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2015年11月19日木曜日

高尾隆・中原淳 (2012) 『インプロする組織-予定調和を超え、日常をゆさぶる』三省堂

こんにちは (^-^) mochi です。

最近、コミュニケーションにおける「即興性」という言葉が気になっています。

英語教育でも、次の学習指導要領で「他者の尊重」ということばが目標に含まれるようですし、次の展開が予測できない「他者」に対峙し、即興的に対話をする力が求められるのかもしれません。

私は言語教育と「即興」について考えるとき、即興劇 (impro) の発想が大変参考になると考えています。そこで高尾・中原 (2012) 『インプロする組織』(三省堂) を手にとってみると、これが大変面白かったです!

Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる
Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる高尾 隆 中原 淳

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この本は、昨年末に国際表現言語学会に参加した際にも気になっていたのですが、やっと手にとって読むことができました。

以下、面白かったところを中心に紹介します。

■ 伝統的な授業の問題点

高尾氏は今日の授業を講義型の知識伝授行為として、以下のように批判しています。

1) 知識の活用がしにくい
2) 自分で知識を探したり作ったりすることができない
3) 知識を伝える方が自らの振る舞いを見直すことがない

ここで断っておく必要があると思うのですが、必ずしも今日の学校授業が上のような知識伝授とは限定できないと思います。このような問題意識は教育現場にも教育政策にもあって、「アクティヴ・ラーニング」の必要性も叫ばれています。

また、必ずしも知識伝授式の授業が否定されるべきだとは思いません。正確な発音の仕方や英文法の形式の説明などは、メタ言語を使用した丁寧な説明が効果的な場合も多いと思いますし、知識伝授式の授業が得意とする領域まで「アクティヴ・ラーニング」に取って代わられる必要もないでしょう。

とはいうものの上の留保をつけてでも高尾氏の主張は意義深いと思います。高尾氏の主張は現象学と批判理論を基盤としており、知識伝授式の授業が信頼している確かな真理・知識といったものがそもそもないのではないか、また、教える側の権力性によって無批判に正当化されている部分が教育行為にあるのではないか、といった批判意識に根ざしています。そこで高尾氏は、これまでの「学び」に排除されてきた要素を見つめなおします。

学びから排除されたものは、有利な立場に立っていた人が、これらのことが学びに入っていると自分たちを守っている既存のルールが脅かされ都合が悪い、と考えて排除した可能性があるからです。…それは「からだ」です。 (pp.24-25) 

■ 「からだ」の重視-パフォーマティブ・ラーニング

高尾氏は「からだ」をメルロ=ポンティの身体論を援用しつつ、「主体としてのからだ」と「物としてのからだ」の両義的な性質を持ったものと位置づけます。「主体としてのからだ」は意識の源としてのからだで、そもそも私たちがからだなしには何も考えられないことからもからだを我々の主体といえるでしょう。「物としてのからだ」は物理的な対象としてのからだで、たとえば私たちが鏡で自分のからだを見たり、他者によって自分のからだを触られたりすることもできます。このようにからだを「主体/物」(あるいは「見るもの/見られるもの」という両義性で捉えています。

この両義的なからだは、時にずれ(矛盾)を生み出すこともあります。ベイトソンのダブルバインドの議論と似ていますが、私たちが「愛しているよ」と言いながらも顔が引きつっている場合などが、「主体としてのからだ」が出したがっているメッセージと「物としてのからだ」が出してしまっているメッセージのずれ(矛盾)に当たります。

この「ずれ」は無意識に起こってしまうものなので、社会生活では不便なものと感じられて抑圧されてしまいます。特に管理社会であれば、「物としてのからだ」から自ずから出すメッセージを無視して、「主体としてのからだ」が論理や言語を用いることの方が都合が良いでしょう。

しかし、高尾氏は逆の見方をしています。「主体としてのからだ」が「物としてのからだ」を操作・支配するだけでなく、「物としてのからだ」も同様に「主体としてのからだ」に影響を与えていると。さらに言い換えるなら、「からだ」が行うパフォーマンス (performance) によって主体の自己同一性 (identity) が変化するような考え方といえます。このパフォーマンスと自己同一性が表裏一体の関係にあると考えるのがパフォーマティビティ (performativity=performance+identity) で、これこそがパフォーマティブ・ラーニングの軸となる考え方です。

パフォーマティブ・ラーニングは (1) からだを動かして表現する、(2) 他者へ向けて表現することで自分を解体・再構築する、という2つの意味が込められています (p.40) 。ここで具体的な教育方法論として用いるのがインプロ (impro) です。インプロは、「主体のからだ」と「物としてのからだ」がそれぞれ調和・統一した状態でパフォーマンスをする状態を指します。パフォーマティブ・ラーニングは「物としてのからだ」が管理下されて固定化してしまうと不可能になってしまうので、からだを解放させて自然発生的な反応 (spontaneity) が生まれるように環境整備する必要があります。


■ 合目的的教育観とパフォーマティブ・ラーニング観

近代以降我々が有している教育観は、しばしば「合目的的教育観」と批判されます。合目的的教育観とは、手段―目的図式が強固に用いられている様子を指します。たとえば私たちが授業を行う際は、常に目標を設定して、それに従って計画を立てて実行し、評価をすることで次に生かそうとします。このような目的の強調は、アメリカの教育哲学者のデューイも述べているとおり、大変重要なものです。

ただし、インプロでは計画が行われず、むしろ「即興的かつ局所的な対応」 (p.61) が求められます。そもそもインプロという言葉は、「予-見」 (pro-vision) することができない (im-) という語源を有しています。そこで、「未来」に見通しを持つのではなく、「今・ここ」で、「身体」をメディアとして用いることで、物事の多用な見方や意味づけを学びます。

このようなパフォーマティブ・ラーニング観は、ある意味無計画で無謀なように思えるでしょう。ただし、合目的的教育観が見逃している部分に関して、パフォーマティブ・ラーニングには可能性があるようです。

既述したように「即興的」で「創造的」で「協同的」で「脱権力(民主的)」で「共愉的」なインプロは、一見、論理では説明がつかない、「費目的思考の行為」「経済的合理性に反した行為」「非科学的・非論理的な行為」に見えます。しかし、それは、不確実な世の中を生き抜く知恵の一つであり、うまく奏功した場合、「目的志向の行為」「経済的合理性のある行為」「科学的・論理的な行為」を、陰ながら生み出す可能性も持っているのではないか、と僕は感じています。 (p.69) 

この箇所に関する自分の意見は、「そりゃ、どっちも大事だろう」というありきたりなものです。(笑)

もし「合目的的」な授業ばかりをデザインし続けると、コミュニケーションが本来有する偶発性や複雑性といった部分を学習者に体験させる機会が少なくなってしまうかもしれません。そこでインプロが使えるわけですが、かといってインプロばかりやっていては、学習者への学力保障が必ずしもできるとは思えません。

(先日、某県立中学校の授業を参観させて頂きましたが、その先生の授業では、この「合目的性」と「インプロ性」が非常にバランスよく取り入れられていたように思えます。おそらくこのバランスのとり方が最も難しいのだと思いますが・・・。)

■ インプロの原則

ここで、著者の両氏が重視されているインプロの原則を確認します。

1) 無理しない
2) Give your partner a good time.
3) 自分も楽しむ

これらは、「からだ」を解放するためにも、また自然な即興性を表現するためにも、「無理をしない」「お互い愉しむ」ということが重視されます。

ここで、2)に注目したいと思います。両氏は「他者」を学びの根本的存在として捉えています。

人は一人では学べない、人は一人では代われないということなんです。「学ぶ≒変わる」ためには、他者がどうしても必要です。究極的に言うと、自己を自己で認識し、律するためには、どうしても他者の助けや他者の視点が必要だということです。…「学びの他者性」なんです。 (pp.217-218)

私たちは「他者」と関わることで、自己を認識することができます。この辺をヘーゲルの概念で語れば、「他者の内に自己を見出す (sich-im-Anderen-anschauen) 」に近いかと思います。つまり、最初は「他者」として立ち現れる存在のうちに「自分」を見出し、もともとの自分 (即自的存在としての自分) と他者のうちに見出す自分 (対自的存在としての自分) が弁証法的な統一を遂げることで、「成長」「学び」を起こすことができるといえるのでしょう。

(この具体的なインプロのエピソードまでは本記事では紹介しませんが、本書の最大の魅力はこの豊富なエピソードにあります。他者と接して、偶発的なコミュニケーションが連続しつつ、会話の参与者で共通の土台を協働的に作る参加者の姿が詳細に記述されています。)

■ 身体と言語―裂け目を入れるための振り返り

最後に、インプロやパフォーマティブ・ラーニングにおける「言語」の役割について確認しておきます。著者らは「言語」の役割を「振り返り」に帰します。現に、本書で紹介されるワークショップでは、アクティビティが終わる毎に参加者と「今のどうでした?」「ここでこうしてたらどうなってたと思いますか?」と、参加者がインプロで行ったことについて言語化を促します。高尾氏はこの役割を「“裂け目”を入れる」という比喩で語ります。

からだを動かすこと事態で“裂け目”は入らないんですよ。からだを動かしたあと、それを言葉にしたときに裂け目が入る。言葉にすることが効いている。ただからだを動かして、「はい、今日はからだをたくさん動かしましたね」っていうワークショップでは、たいてい何もおきていない。それでは「エクササイズ」ですよね。 (p.202) 

また、中原氏も以下のように語ります。

「からだを動かすこと自体で“裂け目”は入らない」とは慧眼ですね。そこで起こったできごとのプロセスを、一人称で、自分の言葉で表現したときに、内省が駆動し、裂け目が入る。同じ言葉にするにしても、自分に起こったできごとのプロセスを、一人称で、自分の物語として書き留めていくことが大事なんですよね。 (pp.202-203)

前節までで述べてきたように、「物としてのからだ」によってできるだけ自然な動きをインプロでした後、再び「主体としてのからだ」と「物としてのからだ」のずれ・矛盾に目を向けるためにも、言語化を行う必要があります。言語化は「裂け目」をいう比喩が用いられていますが、ルーマンに倣えば「区別」と言っても良いでしょう。インプロ中はできるだけ区別を敢えて引かずに進めますが、それが終わった後に敢えて「主体としてのからだ」の視線で区別を引くことで、言語化された自分と、言語化されなかった自分の身体知のギャップへの気づきが起きやすくなるのでしょう。


■ 最後に

「偶発性」や「即興」「対話」といった要素が、しばらくの自分にとってのキーワードになるだろうと思います。できれば大学院にいる間に、「即興性」という概念について自分なりの定義が提出できればと思うのですが、どうなることやら。(笑)

本書は、自分の固まりきった考え方を対自化するためにも、とても読み応えがありました。

ただし、一般書なので、インプロに関する理論面については少し物足りない感じがあります。言語教育とインプロで調べたら、以下の洋書を見つけたので、次の読書はこれにしようと思っています。


Improv for Teaching Foreign Languages (English Edition)
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また、パフォーマティブ・ラーニングという概念は、アクティブ・ラーニングと対置したときに、どのような点が異なるのでしょうか。個人的には、「からだ」「即興性」の重視というのがオリジナリティといえても、系譜として両者は非常に似ているのではないか、という考えです。

また、自分自身がインプロの体験をする必要もあると思うので、今年の年末も演劇ワークショップに参加してこようと思っています。


2015年11月16日月曜日

日本翻訳ジャーナルの記事に紹介して頂きました!

こんにちは。 mochi です。
某看護学校での非常勤勤務も無事に終えて、あとは修士論文に向けてまっしぐら!のはずが、ほとんど筆が進まずに悩んでおります(笑)。

学部の卒論の二の舞にならないよう、もう少しこれから研究時間を割きたいです。

さて、突然ですが、先日学会で口頭発表した内容について、『日本翻訳ジャーナル』の記事でご紹介いただいたので、ここにリンクを掲載させていただきます。(なお、編集者の方の許可は頂いております。)

日本翻訳ジャーナル イベント報告


『日本翻訳ジャーナル』は、一般社団法人日本翻訳連盟(JTF)の機関誌です。翻訳に関する行事の案内や興味深い記事も多かったので、興味をお持ちの方はぜひご覧ください。

そこで、今年の9月に青山学院大学で開催された日本通訳翻訳学会第16回年次大会の紹介記事で、自分の拙い発表に言及して下さいました。学会では、

英語教師志望者の「英文和訳」と「翻訳」:プロダクトとプロセスの観点から

という題目で発表をさせて頂きました。当日は自分の方が多く学ばせていただき、足を運んでくださった皆様には心より感謝申し上げます。

手前味噌で恐縮ですが、当日配布したスライドを共有させて頂きますので、よろしければご覧ください。





論旨としてはざっと以下の通りです。


(1) 私たちが用いる「訳」という言葉には、「翻訳」と「英文和訳」が混ざっている。


(2) 英語教師も授業場面によって、「翻訳」も「英文和訳」もすることがある。


(3) 実際に英語教師志望者に中学校検定教科書の英文を「翻訳」してもらうとより日本語らしい文になり、「英文和訳」してもらうとぎこちない日本語になった。そしてこれらは言語類型論のIモードとDモードという分類で分析することができた。


(4) また訳した人たちにインタビューをすると、物語の世界に入り込んで訳そうとしていたことが明らかになった。


(5) しかし、「翻訳」文の中には、まだぎごちない箇所もあり、今後英語教員養成課程で「翻訳」指導を行うことで補完できるのではないか。


(具体的な訳文データやインタビューデータは、当日配布資料のスライドをご覧ください。)






以下、簡単な振り返りと自己批判を。

(1) については、日本の英語教育に関する議論の際にもこの分類は便利だと思います。ただ、これらの分類が必ずしも万能ではありません。何を以って「翻訳」とするか、といった操作的な定義は、どうしても主観による部分が出てきてしまいます。本発表はスコポス理論に基づいて暫定的に区別を引きましたが、やや強引だったかもしれません。


(2) は、英語教育学では馴染み深い「和訳先渡し」授業を取り上げて、訳文も学習者にとってはインプットの一つであると主張しました。そして、学習者の実情や単元目標によっては、訳文の言葉遣いを教師が調整したり、教師自身が訳出したりすることも時に必要なのではないかとしました。

(もちろん現場で毎回そのようなことをする時間はないかもしれませんが、たとえば授業で英語の歌を作るときなど歌詞を先生が訳す場合もあるのではないでしょうか。)


(3) は、従来の「翻訳」「英文和訳」の定義にはない、認知言語類型論の枠組みを用いた分析になっています。この部分については、修士論文でさらに明確に分析できればと思います。


(4) は訳者のナラティヴを用いて、訳文プロダクトには反映されなかった訳者の思いをできるだけ汲み取ろうと試みました。まだ分析の目ができていないのですが、物語世界に視点を内置しようとしている姿を紹介できたのではないかと思います。


(5) の主張は暫定的なものです。この点については、後に先輩の先生方からもご指摘を受けました。今後は、データの解釈を進めて、そのデータから言えるリーズナブルな主張になるように気をつけようと思います。



ということで、まとめて言うと「途中段階」という恥ずかしい発表になってしまい、また言語学も生半可な理解で通してきたため、多くのご指摘も頂きました。(ご指摘・ご質問下さった皆様、本当にありがとうございました。)


ただ、これまでの学会発表の中で一番手ごたえがあったというか、少なくとも、自分の言いたいことがこれまでの中で一番伝わった、という気持ちになれました。

来年度からは学会に参加できる時間もなくなっていくのでしょうが、時間を見つけて、翻訳や英語教育関係の学会には顔を出しておきたいものです。




ちなみに、来月に開催されるJALT Hiroshima のmini-conference で、大学院生活最後の発表を行わせて頂くことになりました。(と、さりげなく宣伝。笑)

A Proposal of Teachers' Questions Using a Translated Text


発表テーマは「翻訳発問」にしました。M1の頃にためていたネタだったのですが、翻訳を題材にして、翻訳論的視点(等価理論や文化翻訳など)から発問を作ってみたらどうだろう、という提案ができればと思います。


当日は、自分が模擬授業を行った後、皆様と「翻訳発問」や英語教育における訳活動に関して議論させて頂ければ幸いです。


また、当日はたくさんの興味深い発表が準備されているそうですので、どうぞお時間のある方はお越しください。




最後になりますが、「日本翻訳ジャーナル」の皆様、特に記事執筆者の三宅様には、心より感謝申し上げます。


2015年10月31日土曜日

山本おさむ (2000) 『わが指のオーケストラ』秋田書店

こんにちは!
早いもので、明日から11月ですね!

私は、非常勤先の授業も少しずつリズムがつかめて来て、楽しくやっております。
と同時に、刻一刻と修士論文提出期限が近づき、焦りつつもありますが(笑)。


友人から、『わが指のオーケストラ』という漫画を教えてもらいました。非常勤の行き帰りで一気に読んでしまいました。

とても良い作品だったので、ここに紹介させてもらいます。




わが指のオーケストラ 文庫版 コミック 全3巻完結セット (秋田文庫)
わが指のオーケストラ 文庫版 コミック 全3巻完結セット (秋田文庫)山本 おさむ

秋田書店 2000-07-01
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◆ 作品の紹介(1)

この物語の背景は大正~昭和にかけてのろう学校で、主人公は高橋潔という実在の人物です。(今は特別支援教育と言われていますが、当時はまだろう学校・盲学校などが分かれていた時代です。)

本作品は秋田書店版で全3巻となっています。第1巻は、高橋氏がろう学校に赴任するところから始まります。当初は音楽教員を志望していた氏でしたが、少しずつ子ども達と体当たりでコミュニケーションを取れるようになり、手話を(自身も学びながら)子ども達に教えることで、少しずつ子ども達が変化していく様子が描かれます。それはまるで、ヘレンケラーが「水」という語を覚えたときのように、子ども達にとっては1つ1つの手話によって、これまでの世界とは異なる見方ができるようになり、問題ばかり起こしていた子も落ち着いていきます。

第一巻の最後では、高橋先生が「ずし王」という絵本を手話で子ども達に伝える場面があります。文字を読めない子たちも、先生の手話を目で追っているうちに、次第に心が動き出します。高橋先生はここで、「手話で音楽をする可能性」というものに気づきます。


◆ 手話の魅力

閑話休題。

上で出てきた「手話と音楽」について、つい最近TEDで紹介された動画ですが、非常に啓発的でした。




「手話で音楽」など可能なのかと思われるかもしれませんが、ここでいう「音楽」は「空気の振動のまとまりが聴覚で受信されて感性的に把握される作品」という意味ではありません。むしろ、「リズムを伴って心が動かされるという事態」を指すのだと思います。

自分も学部生の頃に手話を少し習っていましたが、手話をするときは表情や体の動きをふんだんに使って表現するように言われます。

そのせいか分かりませんが、自分が授業やプレゼンなどで前に立つときは、ジェスチャーなどの表現が多くなります。イギリスの小学校で授業をした時も、子どもから、「先生は手話をやっているでしょ?だって身振りが多いもん」と言われたほどです。(やはり、子どもは侮ってはいけませんね。笑)

このように、指・手・腕の動きのみではなく、表情や身体全体、そして動きのスピードやリズムなどを組み合わせれば、可能な表現様式は無数になると思われます。その複雑な体系の中で、伝えたい思いにそって手話表現を行えば、たとえ耳が聞こえない方にも「音楽」が伝わるのかもしれません。

以前、「演劇大学 in さかいで」という企画でパントマイム体験のワークショップに参加したときも、パントマイムは声が使えない分全身を使えるだけ使え、といわれました。だから、動作だけでなく、目線や表情、息づかいなどもパントマイムの表現には含まれます(し、実は細かい動作のテクニックよりも、全身の表現力の方が重要だと学びました。)手話もそれと同じなのだと思いました。


◆ 作品の紹介(2)

第2巻では、米騒動や関東大震災などの対象自体の出来事を背景に、ろう教育の主流が手話法から口話法へと移り変わっていく様子が描かれます。

ここで簡単に紹介すると、口話法とは、先生が話すときの口の動きをよく見て(読唇術)、音を発する練習をし、最終的には話せるようになることを目指します。相手の唇の動きから相手の発話を理解して、それに対する返事を言葉で発することができれば、将来就職するときも有利になるのかもしれません。また、親としてはわが子が話す姿を見て、嬉しい気持ちになるのかもしれません

ただし口話法は、その指導法の特性上、手話の使用を禁止します。手話を使っても良い環境下にいると、意思伝達を手話で行うため、なかなか口話が身につかないと想定したためです。大正時代は、手話を使わないように体罰を与えたり手を縛ったりしたといいます。

口話法は日本全国で広まりますが、手話を奪われた子たちが次第に不満を募らすようになります。そこで、主人公の高橋先生が、手話法の復権を目指して奮起します。

第3巻のテーマは、手話法と口話法の対立にあります。どちらも子ども達のために行っていることは否めませんが、高橋先生は手話法の存続が子ども達のためになると信じて活動を続けます。

第34話「記念すべき日」では、高橋先生が全国聾唖学校校長総会で、口話主義の校長たちの前でスピーチをします。

◆ 高橋先生のスピーチから

まずは、言語の権力性に関わる以下の発言。これを敷衍すれば、外国で言語が話せない「言語弱者」にも当てはまるのかもしれません。
(だからこそ、看護学校の生徒さんには、ほんの少しでも、英語でのコミュニケーションに熟してもらいたいと願います。)


聾唖者は少数者であり手話は少数者の言語です
正常者は多数者であり音声言語は多数者の言語であります
故に少数者は多数者の犠牲になれと申されるのでしょうか
正常者の立場に立ち彼等に正常者の言語を強要し正常者と同様になれと申されるのでしょうか
聾唖者が聾唖者である事をなぜ恥じねばならないのでありましょう (pp.203-204)

また、子供の構築する世界を豊かにするためにも、手話が必要なのではないかと訴えます。
このへんの議論は自分が疎いのでなんとも言えませんが、説得力はあると思います。
(お詳しい方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。)

子供には子供の世界があります
我々教師は一日一日成長していく生活者としての彼等にその精神生活に糧をあたえてゆかねばなりません
それには彼等のことばであるところの手話に依らねばならないと考えます
彼等には手話こそ最も自然で解り易い言葉なのです (p.208)

◆ 英語教育と母語

私はこれらの箇所を見て、ふと英語教育を思い出しました。思えば、2013年から高等学校の英語の授業が「原則英語」と学習指導要領で指定され、着々と英語で授業をすることが(浸透した、とまでは言いませんが)当たり前になりつつあります。

予め断っておきますが、上の高橋氏の主張を機械的に英語教育に当てはめることは危険でしょう。すなわち、「英語の授業で日本語を禁止するのは、子供の世界を奪い取ることになる!」とか「だから英語の授業は訳読式教授法に戻るべき」と主張する気は毛頭ありません。可能な限り授業は英語で行うべきでしょう。

ただし、これが過熱すると、上の事態と似た状況になることも否定できません。英語という「他者の言語 (Fremdsprache) 」を押し付けられ続け、学習者の感性や生活経験が押し殺される事態があるとしたら?もはや象徴的には、手話を禁止して手を縛ろうとした大正時代の口話法とあまり変わりがないのではないでしょうか。


現代の特別支援教育の議論は追っていないので分かりません(し、今後勉強する必要があると思います)。しかし、殊に英語教育に限定すれば、私たちは英語を教える中で、「母語」の役割についてもきちんと検討すべきではないでしょうか。

それが訳読式教授法である必要はありませんし、わざわざ一単元を取って翻訳教育をすべきだとも思いません。自分も将来現場に出たときは、英語で行える部分ならもちろん英語で行う方が学習者のためになると思います。ただ、英語を学ぶ学習者が有す言語的背景にも留意した上で、英語を教える必要があるのではないかと思います。



◆ さいごに

山本おさむさんの作品は他にも、『どんぐりの家』などがあるようです!
まだ読めていませんが、時間ができたら読んでみたいと思います。

皆さんも読書の秋に漫画などいかがでしょうか? (^^)

2015年10月10日土曜日

菊地多嘉子 (2015) 『看護のなかの出会い-“生と死に仕える”ための一助として』日本看護協会出版会



今年度後期から某看護学校で英語を教えるお仕事が始まり、その関係でケア論や看護関連の書籍を手にとる機会が増えました。この本も本屋で看護英語のテキストを立ち読みしていたときに目に留まったものです。小さい書籍だったので「とりあえず読んでみようか」くらいの気持ちで買ったら、非常に奥深い記述で心に残りました。

本来、自分のような人生経験の浅い薄っぺらい院生が評するべき本ではないのかもしれません。そのくらい「生」「死」について深く考えさせる文章で、あまり軽々しく論じるのが憚られる気がします。しかし、最近の自分の関心(「他者」「承認」「ケア」)と密接に関わる豊かなエピソードが紹介されており、また、教育の文脈で読み解ける場面もあるため、ここで紹介したく存じます。

※後記※
書いていたら、情けない自分の反省文のようになってしまいました。(笑)私の懺悔文はあまり値打ちがありませんがw、本書はとても良書だと思います。
本書に興味をお持ちでしたら、どうぞ手にとってお読みください。それくらいの値打ちはあると思います。

■ 他者による無条件の受容

私たちは承認欲求、すなわち他人に自分を認めてもらいたいという気持ちを持っています。この承認欲求は大きく分けて2種類あり、「英語力という条件においてこの生徒はすごい」とか「仕事という面でAさんを認めている」といった条件的な承認と、「あるがままの自分を認める」という無条件な承認(あるいは全人的な承認)があります。本書では後者の無条件の受容に、すなわち、この世に生きている私として相手に認めてもらうことに焦点が当てられています。

本書では、母親に赤ん坊が生まれ、分娩室で初めて対面したときの母親の姿が描かれます (pp.14-16) 。「ぼっちゃんですよ。おめでとう。」と言われた母親は、「涙をたたえた目で」「わか子の運命まで見通そうとするまなざし」で、「かけがえのないわか子の苦しみをも喜びをも、ともにになおうとするまなざし」でしっかりと見つめます。このとき、赤ん坊を条件的に見なそうとする姿勢は一切ありません。

しかし、時が経ると、あるがままに受容することができないようになってしまいます。小学校に入学した最初は、通知表に5があれば「すごい」と誉めてくれたお母さんも、次第に、「まあ、5がたった1つだけ」と価値付けてしまいます。ここではお母さんは「通知表の成績」という「条件」で子どもを承認しており、それによってだんだんとやる気をなくす子どもの気持ちが描かれます。


人と人との出会いは、他者による無条件の受容に始まるのではないでしょうか。 (p.14) 
まず、親、そして兄弟姉妹、先生や友人から、あるがままあに受容され、大切な、かけがえのない存在として愛された体験をもつ人は、どんなに幸せでしょう。 (p.17)

そして無条件の受容は、人を変える力を有します。これはアドラー心理学でも言われていることですが、私たちは社会(対人関係)から離れることはできず、したがって私たちが抱える問題や悩みは他者とのつながりや人間関係によって規定されてしまうことがあります。そのような他者に対して無条件の受容をすることで、個人としての問題も解消されて成長できる可能性があります。英語ができないから、という条件付きの理由で生徒を見放すのではなく、「この子の可能性を見据えよう」と無条件に認め、全人的な関わりを持つことで、その人の成長の余白を念頭に入れることができます。

受容する、とは、相手の欠点や短所に目を閉じて正しい評価を放棄することではありません。つまり、賛成することとはちがいます。賛成が静止的であるのに対して、受容はダイナミックな、想像する力にみなぎっています。今あるがままの相手を肯定し、受容することによって、その人を新しい人に変えていくことができるのです。理想像を押し付けて打ちのめすのではなく、世界中にたった一人しか存在しない相手が、いかにもその人らしく成長するのを助け、支え、励ます力、これこそ、受容のダイナミズムといえるでしょう。 (pp.18-19)

受容の「ダイナミズム」と表現するということは、受容は運動を孕む営みで、常に変わり行く他者である相手に対して、自身も受容の仕方(言葉かけ・表情・視線…) を調整しつつ、長期的な視点で他者が変わるのを待つことを指します。

(ここまで書いて、自分は上の「承認」を普段少しでもしているか、と恥ずかしくなりました。塾や学校の生徒さん方、大学院の友人と、このような関係を築けているかと思うと、顔を上げられません。)

■ 「どなたかに合っている時間は私のものではなく、そのかたのものです」

看護場面は激務であり、短時間で仕事を終わらせて次の仕事に向かう毎日だといいます (p.31) 。しかし、そのようなときでも、患者さんに関わるときは、患者さんのためにその時間を使うことが重要だといいます。

みなさまは患者の側に居る時間を、必要ならば三分でも五分でも延長してあげたい、と思っていらっしゃることでしょう。でも現実にはそれさえできない。…患者はこうした事情をわきまえて、長い時間とはいわない、ほんのひとときであっても、真剣に自分に向き合ってほしい、「脈をとる一分一秒だけでもいい。その間だけは『私の看護師さん』であってほしい」と、切に願っております。この望みに応えうるか否かは、仕事の量の問題井ではなく、心の問題なのではないでしょうか。たとえ短い時間にすぎなくとも、その間中、世界に相手と自分しか存在しないかのようにかかわること、これこそ真実のやさしさのあかしなのですから。 (p.30) 

「どなたかに会っている時間は私のものではなく、そのかたのものです。たとえ数分であっても、世界中にそのかたと私しか存在しないかのように、自分を差し出さなければなりません。」(p.32) とはマザーテレサの言葉です。業務を効率化して、複数の仕事を並列的に処理することも必要かもしれませんが、相手が殊に人間であれば、患者さんに対しての時間は、患者さんのためだけに使う必要があるとも思えます。

病人の顔を見に行っても、思いは次の仕事に向けられているなら、病人は痛いほど、その人のこころの動きを感じとってしまいます。看護師のこころが全面的に自分に向けられてはいないと知ったとき、病人は進んでこころを開こうとはしないでしょう。このようにして、毎日病室に足を運んでいながら、患者との出会いをもたずに終わってしまうのなら、それはほんとうに残念なことと思います。お互いにとって。 (pp.32-33)

そしてここまでの記述は全て、「教師―生徒」関係にも当てはまります。日々業務に負われる教師にとって、生徒と接する時間は大事だ、とか、生徒理解が授業の基礎だ、とは頭では分かっていても、なかなか実践してみれば、難しいかもしれません。(少なくとも自分が塾や看護学校ではそのように接することができているとは、口が裂けても言えません。)

■ 仕える手を持つこと

本書では、看護学生の事例も紹介されます。ある看護学生が重傷の患者に歯を磨いたか確認する場面で、その実習生は歯を磨くことの重要性を延々と説きます。そうして帰っていく看護学生に、患者は以下のように感じたといいます。

「まあ、お説教が上手なこと。両手をうしろにしてあんな説明を聞かせるよりは、歯ブラシとコップを取ってくださるほうが、よっぽどありがたいのに。若いっていうのは、ああいうことなのね」。 (p.36)

(この言葉も、教師としての自分に反照的に立ち返ってきました。自分は教えるという行為を上の実習生の説教と同じようにしてきた(あるいは、している)のかもしれません。むしろ、コップを手にとって渡してあげて歯を磨く間横に座っているように、私も、英文が読めないで困っている方に、「辞書を使うのは大事です」と講ずるばかりでなく、ときに単語リストを作成して配布することも大事かもしれません。音読したくない方に「音読は大事!」とスポ根精神を語るのみならず、英語に振り仮名(発音記号)を振って、英語をまずは読めるようにしてあげることも重要かもしれません。)


ほかにも、「他者を認めるための自己否定」 (p.48) や「死あっての生」 (p.59) など、非常に奥深いエピソードが多く紹介されています。もちろん看護に携わる方には(もう馴染みの教訓も多いかとは存じますが)時折振り返る必要のあるテーマだと思いますし、ぜひ教育に携わる方にもご一読して頂きたい本だと思いました。

自分の読みの範囲ですが、本書はキリスト教の隣人愛の精神が通底しているように感じます。その意味では、ブーバーの「我と汝 (Ich-und-du) 」にも非常に似ていると思えます。ただ、こういった「承認」や「他者」の問題は、哲学的な考察や「べき論」で終えるより、こういった臨床場面での具体例を踏まえて考察することが重要だと改めて実感しました。

さて、看護英語の授業を作らなければ。(笑)

看護のなかの出会い―“生と死に仕える”ための一助として (Nature of Nursing)
看護のなかの出会い―“生と死に仕える”ための一助として (Nature of Nursing)菊地 多嘉子

日本看護協会出版会 2015-09
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2015年9月3日木曜日

残りの院生生活でやりたいこと


久しぶりの投稿です。mochiです。
9月は目指せ、記事5本! (笑)

あと半年で院生生活も終わってしまいます。いつまでも入院できるわけでないので、残りの時間はできるだけ貴重に使わないとなと痛感する日々です。(あと、そろそろ社会に入るためのリハビリも始めないと。笑)

また、この夏休みは、あまりに多くの出来事ありました。ざっと挙げられるだけで、苫野先生の講演会 (博多) 、田端先生の集中講義、オープンキャンパス、広大英語教育学会、全国英語教育学会 (熊本学園大) 、教員採用試験、論文投稿、翻訳者養成集中講座……。身に余るほどの贅沢な夏休みでしたが、まだきちんと消化できていないので、少しずつ振り返りをして、アウトプットもなまけないようにしたいです。


そこで、まずはこの夏休み中に出会ったものの中で、「これは残りの院生時代 (半年) でやっておきたい」と思うものをリスト化しておきます。



● Translanguaging に関する勉強
全国英語教育学会 (8/23-24) で、Translanguaging 概念を用いたライティングの発表があり、翻訳研究にも非常に関わってくるのではないかと思いました。
今は以下の書籍のKindle 版をダウンロードして読んでいるところです。言語教育への応用も出てくるので、ぜひ自分の考えにも取り込める部分を探して、批判すべき点は批判して読み進めたいです。

Translanguaging: Language, Bilingualism and Education (Palgrave Pivot)
Translanguaging: Language, Bilingualism and Education (Palgrave Pivot)Ofelia Garcia Li Wei

Palgrave Pivot 2013-11-29
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● インプロに関する勉強 (+演劇実践)
半年前に国際表現言語学会で紹介されて以来ずっと気になっていたのですが、今回の全国英語教育学会のアクティビティ工房の方々の発表を聞いて、やはりインプロの勉強をしようと思いました。インプロ手法は、「予定調和の言語活動」を崩す機能があると強く思います。読みながら、言語教育への応用も同時に考えらればと思います。
そして、せっかくなので、ひっそりと演劇の練習も続けようと思います。
Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる
Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる高尾 隆 中原 淳

三省堂 2012-03-16
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● 実践研究 (アクションリサーチ) に関する勉強  (+ 非常勤実践)
8/8-9 に広島大学で開催された広島大学英語文化教育学会では、2本のアクションリサーチ発表を聴きました。お2人とも自分の学部来の先輩に当たりますが、中高で実践を続けながらデータ収集・反省的思考・改善行動を取られている先輩方に、ただただ脱帽するのみでした。懇親会でもアクションリサーチの勉強はしておいた方が、 (研究を続けるかどうかはともかく) 自分の実践の見つめ方がわかるとのアドバイスを頂きましたので、まずは佐野先生のアクションリサーチに関する本を読みました。

アクション・リサーチのすすめ―新しい英語授業研究 (英語教育21世紀叢書)
アクション・リサーチのすすめ―新しい英語授業研究 (英語教育21世紀叢書)佐野 正之

大修館書店 2000-04
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今は、日本語教育の細川先生の編集された以下の書籍から、「社会・文化的変革を伴う<実践=研究>」について読み、現代英語教育の潮流のアクションリサーチとのつながりや違いを勉強しているところです。本書は、いろいろなところで書評されていますが、非常に読み応えがあって、記述の仕方の勉強にもなります。
実践研究は何をめざすか--日本語教育における実践研究の意味と可能性 (日本語教育学研究 4)
実践研究は何をめざすか--日本語教育における実践研究の意味と可能性 (日本語教育学研究 4)細川 英雄

ココ出版 2014-06-05
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可能なら、看護学校の非常勤先でも指導案や振り返りを作りながら、教室の課題 (と自分の課題) を把握して、受講生の皆様に還元できればと目論んでいます。また、自分の実践について、学友や先生にも意見を頂けるように、他者に伝わる形で自分の実践について語れるように、丁寧に自分のクラスを観察しようと思います。



●  「他者」に関して勉強する
8/30(日) 民営団体の「教師の学校」主催で、哲学者の野矢茂樹先生の講演会があり、参加させていただきました。最近の先生の編著された『子どもの哲学』中のエッセイを「哲学」的に読み解くという内容で、最終的には「大人になるとうことは、他者性を身につけることであり、大人の社会はポリフォニー(多声的) である」という主張とまとめられると思います。
先生の発表を伺って、以下の点に気づきました。

1) 自分の「他者」観の根本には野矢先生の考えがある
→ 「他者」関係で最初に読んだのが「ウィトゲンシュタイン入門」や「語り得ぬものを語る」だから仕方ないといえば仕方ないのですが。笑

2) 自分の今のテツガクの勉強は、まさしく「勉強」どまりで、それを当てはめたり批判的に読んだりという「哲学」の姿勢はまだまだついていない
→ これが今回最も痛感したことです。ヘーゲルやルーマンも、まだまだ批判的に読めておらず、テキストに帰依しすぎているのかな、と先生の話を伺って思いました。

そこで、久しぶりに他者論関係の本を読みたいと思いました。以下の書籍を、時間のある時に読みたいです。

心と他者 (中公文庫)
心と他者 (中公文庫)野矢 茂樹

中央公論新社 2012-11-22
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また、ヘーゲルも以下の本を注文したので、前期の演習授業で得た知識を頼りに読もうと思います。

使えるヘーゲル 社会のかたち、福祉の思想 (平凡社新書)
使えるヘーゲル 社会のかたち、福祉の思想 (平凡社新書)福吉 勝男

平凡社 2006-06-10
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● アイデンティティと言語教育
先日、ゼミの先生が紹介された本です。「外国語教育は人格形成」について語るためのことばを得るためにも、これはぜみ読みたいと思います。

相互文化的能力を育む外国語教育: グローバル時代の市民性形成をめざして
相互文化的能力を育む外国語教育: グローバル時代の市民性形成をめざしてマイケル バイラム 細川 英雄

大修館書店 2015-07-28
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● 『もの・こと・ことば』
学部生の後輩と読書会を開こうということになりました。学部生の頃から「いつか読もう」と思っていたので、いい加減読むことにしました。笑
教育哲学の先生が授業中に言及されたり、ルーマン読書会でも話題になったりしたので、しっかり読もうと思います。


もの・こと・ことば
もの・こと・ことば広松 渉

勁草書房 1997-04
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●  最後に
と、たくさん書いてきましたが、まあこんなこと読んでから書けよ、ってことですね。(笑) 自分のやることリストの備忘録のような格好となってしまいすみません。

あと、堅い本だけじゃなくて、友達に借りてる本もちゃんと読みます!(まあ、いっぱい借りるくせに全然読めないもので。w) これ以上信頼を損なわないように、ちゃんと読みます。笑

とりあえずあまり気張らずに、少しでもできるところから入っていければと思います!(^○^)


2015年7月30日木曜日

石戸教嗣 (2003) 『教育現象のシステム論』勁草書房 第3章「オートポイエーシスとしての『学習』」

「学習」ということばは、教育学部にいる以上いつまでも付きまとってきます。「学ぶ」「学習」とは何か。自分も教育学を6年「学び」ながら、未だに分かったような分からんような、という感じです。

今回は、「学習論」の1つとして、以前紹介した『教育現象のシステム論』の第三章をまとめました。

本章では、「学習」とは何かを、ベイトソンとルーマンの学習論から論じています。以下のまとめでは、両者の主張を確認するとともに、英語教育、特に訳活動を例にとって説明したいと思います。

最終的には、「1対1対応の訳」から「1対多対応の訳」の議論に結び付けられればと思います。


第三章 オートポイエシスとしての「学習」
-ベイトソンからルーマンへ-


1 学習論の端緒

 近代教育における学習観は、(1) 体系的知識を選択して、学習可能な形で配列するというあな考え方と、(2) ルソーやペスタロッチが提唱したように、子どもの中の本来の状態を引き出す自然主義的な考え方に二極化されていた。しかし実際、近代教育の主流は、前者の合理的な学習観であった。合理的な学習観は、ポストモダンの相対化の議論による批判を受けてきたが、その一方で多様な学習論を展開してきた (e.g. 科学主義-経験主義、系統主義-問題解決学習、…など) 。この多様な学習論は巨大な理論に統一化したり、どれか一つに縮減するのが困難である。授業やカリキュラムをデザインする際、ある特定の考え方のみに従って作成することは想定しづらく、むしろ状況に応じて、多様な学習観の中から「選択」するものとして考えるべきである。


 本章は、システム論の観点から、学習を、生徒が世界に対してどのような構えを取るかの選択として捉える。生徒個人 (心的システム) にとって世界は複雑であり、何かしら予期を持たなければ世界と関わることは難しい。その予期を変更することの行動様式が「学習」と定義される。

「学習」は環境の複雑性をそれぞれの個人が自分なりに縮減する試みとしてなされる。…
不確定な世界においては期待はずれに直面することは避けられないが、そのときに、期待をそのまま維持するか、期待を変更するかの選択において、後者を採用するときの行動様式 が「学習」なのである [Luhmann 1972=1979: 50] 。(p.49)

2  ベイトソンの学習階梯理論

ベイトソンの学習理論は、<ゼロ学習>から<学習I><学習II><学習III>へとレベルを上げていく姿を描く。

<ゼロ学習>とは、反応が一つに定まっている点にあった。その特定された反応は、正しかろうと間違っていようと、動かすことのできないものだった。
<学習I>とは、反応が一つに定まる定まり方の変化。すなわちはじめの反応に代わる反応が、所定の選択肢群のなかから選びとられる変化だった。
<学習II>とは、<学習I>の進行プロセス上の変化である。選択肢群そのものが修正される変化や、経験の連続体が区切られる、その区切り方の変化がこれにあたる。
<学習III>とは、<学習II>の進行プロセス上の変化である。代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化である。 (p.51)

これを、英語学習に仮に当てはめて説明してみたい。amount to (動詞) の語彙学習を例に、以下の表現を見せられたときを考える。

(a) The repair bill amounts to $300.
(b) It is stated differently but amounts to the same thing.
(c) With his intelligence, he should amount to something when he grows up.


ゼロ学習の段階であれば、まず、すべての文に対して「わかんない」「ん~」のようなワンパターンな反応を返すだろう。これは、英語をまったく知らない人にとっては、何といわれようと「わからんもんはわからん」のと同じである。(ドイツ語のCDを聞いていても、分からない単語だらけであれば、例文Aも例文Bも「わからんもんはわからん」。)


学習Iでは、先生から『ほい、いいか~。「amount to = ~に値する」と訳すんだぞ』と教わり、学習者は以下のように反応するだろう。
(a’) 修復費用は300ドルに値する。

しかし、学習Iでは、「~に値する」という訳語のみのため、以下のように反応する。
(b’) 書き方は違うけど、同じもの「に値する」。
(c’) 彼の賢さであれば、大きくなったら大物「に値する」はずだ。
このように、amount to がでてきたら、「~に値する」という訳語をあてることはできていても、それぞれの文脈でぴったりの語を当てることはまだできない。

学習IIの段階は、あまりに多種類の学習が当てはまってしまうため、石戸氏の分類ではIIAとIIBの2段階が設定されている。学習IIAは性格を形成したり強化したりする段階であり、学習IIBはそれまでの学習パターンの変更を指す。たとえば、IIAでは、amount to の訳語として、「やはり『~に値する』と訳せばいいのだ」と考えたり「いや、『~になる』と訳した方がいい」と別の選択肢を得たりすることが考えられるだろう。そこで、先ほどの例文たちはこう訳される。

(a’) 修復費用は300ドルに値する。
(b’) 書き方は違うけど、同じものに値する。
(c’) 彼の賢さであれば、大きくなったら大物に値するはずだ。

しかし、IIA で「もっと色々な訳語を覚えないといけない」と考えている段階から、「訳語を覚えるのではきりがない。英英辞典で語のもつ原義やスキーマをつかんで、あとは例文の文脈に合わせて意味をとったり訳したりした方がいいのではないか」と発想を変えるようになるかもしれない。この転機がIIBにあたるのではないか。

野村氏の『やさしいベイトソン』の解説によると、環境は刻一刻と変化するため、私たちには常に新たな適応が求められる。そのため、学習Iで獲得した習慣を変更するのが学習IIの目標とされる。つまり、学習IIは、自分が得た知識や習慣を一度捨て去る段階 (“un-learn”する段階) と言えるだろう。

学習IIIは、創造的な段階であり、もしかしたら辞書に載っていないような訳語が出せるかもしれない。なぜなら、学習IIAで「訳語を探す」ことを目指していた頃に比べれば、英文の意味することにぴったり当てはまる語を自らの日本語経験から生み出すためである。

ここまで読んで、学習IからIIA、IIB、IIIへ段階的に発展するということが分かる。また、学習者は環境 (現実世界での言語使用) と円環的な関係が結ばれており、両者の間に生まれるパラドックスを克服することが学習と捉えられる。

システム論的に言えば、ベイトソンの学習論は、学習者とその環境との間の円環的関係が基本的なイメージとしてある。すなわち、学習者という下位システムは、それを取り巻く情意システムに組み込まれており、学習者が固着的な性格を形成することによって、情意システムとの関係においてパラドックスが生じ、その克服を通じて、上位システムと調和的関係に入ることが想定されている。 (p.56)

それに対して、ルーマンの学習論では、学習者と環境の関係が、円環的関係 (包含関係) ではなく、互いに独立するシステムであると想定される。

3 ルーマンの学習論
(1) 期待変更プロセスとしての学習

■ 「認知的予期」と「規範的予期」
ルーマンの術語のひとつとして、「認知的予期」と「規範的予期」を導入しておく。「予期」とは、複雑な環境に対応するために形成されるものであるが、その予期が必ずしもうまくいくとは限らない。その場合、「予期」を変更・棄却する場合と、固持する場合が考えられる。このときの前者に当たるのが「認知的予期」であり、後者が「規範的予期」である。

ルーマンは、構造は不確定性が内在しており、そこからもたらされる「予期の違背」に対して二つの対処の仕方があると考える。それは、「違背された予期を変更して、予期に反した現実に適応する方法と、予期を固持し、予期に反した現実にさからってそのままやっていく方法」の二つである [Luhmann 1972=1979: 49] 。そして、前者は「認知的予期」、後者は「規範的予期」と呼ばれる。 (p.58)

たとえば、言語使用が行われる世界は大変複雑であり、amount to という語の意味も文脈や発話者によっていちいち変化するだろう。そこで学習者は「amount to=~に値する」と訳せば良いだろうと予期を形成する。しかし、先ほどの (c) のような英文に出会ったとき、学習者は「amount to=~に値する」という予期を変えて、その文に適するように反応するかもしれない (認知的予期) し、「amount to=~に値する」を変えずに、全ての文に対して「~に値する」と訳す (規範的予期) ことで強行突破(笑)するかもしれない。

このとき、認知的予期の場合は「学習」と呼んでも良いだろうが、規範的予期の場合は「学習」と呼びがたい。どちらの場合も、学習者は予期に反した事態が生じ、それに対処するという点で「機能的に等価」である。つまり、ルーマンにとって不確定な環境に対して「認知的予期」か「規範的予期」のどちらを選ぶかは選択する余地がある。その一方、先ほどのベイトソンの学習論は段階的発展を基盤としている点が異なっている。

簡単に言い換えれば、ベイトソンは学習段階と捉えているが、ルーマンは学習を選択(認知的予期でいくか規範的予期でいくか)と捉えている。

以下の引用箇所はベイトソンとルーマンの学習論の対比をはっきりと示している。

ベイトソンの学習論は、行動パターンの獲得プロセス、すなわち、期待形成のプロセスに焦点があてられていた。これに対して、ルーマンの学習論は、獲得された行動パターン(期待構造)の適用の仕方に焦点づけられる。学習は、期待の獲得プロセスであるとともにその獲得された期待の適用をも伴うものである。 (p.59)
石戸氏の論考によれば、ベイトソンの学習I・学習IIAは、ルーマンの規範的な対応に相当し、学習IIB・IIIは、認知的対応(学習的対応)に値する。 (p.61)

感想

■ 認知的予期を学習者が選択できるようになるには?

選択するには、学習者は必要性がないといけない。もし学校のテストで c の例文を「値する」と訳して丸がもらえるなら、わざわざ他の訳語を覚えようとはならない。しかし、もし訳活動が、「他者」に向けて行われるなら、言い換えれば、ある英語テクストを日本語読者に伝わるように訳せといわれたなら、不自然な日本語では都合が悪く、他に良い訳語はないだろうかと考えて、自分の持っている既存知識のみならず、新しい知識を求めて辞書を開いたり、自分なりにぴったりくる訳語を書こうとするだろう。

このような学習環境の調整によって、学習者が認知的予期を選択しようとする可能性は十分広がりそうな気がする。




■ un-learn するということ

一度学んだことを「否定」して、新たな知識を得るというのは、そう容易いことではありません。そういう意味では、私たちは多くの英単語を最初に「1対1」で覚えます。amount to の例はもちろん、身近な例ではexcite を「わくわくさせる」と覚えた方も多いのではないでしょうか。

もちろん1対1対応の訳を否定することはできません。ただし、どこかでこの「1対1」を破棄 (aufheben) して、別の訳し方も知ることで、幅広い言語使用に対応できるようになります。

つい先日 (2015年7月20日) にご冥福なさった鶴見俊輔氏の言い方であれば、unlearn (学びほぐし) と言えるかもしれません。一度習った知識に執着して固定化してしまうことでは、その後の成長は望めません。むしろ、習ったこと・学んだことを一度リセットすることで、新しい場面にも対応できるようになるはずです。







2015年7月7日火曜日

櫻井よしこ(2014)『議論の作法』文春新書

こんにちは。しばらくぶりの更新となります。Ninsoraです。
最近は研究の傍ら、現場での実践の機会にも恵まれ、忙しくも充実した日々を送っています。

ちなみに最近、自分が現場で感じたことなどをベースに、mochi君や他の学部生・院生を誘って週1ペースでちょっと特殊な(笑)模擬授業会を行っています。
こちらについてもいつかまた時間を見つけて記事を書けたらなと思っています。

積ん読状態の本が増えすぎていたので、最近意識して本を読むように心掛けているのですが、
今回はやっと手に取って読んだ本をご紹介します。

議論の作法 (文春新書)議論の作法 (文春新書)
櫻井 よしこ

文藝春秋 2014-10-20
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著者は、日本を代表する論客、ジャーナリストの櫻井よしこ氏。
彼女が議論をするシーンはTVやネットで何度も見たことがあるのですが、とにかく「強い」。本当に強い。
冷静かつ論理的に、時に笑顔で相手を説得していく姿は非常にカッコいいのですが、実際に論争をする場面があったら、怖くて泣いてしまうだろうなと思います。笑

本書はそんな櫻井氏の「議論の強さ」の秘訣を、実際の議論の場面から学ぶ事のできる良書です。
ただ、多少ラディカルな議論も少なくないので、櫻井氏の考えを学ぶというよりも、「問題への斬り込み方や議論の進め方を参考にしよう」ぐらいの気持ちで読んでいく方が気が楽かもしれません。


■ 櫻井流「議論の作法」

櫻井氏は本書冒頭 (p.4) で、以下の5つの「議論の作法」を掲げています。

 ①「事実に」忠実であり続けること

 ②相手の言い分に、十分に耳を傾けること。

 ③自分が正しいと確信していることは譲らないこと。

 ④ユーモアのセンスを忘れないこと。

 ⑤日本人としての誇りを基本とすること。

まず、櫻井氏に関して私が純粋に凄いと感じるのは、その下調べの量というか、知識量の多さです。
事実、本書の中でも櫻井氏は「歴史問題」「環境問題」「教育問題」「憲法問題」などの多岐に渡る問題について、その道のエキスパート達に引けを取らない白熱した議論を展開しています。

中でも櫻井氏は「事実」を大切にした議論を進めることを信条にしておられるようですので、その部分についての妥協が一切ありません。
議論の際の彼女の口からは、本当にスラスラと根拠となる年号だの引用だの出典だのが出てくるんですよね。
映像で見ると余計にその凄さが伝わると思います。

やっぱり人って具体的な根拠とか数字とかを出されると弱いんですよね。
で、それに反論できるのは、別の「事実」しかない。
だからこそ櫻井氏は下調べを大事にされているのかなと思います。
実際、櫻井氏は根拠の曖昧な「事実 (?) 」 に対しては、別の根拠ある「事実」をぶつけて論破していました(怖)

挙げられた「事実」が確かなら、あとはそれに対してどのような斬り込み方(解釈)をするかが議論の本質になってくる訳ですから、「そんな事実は嘘だ!そうに違いない!」という感情的な論で反論するのは、確かに的外れな議論になってしまいますよね。

――――――――――――

…少し話が逸れるかもしれませんが、TVなどを見ていると、時々感情論で議論をしようとする人がいますが、議論云々に関わらず、僕もその点に関しては気をつけなきゃなって思います。
もちろん、感情を一切抜き去った議論はいかにもお役所風と言うか、ロボットみたいで逆に説得力がなくなってしまうように思いますが、感情ばかりになってしまうと議論の落としどころがいつまでも見えず、喧嘩別れみたいになってしまいますよね。

これは議論に限ったことではなくて、人を叱ったり、人と関わって説得したりしようとする場面では常に大切にすべき考え方のような気がします。

結局は「事実に基づく論理性」と「感情」双方のバランスをいかに保つかが大事なんでしょうけど、櫻井氏はこのあたりも凄く上手いんですよね。
「事実」をベースにした冷静な語り口なのに、内に秘めている熱い気持ちがちゃんと伝わる。
こんな風に人を説得できるようになりたいとは思いますが、やっぱり相手となるとかなり怖いですね笑

――――――――――――

また、櫻井氏はまず相手の話をきちんと聞いて、相手の主張、その根拠となる事実をきちんと踏まえたうえでジワジワと反論していきますから(笑)、相手としては武器を奪われた状態で議論を進めなければならなくなります。

このように書くと櫻井氏を悪く言っているように聞こえてしまいますが、着目すべきは彼女の「相手の主張の引き出し方」の巧さです。
彼女が相手から意見を引き出そうとするとき、大抵は「根拠ある事実」を突き付けるか、それをベースにした「具体的な質問」を投げかけます。
この「質問の具体性」というのが恐らく議論を有利に進める際のミソなんだろうなと思います。

例えば、櫻井氏はしばしば

「~についてあなたの意見を聞かせてください」

というざっくりした質問の体を取るのではなく、

「○○年に△△という調査があって、こういう結果になりました。つまりこれは●●ということであり、先ほどあなたの言った△△という意見は、××という点で間違っているのではないですか。」

というかなりの具体性をもって質問をします。

具体的な論拠のある質問に対しては具体性をもって答える必要がありますので、ここで相手は櫻井氏を説得できるだけの具体的な論拠を持ってこないといけない訳です。

つまり、ここできちんと反論できるだけの論拠を持っていないと、単に辟易してしまい、いわゆる「論破された状態」になってしまうのです。

一般に議論においては「質問に答える方がその答えに責任を負う」とよく言われますから、彼女の「相手を具体的に喋らせる質問術」は議論に勝つのにとても理にかなった方法で、この質問の仕方が櫻井氏の強さの秘訣なのかもしれないですね。



■ まとめ

最初にも述べた通り、本書は割とラディカルな議論が展開されているため、本書の登場人物の「思想」や「対立」の部分から何かを学ぶというのには少し慎重になった方がいいかもしれません。
(もちろん、いま議論の渦中にある様々な問題についての教養を得るという点では非常に有益な本だと思います。)

それよりもむしろ、櫻井氏の「議論の強さ」「議論の作法」に触れながら、「どのようにすれば議論を有利に進めていくことができるか」という点に関して学んでいく方が、より多くの人が本書の面白さに気づくことができると思います。

また本書には、議論の場面のみならず、多くの別のコミュニケーション場面や教育現場でも大切にすべきエッセンスが含まれているので、その視点で読み進めてみても面白いかもしれません。

本書の後半では割と「ほっこり」する対談も載っているので、「内容が難しそうだ」と気張らず、肩の力を抜いて是非一読してみてはいかがでしょうか。

お粗末な書評でしたが、お読みいただきありがとうございました。