久しぶりに大学に帰り、打ち合わせやゼミ、塾バイトが始まりました。来週からは大学の授業もまた始まります。久しぶりに塾で授業をすると、小学校とは違うテンポの授業で、懐かしさを感じさえします。
実は、先週まで小学校教育実習に参加していました。本ブログでも初等教育の授業法に関するまとめを掲載してきましたが、その中で特に難しいと思ったのは社会科でした。
社会の授業を担当する前日に「もっと社会教育の勉強をしておけばよかったな・・・」と感じ、「今からでも遅くない!」と思い立った自分は、社会科教育に関する本を探し、本書に出会いました。
その場の勢いとノリで注文し(夜3時頃)、そのまま寝てしまい次の日の社会の授業に臨みました。
授業は割と予定通りに進み、安心して家に帰ると、注文した本書が届いていたわけです。(正直、夜3時のことで、注文したこともあまりはっきりとは覚えていませんでした。笑)
リスク社会の授業づくり | |
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「今さら他教科の勉強・・・」と思いながらも、せっかく注文したので読んでいると、自分の授業づくりの考え方の甘さであったり、社会教育のみではないリスク社会における授業づくりの原理だったり、今後に活かせると思える点が多々ありました。
やはり、他教科から学べることは学ぶべきですね(0^^0)
今回の記事では、前半は社会科教育やリスク社会の理論面についてまとめ、後半ではどのような授業づくりが求められるか、といった点について言及したいと思います。
■ リスク社会(2つのアプローチ)
ウルリッヒ・ベックによると、リスク社会には4つの特徴があります。
ある危険が人間の目に見えないという不可視性。危険が国家を超える可能性のあるグローバル性。産業社会によってある危険が利益を生むために自己増殖させる無限欲望性。危険が前触れなしに一気に出現する破局性。
このようなリスク社会への対応には「未然防止」アプローチと「予防原則」アプローチの2種類があります。従来は前者がとられてきたが、今日では後者の重要性も認められています。
「未然防止」アプローチとは、「リスクの因果関係や発生確率が科学的に解明されている場合に、リスクの現実化を未然に抑える対策をとること(p.23)です。なにかリスクがあることがはっきりわかっている場合には、そのリスクは予め防止しましょうという立場ですが、この言説には次のような前提がある。そのリスクの因果関係が解明されていないような場合は、未然に抑える対策は取らなくてもよいという考えです。たとえば、Aという教授法があるとしましょう。この教授法は教師にとってやりやすく学習者も満足しているようにみえていた。しかし、有名な研究論文によって、Aは学習者にとって悪影響を与えることが示された。これによって、「ではAの教授法を使うときにはどうしたら悪影響がでないだろう」と考えるようになるのが「未然防止」アプローチ。大胆にいえば「わかっているリスクに対してだけ対策をとっていれば免罪される(同頁)」。
それに対して、「予防原則」アプローチでは「因果関係の科学的証明がなくても、深刻なリスクが考えられる場合には、事前に予防措置が取られなければならない(p.24))」。従来とは異なり、はっきりと因果関係や影響が示されていないリスクに対しても起こりうるならば事前に防止しようと心掛けなければなりません。今度は指導法Bを考えましょう。指導法Bもこれまで教師によって使われていました。しかし、ある教師が「これを続けたら子供たちが後で困るのではないか」と言い出した。過去の研究論文を探してもそのような記述はなかったが、教師は指導法Bが起こしうるリスクを回避するために、自ら対応策を求めていった。
Aの例では、教師は「言われたから対応する」のに対して、Bは「言われなくてもやる」という特徴がある。これこそが両者を決定づける特性の一つである。(もちろん前者の方が客観的で、後者は主観的という点も指摘できますが。)
■ リスク社会における授業構想
上で述べたようなリスク社会においては、授業や教材研究の営みも変わってきます。
教材研究では、「事実(Fact)と、判断(Judgement)もしくは価値(Worth)の二つに仕分ける(p.31)」重要性が指摘されています。これは、以前国語教育に関する記事でも紹介したが、現代文であればある文章のうち、客観的事実と主観的判断に整理して読むことにあたります。読みでは、客観的な部分は正しく理解する読み方、主観的判断に対しては、読者として賛成できるかどうかの評価を下すことが求められます。
従来は、「特定の解釈を押し付けられ(p.152)」たり、「一方の見解だけを採用し、その結論にそった教育が行われ(p.114)」たりしてきました。
学校と教師は、最終的結論を出したがる。結論を明示しないと教えたことにならないなどと言う人までいる。簡単に決着がつく事柄ならそうしたらよい。しかし、ここで取り上げている事柄はそう簡単に決着はつかない問題であり、その結論は社会的・政治的問題である可能性も高い事柄である。これを行政や学校、教師が結論として提出することは、子供自身が判断する自由権の侵害となる可能性がある。(p.33)
これから求められるのは、児童・生徒一人ひとりが価値判断を下すことができる環境づくりです。
そうではなくて、集められた知やデータから子供たち一人ひとりが結論を出してみたり、複数の結論の前で考え込む経験をつくり出すことが重要なのではないか。そういう役割を果たす時に、教師はウソを教えることから脱出することができる。そこに思慮深い子供を育てる教育活動が生まれているのではないか。(pp.34)
そのためには、教師は児童・生徒の価値判断に十分なデータや材料を用意することが必要でしょう。たとえば、自然に関する授業を行うときでも「人間側」から考える自然(西洋的自然観)に関する文章のみを読ませて価値判断をさせても、児童・生徒の判断は一方に偏ったものとなるかもしれない。むしろ“対立”(この言葉は本書のキーワードの1つだと思うが)を見出させるために両極のデータを提示することが望ましいはずです。そこで、「自然側」から考える自然についても提示することで、対立の構図を学習者に理解させ、判断を行わせるのも良いのではないでしょうか。
本書では原発問題について、従来の教育では1つの考え方に導くような教え方がなされていたことを批判しており、代案として子供たちとともに新たな可能性を探るような授業展開例が示されています。「何ミリシーベルトなら安全だろうか」といった小さな議論ではなく、「原発の功罪を認めたうえで、これからの望ましい在り方は何だろうか」といった建設的な議論を行えるようにデザインされていました。
■ 心にしみる学び
・対象認識と関係認識
学校授業(特に教科教育)の欠点として、「取り上げる事柄が子どもの生活と直ちにかかわりの深い事柄に見えない内容も多い(p.133)」ことがあります。授業ではこう習ったけど、自分には関係のないと思わせてしまえば彼(女)らの深い学びはあまり期待できない。筆者は、「対象認識」「関係認識」という概念を援用して、以下のように心にしみる学びを示しています。
人の認識には、対象認識と関係認識とがある。[...]学びが成立するとは、対象に関する認識を形成することであり、同時に対象と学び手との関係認識を作り出すこと、この二つが生まれることである。
対象認識は、モノそのものに関する認識だから分かりやすいであろう。
他方、関係認識とは、その対象と認識主体とのかかわりに関する議論である。(p.123)
言い換えると、対象認識は学習内容のことであり、関係認識とは学習内容と学習者のつながりでしょう。たとえば不定詞の名詞的用法について理解(対象認識)し、「これを使えば将来の夢について語ることができるな(関係認識)」と思うこともあるでしょう。小学四年生の地域学習で宮島杓子の伝統や課題を知り(対象認識)、今後の宮島杓子はどうなるかの評価や宮島杓子の伝統に自分ができることの探求(関係認識)をすることもあるかもしれません。このように、学びにおいては両者が常に存在することになります。
教科におけるよい学びとは、「対象認識と関係認識の二つが必要(p.125)」であり、「関係認識の再編を期待しつつも、それは子どもに委ねることでよい(同頁)」。したがって、対象認識のみでとどまり、学習者にとって必要性や関係性を感じさせなければ無駄な知識ととらえられてしまうかもしれないし、逆に関係認識のみを重視するだけでは知識が身につかない。関係認識を変えようと躍起になると行われがちなのですが、家庭科などで「整理整頓」の学習を終え、「さあ、家でも整理整頓をしましょう」とワークシートを配布して、“無理やり”整理整頓を家で行わせることである。(自分もこのような指導案をつい先日作っていた・・・。)このような学びでは、本当に整理整頓が子どもたちの心に染みついているのだろうか。無理にやらされているのでは、単元終了後には元に戻るかもしれません。
むしろ、整理整頓について学習し、その関係認識形成は子供たちに“任せる”ことで自発的に整理整頓を行うのを待つのも必要なのかもしれません。これが「子どもに委ねる」という意味なのでしょう。
・心に染みるとは?
心に染みるは以下のように定義されます。
心に染みるとは、共感する(反発する)という行為や精神活動として捉えることができる。(p.127)
「私」(教師と子ども)が、対象である他社の中に「私」と「あなた」を見つけ、さらに語りの向う相手(教師は子ども、子どもは教師と他の子どもたち)とを意識化する時である。そんな時に、内的な対話が生まれ、世界を広げながら自己を捉え返す学びとなり、「私」を育てる。(p.128)
では、どのように心に染みる授業が作れるのか。筆者は以下の3点を指摘しています。
(1) ベースとしての真理と事実
(2) 言葉の意味集め
(3) 他者の中に自己を見る
先ほどの概念を用いれば、(1)は対象認識、(2)-(3)が関係認識の形成といえるでしょうか。そもそも学びには内容がありますので、(1)で真理・事実を追求します。(当たり前のようですが、ゲーム重視の授業では事実や真理の確認を抜きに「君はどう思う?」と考えさせることがあるのではないでしょうか。)
事実を追求する中で、学習者は「言葉」の意味のあいまいさに気付くはずです。原発であれば「ただちに影響はありません」「想定外」(p.129)といった言葉が多く用いられていましたが、これらの言葉は発話者・受け手によって意味が異なるかもしれません。
私たちは、だから、言葉の意味について事実を確かめ合うこと、どのような意味で理解しあっているのかを互いに確認し合う方法に熟知する必要がある。念のために述べれば、言葉の意味を確かめ合うとは、辞書を調べることを意味しない。自分たちにとっての言葉の意味を探すということだ。[...]
言葉には、①言語記号の表層の語義と②語義に対応する現実・事実があり、③その発話行為によって生まれる社会的機能がある。電力不足という記号の場合、①電力が足りないという語義と、②足りない現実があるかどうかがまず問題となる。次に、その言葉を発することによって、③原発が必要だと思わせたいという社会的機能があるかもしれないということだ。(p.129-130)
先ほどの「ただちに影響がありません」も、「安心しろよ」というメッセージなのか、「ただちに、ではないということは、いずれ影響があるのか」という暗示なのか、学習者によって受け取り方も様々です。これらの「自分たちにとっての言葉の意味を探す」という作業を行い、各自の意見を交流することこそが、「言葉の意味集め」に他なりません。
(3)の「他者の中に自己を見る」は、言葉の意味集めの最中に起こりうるもので、各々にとっての言葉の「意味」を交流する過程で、他者の意見に共感しあったり反対したりすることを指します。意見交流や感想文作成などが具体的にあげられますが、相手の意見を知る・聞くだけでなく、「この人はこう考えているんだ。自分もそう思う」といった自分自身の考えも確認しながら聴くことで成立します。
(1)-(3)を通じて、児童は「ただ単に原発について学んだ(対象認識のみの学び)」段階から、「原発は~~~だと思う(対象認識+関係認識における学び)」へと深化させていくのでしょう。
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確かに、社会教育の原理が示されており、本書通じて原発に関する教育の見直しがされていますが、その根底には「決まった答え1つのみではなく多様性を認める教育」や「子ども自身が学習内容との関連を見出す」という哲学があるのだと思い、それは他の教科にも当然いえることなのだと思います。
改めて、他教科から学ぶ意義を思い知りました。
さらに、今日のリスク社会において、これまでは考慮されなかった軸で授業作りについて考える必要も今後はあるのかもしれません。大切なのは児童生徒に判断させること、と本書では述べられていましたが、これは推論発問・評価発問という名目で生徒の意見を引き出す英語教育にも他人事ではないのかもしれません。知らず知らずのうちに教師が用いる教材や、発問の仕方1つを取っても彼らの考え方に影響を与えるかもしれないし、特定の解釈を押し付ける教育をしているかもしれません。そういった意味で英語科が本書から学ぶ点は以下にあると思います。
(あくまで英語リーディングに限定しています。)
・生徒が題材に対して判断をする機会を与える。
・特定の解釈を押し付けないで自由な回答をさせる。
・多くの教材に見られる「政治性」を教師が見抜き、授業づくりの際に考慮する。(どう考慮するかについては、今の段階では答えが出ていません。)
また、フレイレの識字教育、海辺のカフカや暗夜行路の解釈など、興味深い話題も載っていて、それらについてものちのち調べてみたいな、と思いました。(海辺のカフカの議論は数ページでしたが、解釈の相違に関する絶好の例だと思います。そういった意味では以下の書籍は、絶対に面白いだろうなと思います。)
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いつもながら、まとまりのない記事となってしまい恐縮です。
さて、あと少しの夏休みをエンジョイしましょうかね(^^)♪♪ご機嫌よう~!
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