13日金曜日

言語の限界は、何の限界?


こんにちは、mochiです。


2015年の2月から3月初旬まで、ドイツで語学留学をしておりました。(このことは、またゆっくりどこかで書きたいと思います。本当に良い経験をすることができました。) この語学留学が終わった後、イギリスに向かって、友人の家や昔お世話になったホストファミリーの家に泊まらせて頂いております。


3月12日 (木) 、ホストマザーが勤めている小学校に訪問させていただく機会がありました。児童は移民としてイギリスへ来ている子が大多数でした。とても温かい雰囲気で楽しく過ごすことができました。


午前中はYear 5 (小学五年生相当) の英語ライティングの授業を見学させてもらい、午後は多読の活動に一緒に参加させてもらいました。まずはこの2つの授業を簡単に振り返ります。

ライティングでは、説得 (persuasion) がテーマでした。授業冒頭は、児童の提出文をスクリーンに映し出し、全体に共有するというものでした。その中で先生 (うちのホストマザー) は、There is no doubt that ... や In my opinion といった、説得に用いられる表現にフォーカスを当てていました。また、表現集に載っていない表現でも、"I like this expression." や "I was actually persuaded." といった言葉かけを通して、肯定的に評価しながら新しい表現を全体に伝えていました。

多読活動では、400 語程度の長文と発問プリントを渡され、児童たちが音読しながら読み進めていました。面白いと感じたのは、新出語句を扱わずに読み進めさせておき、分からない表現が出たら説明するという点でした。たしかに日本でも、現代文の授業では新出語句を後で扱う先生もいたような気がします。(先生によるのでしょうが…。) 日本の中高英語の授業も、もちろん生徒の既有知識の量やテクストレベルによって判断すべきでしょうが、新出語句の意味説明を後回しにしても良いのかもしれません。そうすることで、生徒は少しでも意味を当てようと文脈から推論し、結果的にテクストを繰り返し読むことになるのかもしれません。




そしてこの日の最後に、1時間ほど授業時間を頂いて、子供達の前で話をさせていただきました。最初は自己紹介や日本文化、ドイツ生活の話をしていましたが、ある男の子が「日本語を教えてくれ」というので、急遽日本語教室に。(笑)

1-10までの数字の数え方や挨拶表現、「…が好きです」、などを教えました。自分が小学校外国語活動のALTになった気分で、とにかく彼らの言いたい表現を拾いながら自己表現をしてもらいました。中には、I like snakes. と言いたいから、snakes の日本語を教えてくれという子もいました。笑

また、子どもたちの意欲にも驚きました。「私はA と言いたいから、この表現を練習するぞ」という様子が伝わってきて、「ねえねえ、『全部』って言いたいんだけど、何て言うの?」とか、「日本語には名詞の性はないの。」とたくさん質問を受けました。学習段階や学年などの違いはあるでしょうが、このような環境を日本の英語授業でも作りたいと思いました。


そろそろ下校時間になり、最後に以下の文を白板に書きました。ウィトゲンシュタインというオーストリアの哲学者の残した言葉です。

The limit of my language means the limit of my (             ).

これを書いた瞬間、子供たちが一斉に、空欄に当てはまるであろう単語を思い思いに言ってくれました。すごい勢いだったので驚きましたが、まずは隣の子と意見交換をしてもらい、そのあと発表してもらいました。最初はほんの数個だろうと思いましたが、写真にある通り、たくさんの意見がでました。




これだけの単語が出てきたのは凄いと思い、大いに褒めました。(あとでホストマザーにも同じことを伝えましたが、「そうでしょ、私が育てたんですもの。」と得意気に仰ってました。笑) 白板に私が殴り書きした言葉1つ1つに、彼らの思考の形跡や信条、想像力を垣間見ることができ、ただただ感服するばかりでした。

そのあと、あくまでウィトゲンシュタインが言った言葉を伝えるよ (the answer ではないよ) 、と言って、空欄に world を入れました。子供たちから「オーー!」という声が聞こえ、メモをしてくれた子もいました。

予め断っておくと、この言葉は論理実証主義的な前期ウィトゲンシュタインおn著作、『論理哲学論考』で言われたもので、写像理論を厳密に当てはめた結果導き出される命題なのですが、このような背景はバッサリ切って、単純に言葉について少し考えてもらいたかったためにこのような活動をしました。

授業の最後にこの活動を持ってきたのは、英語を第二言語として学んでいる彼らに、「なんで英語を学ぶんだろう」という点について再考してもらいたかったからで、これが自分のここ数年の疑問だったからです。

個人的には、言語を学ぶ理由というのは、the limit of my language means the limit of my worldという表現に、(比喩的・象徴的に) 集約されているように思えます。さらに子どもたちの意見を読みながら、改めて自分なりにいくつか考えたことがあります。以下、現段階の自分の思考の整理です。

(1) 経験世界の拡張
言葉を学ぶことで、自分の経験世界が拡張されます。換言すれば、英語を使えれば、本来経験できなかったかもしれないこと (旅行、留学、交友関係、就職、知識獲得、…) を実際に経験できるようになります。これはドイツ語や中国語のように他の外国語でも言えますし、もちろん母語でも言えることと思います。これを経済の論理から見れば「英語力のアップによって賃金が増える」と記述することもでき、批判学の文脈では「エンパワーメント」と呼ばれるのかもしれませんが、結局のところは同じことを言っていて、自分が (actual にも possible にも) 経験する世界を広げるために言語を学んでいるのではないでしょうか。
子どもたちの表現では、adventures や possibility などが当てはまるでしょうか。


(2) 思考メディアの蓄積
言葉を我々の思考メディアとして位置づければ、より多くの言葉を知ることで思考自体に広がりが生まれると言えないでしょうか。乱暴な議論ですが、単語を要素とし、その結果生まれる思考が連関だとすれば、単語が1,2,3…と増えることによって、その組み合わせとして生まれる思考は、単語数の乗数として増加するのではないでしょうか。
ある男の子が imagination という単語を空欄に入れてくれたのをきっかけにこの点は考えました。(imagination には、言語化されていない感性段階の思念も含まれている気はしますが、この子の意見はただただ面白く聞き入りました。)


(3) 自己の変容
最近の自分の関心でもありますが、言語を学ぶことで自己が変容するのではないかという気がします。これは自分の経験でもそうですし、周りの友人の中にも外国語を使っている時に母語を使っている時と性格が違って見えることがあります。応用言語学の議論としては、Kramsch の the Multilingual Subject が興味深く、今後読み進めて行きたいと思っています。
これも、男の子が The limit of my language means the limit of my souls. と言ってくれたときにふと思ったことで、私たちは言語を理性レベルで学んでいますが、結局のところは感性や自己 (無意識) 段階にもなにかしら変容をもたらしているのかもしれませんね。


やはり子どもの力は侮ってはいけないし、彼らから学ぶものを見落とさないようにせねば、と改めて強く感じました。

このような素晴らしい経験をさせてもらい、幸せだなと実感しました。

帰国後は実験や分析、共同研究の相談などありますが、2ヶ月もサボった分頑張ろうと思います。笑

2015年2月2日月曜日

大学院生活の折り返し地点



早いもので、大学院での初年の生活が終わろうとしています。

本当に早い時間の流れで、自分が何かやっても、次々押し寄せるタスクに圧倒され、自分がやったことをきちんと省察できずにいました。

そこで、少しこの1年を振り返ってみようと思います。


■ 研究について

院に入って(入院して)から、多くの出会いがありました。その出会いとは、学友であり、先生であり、バイト先の生徒であり、ライティングセンターのメンバーであり...。学友も、英語教育研究や翻訳研究、哲学、心理学、国語教育など、幅広い方々とご一緒させて頂くことができました。これらの出会いから自分が得たものは何にも代えがたいでしょう。


特に大学院で出会った方々からは多くの刺激を受けました。研究に打ち込んでいる方からは「自分の研究はまだまだ」ということを思い知らされましたし、深い思考を持って行動されてる方からは「お前はまだまだ子どもやな」といわれている気がしていました。(笑)あと1年しかありませんが、少しでもましな研究者・教育実践者に、そして少しでもまともな大人に、なれればと思います。


研究テーマも多く移り変わりました。当初は翻訳と言語意識に興味があり、翻訳不可能な駄洒落や詩を訳そうとするときの学習者の意識記述に興味があり、それに関する文献を読んだり調査をしたりしました。その後、「英文和訳」と「翻訳」を区別するための研究構想を立てましたが、実験計画をうまく立てることができず、現在は英語教師の訳出意識をテーマに再び動き出そうとしています。


あっちこっちに研究が行っていて、あと1年でまとまるのかしらと思ってしまいますが(苦笑)、きちんと修士論文を提出できるように頑張ります。


■ 他者論について

研究以外にも、自分の関心は移り変わります。初めの頃は、他者論に興味がありました。「なぜ他者はわかりあえないのか」をウィトゲンシュタインの『哲学探究』をベースにして考え、平田オリザのコミュニケーション論に一時期夢中になりました。


夏休みの教育哲学特講以来は「いかに他者と(相互)承認できるか」という問いに変わり、苫野一徳や山竹伸二らの議論を読みました。そのような抽象的な「承認」論をやっていると、より臨床的な知見も気になり、カウンセリングの理論も河合隼雄や熊倉伸宏も勉強しました。


また、「他者をいかに承認するか」と問い出した結果、普段の自分は現前する他者に対して承認できているのか、また、自己を出せているのかということも(結果的に)問われることとなりました。おそらく高校の頃のトゲトゲしかった自分よりは、相手を認めることは少しはできているかもしれません。しかし、そのような他者を前にして、いかに自己を出すかということも今後は考えなければいけないのかもしれません。


また、「他者」とのコミュニケーションを英語授業で取り入れる方策としての演劇にも興味が出たため、演劇を観たり学んだりということもしました。演劇は、今年の夏に舞台を観にいく機会があり、それ以来興味が再燃しました。最近は、国際表現言語学会に参加したり、演劇ワークショップに参加したりしています。演劇ワークショップでは、自分の身体の使い方を客観的に観察することもでき、大変貴重な経験になったと思います。DOCSという演劇ワークショップを経営する学生団体の方々とも知り合うことができたので、今後も時間を見つけて参加できればと思います。


■ 趣味について

指導教員の影響やゼミの後輩から影響を受け、カメラを買うこととなりました。友人に比較すれば圧倒的にへたくそな写真ですが、それでも自分が見た世界を画像にして取っておけるというのは面白くて、昔の写真を見ながらそこで感じたことや当時の自分の状況を思い返しています。また、カメラを携えて歩いていると、普段目に留めもしないようなものに気付くことがあります。それは、葉っぱ1枚であったり、近所の木であったり、雨上がりの道路であったりします。去年は同じ道を歩いていましたが、まったく気付かずに素通りしていました。カメラのおかげで、少し世界を広げられた気になっています。


また、学部4年の頃から始めたドイツ語もひっそり続けています。具体的には、ドイツ語の教科書の会話文を聞いて音読したり、好きな歌のドイツ語版を何回も聞きながら口ずさんだり、ミヒャエル・エンデの『モモ』を辞書片手に必死に読んだりしております。語学教育に携わる者として、自分の語学教育すらできていないのかと思うくらい上達が見られないのですが(泣)、最近は、英語が苦手な子の気持ちを理解するのにも良いなと思って、やや暴走気味なほど楽観的にやっています。2月の頭から3月の中旬までドイツのドレスデンというところに留学に行って、ドイツの空気を肌で感じてこようと思います。




■ 今後の課題について

(研究)修士論文を提出する。また、学会発表を行う。

・まずは最低限、修士論文を提出できるくらいのことはしなければなりません。できれば、先輩方がされたように、修士論文でやろうとしていることを形にして学会などで発表できれば良いな~と思います。



(哲学)ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』を読みすすめる。

・自分が注目してきた思想家がヘーゲルを論拠にしていたことから、今年はヘーゲルを読もうと思い立ちました。現在は西研氏の『へーゲル・大人のなり方』を読んでいます。



(哲学)アダム・スミスの『道徳感情論』を読み、モラルに関する自分の考えを深める。

・柳瀬陽介先生が面白いと仰っていたこともあり、山竹先生も自らの承認論に取り込んでいたアダム・スミス。当面は、堂目卓生氏の『アダム・スミス』を読みながら、ちくま学術文庫の『道徳感情論』に進みたいと思います。これも、他者論の文脈で読める部分があるのではないかと思っており、自分の他者観にも影響があるだろうなと踏んでいます。




(翻訳)英語(ドイツ語)と日本語の翻訳演習を続ける。

・英語に関しては、安西先生の『翻訳英文法』を、ドイツ語は、『ドイツ語おもしろ翻訳教室』を用いて、言語学習者として、そしてアマチュア翻訳研究者のはしくれとして、翻訳実践は欠かさないように心がけたいです。



(教育)塾のバイト、非常勤講師としての仕事を全うする。

・最終的には、自分がやっている翻訳論や哲学、演劇論、心理学、などを束ねるのが、この教育実践だと思います。授業観についてもできるだけ省察をしながら丁寧に続けようと思います。看護学校での実践経験を積むこともできるので、これまでの自分の授業を反省しつつ、新しい一歩になるようにします。具体的には、「力をつけつつ、『ゲーム』的に進行する授業」です。




(ジム)週に1回行き続ける。

・11月くらいからは、月に2回ペースになっているので、ドイツから帰ってきたら、できるだけ週1ペースを守ろうと思います。




取りとめもない文章でしたが、今年ものんびり記事を更新できればと思います。

本年もよろしくお願い致します (^^)

2014年12月16日火曜日

「いじめ」と「イジリ」の区別:他者の視座から


学部の頃に心理学を勉強していたとき、新潟青陵大学の碓井真史先生のサイトは大変参考にしていました。



最近、碓井先生の記事にこのようなものがありました。




子どもの頃から抱いていた疑問に対する答えの1つを知れた思いで、熱中して読みました。最近の自分の関心である「他者」にも絡めて、いろいろ感じることがあったので、以下は自分なりの感想です。よろしければ、碓井先生の記事をお読みになった上で、本記事をご覧頂ければ幸いです。


イジリは笑いの中でも高等テクニック。コミュニケーション(特に、笑いに特化したコミュニケーション)に長けていなければ、簡単にいじめになってしまう。


外部観察 (eticな視点) によってはこれら2つの区別をすることは難しい。なので、当人たちはおふざけで言い合っている場合も、教員によってしかられてしまう。その時、大きな違和感を覚えるだろうが、言語ゲームを共有しない相手には分かりえないだろう。(もし教員が子どもたちの言語ゲームを丁寧に観察して、時折そのゲームの参入者として入っていれば分かるかもしれないが。)


当事者 (emicな視点) には、いじめとイジリは区別できるだろうが、その中でも「イジる側」と「イジる側」が互いに他者であることを強調すべきだと思う。すなわち、「イジる側」が相手の幸せのため、と思っていても、それが「イジる側」の幸せになると決定することは、原理的に不可能である。


だから、テレビで行われているイジリは名人芸であることがもっと分かるべきではないか。他者に対して~~をしたら必ず喜ぶ、という確定はできない (二重偶発性) わけで、もしイジられた相手が機嫌悪くなったら「これくらいのことで怒るなよな」と、急にeticな尺度を出すこともイジる側にはできてしまう。イジられる当人が望まないのに相手によって変化させられるのは、「暴力」ととらえることもできる。


厄介なことに、当人は暴力をふるっているつもりがない場合も多いはずである。なにしろ、イジリという行為・構造自体に暴力性が隠蔽されているからである。つまり、イジリをする者が「雰囲気を明るくしよう」とか「いつものように楽しもう」という善意の下にイジリを行ったとしても、イジられる当人の受け取り方次第で「イジリ」にもなれば「いじめ」にもなる。このような構造に隠された暴力性をイジられる側は認識すべきかもしれない。だからこそ、イジリという行為は危険な笑いの取り方で、それなりのリスクを背負った上で使うべきと思った。


と。なにやら感想文まがいの文章になってしまいましたが(笑)、ご意見ございましたら、コメント欄にお願いします。


(参考)二重偶発性 [Doppelte Kontingenz] および、「分かり合えない他者」について

「他者は分かり合えない」ということを言う例として、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』の「かぶと虫の問題」があります。

293. 誰もが箱をひとつもっていて、そのなかには、私たちが「カブトムシ」と呼んでいるものが入っている、と仮定してみよう。誰もほかの人の箱のなかをのぞくことはできない。そして誰もが、「自分のカブトムシを見ただけで、カブトムシとはなにかを知っている」と言う。
この場合、どの箱にも別のモノが入っている可能性があるだろう。おまけにそれが変化しつづけていることも考えられるかもしれない。しかし、このとき、その人たちの「カブトムシ」という単語の使い方があるとしたら?それは、モノの名前の使い方ではないだろう。


他にも、ルーマンの「二重偶発性」の原理があります。

すべての自己にとって他者はもう一人の自己であり、その振る舞いは予測不可能で可変的である。自己も他者も自分の振る舞いを自分の境界内で自己言及的に決定する。だれもが、他の人にとってはブラックボックスである。なぜなら、その人の選択の基準を外部から観察することはできないからである。自己に見えるのは、他者の閉鎖した作動の結果としての選択性のみである。いずれもが他者を、環境-内-システムとして観察し、その他者に関しては、環境からの、そして環境への、インプットとアウトプットを観察することができるだけであり、自己言及的な作動自体は観察することができない。いずれのシステムも、他者に対して示すのは、自分の選択を決定できると同時に、その自己言及は不確定であるという事態である。 (ルーマン『GLU』, p.255)


「他者はわかりあえない」という前提を受け入れることで、相手に歩み寄れるのではないかと最近考えますが、教育哲学の授業では「他者論は常に具体例を念頭にして議論して欲しい」と言われます。一般論や抽象的レベルでは語りつくせず、ケースバイケースで考える必要があるからでしょう。今回は、「イジる」「イジられる」を具体例に考えて見ましたが、本例においても別様の見方ができるでしょうし、別の例の検討も今後必要になると思います。

また、「他者は分かり合えない」という前提の下で、次に何を議論すべきかについても考える必要があると常々考えます。「互いに歩み寄るべきだ」とか「承認すべきだ」といった肯定的な意見にいくのか、「一人ひとり違った意見で良いではないか」「多様性を認め合えるべきでないか」といった解釈学的な考え方になるのか、もう少し考えをつめる必要があるようにも思います。


2014年12月15日月曜日

第6回国際表現言語学会に参加して

あと少しで2014年も終わりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

12/14 (日) 、文教大学で開催された「第6回国際表現言語学会」に参加してきました。(表現言語は英語で performing language と訳されるそうです。)

本学会の存在を知ったのもつい最近のことでしたが、自分のような新参者も学会に溶け込みやすく、とても充実した一日を過ごすことができました。

記憶の新しいうちに、本学会で学んだことを整理しておきます。



■ 語学教育としての演劇

パネルディスカッション「言語教育の実践とドラマの融合」では、平田オリザ先生・原口友子先生・塩沢泰子先生による議論がありました。(個人的に、平田オリザ先生の大ファンなので、お話が伺えて感無量でした・・・。) 以下、先生方の議論を歪曲することはできるだけ避けたうえで、自分なりの言葉でまとめたいと思います。

平田先生は、演劇的手法の外国語教育が大学をはじめ、小・中・高でも徐々に広まっている点を指摘しました。英語教育であれば、英語ができるかできないかという一元的なものさしが支配的ですが、演劇の魅力は、語学が苦手な子でも活躍できて自信をつけられることです。たとえば英語の発音が上手であっても演技がうまいとは限りませんし、その逆も然りです。実際に、初日の諸大学による発表ビデオを見ても、発音があまり上手でなくても人前で堂々と演技したり役に成りきっている人たちは、劇中でも際立っていました。つまり、演劇には英語が苦手な子でも輝ける場を作る力があります。「英語ができる子が上、できない子が下」というものさしを一時的にでも覆い隠すことができれば、クラスの多くの子が英語にかかわることができるかもしれません。

塩沢先生は、英語授業のドラマ活用によって、生徒の英語力と人間性の伸長の両方につながりうるという主張をされました。英語力については、授業の英語を覚えるのが苦痛であっても、演劇の台詞は「流れ」があるから覚えやすいという子が学生の中にも多いそうで、長い間続けていると英語の力が伸びていくということでした。それにとどまらず、演劇によって学生の人間性も伸びるため、「語学教育」を超えた魅力が演劇にあるとのことです。ここらへんは定量化することが難しく、「なぜ文学が英語教育で扱われるべきか」と同様に実証が難しい領域でしょう。先生としては「この子たち一回り大きくなった」ということが十分伝わるのに、その文脈を共有していない人には伝わりにくいのだろうと思います。

(私は、そういった実証しづらいが効果があるであろうを認める寛容さと、そういった主張を説得力あるものとする努力の両方が必要なのではないかと感じました。もちろん科学的には棄却せざるをえませんが、こと人間科学でそこまで厳密な定量化が本当に必要か疑問に思います。)

原口先生は、演劇を通して学生が「英語を使う楽しさ」に触れ、主体的に英語学習に参加するという報告をされました。劇では受動的な参加では進まず、主体的に創作・練習する必要があるために、よりかかわりを持った学びになります。たとえば、劇の練習で「自分は周りの子より遅れてる」と感じる子は、みんなの足を引っ張らないように家で練習してくることがあるそうです。

「英語ができない」という子の中には、主体的に英語に取り組む機会がなかったために英語を使う楽しさ・喜びを体験できなかった子もいるでしょう。演劇の練習は、周りの教員から見たら遊んでいるようにしか見えないこともあるかもしれませんが、その遊びの中で学ぶこともあるという点を忘れるべきではありません。


以下は、議論で出た主な要点です。「→」マーク以降は自分なりの感想です。

・今日グローバル人材やリーダーシップの育成を目標に掲げた教育がなされているが、今の子たちにはどのような英語力が求められるかという議論が抜けた状態で進んでいるようである。

→まさにそのとおりだと思いました。「グローバル人材」「コミュニケーション能力」といった言葉が独り歩きしている感じは否めず、これらの概念の意味することをまずは議論する必要があるはずです。そして、一部のリーダーを育てるエリート教育ではない「公」教育として、英語教育で育成すべき能力を議論する必要があるでしょう。この点は、4人組の講演会でも同様に議論されていました。

・演劇は短期的暗記力なら役に立たない。期末試験のための勉強に演劇を取り入れるのはあまり効率的でない。しかし、長期的な力としては、五感をフルに使う演劇は役に立つだろう。そのためにも、今後は追跡調査を通して演劇経験が英語力にどのように貢献するかを実証することも考えるべきである。

→平田オリザ先生の『わかりあえないことから』でも、流動性知能と結晶性知能という用語で説明されていました。ワークショップを通して、体験して学んだことはなかなか忘れないという経験は自分にも多くあります。また、演劇の効果を英語教育学会などで示すためには、エビデンスの提出も今後求められるのだろうと感じました。

・授業構成は、Context-BaseからPersonal-Baseへ。

→授業をするときは、まず文脈を伴った例から導入して、慣れてきたら個々人の特有な文脈を用いておのおのが理解を深めるという手順が良いそうです。

たとえば、英語の授業で比較級を学ぶ際に、まずは「ドラえもんとルフィのどちらが伸長が高いでしょう」「体重はドラえもんの方が重いね」のような文脈を伴った例(Context-Base) から導入することができます。生徒が少しずつ比較構文の形に慣れてきたら、「じゃあ、次は君たちが好きなキャラクターや動物、人間で同じように書いてみよう」と伝え、各々が「じゃあ巨人と妖怪の強さを比べてみる」のように自分の好きな例に置き換えて理解を深める(Personal-Base) ことができます。あまり演劇と言語教育という文脈には関係ありませんが、個人的には授業観としてとても共感しました。

・学習者が必要な英語と、教える英語が一致していないのではないか。

→たとえば、臓器移植について英語で討論する力がある生徒たちがいるとします。もちろん高度な議論をする力は将来必要になるでしょうが、必ずしも全員が臓器移植の議論をする必要はなく、中には電車で隣の人に英語で話しかけられれば良い子もいるでしょう。negotiated syllabus という議論もありますが、教師の教えたいことと学習者の学びたいことがうまく一致したときに、実りのある英語学習になるのかもしれません。



最後に、「演劇と言語教育」の議論に関する自分の感想です。

(1) 演劇の虚構性

演劇は、現実の世界(アクチュアルな世界)ではない仮想世界を演じることで、普段自分を規定している「自分」から一時的に離れることができます。たとえば「普段英語ができない」、「人前では話しにくい」自分、などがありますが、これらから一時的に抜け出して演じることができます。ある先生が「ロールプレイは嘘だ」と発言されていましたが、個人的にはこの「嘘」(虚構性)がたまには必要なのではないかという気がします。英語の授業で「将来の夢を語る」といったタスクもありますが、思春期の子たちがこれに正面から取り組むのは難しいかもしれません。こんなとき、わざわざ正直に自分の夢を語らせる必要はなく、仮の自分が仮の夢を語る場を作っても良いのではないでしょうか。英語の授業で何かを演じることで、「他者としての自分 (me as Other) 」を表出させる経験をつめば、いずれ「自分 (myself) 」を出すのにつながるかもしれません。(実際には「将来の夢」の単元はキャリア教育・道徳教育との兼ね合いで行われることが多いでしょうから、現実味はありませんが...。)

なお、以下のブログでも「英語の授業における虚構性」が議論されています。大変刺激的な議論で、授業という営みに隠れる「虚構性」をむしろ肯定的に捉えるという論旨でした。


また、演劇を遊び (play) の一種としてみれば、ガイ・クックの以下の議論も参考になるかもしれません。


Language Play, Language Learning (Oxford Applied Linguistics)
Language Play, Language Learning (Oxford Applied Linguistics)Guy Cook

Oxford Univ Pr (Sd) 2000-02-21
売り上げランキング : 93734


Amazonで詳しく見る by G-Tools

自分が翻訳を言語教育で用いたいのも、英語力のみで勝負する英語の授業だとどこかでつまづく生徒がいる気がするからだと思います。そこに創作的な翻訳活動が伴えば、英語が苦手な生徒でも名訳を生む可能性があるため、いつもの英語力による序列をいったん崩すことができます。これで英語が苦手な子も活躍できるなら、演劇でも翻訳でも英語授業に取り入れる余地があると思います。(あくまで「取り入れる余地」の議論なので、「翻訳だけやればいい」といったラディカルな主張はしません。笑)


(2) 劇化の可能性

しかし、演劇を英語授業で取り入れるにはなかなか時間がなく、プロの先生にワークショップをやってもらうことが必ずしも可能でないかもしれません。そこで、英語授業で取り入れるには、教科書の「劇化」が有効かもしれません。「劇化」は、教科書のダイアログを実際に演じてみることで、キャラクターの視線や発話時の感情、場面などを推論する必要が前景化し、表面的な理解にとどまらない解釈を必要とします。また、実際に演じてみることで、五感を使ってテキストを体験することができ、身体をともなった理解に通じるかもしれません。(ああ、ここらへんの言葉使いが浮付いている気が・・・。この点は、また(3) で述べます。)

たとえば、以下の台本だったらいかがでしょう。(たしか、Widdowson の本に載っていた例だと記憶しています。曖昧な記述で申し訳ございません。)

A : This is the telephone.
B : I'm in the bath.
A : OK.

これを音読するのは容易ですが、場面を理解するには、以下の点を考慮する必要があります。

・AとBの人間関係はどのようなものか。
・2人はどこにいるか。
・"This is the telephone." はどのような意味か。「これは電話です」ではだめか。
・なぜAは”OK"といったか。このあと、Aはどうするか。

これらの点を考慮すれば、Aが子供、Bが母親であり、家で電話がなっていることを知らせる子供に対して、入浴中の母が「今電話に出れない」ことを伝える場面と理解することができます。

さらに、これを劇化するには、以下の点にまで踏み込む必要があります。

・子供は何歳くらいだろう。
・母親はどのような性格だろう。入浴中に電話があったら、自分ならどのように対応するだろう。
・子供は家の中のどこにいるのだろう。風呂場の近くだろうか、遠くだろうか。
・母親は風呂場でどうしているだろう。入浴しているか、髪の毛を洗っているか。
・そもそも母親でなくて父親ではだめだろうか。
・電話はコードレスだろうか、それともコードつきの電話だろうか。

もちろんこれらの点はテクスト中に明示されておらず、想像する必要があります。この過程で、自分の生活とのつながりも生まれ、ただのテキストが「意味を持った文章」となるはずです。そして、生徒によってこれらの解釈が生徒間で異なっているため、複数の生徒に演じさせてみても「個性」が見えるはずで、見ている側も楽しむことができるでしょう。


(3) 理論言語・実証の必要性

「知性」と「感性」をつなげる、五感を総動員して学ぶ、英語の楽しさを実感できる、・・・など多くの演劇の魅力が本学会で語られましたが、これらをさらに理論言語で説明する必要があるように感じました。「劇はいい」というテーゼにはもちろん賛成しますが、これらは学会などでどこまで受け入れてもらえるのかという点が今回の一番の疑問でした。「劇をやったことがあればわかる」「本物がわかる人ならわかる」でもいいのですが、もし理論や実証研究、哲学などがここに入り込む余地があるなら、演劇の効果を“客観的”に伝えることができるのに、と感じます。(あるいはそのような研究があれば、今後読みたいとも思いました。)

演劇のよさを語る人たちの「言葉」があれば、さらに演劇と言語教育はつながれるだろうと強く思いました。


■ 演劇的手法を活用したワークショップ

四国学院大学の千石先生による研究発表でした。四国学院大ではdrama education (演劇教育) が盛んで、福祉系・教育系の現場に出る人たちは演劇のワークショップを必修とするようです。

発表では千石先生がされているワークショップの報告がありましたが、そこで面白いと感じた点をまとめます。

・インプロ(即興劇)をするとき、「がんばらない」「相手に良い時間を与える」「誰かが話しているときは聴く」を最初に伝える。

・90分の授業が8回あるとき、最初の5回はアイスブレイキング(アイブレ)に費やす。

→いきなし演劇的手法を用いてしまうと、ついてこれない学習者もいます。そこで、心の緊張やバリアを和らげるための活動(アイスブレイキング;アイブレ)を行うのですが、8回の授業があるとき、うち5回をアイブレに費やされていました。アイブレの中でも難しさが異なるため、5回目の授業ではかなり高度なアイブレ活動を行うそうです。(なので、あまり先生の中ではアイブレという位置づけではないのかもしれませんが...。)これにより、6回目以降の授業ではShow & Tellなどの発表活動や、演劇手法を用いた活動が可能となるようです。逆を言えば、演劇的手法を英語授業などで扱うときも、アイブレを念蜜に行う必要がありそうですね。もし演劇に慣れていないクラスで「今から即興劇をやってもらいます」としてしまうと、・・・恐ろしい結果になりそうです。(笑)インプロの手法ももう少し自分で勉強したいと思いました。

・授業は、知識注入型授業と獲得型授業に大別される。獲得型授業では全身で学ぶことが求められ、そこで得られるのは「演劇的知」である。「演劇的知」とは、身体、こえ・ことば、かかわりの3要素によって構成される。

→「演劇的知」という概念に関して、面白いと思った。英語授業で「こえ・ことば」のみが(あるいは「こえ」が骨抜き状態の「言葉」かもしれない)教えられるとしたら、「演劇的知」から英語授業が学ぶことも多いかもしれない。千石先生は「耳が聞こえない子供」を事例に、「こえ・ことば」が使えなくても演劇的知を体得できるような実践を試みており、英語教育の「ユニバーサルデザイン」と似ているように感じた。すなわち、英語の授業で「こえ」が欠かせないように思えるが、「こえ」がなくとも、身体やかかわりを体験することはできるだろう。

performative learning (高尾, 2012) : パフォーマンスすることで自分を崩し、再組織化すること。

→とにかくやってみて、他者に表現して、そこで初めて自分を相対化して新しい自分を創るという理念を表す語のようです。デューイの learning by experience などと近い概念かもしれません。哲学用語であれば、「他者との出会いによって<自分>と<相対化された自分>が弁証法的に昇華され、<新たな自分>が生まれる」と言い換えられるかもしれません。(こんな言い換えに意味はありませんが。笑)

peformative learning も「ことばより身体の重視」という信念があるようで、身体性の勉強をする際に今後参照したいと思った。


演劇ワークショップに自分が参加したことがなかったので、目から鱗の思いでした。できればワークショップに参加してみたい・・・と強く感じました。(もし広島近辺で情報をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひ教えて頂けると幸いです。)




■ 小噺ワークショップ

続いて、畑佐先生による「小噺ワークショップ」に参加しました。先生は日本語教育の場で小噺を導入し、学習者が日本語をもっと学びたいと感じられるよう(動機付けの手段となるよう)、実践を続けられています。

小噺は私たち日本人が行ってもある程度はできますが、「目線」「声の調子」「動作」など考える点は多々あり、とても奥深いものだと感じました。(先ほどの「劇化」に似ているかもしれません。)

たとえば、以下の小噺。

「手術」 
患者:「先生、私、手術するの、初めてなんですけど、大丈夫でしょうか。」
医者:「心配することはありません、私だって、(手術するの)初めてなんですから。」

まず、これを日本語学習者が覚えて披露する際には、「手術」という日本語が言えるかどうかという問題があります。患者の一言目の「手術」という言葉を効いたときに始めて、聞き手は「病院のできごと」というスキーマ・スクリプトを想起することができます。ここで発音指導・暗唱といった従来の言語教育の手順が必要となります。

ある程度読めるようになったら、ある程度の笑いは取れるかもしれません。しかし、これも実際に小噺する際には、

・患者は寝ているのか、座っているのか、歩いているのか。
・医者は手術中なのか、座っているのか、歩いているのか。
・では、2人は目線をどこに合わせるのか。
・医者は不安気に話すのか、自信ありげに話すのか。
・医者はなにか手に持っているか。なにも持っていないか。

など、想像力を働かせる点はいくらでもあります。

実際に、畑佐先生や平田先生、また多くの会員の方々のパフォーマンスは大変面白く、同じ小噺でも雰囲気がまったく異なることに驚きを覚えました。


もし学習者が完全にこれを覚えて、上の解釈をした上でオリジナルの小噺をし、笑いを取ることができれば・・・もっと日本語学習しようという気になりそうですね!(英語学習におけるジョークの指導にも同じことが言えるかもしれません。)

さらにこの指導が面白いのは、「外国語学習者が母語話者にできないことをする」「初級者も上級者より笑いを取る可能性がある」という点にあります。先ほどの「一元的なものさし(語学力)を覆い隠す」という点と似ていますが、言語弱者としての言語学習者へのエンパワメントという観点からもこの指導は大変面白く感じました。

もしよろしければ、以下のサイトで「手術」の小噺をご覧ください。私はこの動画に「言語学習者」という枠組みを越えた可能性を感じました。



■ Readers Theatre / 朗読劇ワークショップ

最後に、上の2つのワークショップで学んだことを列挙します。Readers Theatre の担当をされた浅野先生は、南山短期大学の先生で、自分の母校とのつながりもありワークショップ後も個人的に多くのお話を伺うことができました。(本当に貴重なお話をありがとうございました。)

Reders Theatre (RT) とは、"a rehearsed group presentation of a script that is read aloud rather than memorized" (Flynn, 2004) で、日本語では「朗読(劇)」「群読(劇)」「表現読み」「ストーリー・テリング」「読み聞かせ」などとしばしば呼ばれます。普通の音読や劇と異なるのは、RTでは台本を隠すことなく音読する点、グループで行い必要に応じてジェスチャーを用いる点、道具や衣装・効果音は用いない点などが挙げられます。

授業で使う際は、教科書本文の内容理解を済ませた上で、内容を改変しないように区切り(文中で区切っても可)、それぞれのパートに分けて読む練習をします。練習したら、最終的に全体の前で発表します。

初日の発表では、ジョン・レノンの Imagine という歌の歌詞を、3人の大学生が RT 方式で読み披露しました。3名ともとても表情豊かで大変引き込まれました。

自分たちもO. Henry の "The Gift of Magi" という作品で行いましたが、ただ読むだけでなくノンバーバルコミュニケーション(ジェスチャー、表情、イントネーションなど)にも気を払い、できれば読むときは目線を上げて (look-up) 披露する必要があり、意外に難易度が高かったです。もし学校現場で実践するなら、練習時間やアイスブレイキングの時間を長めに取る必要があります。特に、内容理解ができていないときにRTをしてもあまり意味がないはずです。まずはテキストの内容理解を行い、適当な箇所で文章を区切って読み、アイブレをしながら人前で話す抵抗を取り除いた状態で、最終的に RT を行う(そして行く行くは drama performance につなげる)というように、スモール・ステップを意識した授業設計が必要でしょう。(逆に、みんなの前で失敗するという経験をさせてしまったら、その子が英語学習から遠ざかるきっかけにもなってしまいます。指導者は、失敗経験をさせないという信念も同時に求められると感じました。)

これも、同じテキストを使ったとしても、グループの個性が強く出ており、見ていて大変楽しむことができました。正直、言語化できない、ビビッとくるようなものを発表を見ながら感じました。朗読劇のワークショップ後に、「どうして朗読をするとワクワクするんでしょうね」という質問がフロアから投げかけられていましたが、自分も同じ感想を持っていました(笑)。

朗読劇は、グループ毎に1幕ずつ練習をし、最終的に3班で3幕分の劇を完成させるというワークショップでした。グループで戸惑いながらも1つの作品を作り上げるというのが、新鮮で面白く、ほかの班との違いも感じることができてとても楽しかったです。

技能育成の重要性を否定するつもりは毛頭ありませんが、このようなワクワク感を授業において演出する必要もあると改めて感じました。


■ 全体を通じて

英語学習における演劇活動の効力を実感することができました。上でも書きましたが、英語を使う楽しさ、身体で英語を味わう感覚、成功したときのワクワク感などはやはり英語学習のモチベーションに大きく寄与すると思います。

今後、平田オリザ先生の問題提起にもあったとおり、「演劇が英語学習においてどのような位置づけがされるか」が問題だと思います。そのための研究も今後進むと良いと感じました。

演劇は敷居が高く感じていましたが、上で紹介したような手軽な活動から入ることもでき、授業にも取り入れやすいように感じました。

ただし、「演劇だけで英語の授業はバッチシ!」ということはもちろんなく、文法学習や静かな学習(座学)、訳、テスト、評価など、英語教育における他の要素とどう結びつくかを考えた上で、さらに演劇が広まると良いと思います。

とても実りのある1日でした。当日、お話いただきました先生方、準備・企画をされました事務局の皆様、本当にありがとうございました。



わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)
わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)平田 オリザ

講談社 2012-10-18
売り上げランキング : 1515


Amazonで詳しく見る by G-Tools

(追記)2014/12/29

南山大学の浅野先生に本記事を紹介したところ、以下のような御意見を頂戴しました。
先生に許可を頂きましたので、貼り付けます。
もし先生にコメント等されたい方は、以下のコメント欄へご記入下されば、ブログ運営者が転送させて頂きたいと思います。
先生には、お忙しい中このようなコメントを下さり、改めて感謝申しあげます。

(以下、貼り付け)

1.RT導入の目的の1つは,読解力の養成です。
和訳やその後の問題演習をして理解したことに
している英文読解授業をいかにして改め,英文
の読みを深め,かつ読みを楽しませるか,が私の
課題でした。しかし,学生の中・高を通して慣れ
親しんだ経験を改めさせるのは容易ではなく,
困り果てましたが,逆に闘志も沸いたことを記憶して
います。つまり,読解のための手段が,RTという位置づけです。


2.短大の学生の英語学習動機は常に「英語が話せる
ようになりたい」です。RTはこのことに必ず貢献できる,
というのが導入の二番目の理由です。ただし,この
点に関する研究は少なく,まだ不十分です。セリフの音読
という手段による意味生成が,自分の言葉となる経過に
パフォーマンス系の英語授業がどう貢献できるかです。


3.政府による「グローバル化」などという方向付けを
待つまでもなく,これまでの言語知識教授に偏る
英語教育が,現代の要請にマッチしないのは明らか
です。しかし,グローバル化の具体論があまりに乏しく,
「リスニングを増やせばよい」,「コミュニケーション重視を」
「学校英語開始年齢の引き下げよ」いう議論に終始している
という印象です。

Drama (Theatre) in Educationなどの研究と実践が
今後の日本の外国語(英語)教育には必要ですが,
守田さんが,メモの最後にお書きの点が非常に大切です。
「演劇を導入すれば全て解決」などということはなく,それを
支える日常的な教育が必要ですね。文法も和文訳もテストも
です。このご意見には深く賛同します。
(詳しいことに関心をお持ちの方は,ご連絡ください)

(以上)