こんにちは。mochiです。
大学院の授業で「身心文化学習論」という授業を半年間受講しました。この授業では、「身体」という語の成り立ちを学んだり、芸術や感性という視点から教育の諸現象について考えたりすることができ、大変収穫の多い授業でした。
期末課題として、授業内容を自分の研究に関連させてレポートを書くことになったので、自分の研究テーマである「翻訳」を、授業テーマの「身体」と絡めてレポートを書くことにしました。当初の予定では修士論文のデータをそのまま用いるつもりでしたが、ふと内田樹先生の翻訳に関するインタビュー記事を思い出し、急遽内田先生の翻訳論をテーマにすることにしました。
以下がそのレポートの改訂版です。今回の発表では英語教育以外の方々(初等教育、音楽教育、演劇教育など)に聞いてもらうためのものだったので、比較的専門用語は出さないように配慮して作成しました。
M-GTAを用いてストーリーを作りましたが、実質的には内田先生の翻訳の核心を明らかにしたというよりは、とりあえずその翻訳論を分かりやすい形にまとめなおしたものとご理解ください。
最後に、授業で議論になった箇所も示しておりますので、どうぞお読みください。
大学院の授業で「身心文化学習論」という授業を半年間受講しました。この授業では、「身体」という語の成り立ちを学んだり、芸術や感性という視点から教育の諸現象について考えたりすることができ、大変収穫の多い授業でした。
期末課題として、授業内容を自分の研究に関連させてレポートを書くことになったので、自分の研究テーマである「翻訳」を、授業テーマの「身体」と絡めてレポートを書くことにしました。当初の予定では修士論文のデータをそのまま用いるつもりでしたが、ふと内田樹先生の翻訳に関するインタビュー記事を思い出し、急遽内田先生の翻訳論をテーマにすることにしました。
以下がそのレポートの改訂版です。今回の発表では英語教育以外の方々(初等教育、音楽教育、演劇教育など)に聞いてもらうためのものだったので、比較的専門用語は出さないように配慮して作成しました。
M-GTAを用いてストーリーを作りましたが、実質的には内田先生の翻訳の核心を明らかにしたというよりは、とりあえずその翻訳論を分かりやすい形にまとめなおしたものとご理解ください。
最後に、授業で議論になった箇所も示しておりますので、どうぞお読みください。
内田樹の「翻訳」観の分析
―他者性と身体性の観点から―
1.
背景
2.
内田樹の語りの分析
2.1. 【I. 他者としての原著者の認識】
2.2. 【II. 原著者への長期的接近】
2.3. 【III. 原著者と翻訳者の身体同期】
3.
考察
参考文献
|
1. 背景
日本の英語教育は、殊に「訳」が槍玉に揚げられることが多い。たとえば、高等学校の現行の学習指導要領にも「授業は英語で行うことを基本とする」 (文部科学省, 2009) と明示されており、日本語を使用することは否定的に捉えられている。これは筆者が学部生だった頃の話だが、模擬授業などで訳す活動をすると、先生から「どうして訳の活動をするのか」「ここは英語だけで行えるのではないか」とコメントを頂くことがあった。そのためか、教育実習などでも「訳活動はしない方が良い」という雰囲気が漫然とあったことを覚えている。
では、どうして「訳」が否定的に見られているのだろうか。それは従来の英語教育が訳をすることに終始してしまい、音声としての英語を聞いたり話したりする指導に結びつかなかったという批判によるものである。近年の英語教育は音声言語を用いたコミュニケーションを重視し、近年ではセンター試験にリスニング試験が導入されたり、4技能型(聞く・話す・読む・書く)のテストが開発されたりしてきた。それにともない「訳」の使用は「音声コミュニケーション」と対置されるものと見なされ、次第に英語授業から姿を消すようになった。
しかし海外の応用言語学では、近年「訳」を見直す動きも見られ (Cook, 2010; Laviosa,
2014) 、日本でも再評価の潮流がある。日本の英語教育学では、「訳」を概念的に整理するために、「英文和訳(置き換え訳・訳読)1」と「翻訳」に分類されることが多い (柳瀬, 2011; 杉川, 2013; 染谷他, 2013; 山田, 2015; 柳瀬, 印刷中) 。「英文和訳」は辞書や文法書等の訳出公式に従って、英語表現を機械的に日本語に変換する訳出を示す。それに対して「翻訳」は、発話者の心身状況・場面・含意を理解した上で、それらを日本語において再表現する訳出を示す。このうち「英文和訳」は学習のための作業であり、文法項目の習得や読解力の評価のための手段として用いられることが多かった。しかし「英文和訳」は、従来否定されてきた意味での「訳」であり、本稿で焦点化したいのは「翻訳」である。
本稿は、「翻訳」者の語りを分析し、翻訳行為が必ずしも言語間の変換作業に留まらない、身体性を伴う言語行為であることを確認する。本稿では内田樹氏の翻訳の語りを分析する。その理由は、内田氏が「身体」「他者」に関する著書を多く出版しており、そのような観点から翻訳を捉えている可能性があるためである。語りの分析を通して、「翻訳」が英語教育に貢献しうる点を論じる。
2. 内田樹の語りの分析
内田樹氏は自著で何度か翻訳に関して論じている。今回は、『街場の文体論』と『学校英語教育は何のため』の2冊から、自身の翻訳経験について語っている箇所を選定して分析した。分析手法は、修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチ (木下, 2007) である。その結果、【他者としての原著者の認識】【原著者への長期的接近】【原著者との身体同期】という3カテゴリーに分類することができた。その過程をまとめたのが図1である。以下は、内田氏の語りの引用およびストーリー提示である。【 】内はカテゴリー名、「」内はデータの引用を示す。
図1. 内田氏の翻訳プロセス
2.1.【I.
他者としての原著者の認識】
内田氏は翻訳をする際に、【他者としての原著者の認識】をすると述べている。「他者」はしばしば哲学において「理解不可能な存在」を示す (柄谷, 1992) 。内田氏はフランスの現代思想家であるエマニュエル・レヴィナスのテクストを翻訳することが多いが、そのテクストを「手も足も出ない巨大な岩みたいなもの」と表現した。その理由は、翻訳のターゲットが「自分の手持ちの価値観や度量衡を以っては理解できないもの」だからである。翻訳者である内田氏は日常生活で日本語を用いて生活しており、レヴィナスの思想は「日本人としての母語的現実の中にいる限り絶対に実感することのできない」ものであると考えている。
読んでも分からないテクストであるから、内田氏は一度日本語に訳すことにした。しかし、何頁訳しても、「自分が訳した日本語の意味がさっぱりわからなかった」。そのようなレヴィナスのテクストを「しばしばこちらの理解を拒絶する」存在と述懐していた。つまり、他者である原著者=テクストを理解しようとしても、拒否をされてしまう段階であり、この段階では「意味がさっぱりわからなかった」のであった。ここでいう「意味」は必ずしも文法書や辞書の知識で解決するような狭義の意味ではないことが伺える。
2.2. 【II. 原著者への長期的接近】
【I】では原著者=テクストの他者性を体験し、テクストに理解を拒絶されるという段階を経た内田氏であった。しかし、テクストに向き合い続けることで【原著者への長期的接近】を続けることになる。内田氏は、テクストを読んでも「意味がさっぱりわからない。それでも毎日訳す。」と語っており、その作業を「ほとんど写経」と喩えている。「写経」という喩えから、理解を拒否する原著者=テクストと向き合うという作業がすぐに終わるものではなく、また先の見えない作業であることがわかる。別のインタビューでは、前節で述べた「手も足も出ない巨大な岩みたいなもの」を理解しようとする過程を、「こつこつと手にしたノミで打ち砕くようにして突き崩してゆく」という比喩を用いて説明している。
この段階では、テクストの言語的特徴を分析するだけでなく、原著者に徐々に接近することが必要となる。したがって、原著者の「生活習慣」「信仰している宗教」「食文化」「自然環境」を知り、少しずつ原著者に接近しようとする。この作業を通して、「ホロコースト期のユダヤ知識人の固有の信条や屈託がだんだん身にしみてくる」。
2.3. 【III. 原著者との身体同期】
【II】のように原著者への接近を志し続けることで、【原著者との身体同期】が起きるのが第III段階である。この段階は、【II】で用いられた「こつこつ」「じわじわ」と起きるものではない。むしろ、「ある日気づくと」起きているものであり、「岩がぱかっと割れるように腑に落ちる」段階であるため、このIII段階が突然起きるものであることが暗示されている。そのような第III段階の兆候として、「身体の同期」という以下のような現象を挙げている。(以下、引用文中の下線は発表者によるものである。)
センテンスの終わりが予感される。もう、そろそろフィニッシュだな、と思ったときにぴたりとピリオドがくるということが起きる。あるいは、ある名詞が出たときに、この名詞にレヴィナス先生が先行する形容詞は「あれ」かなと思うと、その通りの形容詞がくる。そうすると、なんかうれしくなるわけですね。
上の語りにおいて、「センテンスの終わり」や「先行する形容詞」が自分の期待と一致するという現象は、原著者と翻訳者の言語感覚が近づいている現われであり、これを「身体の同期」と内田氏は呼んでいる。ここで「同期」という語を用いているのは、決して翻訳者が原著者を完全に理解することがないという前提を有しているためである。あくまでも異なる「翻訳者」と「原著者」という2名がいて、その2名にはそれぞれ歴史・文化的な背景を有した身体を有しており、その身体が同期する(あるいは、「リズムが合う」)という言い方に留めている。内田氏のこの前提は、以下の語りにも表れている。
こつこつやっているうちに、岩がぱかっと割れるように腑に落ちる。それは他者を理解できたというよりは、翻訳者自身が別人になったということなんだと思います。そして、外国語を学ぶことの意義って、最終的にはそこに尽くされると思うんです。
また、「身体が同期」するときの感覚は「自分の知らなかった感覚」であることが以下の描写からうかがえる。その感覚を日本語で再表現する過程が、内田氏のいう翻訳である。
身体が同期すると、自分の身体の内側に自分の知らなかった感覚が生じます。前代未聞の感覚だけれど、それが「僕の身体で起きている出来事」である以上、言葉にできないはずはない。現にそうやって自分の身体で起きている出来事を、思考にしろ感情にしろ、赤ちゃんのときから語彙を増やし、修辞や論理を学んで、言葉にできるようになったわけですからね。赤ちゃんにできたことが、大人にできないはずはない。
3. 考察
内田氏の翻訳プロセスをまとめると、翻訳者は第一にテクストに向き合うことで、【他者としての原著者の認識】をすることになる。それを契機として、【原著者への長期的接近】を続けていき、ある日突然、【原著者との身体同期】が起きる。ここに、第1章で述べた翻訳の性質が見られる。すなわち、翻訳行為がただ単に外国語の表現を辞書や文法公式に当てはめて日本語に変換するという作業に留まらず、1人の翻訳者という固有の身体を有した存在が、「言語」のみならず「身体」や「他者性」を孕んだ言語使用を行うという姿が見える。
もちろん、このようなプロセスが浮かび上がったのは、そもそも内田氏が向き合うテクストが難解な哲学書であったことや、内田氏自身が「他者」や「身体」に関して考え続けてきたということが挙げられる。そのため、これを一般化して翻訳のプロセスと結論づけることは当然避けられるべきである。
しかし、英語教育では一つのテクストに向き合い続ける機会がそもそも設けられていないのではないか。最初に述べたように、英語教育学は伝統的教授法を批判することで、「訳」という活動自体を避けるようになったが、「翻訳」の存在までも否定する必要があるのだろうか。たしかに、テクストの「他者性」を体験し、長期的に原著者に接近し、最終的に身体が同期するまで向かい合い続けるようなことは英語教育では求められておらず、そもそも教育内容に位置づけられてこなかったのだろう。その一方で、内田氏の辿った翻訳プロセスが英語教育としての教育的意義を有していることも否定できない。たとえば、内田氏が第I段階で述べた「自分が訳した日本語の意味がさっぱりわからなかった」という体験は、多くの英語学習者が経験しているのではないだろうか。そのような学習者は、文法書や辞書の訳文公式に当てはめるという「英文和訳(置き換え訳)」で止まっており、そこでそのテクストを「理解」したと思っている可能性がある。しかし、そのテクストをまだ理解しきれていないと感じ(第I段階)、そのテクストと向き合い続けることで(第II段階)、原著者と身体的にリズムが合う(第III段階)という体験をする可能性も、教師の働きかけや教材の種類次第ではありうるだろう。発表者の考えでは、内田の語りがこれまでの英語教育の盲点にあった身体性・他者性の存在を示唆しており、現行の学習活動を批判的に検討することにつながるものである。
NOTES
1 「英文和訳」は英語から日本語への変換のみを指すのではなく、概念語として機械的な訳出すべてをさす。したがって、「独文和訳」や「仏文和訳」などもこれに該当する 。
2 本論で用いた「コミュニケーション」は、いわゆる音声言語を用いたコミュニケーションを指す。この意味での「コミュニケーション」は訳読式教授法 (Grammar-Translation
Method) には含まれていなかった。
参考文献
Cook, G.
(2010). Translation in Language Teaching:
An Argument for Reassessment. Oxford University Press: London
Laviosa, S.
(2014). Translation and Language
Education: Pedagogic approaches explored. Routledge: New York
内田樹 (2012) 『街場の文体論』ミシマ社: 東京
内田樹・鳥飼玖美子 (2015) 「悲しき英語教育」. In 大津由紀夫・江利川春雄・鳥飼玖美子・斉藤兆史 (2015) 『学校英語教育は何のため?』ひつじ書房:東京
柄谷行人
(1992) 『探究
I 』講談社:東京
杉山幸子
(2013) 「文法訳読は本当に『使えない』のか」Studies
in English linguistics and literature (23), 105-128
染谷泰正・河原清志・山本成代
(2013) 「英語教育における翻訳
(TILT: Translation and Interpreting in Language Teaching) の意義と位置づけ (CEFR
による新たな英語力の定義に関連して)」.語学教育エキスポ2013発表資料,
http://someya-net.com/99-MiscPapers/TILT_Symposium2013.pdf
文部科学省
(2009) 『高等学校学習指導要領解説 外国語/英語編』http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2010/01/29/1282000_9.pdf
柳瀬陽介. (2011). 山岡洋一さん追悼シンポジウム報告、および「翻訳」「英文和訳」「英文解釈」の区別. 英語教育の哲学的探究2 , http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/12/blog-post_736.html
柳瀬陽介 (印刷中) 「『訳』に関する概念分析」『中尾佳行先生御退職記念言葉で広がる知性と感性の世界―英語・英語教育の新地平を探る―』189-210
山田優
(2015) 「外国語教育における『翻訳』の再考:メタ言語能力としての翻訳規範」『外国語教育研究』13.
107-128
<議論になった箇所>■ 身体的に同期するという現象は、内田先生のように長い間テクストに向かい合っているからこそ起きること。学校英語教育ではそれが可能か?
⇒仰るとおりです。その意味では、限られた時間数内で英語教育が目指せるのは第II段階が限界なのかもしれません。要するに、ある文章を読み終わって、「とりあえず訳して終わりましょう」という悪しき習慣にするのではなくて、その文章を翻訳する過程で、「なぜ筆者はこのような表現を使ったのだろう」「もし筆者が日本語ぺらぺらだったら、どんな日本語にするかな」といった思考を体験させることに意義があるのではないかと考えています。
さらに言えば、段階Iのような【他者性の体験】は翻訳困難性の体験とも近いかもしれません。日本語に訳したつもりなのに、その訳文の意味がよくわからないということも実際に起きます。そこで、「上手く訳せない」というもどかしさを体験させることに、学習者の言語能力の成長が見込めるのではないかとぼんやり考えています。
■ 内田氏の段階IIやIIIは、別に翻訳でなくても良いのではないか。英語で精読するという学習方法でも代替可能ではないか。
⇒これについても仰るとおりです。今回のレポートは否定的に捉えられることの多い「訳」の教育的意義を見直すということを主眼にしておりましたので、そもそも訳特有の意義という感じがしないのもご指摘の通りです。 では、翻訳独自の意義は何か。私の意見としては、(1)母語に関する気づき(大津先生の「ことばの気づき」)、と(2)ぴったりの日本語表現を探すために英語を読み直すという過程(読むことの指導)が当てはまると思っています。
(1)の意義を主張するには、そもそも英語教育の目的を「英語技能の獲得」のみに狭めるのではなく、より広い「ことばの教育」の一環として捉えることが必要となるでしょう。 また、翻訳自体を教育目的に据えるなら、翻訳技能を育成することにも意味があるケースもあります。(学校教育ではあまりないでしょうが、他国ではそのような場合もあります。)
他にも多くの貴重なご意見をいただきました。 ありがとうございました。
大学院生活で学べる期間もあとわずかですが、最後までできるだけ吸収できればと思います!