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2016年3月30日水曜日

バフチン (2002) 「生活のなかの言葉と詩のなかの言葉」 のpp.6-37のまとめ

卒業式、謝恩会を経て、無事に大学院を退院・・・ではなく、修了することができました、mochiです。

いよいよ新年度が始まります。 本ブログの経営であるmochiとNinsoraは大学院を修了し、晴れて高校教員となります。

きっとうまくいかないこともたくさんあると思いますが、まずは目の前のことを謙虚にがむしゃらにやっていきたいです!そして院生生活で培った理論と実践を往復しながら、自分の得てきた知をより確かなものにし、その知を少しずつ他者の幸せのために役立てられたらと思います。(あ、もちろん自分の幸せにもw)

さて、前々から興味があったバフチンの言語論を扱った『バフチン言語論入門』。M1の頃に図書館で借りたのですが、歯が立たずに断念しました。しかし今読んでみると、これがめっぽう面白い・・・。時間がなかったので最初の30ページほどですがまとめを作りました。自分の理解が混じっているのでお気づきの方は誤っている箇所を御指摘していただければ助かります。

バフチンの「対話主義」に関しては自分の英語授業でも参考にしたいなと思います。日本語教育では大阪大学の西口先生の理論や、細川先生をはじめとする多くの先生方による実践例を聞きますが、英語教育ではどうなのでしょう。(京都教育大学の西本先生の論文はかなり拝読していますが、そこまで「対話」に関する理解が進んでいないような気がします。)

バフチンやブーバーといった対話論は、大学院を修了したこれからも勉強してみたいなと思いますし、教育学の多田先生らの著書、演劇の平田オリザ先生の論などは時折参照し続けるつもりです。



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1.内在的に社会学的な芸術
理論的詩学において、社会学的方法はこれまで適用されてこなかった。
・文学史研究においては社会学的方法が取られるが、詩学(詩の芸術性を扱う学問)においては作品や作者を単体で扱うことが多い(というメッセージ)。
・マルクス主義の一元論・歴史主義が社会学的方法論にも影響を与えている。
 マルクス主義の一元論は価値(すなわち貨幣)、歴史主義は「弁証法的唯物論」か?

サクーリン教授の主張:文学研究は「内在的系列」と「因果論的系列」に区別される。
内在的系列:文学の芸術的中核。固有の特殊な構造と法則性を有し、「本性上」独立して発展。
因果論的系列:芸術外の社会的環境からの影響。

(例)芸術には固有の価値観がある。たとえば「おもしろい」「おもしろくない」

「客観的」な社会学的方法と「主観的」なほかのすべての「内在的」方法
・バフチンによれば、社会学的方法こそ「客観的」であり、その他は主観主義から抜け出せていない。
従来の「主観/客観」の用法と区別すべき。おそらくマルクスの影響が強い。

cf) マルクスにおける「客観」:経済的な「価値」
(→この用語法はアーレントにも引き継がれる)

たしかに、化学式は社会学の方法によっては見いだせない。しかし、イデオロギーのどんな分野であれ、それにたいする科学的「公式」は社会学的方法によってはじめて見いだすことができる。他のすべての「内在的な」方法は、主観主義のなかに迷い込んでおり、さまざまな見解や観点の無益な争いからいまなお抜けられず、また、厳密で精密な化学式にかすかなりとも似ているようなものを提供する能力にもっとも欠けている。イデオロギー的創造物の研究が真に科学的なものにはじめて最大限に近づきえたのは、マルクス主義的に理解された社会学的方法に依るところが大きい。 (pp.10-11)

イデオロギー的形成物は内的、内在的に社会学的 (p.11)
・政治や法律について研究する際に、イデオロギーに着目するのは当然である。

・芸術に関してもイデオロギー的形成物であるという点では(政治・法律と)同じである。

・まとめの一文

美的なるものは、法や認識にかんするものと同様に、社会的なるものの一変種に過ぎず、したがって芸術理論は芸術社会学としてしかありえない。いかなる「内在的」課題も芸術理論にはのこっていない。 (p.11)


ルーマンの芸術論と非常に近いのではないか。そもそもルーマンは社会学の巨視的理論の構築を狙ったわけであり、彼の社会学では芸術も扱われていなければならないために、バフチンの社会と芸術のつながりへの主張とルーマンの理論枠組みが近いのは当然とも言える。(おそらくルーマンであれば「構造的カップリング」として説明するのではないか。)



2.美的交通
芸術論に関する誤った信念
1) 物としての芸術作品の物神化
2) 創作者や鑑賞者の心理の研究への限定

たとえばHarry Potter という作品の美的交通を扱う場合。文章のレトリック研究のみでは完成せず(1)J.K. Rowlingへのインタビューだけでも(2)完成しえない。むしろ両者を合わせて初めて、Harry Potterという作品がどのようなものであり、それがどのような思いで書かれたのか、そしてどう読まれたのかという全体像が浮かび上がることになる。

つまるところ、どちらの観点も、おなじ欠陥をもっている。すなわち、それらは部分のなかに全体を見いだそうとしており、全体から抽象的に引き離した部分の構造を全体の構造と偽っているのである。しかるに、総体としての<芸術的なるもの>はモノや、孤立してとりだした創作者の心理や、観照者の心理のなかにはない。<芸術的なるもの>はこれら三つの契機すべてを包含している。それは、芸術作品のなかにとどめられた、創作者と観照者の相互関係の特殊な形式なのである。 (p.14)

・芸術的交通は、他の社会的形式と共通の土台から育ってくるが、ただし、他の形式と同様に、その独自性を保っている。 (p.14)

この1文もルーマンと照らし合わせると納得できる。芸術システムは<面白い/面白くない>というコードによってすべてのコミュニケーションを区別し、法システムは<合法/違法>というコードで区別する。ただしこれらのシステムは、そもそも土台となる全体社会があって初めて成り立つものである。さらに言えば、土台となる社会が今後どのように変わったとしても、たとえ思想弾圧による表現統制や事実上の無法状態が続いたとしても、芸術システムや法システムのコード自体が変わることは考えにくい。表現が取り締まれても、「面白い」とか「面白くない」という区別は継続されるだろうし、法の力が弱まっても「これは合法」とか「それは違法だ」という区別は残る。



3.言外の意味

生活のなかの言葉は、言語外の生活状況ときわめて緊密な結びつきを保っている。
・生活上の個々の発話には、「それは嘘だ」「真実だ」「よくぞいったものだ」「いわなければよかった」といった特徴づけや評価が与えられる。

こうしたたぐいの評価は、倫理的、認識的、政治的その他のいかなる基準にもとづいていようとも、発話における語そのものの契機、言語学的な契機のなかに含まれているものよりも広くて大きなものをとらえている。つまり、言葉といっしょになってこれらの評価は、発話の言語外の状況をも包み込んでいる。こうした判断や評価はある全体に属しており、そこでは言葉は生活上の出来事と直接に接触し、不可分の統一をなしている。 (pp.16-17)

情報統合理論の意味論と似ている。すなわち顕在的意味(ことばに表れる部分)と潜在的意味(言外の意味)の統一体(統合体)としての「意味」観である。

以下の一文はとても強い一文である。(強調箇所はレジュメ作成者による)

発話の純粋に語としての部分にいかにかかりきりになろうとも、また「tak」という言葉の音声学的契機、形態論的契機、意味論的契機をいかに繊細に定義づけようとも、やりとりの総体的意味の理解には一歩たりとも近づきはしないであろう。 (pp.17-18)

言語外のコンテクストの3つの契機
1) 話し手同士に共通する空間的視野(見えているものの共通性)
2) 状況にかんする、双方に共通する知識や理解
3) この状況にたいする、双方に共通する評価

たとえば劇の台本だけを読んでも登場人物の心情や声の調子(「イントネーション」)を理解できないことがある。それは、上でいう1~3が抜けているからであり、実際に舞台上に立って、同じ空間を共有して、役者同士でお互いの理解・評価を刷り合わせながら徐々に言語外のコンテクストが徐々に形成されるのではないだろうか。


バフチンの信号的言語観の否定

なによりもまず、まったく明らかなのは、この場合の言葉は、鏡が対照を反映するようなかたちでは言語外の状況をけっして反映していないということである。 (p.19)
信号的言語観の否定

信号と記号
・「信号」:11の関係。不変(静的)なもの。(関連性理論でいうところのcode的)
・「記号」:動的で常に意味が揺れ動くもの。(関連性理論でいうところのinferential的)

発話によってコンテクストを共有し、コンテクストの共有によって参加者は結び付けられる。

すなわち、いかなるものであれ、生活の中の発話は状況の参加者どうしを、この状況をおなじように知り、理解し、評価している共参加者として、つねにむすびつける、ということである。したがって、発話は、参加者が同一の存在部分に現実に物質的に所属しているということに立脚しており、この物質的共通性にイデオロギー的表現やその後のイデオロギー的展開をあたえている。 (pp.19-20)

cf) 平田オリザの「コンテクスト(の共有)」の語法と似ていないか?

・言外に示される評価は、個人的主観が強いように思える。しかし、主観は後方に退いており、社会的客観が前方にある。

個人的情調の方は、倍音としてのみ、社会的評価の基本的トーンに伴うことができる。<わたし>は<われわれ>に依拠してはじめて、言葉のなかで自己を現実化できるのである。 (p.21)

コンテクストの範囲は、2人の会話という狭い場合もあれば、家族・氏族・民族・階級・日々・数年・幾時代といった広範・恒常的な場合もある。

・広範なコンテクストでは、言外の社会的評価が発話されることはふつうない。

要するに、そのグループの経済面での生活環境の特徴から直接生じてくるすべての基本的な社会的評価は、ふつう発話されない。それらはこのグループの全員の血肉となっているのである。それらは行動や行為を組織しており、相当する事物や現象といわば癒着している。それゆえに、特別な言語表現を必要としない。 (p.22)

→たとえばヘイトスピーチにみられる差別意識。はっきりと「私たちは○○のことを差別している」という形で言語化されることはほとんどないだろうが、差別者の発話のどこかには被差別者を蔑視する口調がこめられている。あるいは差別意識によって、言葉の選択や言語表現の形式が規定されることも想像できる。(「あの野郎」「のび太のくせに」)
むしろ、「ABを差別する」という文が用いられるのは、その差別意識が問題視されるときのみかもしれない。(自明視された価値観を摘発する社会学を思い浮かべよ。)

⇒対象化することによって自らを取り巻く環境やその根本にある意識を観察できる。



4.イントネーション
イントネーションは言語と非言語の境界にある。
イントネーションはつねに、言語的なものと非言語的なもの、言われたことと言われなかったことの境界上にある。イントネーションにおいては、言葉は生活と直接に接している。 (p.24)

cf) コロスの支え…古代ギリシア演劇における唱歌隊。舞台世界を観客に伝えるのを助ける役割を持っていた。

イントネーション:2つの方向への定位
(1) 同調者や承認としての聞き手に対して
(2) 第三の生きた参加者としての発話の対象
発話の対象は、文学作品であれば主人公である。


私的言語に対する否定的立場
・私的言語(自分ひとりだけの言語)に関して、バフチンは否定的な見方をしていることが伺える。

創造的で、確信に満ちた、豊かなイントネーションは、前提にされている「コロスの支え」を基礎にしてのみ可能である。それがない場合には、声はかすれ、そのイントネーションは貧弱になる。それは、笑っている者が、笑っているのは自分ひとりであることにふと気づくといったような、よくあるケースに似ている。 (p.25)

言外に示されている基本的評価の共通性とは、人間の生きた動的なことばがイントネーション模様を刺繍するカンヴァスなのである。 (p.26)


言語的交通に関する結語

このようにして(いまや断言できるが)、辞典のなかにまどろんでいるのではなく、実際に発せられた(あるいは意味をもって書かれた)あらゆる言葉は、話し手(作者)、聞き手(読者)、話題の対象(主人公)という三者の社会的相互作用の表現であり所産なのである。 (p.30)

(言語学的抽象化ではなく)具体的な発話は、発話の参加者たちの社会的相互作用の課程で生まれ、生き、死んでいく。発話の意味や形式は、基本的にこの相互作用の形式と正確によって規定される。発話を、発話を培っているこの現実の土壌から切りはなしたならば、われわれは形式への鍵も意味への鍵も失ってしまい、手中にのこるのは抽象的な言語学的外皮か、やはり抽象的な意味図式(古めかしい文学理論家や文学史家たちの悪名高き「作品のイデー」)だけである。これら二つの抽象化は、生きたジンテーゼのための具体的な土壌がそれらにとって存在しないために、たがいに結合されえない。 (pp.30-31)



cf) 台詞とシナリオに関するmochiの理解


★強引に翻訳論と絡めて話すと、翻訳者に求められるのは「台詞」を緻密に分析したり辞書にある訳語を参照したりするだけでなく、原典テクストの「シナリオ」を理解し、そのシナリオを目標言語話者に再現させることといえないか。原典テクストの話し手・聞き手がいて、その話題の対象がその文化・社会ではどのように認識されているかを総合的に理解することが第一である。英語教育で翻訳をするとしたら、翻訳の過程でシナリオの再構築を行い、それが読解作業になるのではないか。

5.芸術的発話

日常生活の言葉は言外のコンテクストに参照することで意味が生成された。詩ではそれが通じず、すべて言語的に表現しなければならないと考えられがちである。

しかし、実際には詩も言外のコンテクストが必要である。

文学においてとくに重要なのは、言外に示されている評価の役割である。詩的作品とは、発話されていない社会的評価の強力なコンデンサーなのであり、あらゆる言葉が社会的評価で充満している、といってもよい。この社会的評価こそが、その直接的表現として芸術的形式を組織しているのである。 (p.34)

詩人というものは、辞書から言葉を選び出すのではなく、言葉が評価によって支えられ満たされていた生活上のコンテクストのなかから言葉を選び出すのである。 (p.34)

「素材」「形式」「表象」
・彫像を例にとると・・・
素材:大理石
形式:人体
表象:「英雄化したり」「いつくしんだり」「おとしめている」

→上の例を「形式の意味は、素材ではなく内容に関係している。」 (p.35) に当てはめると?





2016年3月9日水曜日

「リテリング」分類の提案

こんにちは、mochiです。
最近更新をしておらず、久々の投稿となってしまいました。
(サバ君、ニンソラ君、記事を書くように!w)

さて、論文も出し終わり、そして附属学校の授業見学やゼミ合宿、名古屋地区の修論発表会などを終えて、最後のモラトリアム期間を絶賛満喫しております(笑)。

そして4月から始まる新生活に、期待と不安を抱きながら過ごしております...。

さて、この一年ほど、学部や院の友人と一緒に「模擬授業会」という自主勉強会を続けてきました。この勉強会は、模擬授業の練習をしながら「授業がうまくなろう」というのが建前ですが、「大学で習った理論って、そのままは使えないよね~」という(ある意味当然の)前提を確認するという裏メッセージもあります。

最初は少人数(3~4名)で行っていましたが、徐々に増えて、今では学部一年生から院生まで、10名前後で行えることが多くなってきました。

この勉強会をやって一つ良かったのは、異なる学年の大学生が、そして学部生と院生が、学びあうことができたことでしょう。大学院に入って、「学部はまだ授業法を習ってないから」と(若干)遠慮をしていましたが、TAをしながら、自分が「教える」ばかりだけでなく、彼らから「学べる」こともたくさんありました。

今回は、そんな模擬授業会を通じて感じたことを文章にしてみました。最近流行りの「リテリング」に関する雑感です。現段階では粗い概念整理ですので、今後実践を踏まえてもう少し精緻化できたらなと思っています。


■ 「リテリング、サイコー!」

英語教育において「リテリング」が一つの注目の的である。学部の模擬授業や教育実習では、多くの学生がリテリングを最終活動に設定した単元を計画する。

そもそも「リテリング」とは何か。卯城 (2013) では「ストーリーを読んだあとに原稿を⾒ない状態でそのストーリーを知らない⼈に語る活動」と定義されている。読む活動と話す活動の統合型であり、英語授業で多くの教師が取り入れる「音読」の次のステップとして位置づけやすいことからも、リテリング活動は今後注目されるだろう。

しかし、「リテリング」が概念的に十分検討されているとは言い難く、その活動も幅広いバリエーションがある。実際、学部生とディスカッションをしていても、「リテリング」という言葉でイメージしている者が人によって異なるということが何度もあった。(そりゃそうだ!)

そこで、リテリングを礼賛する「リテリング、サイコー!」状態から、もう少し批判的に吟味する「リテリング『再考』」へと橋渡ししてみたい。(これが言いたいだけという感じが否めないw)

分類の観点として、近江 (1988) の「同化-異化」を用いる。


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■「同化」と「異化」

近江 (1988) は「読む」ことを「同化」と「異化」に分類している。これらの分類は翻訳や演劇の世界でも用いられるが、本稿ではリテリングの分類に援用する。本節では両者の違いを説明する。

「同化」とは、読者が筆者の思考・感情の状態で読んだり、想像の世界に自己を投入して登場人物になったつもりで読んだりすることである。たとえば、シンデレラという作品を読む際にも、読者がシンデレラになったつもりで読んだり、シンデレラの作者がどんな思いで作品化したのか思いを寄せたりすることが考えられる。

「異化」は、言語表現を、内容・書き手・書き手の意図との関係から評価しつつ読むことである。たとえば、『シンデレラ』の世界からある程度距離をとって、この作品を批評することが挙げられる。この「批評」という言葉はあまりよく理解されていないように思える。要するに、文章の機能を果たすためにその文章の表現が適しているかを判断することである。批評をするには、読み手が作品の世界に没入しすぎたり書き手に共感しすぎたりしてはならない。適度な距離をとりつつ、作者の意図(目的)を果たすためにその文章に改善点がないかを判断する。

この分類は、作品との距離の取り方や読み手の主体性、批評の有無(コメントの有無)といった観点に基づいている。これを用いて、リテリングを言語活動の一形態と見なし、「まとめ記事用リテリング」「レポーターリテリング」「霊媒師リテリング」に分類する。

■リテリングの3分類

(1) まとめ記事用リテリング(速読・異化型)
第一に、まとめ記事用のリテリングである。たとえば、あるネット記事をスキミング(概要把握のための速読)して大まかな内容さえ理解すれば、まとめ記事を作成することができる。
ここでは、「異化」的に、且つ「浅く」読めば十分リテリングをすることができる。また、要点のみを抑えているため、読み手の主観的コメントを加えることもできるが、必ずしも筆者の真意を踏まえていない場合もある。

(2) レポーターリテリング(精読・異化型)
レポーターは、まとめ記事を作るネットユーザー以上に取材を丁寧に行い、「仲介者」として原文にある内容を客観的に伝えようと心がけるだろう。ただし、「仲介者」である以上、原文世界とはある程度距離をとる。レポーターにも主観的コメントを求められる場合がある。(1) と異なるのは、原文を丁寧に読んでいるために、筆者の真意を踏まえたコメントがしやすいという点である。

(3) 霊媒師リテリング(深い同化型)
最後に、霊媒師リテリングを挙げる。先ほどの分類で言う「同化」であり、読み手が筆者に共感的に(帰化するように)文章を丁寧に読む。ここまでは(2)と似ているが、それを他者に伝達する際に、読み手が書き手(登場人物)になったかのように話す。たとえば人称は “I” を用いられるであろうし、声の出し方やトーンも(1)・(2)とは異なるだろう。また、霊媒師は筆者が憑依したかのようにリテリングするため、読み手の個人的コメントが求められにくい。


■ それぞれの特徴
以上、「同化―異化」という観点から、上のように分類を行った。

(1) まとめ記事用リテリング
・速読⇒(音読)⇒リテリングという活動単位で、比較的短い時間で可能
・テクストは速読用教材同様、学習者が辞書を用いずに読める語彙レベルが理想。
・「じゃれマガ」のような短く平易な英文を用いれば、帯活動でリテリング活動を始めることができる。

(2) レポーターリテリング
・精読⇒音読⇒リテリングという活動。
・どの単元でも用いやすい定番活動のため、モジュール型単元に適している。
(cf. 齋藤 榮二氏『生徒の間違いを減らす英語指導法―インテイク・リーディングのすすめ』)
・読み手の意見を述べる必要があるため、「読んだ内容に基づいた自分の意見を述べる」力を育成することができる。

(3) 霊媒師リテリング
・精読⇒音読⇒リテリングという活動。
・著者のキャラクターが読み取りやすい教材(エッセイ・物語文)の場合は適している。
・原文著者と同化させることに成功した場合、「本文の続きを考えて話しなさい」のような高度な言語活動につなげることも可能。


■ 所感
以上が、リテリングの分類およびそれぞれの特徴である。単に「リテリング」と言っても、これほど多くの言語使用を指示しうることに留意したい。

また、(1)や(2)のようなリテリングはよく研究授業や公開授業で見ることがあるが、(3)のようなリテリングはそもそも実践されているのだろうか。(というより、精読の授業がどのように現場で展開されているのだろうか。)

現場に立ったら「リテリング」を目標に学年計画を立てようとは思うが、個人的には2学期後半から3学期にリテリングができてれいば十分だと思うし、そのためにも音読やインテイクリーディングを丁寧に行い、目的に応じて(1)~(3)を使い分けながら活動デザインをしたい。

2016年1月18日月曜日

内田樹の「翻訳」観:身心文化学習論で得た学び

こんにちは。mochiです。

大学院の授業で「身心文化学習論」という授業を半年間受講しました。この授業では、「身体」という語の成り立ちを学んだり、芸術や感性という視点から教育の諸現象について考えたりすることができ、大変収穫の多い授業でした。

期末課題として、授業内容を自分の研究に関連させてレポートを書くことになったので、自分の研究テーマである「翻訳」を、授業テーマの「身体」と絡めてレポートを書くことにしました。当初の予定では修士論文のデータをそのまま用いるつもりでしたが、ふと内田樹先生の翻訳に関するインタビュー記事を思い出し、急遽内田先生の翻訳論をテーマにすることにしました。

以下がそのレポートの改訂版です。今回の発表では英語教育以外の方々(初等教育、音楽教育、演劇教育など)に聞いてもらうためのものだったので、比較的専門用語は出さないように配慮して作成しました。

M-GTAを用いてストーリーを作りましたが、実質的には内田先生の翻訳の核心を明らかにしたというよりは、とりあえずその翻訳論を分かりやすい形にまとめなおしたものとご理解ください。

最後に、授業で議論になった箇所も示しておりますので、どうぞお読みください。




内田樹の「翻訳」観の分析
―他者性と身体性の観点から―
1. 背景
2. 内田樹の語りの分析
2.1. I. 他者としての原著者の認識】
2.2. II. 原著者への長期的接近】
2.3. III. 原著者と翻訳者の身体同期】
3. 考察
参考文献


1. 背景                                                          
 日本の英語教育は、殊に「訳」が槍玉に揚げられることが多い。たとえば、高等学校の現行の学習指導要領にも「授業は英語で行うことを基本とする (文部科学省, 2009) と明示されており、日本語を使用することは否定的に捉えられている。これは筆者が学部生だった頃の話だが、模擬授業などで訳す活動をすると、先生から「どうして訳の活動をするのか」「ここは英語だけで行えるのではないか」とコメントを頂くことがあった。そのためか、教育実習などでも「訳活動はしない方が良い」という雰囲気が漫然とあったことを覚えている。
では、どうして「訳」が否定的に見られているのだろうか。それは従来の英語教育が訳をすることに終始してしまい、音声としての英語を聞いたり話したりする指導に結びつかなかったという批判によるものである。近年の英語教育は音声言語を用いたコミュニケーションを重視し、近年ではセンター試験にリスニング試験が導入されたり、4技能型(聞く・話す・読む・書く)のテストが開発されたりしてきた。それにともない「訳」の使用は「音声コミュニケーション」と対置されるものと見なされ、次第に英語授業から姿を消すようになった。
 しかし海外の応用言語学では、近年「訳」を見直す動きも見られ (Cook, 2010; Laviosa, 2014) 、日本でも再評価の潮流がある。日本の英語教育学では、「訳」を概念的に整理するために、「英文和訳(置き換え訳・訳読)1」と「翻訳」に分類されることが多い (柳瀬, 2011; 杉川, 2013; 染谷他, 2013; 山田, 2015; 柳瀬, 印刷中) 。「英文和訳」は辞書や文法書等の訳出公式に従って、英語表現を機械的に日本語に変換する訳出を示す。それに対して「翻訳」は、発話者の心身状況・場面・含意を理解した上で、それらを日本語において再表現する訳出を示す。このうち「英文和訳」は学習のための作業であり、文法項目の習得や読解力の評価のための手段として用いられることが多かった。しかし「英文和訳」は、従来否定されてきた意味での「訳」であり、本稿で焦点化したいのは「翻訳」である。
 本稿は、「翻訳」者の語りを分析し、翻訳行為が必ずしも言語間の変換作業に留まらない、身体性を伴う言語行為であることを確認する。本稿では内田樹氏の翻訳の語りを分析する。その理由は、内田氏が「身体」「他者」に関する著書を多く出版しており、そのような観点から翻訳を捉えている可能性があるためである。語りの分析を通して、「翻訳」が英語教育に貢献しうる点を論じる。



2. 内田樹の語りの分析
内田樹氏は自著で何度か翻訳に関して論じている。今回は、『街場の文体論』と『学校英語教育は何のため』の2冊から、自身の翻訳経験について語っている箇所を選定して分析した。分析手法は、修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチ (木下, 2007) である。その結果、【他者としての原著者の認識】【原著者への長期的接近】【原著者との身体同期】という3カテゴリーに分類することができた。その過程をまとめたのが図1である。以下は、内田氏の語りの引用およびストーリー提示である。【 】内はカテゴリー名、「」内はデータの引用を示す。



1. 内田氏の翻訳プロセス


2.1.I. 他者としての原著者の認識】
 内田氏は翻訳をする際に、【他者としての原著者の認識】をすると述べている。「他者」はしばしば哲学において「理解不可能な存在」を示す (柄谷, 1992) 。内田氏はフランスの現代思想家であるエマニュエル・レヴィナスのテクストを翻訳することが多いが、そのテクストを「手も足も出ない巨大な岩みたいなもの」と表現した。その理由は、翻訳のターゲットが「自分の手持ちの価値観や度量衡を以っては理解できないもの」だからである。翻訳者である内田氏は日常生活で日本語を用いて生活しており、レヴィナスの思想は「日本人としての母語的現実の中にいる限り絶対に実感することのできない」ものであると考えている。
 読んでも分からないテクストであるから、内田氏は一度日本語に訳すことにした。しかし、何頁訳しても、「自分が訳した日本語の意味がさっぱりわからなかった」。そのようなレヴィナスのテクストを「しばしばこちらの理解を拒絶する」存在と述懐していた。つまり、他者である原著者=テクストを理解しようとしても、拒否をされてしまう段階であり、この段階では「意味がさっぱりわからなかった」のであった。ここでいう「意味」は必ずしも文法書や辞書の知識で解決するような狭義の意味ではないことが伺える。


2.2. II. 原著者への長期的接近】
 【I】では原著者=テクストの他者性を体験し、テクストに理解を拒絶されるという段階を経た内田氏であった。しかし、テクストに向き合い続けることで【原著者への長期的接近】を続けることになる。内田氏は、テクストを読んでも「意味がさっぱりわからない。それでも毎日訳す。」と語っており、その作業を「ほとんど写経」と喩えている。「写経」という喩えから、理解を拒否する原著者=テクストと向き合うという作業がすぐに終わるものではなく、また先の見えない作業であることがわかる。別のインタビューでは、前節で述べた「手も足も出ない巨大な岩みたいなもの」を理解しようとする過程を、「こつこつと手にしたノミで打ち砕くようにして突き崩してゆく」という比喩を用いて説明している。
 この段階では、テクストの言語的特徴を分析するだけでなく、原著者に徐々に接近することが必要となる。したがって、原著者の「生活習慣」「信仰している宗教」「食文化」「自然環境」を知り、少しずつ原著者に接近しようとする。この作業を通して、「ホロコースト期のユダヤ知識人の固有の信条や屈託がだんだん身にしみてくる」。
 

2.3. III. 原著者との身体同期】
 【II】のように原著者への接近を志し続けることで、【原著者との身体同期】が起きるのが第III段階である。この段階は、【II】で用いられた「こつこつ」「じわじわ」と起きるものではない。むしろ、「ある日気づくと」起きているものであり、「岩がぱかっと割れるように腑に落ちる」段階であるため、このIII段階が突然起きるものであることが暗示されている。そのような第III段階の兆候として、「身体の同期」という以下のような現象を挙げている。(以下、引用文中の下線は発表者によるものである。)

センテンスの終わりが予感される。もう、そろそろフィニッシュだな、と思ったときにぴたりとピリオドがくるということが起きる。あるいは、ある名詞が出たときに、この名詞にレヴィナス先生が先行する形容詞は「あれ」かなと思うと、その通りの形容詞がくる。そうすると、なんかうれしくなるわけですね。

上の語りにおいて、「センテンスの終わり」や「先行する形容詞」が自分の期待と一致するという現象は、原著者と翻訳者の言語感覚が近づいている現われであり、これを「身体の同期」と内田氏は呼んでいる。ここで「同期」という語を用いているのは、決して翻訳者が原著者を完全に理解することがないという前提を有しているためである。あくまでも異なる「翻訳者」と「原著者」という2名がいて、その2名にはそれぞれ歴史・文化的な背景を有した身体を有しており、その身体が同期する(あるいは、「リズムが合う」)という言い方に留めている。内田氏のこの前提は、以下の語りにも表れている。

こつこつやっているうちに、岩がぱかっと割れるように腑に落ちる。それは他者を理解できたというよりは、翻訳者自身が別人になったということなんだと思います。そして、外国語を学ぶことの意義って、最終的にはそこに尽くされると思うんです。

また、「身体が同期」するときの感覚は「自分の知らなかった感覚」であることが以下の描写からうかがえる。その感覚を日本語で再表現する過程が、内田氏のいう翻訳である。

身体が同期すると、自分の身体の内側に自分の知らなかった感覚が生じます。前代未聞の感覚だけれど、それが「僕の身体で起きている出来事」である以上、言葉にできないはずはない。現にそうやって自分の身体で起きている出来事を、思考にしろ感情にしろ、赤ちゃんのときから語彙を増やし、修辞や論理を学んで、言葉にできるようになったわけですからね。赤ちゃんにできたことが、大人にできないはずはない。


3. 考察
 内田氏の翻訳プロセスをまとめると、翻訳者は第一にテクストに向き合うことで、【他者としての原著者の認識】をすることになる。それを契機として、【原著者への長期的接近】を続けていき、ある日突然、【原著者との身体同期】が起きる。ここに、第1章で述べた翻訳の性質が見られる。すなわち、翻訳行為がただ単に外国語の表現を辞書や文法公式に当てはめて日本語に変換するという作業に留まらず、1人の翻訳者という固有の身体を有した存在が、「言語」のみならず「身体」や「他者性」を孕んだ言語使用を行うという姿が見える。
 もちろん、このようなプロセスが浮かび上がったのは、そもそも内田氏が向き合うテクストが難解な哲学書であったことや、内田氏自身が「他者」や「身体」に関して考え続けてきたということが挙げられる。そのため、これを一般化して翻訳のプロセスと結論づけることは当然避けられるべきである。
しかし、英語教育では一つのテクストに向き合い続ける機会がそもそも設けられていないのではないか。最初に述べたように、英語教育学は伝統的教授法を批判することで、「訳」という活動自体を避けるようになったが、「翻訳」の存在までも否定する必要があるのだろうか。たしかに、テクストの「他者性」を体験し、長期的に原著者に接近し、最終的に身体が同期するまで向かい合い続けるようなことは英語教育では求められておらず、そもそも教育内容に位置づけられてこなかったのだろう。その一方で、内田氏の辿った翻訳プロセスが英語教育としての教育的意義を有していることも否定できない。たとえば、内田氏が第I段階で述べた「自分が訳した日本語の意味がさっぱりわからなかった」という体験は、多くの英語学習者が経験しているのではないだろうか。そのような学習者は、文法書や辞書の訳文公式に当てはめるという「英文和訳(置き換え訳)」で止まっており、そこでそのテクストを「理解」したと思っている可能性がある。しかし、そのテクストをまだ理解しきれていないと感じ(第I段階)、そのテクストと向き合い続けることで(第II段階)、原著者と身体的にリズムが合う(第III段階)という体験をする可能性も、教師の働きかけや教材の種類次第ではありうるだろう。発表者の考えでは、内田の語りがこれまでの英語教育の盲点にあった身体性・他者性の存在を示唆しており、現行の学習活動を批判的に検討することにつながるものである。

NOTES
1   「英文和訳」は英語から日本語への変換のみを指すのではなく、概念語として機械的な訳出すべてをさす。したがって、「独文和訳」や「仏文和訳」などもこれに該当する
2   本論で用いた「コミュニケーション」は、いわゆる音声言語を用いたコミュニケーションを指す。この意味での「コミュニケーション」は訳読式教授法 (Grammar-Translation Method) には含まれていなかった。

参考文献
Cook, G. (2010). Translation in Language Teaching: An Argument for Reassessment. Oxford University Press: London
Laviosa, S. (2014). Translation and Language Education: Pedagogic approaches explored. Routledge: New York
内田樹 (2012) 『街場の文体論』ミシマ社: 東京
内田樹・鳥飼玖美子 (2015) 「悲しき英語教育」. In 大津由紀夫・江利川春雄・鳥飼玖美子・斉藤兆史 (2015) 『学校英語教育は何のため?』ひつじ書房:東京
柄谷行人 (1992) 『探究 I 』講談社:東京
杉山幸子 (2013) 文法訳読は本当に『使えない』のか」Studies in English linguistics and literature (23), 105-128
染谷泰正・河原清志・山本成代 (2013) 「英語教育における翻訳 (TILT: Translation and Interpreting in Language Teaching) の意義と位置づけ CEFR による新たな英語力の定義に関連して)」.語学教育エキスポ2013発表資料, http://someya-net.com/99-MiscPapers/TILT_Symposium2013.pdf
文部科学省 (2009) 『高等学校学習指導要領解説 外国語/英語編』http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2010/01/29/1282000_9.pdf
柳瀬陽介. (2011). 山岡洋一さん追悼シンポジウム報告、および「翻訳」「英文和訳」「英文解釈」の区別. 英語教育の哲学的探究2 , http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/12/blog-post_736.html
柳瀬陽介 (印刷中) 「『訳』に関する概念分析」『中尾佳行先生御退職記念言葉で広がる知性と感性の世界英語・英語教育の新地平を探る189210
山岡洋一. (2010). 「英文和訳についての覚書」.『翻訳通信』93, http://www.honyaku-tsushin.net/

山田優 (2015) 外国語教育における『翻訳』の再考:メタ言語能力としての翻訳規範」『外国語教育研究』13. 107-128

<議論になった箇所>

■ 身体的に同期するという現象は、内田先生のように長い間テクストに向かい合っているからこそ起きること。学校英語教育ではそれが可能か?

 ⇒仰るとおりです。その意味では、限られた時間数内で英語教育が目指せるのは第II段階が限界なのかもしれません。要するに、ある文章を読み終わって、「とりあえず訳して終わりましょう」という悪しき習慣にするのではなくて、その文章を翻訳する過程で、「なぜ筆者はこのような表現を使ったのだろう」「もし筆者が日本語ぺらぺらだったら、どんな日本語にするかな」といった思考を体験させることに意義があるのではないかと考えています。

さらに言えば、段階Iのような【他者性の体験】は翻訳困難性の体験とも近いかもしれません。日本語に訳したつもりなのに、その訳文の意味がよくわからないということも実際に起きます。そこで、「上手く訳せない」というもどかしさを体験させることに、学習者の言語能力の成長が見込めるのではないかとぼんやり考えています。


 ■ 内田氏の段階IIやIIIは、別に翻訳でなくても良いのではないか。英語で精読するという学習方法でも代替可能ではないか。

⇒これについても仰るとおりです。今回のレポートは否定的に捉えられることの多い「訳」の教育的意義を見直すということを主眼にしておりましたので、そもそも訳特有の意義という感じがしないのもご指摘の通りです。 では、翻訳独自の意義は何か。私の意見としては、(1)母語に関する気づき(大津先生の「ことばの気づき」)、と(2)ぴったりの日本語表現を探すために英語を読み直すという過程(読むことの指導)が当てはまると思っています。

 (1)の意義を主張するには、そもそも英語教育の目的を「英語技能の獲得」のみに狭めるのではなく、より広い「ことばの教育」の一環として捉えることが必要となるでしょう。 また、翻訳自体を教育目的に据えるなら、翻訳技能を育成することにも意味があるケースもあります。(学校教育ではあまりないでしょうが、他国ではそのような場合もあります。)



他にも多くの貴重なご意見をいただきました。  ありがとうございました。

大学院生活で学べる期間もあとわずかですが、最後までできるだけ吸収できればと思います!