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2015年11月29日日曜日

教育研究大会に参加して

こんにちは。Ninsoraです。

先日、私の某国立中高併設校の教育研究大会に参加してきました。

英語科は「思考力・判断力・表現力の育成」をテーマとして設定しており、その実践・達成の場として、高校1年生と中学3年生の授業を参観させていただきました。また、学校をあげた英語プレゼンテーションの取り組みに関する実践報告も伺うことができました。
(以上は本来公開されている情報ではあるのですが、第三者が特定の学校のことについてどこまで述べてよいのか不確かであることと、生徒さん・先生方・学校への一応の配慮といたしまして、校名や個人名は伏せさせていただきます。)

今回は単なる授業の様子や感想を述べるために記事を書くのではありませんので、授業展開やテクニック・実践報告の内容等の詳細をお知りになりたい方は、別のブログを探して頂いた方が賢明かと思われます。(と言いますか、授業展開の詳細等はほとんど書きません。)
また、以下は私の主張と主観の書き殴りになりますが、それでも良いという方はご覧になってください。

◆ 「流石、理想はこれか」という生徒と授業

 授業の中身について少しだけ書きますと、高校1年生は日米文化を比較したポスター発表(プレゼンテーション)とリテリング、中学3年生は複数の帯活動と本時活動を組み合わせた「オムニバス形式」の授業展開で、まとまりのある英文を書いたり話したりすることを目標にした授業でした。
両者ともアウトプットが重視されており、それらの活動を通して「思考力・判断力・表現力を育成する」という到達目標がかなり意識されていたものでした。
特に授業展開の新鮮さと、それに由来する生徒の英語使用量の多さと流暢さには目を見張るものがありました。

先生方の日ごろの熱心なご指導と学校をあげた英語力育成への取り組み、また生徒の日々の努力の賜物であると素直に思います。

◆ 理想を見せつけられて・・・
 
 このような研究会などで、凄腕の先生の凄い授業を見て多くの人が抱く感想は、

「凄いものを見た!早速次の授業でやってみよう」という熱心(だが危険)なものか

「今の自分の授業はダメだ。改善しなきゃ」という反省か

「これは○○先生だからできるんだ」
「これは△△中学(高校)の生徒だからできるんだ」という諦めか

のどれかには当てはまるのではないかと思います。

今回、自分も「凄い先生の、凄い生徒に対する、理想の授業」を見せつけられて、正直なところ

「△△中学(高校)全体としてのサポート体制が出来上がってるから上手くいくんだ」
「やっぱり△△中学(高校)の生徒だからできるんだ」

と思ってしまいました。

現在、私にも中高生を教える機会があります。今持っている生徒には、英語が好きで頑張る子もいます。頑張っても、頑張ってもなかなか英語が伸びない子もいます。そもそも英語が大嫌いで、全く向き合おうとしない子もいます。こういう生徒達にはこれから何十年、幾度となく出会うと思います。

ですので、「今持っている生徒」と「これから持つ生徒」の顔を思い浮かべると、単なる諦めや反省で終わらせるのではなく、「何か」を盗んで自分のものに昇華させなければならないなと思うわけです。

◆ 確かに存在する障壁

しかし、

「△△中学(高校)全体としてのサポート体制が出来上がってるから上手くいくんだ」
「やっぱり△△中学(高校)の生徒だからできるんだ」

と思ったのは確かな事実であり、そしてこの考えは間違いではないのだろうと思います。故に、今回の研究授業における先生方の提案を、そのままの形で私の現在・これからの授業に取り入れることは極めて困難であると考えます。特に、以下で述べる2点に関しては、今とこれからの確かな障壁として立ちはだかるだろうと思います。

① カリキュラム・指導の連携上の壁

今回私が特に興味を引かれたのは、複数の帯活動と本時の活動を組み込んだ「オムニバス形式の授業展開(中3)」でした。「授業の活動同士に繋がりをもたせよ」と言われるこのご時世において、この単元・授業構成自体は非常に画期的(独創的)です。しかし、単元の中の長期的な視点で目標達成を目指すということや、その授業展開の想いや意図を伺うと、今後は主流な選択肢の一つとなりえる授業構成だと思います。

ただ、これを一般的なの公立中高や私立中高で行おうとするとき障壁となるのは、各学年のクラス間に生じる「カリキュラム・指導の連携上の壁」だろうと考えます。

一般に、クラス間で「学習内容」や「進度」の差を極力生まないよう、学年団の教科担当の先生はそれぞれ連携をとりながら授業を進めます。使用するプリントでさえも学年で共通のものを使用し、オリジナルで作成するワークシート等の配布・使用、特定のクラスでのみ行う活動などを控える学校もあるそうです。このため帯活動のための外部教材を追加で購入させるとなると、特定のクラスのみというわけにはいかず、結果的には全ての保護者の経済的負担も増えてしまうことになります。

そのため、今回の授業のように、外部教材の使用も含めた複数の「帯活動」を取り入れたオムニバス形式の授業は、学年団の共通理解が大前提となります。加えて、綿密に練った単元計画をきちんと遂行していくことができないと、一つの単元に相当の時間を要してしまいます。そうなると、短期的には定期考査等には影響があるでしょうし、長期的には年度内に終わらせるべき範囲が終わらず次年度に影響が出たり、生徒が身につける英語の力がぶれてしまったりします。こう考えると、学年団としてはこの形式の授業に反対される先生もいらっしゃると思います。

② 「想像力」「創造力」の壁

 これはこれまで私が出会った具体的な生徒のことを考えながらのことですので、一般的に当てはまるかといえば疑問ですが、書かせてください。

やはり中3の授業になりますが、文を4つ提示し、「それらの文を全て使用する」という条件で、ペアでストーリーを作りながら会話を続ける、という帯活動がありました。
即興で英語を使用する力や、相手の発言の意図を汲み取りながら応答するための「適応力」、その場でストーリーラインを作る「想像力」や「創造力」などが鍛えられ、発揮される活動であるなと感じました。
授業者の先生が「自己表現ではないけれどクリエイティブ」な活動であると仰っていた通り、この活動なら多種多様なストーリーが出来上がる面白みもありますし、何より授業でも簡単に取り入れることができるものだと思います。

ただ私が思うのは、「クリエイティブな活動をするための前提となる『想像力』や『創造力』はどのようにして培われるものなのか」ということです。或いは、「そもそも『想像力』や『創造力』は、英語の授業で培えるものなのか」ということです。

大学の先生方に言うと怒られるかもしれませんが、以前、会話文問題がどうしてもできないということで、使用されている英語の表現が日本語ではどのようなニュアンスになるかを確認しながら、日本語の文脈で会話を考えさせたことがあります。それでもその生徒は、次にどのような発話が来るのが自然なのか、かなり迷っていました。聞くと、「ニュアンス」や「文脈」というものがいまいち分からないそうで、本を読んでも意味が分からないので全く読まなくなった、と。即ち、発言から話し手の意図・意向を「想像」して読み取ったり、関係性や文脈からストーリーを「創造」したりということが、日本語であっても苦手なようなのです。

「それはそういう生徒なんでしょ」
「英語だからできないだけでしょ」

そう言われるとそうなのですが、上で書いたような活動を目にすると、その活動の「前提となっている力」の部分の涵養について、どのようにすればいいのだろうかと考えるわけです。
私を含め、英語の授業中の発問などをする際に、それこそ「行間を読み取って~」だの「文脈から~」だの言ってしまうと思いますが、その「前提となる力」に困難さを抱える生徒からすると「それができないんじゃい!」と言いたくなると思うのです。

「じゃあそれができるような『ヒント』を与えながら考えればいいじゃん」
「活動の手立てを工夫すればいいじゃん」

という人ももちろんいらっしゃると思いますし、間違いだとは思いませんが、私が個人的に考えているのは授業中の手立てではなく、「活動の前提となる力」ですので、「ヒント」を与えてそこまでのお膳立てをしてしまうと

「それは教員の用意した文脈・ストーリーでしょう?」
「この活動の醍醐味である『生徒のクリエイティブさ』は失われてしまいませんか?」
「ヒントつきの活動を繰り返せば、『想像力』『創造力』が涵養できるのですか?」

という気持ちになるわけです。「想像し創造する」ことが苦手な生徒からすれば、「じゃあ実際のコミュニケーションやテストの時には、誰がヒントをくれるの?」と言いたくなるはずなのです。

自分は昔から運動が得意ではなかったので体育の授業は嫌いだったのですが、サッカーならパスを受けてからシュートする練習、バレーボールならトスを上げてもらってアタックする練習なら上手にできました。
でも、実際のミニゲームになるとその練習が全く役に立たないのです。
それはそもそもの運動能力のせいもありますが、ダイナミックな競技スペースのなかで自分がどう動けばよいのか、あるいはどのようにゲームを組み立てるのか、上のようなセットプレー的な練習から、ほとんど鍛えられなかったのです。

ここでの「パス」や「トス」を英語授業で言う「ヒント」、「動き方」や「ゲームの組み立て方」を英語授業での「想像力」や「創造力」と読み替えていただければ、私の考えていることが分かりやすくなるかな、と思います。(んー、でもこれはあまり共感を得られないかもしれませんね。)

英語を即興で話す力や相手の発言に応答する力は、表現を知る、実際に練習してみる、などを通して、英語の授業でつけることのできる力だと思いますし、今回のような活動を繰り返すことで高まっていくと思います。
では、活動の肝になる「クリエイティブさ」の前提にある「想像力」「創造力」は、英語の授業でどのように担保していけばよいのだろうか、そもそも担保できるものなのだろうか、そう考えてしまうのです。(もちろん、使える表現を増やしたり、読解の中で気づかせたりというのも一つの手ではあると思うのですが・・・)

◆ 壁を取り払い、自分のものに昇華させるには

 正直言って、これらの壁を取り払うために、具体的に何をどうすればよいのか、全く分かりません。凄い授業を見るたびに、何かを盗みたいと思うのですが、いつも分からなくなります。(実際の学校現場を自分はまだまだ知らないので、当然といえば当然なのですが・・・)なので、考えすぎとも言われますし、どうでもいいじゃんと言われることもあります。その度に「諦めろ、お前には無理だよ」と言われている気がして、実は結構凹むのです。でも、「お前が未熟なんだ、もっと勉強しろ」と言われているのだと脳内変換して、今回の学びを無駄にせず、壁を乗り越え克服するための方法を模索し続けようと思います。このように思えたことも、今回の研究会の大きな収穫だったと思います。

長駄文を最後まで読んでくださり、どうもありがとうございました。

率直なご意見やご感想などがあればコメントを下さると幸いです。

2015年11月19日木曜日

高尾隆・中原淳 (2012) 『インプロする組織-予定調和を超え、日常をゆさぶる』三省堂

こんにちは (^-^) mochi です。

最近、コミュニケーションにおける「即興性」という言葉が気になっています。

英語教育でも、次の学習指導要領で「他者の尊重」ということばが目標に含まれるようですし、次の展開が予測できない「他者」に対峙し、即興的に対話をする力が求められるのかもしれません。

私は言語教育と「即興」について考えるとき、即興劇 (impro) の発想が大変参考になると考えています。そこで高尾・中原 (2012) 『インプロする組織』(三省堂) を手にとってみると、これが大変面白かったです!

Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる
Learning × Performance インプロする組織  予定調和を超え、日常をゆさぶる高尾 隆 中原 淳

三省堂 2012-03-16
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この本は、昨年末に国際表現言語学会に参加した際にも気になっていたのですが、やっと手にとって読むことができました。

以下、面白かったところを中心に紹介します。

■ 伝統的な授業の問題点

高尾氏は今日の授業を講義型の知識伝授行為として、以下のように批判しています。

1) 知識の活用がしにくい
2) 自分で知識を探したり作ったりすることができない
3) 知識を伝える方が自らの振る舞いを見直すことがない

ここで断っておく必要があると思うのですが、必ずしも今日の学校授業が上のような知識伝授とは限定できないと思います。このような問題意識は教育現場にも教育政策にもあって、「アクティヴ・ラーニング」の必要性も叫ばれています。

また、必ずしも知識伝授式の授業が否定されるべきだとは思いません。正確な発音の仕方や英文法の形式の説明などは、メタ言語を使用した丁寧な説明が効果的な場合も多いと思いますし、知識伝授式の授業が得意とする領域まで「アクティヴ・ラーニング」に取って代わられる必要もないでしょう。

とはいうものの上の留保をつけてでも高尾氏の主張は意義深いと思います。高尾氏の主張は現象学と批判理論を基盤としており、知識伝授式の授業が信頼している確かな真理・知識といったものがそもそもないのではないか、また、教える側の権力性によって無批判に正当化されている部分が教育行為にあるのではないか、といった批判意識に根ざしています。そこで高尾氏は、これまでの「学び」に排除されてきた要素を見つめなおします。

学びから排除されたものは、有利な立場に立っていた人が、これらのことが学びに入っていると自分たちを守っている既存のルールが脅かされ都合が悪い、と考えて排除した可能性があるからです。…それは「からだ」です。 (pp.24-25) 

■ 「からだ」の重視-パフォーマティブ・ラーニング

高尾氏は「からだ」をメルロ=ポンティの身体論を援用しつつ、「主体としてのからだ」と「物としてのからだ」の両義的な性質を持ったものと位置づけます。「主体としてのからだ」は意識の源としてのからだで、そもそも私たちがからだなしには何も考えられないことからもからだを我々の主体といえるでしょう。「物としてのからだ」は物理的な対象としてのからだで、たとえば私たちが鏡で自分のからだを見たり、他者によって自分のからだを触られたりすることもできます。このようにからだを「主体/物」(あるいは「見るもの/見られるもの」という両義性で捉えています。

この両義的なからだは、時にずれ(矛盾)を生み出すこともあります。ベイトソンのダブルバインドの議論と似ていますが、私たちが「愛しているよ」と言いながらも顔が引きつっている場合などが、「主体としてのからだ」が出したがっているメッセージと「物としてのからだ」が出してしまっているメッセージのずれ(矛盾)に当たります。

この「ずれ」は無意識に起こってしまうものなので、社会生活では不便なものと感じられて抑圧されてしまいます。特に管理社会であれば、「物としてのからだ」から自ずから出すメッセージを無視して、「主体としてのからだ」が論理や言語を用いることの方が都合が良いでしょう。

しかし、高尾氏は逆の見方をしています。「主体としてのからだ」が「物としてのからだ」を操作・支配するだけでなく、「物としてのからだ」も同様に「主体としてのからだ」に影響を与えていると。さらに言い換えるなら、「からだ」が行うパフォーマンス (performance) によって主体の自己同一性 (identity) が変化するような考え方といえます。このパフォーマンスと自己同一性が表裏一体の関係にあると考えるのがパフォーマティビティ (performativity=performance+identity) で、これこそがパフォーマティブ・ラーニングの軸となる考え方です。

パフォーマティブ・ラーニングは (1) からだを動かして表現する、(2) 他者へ向けて表現することで自分を解体・再構築する、という2つの意味が込められています (p.40) 。ここで具体的な教育方法論として用いるのがインプロ (impro) です。インプロは、「主体のからだ」と「物としてのからだ」がそれぞれ調和・統一した状態でパフォーマンスをする状態を指します。パフォーマティブ・ラーニングは「物としてのからだ」が管理下されて固定化してしまうと不可能になってしまうので、からだを解放させて自然発生的な反応 (spontaneity) が生まれるように環境整備する必要があります。


■ 合目的的教育観とパフォーマティブ・ラーニング観

近代以降我々が有している教育観は、しばしば「合目的的教育観」と批判されます。合目的的教育観とは、手段―目的図式が強固に用いられている様子を指します。たとえば私たちが授業を行う際は、常に目標を設定して、それに従って計画を立てて実行し、評価をすることで次に生かそうとします。このような目的の強調は、アメリカの教育哲学者のデューイも述べているとおり、大変重要なものです。

ただし、インプロでは計画が行われず、むしろ「即興的かつ局所的な対応」 (p.61) が求められます。そもそもインプロという言葉は、「予-見」 (pro-vision) することができない (im-) という語源を有しています。そこで、「未来」に見通しを持つのではなく、「今・ここ」で、「身体」をメディアとして用いることで、物事の多用な見方や意味づけを学びます。

このようなパフォーマティブ・ラーニング観は、ある意味無計画で無謀なように思えるでしょう。ただし、合目的的教育観が見逃している部分に関して、パフォーマティブ・ラーニングには可能性があるようです。

既述したように「即興的」で「創造的」で「協同的」で「脱権力(民主的)」で「共愉的」なインプロは、一見、論理では説明がつかない、「費目的思考の行為」「経済的合理性に反した行為」「非科学的・非論理的な行為」に見えます。しかし、それは、不確実な世の中を生き抜く知恵の一つであり、うまく奏功した場合、「目的志向の行為」「経済的合理性のある行為」「科学的・論理的な行為」を、陰ながら生み出す可能性も持っているのではないか、と僕は感じています。 (p.69) 

この箇所に関する自分の意見は、「そりゃ、どっちも大事だろう」というありきたりなものです。(笑)

もし「合目的的」な授業ばかりをデザインし続けると、コミュニケーションが本来有する偶発性や複雑性といった部分を学習者に体験させる機会が少なくなってしまうかもしれません。そこでインプロが使えるわけですが、かといってインプロばかりやっていては、学習者への学力保障が必ずしもできるとは思えません。

(先日、某県立中学校の授業を参観させて頂きましたが、その先生の授業では、この「合目的性」と「インプロ性」が非常にバランスよく取り入れられていたように思えます。おそらくこのバランスのとり方が最も難しいのだと思いますが・・・。)

■ インプロの原則

ここで、著者の両氏が重視されているインプロの原則を確認します。

1) 無理しない
2) Give your partner a good time.
3) 自分も楽しむ

これらは、「からだ」を解放するためにも、また自然な即興性を表現するためにも、「無理をしない」「お互い愉しむ」ということが重視されます。

ここで、2)に注目したいと思います。両氏は「他者」を学びの根本的存在として捉えています。

人は一人では学べない、人は一人では代われないということなんです。「学ぶ≒変わる」ためには、他者がどうしても必要です。究極的に言うと、自己を自己で認識し、律するためには、どうしても他者の助けや他者の視点が必要だということです。…「学びの他者性」なんです。 (pp.217-218)

私たちは「他者」と関わることで、自己を認識することができます。この辺をヘーゲルの概念で語れば、「他者の内に自己を見出す (sich-im-Anderen-anschauen) 」に近いかと思います。つまり、最初は「他者」として立ち現れる存在のうちに「自分」を見出し、もともとの自分 (即自的存在としての自分) と他者のうちに見出す自分 (対自的存在としての自分) が弁証法的な統一を遂げることで、「成長」「学び」を起こすことができるといえるのでしょう。

(この具体的なインプロのエピソードまでは本記事では紹介しませんが、本書の最大の魅力はこの豊富なエピソードにあります。他者と接して、偶発的なコミュニケーションが連続しつつ、会話の参与者で共通の土台を協働的に作る参加者の姿が詳細に記述されています。)

■ 身体と言語―裂け目を入れるための振り返り

最後に、インプロやパフォーマティブ・ラーニングにおける「言語」の役割について確認しておきます。著者らは「言語」の役割を「振り返り」に帰します。現に、本書で紹介されるワークショップでは、アクティビティが終わる毎に参加者と「今のどうでした?」「ここでこうしてたらどうなってたと思いますか?」と、参加者がインプロで行ったことについて言語化を促します。高尾氏はこの役割を「“裂け目”を入れる」という比喩で語ります。

からだを動かすこと事態で“裂け目”は入らないんですよ。からだを動かしたあと、それを言葉にしたときに裂け目が入る。言葉にすることが効いている。ただからだを動かして、「はい、今日はからだをたくさん動かしましたね」っていうワークショップでは、たいてい何もおきていない。それでは「エクササイズ」ですよね。 (p.202) 

また、中原氏も以下のように語ります。

「からだを動かすこと自体で“裂け目”は入らない」とは慧眼ですね。そこで起こったできごとのプロセスを、一人称で、自分の言葉で表現したときに、内省が駆動し、裂け目が入る。同じ言葉にするにしても、自分に起こったできごとのプロセスを、一人称で、自分の物語として書き留めていくことが大事なんですよね。 (pp.202-203)

前節までで述べてきたように、「物としてのからだ」によってできるだけ自然な動きをインプロでした後、再び「主体としてのからだ」と「物としてのからだ」のずれ・矛盾に目を向けるためにも、言語化を行う必要があります。言語化は「裂け目」をいう比喩が用いられていますが、ルーマンに倣えば「区別」と言っても良いでしょう。インプロ中はできるだけ区別を敢えて引かずに進めますが、それが終わった後に敢えて「主体としてのからだ」の視線で区別を引くことで、言語化された自分と、言語化されなかった自分の身体知のギャップへの気づきが起きやすくなるのでしょう。


■ 最後に

「偶発性」や「即興」「対話」といった要素が、しばらくの自分にとってのキーワードになるだろうと思います。できれば大学院にいる間に、「即興性」という概念について自分なりの定義が提出できればと思うのですが、どうなることやら。(笑)

本書は、自分の固まりきった考え方を対自化するためにも、とても読み応えがありました。

ただし、一般書なので、インプロに関する理論面については少し物足りない感じがあります。言語教育とインプロで調べたら、以下の洋書を見つけたので、次の読書はこれにしようと思っています。


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また、パフォーマティブ・ラーニングという概念は、アクティブ・ラーニングと対置したときに、どのような点が異なるのでしょうか。個人的には、「からだ」「即興性」の重視というのがオリジナリティといえても、系譜として両者は非常に似ているのではないか、という考えです。

また、自分自身がインプロの体験をする必要もあると思うので、今年の年末も演劇ワークショップに参加してこようと思っています。


2015年11月16日月曜日

日本翻訳ジャーナルの記事に紹介して頂きました!

こんにちは。 mochi です。
某看護学校での非常勤勤務も無事に終えて、あとは修士論文に向けてまっしぐら!のはずが、ほとんど筆が進まずに悩んでおります(笑)。

学部の卒論の二の舞にならないよう、もう少しこれから研究時間を割きたいです。

さて、突然ですが、先日学会で口頭発表した内容について、『日本翻訳ジャーナル』の記事でご紹介いただいたので、ここにリンクを掲載させていただきます。(なお、編集者の方の許可は頂いております。)

日本翻訳ジャーナル イベント報告


『日本翻訳ジャーナル』は、一般社団法人日本翻訳連盟(JTF)の機関誌です。翻訳に関する行事の案内や興味深い記事も多かったので、興味をお持ちの方はぜひご覧ください。

そこで、今年の9月に青山学院大学で開催された日本通訳翻訳学会第16回年次大会の紹介記事で、自分の拙い発表に言及して下さいました。学会では、

英語教師志望者の「英文和訳」と「翻訳」:プロダクトとプロセスの観点から

という題目で発表をさせて頂きました。当日は自分の方が多く学ばせていただき、足を運んでくださった皆様には心より感謝申し上げます。

手前味噌で恐縮ですが、当日配布したスライドを共有させて頂きますので、よろしければご覧ください。





論旨としてはざっと以下の通りです。


(1) 私たちが用いる「訳」という言葉には、「翻訳」と「英文和訳」が混ざっている。


(2) 英語教師も授業場面によって、「翻訳」も「英文和訳」もすることがある。


(3) 実際に英語教師志望者に中学校検定教科書の英文を「翻訳」してもらうとより日本語らしい文になり、「英文和訳」してもらうとぎこちない日本語になった。そしてこれらは言語類型論のIモードとDモードという分類で分析することができた。


(4) また訳した人たちにインタビューをすると、物語の世界に入り込んで訳そうとしていたことが明らかになった。


(5) しかし、「翻訳」文の中には、まだぎごちない箇所もあり、今後英語教員養成課程で「翻訳」指導を行うことで補完できるのではないか。


(具体的な訳文データやインタビューデータは、当日配布資料のスライドをご覧ください。)






以下、簡単な振り返りと自己批判を。

(1) については、日本の英語教育に関する議論の際にもこの分類は便利だと思います。ただ、これらの分類が必ずしも万能ではありません。何を以って「翻訳」とするか、といった操作的な定義は、どうしても主観による部分が出てきてしまいます。本発表はスコポス理論に基づいて暫定的に区別を引きましたが、やや強引だったかもしれません。


(2) は、英語教育学では馴染み深い「和訳先渡し」授業を取り上げて、訳文も学習者にとってはインプットの一つであると主張しました。そして、学習者の実情や単元目標によっては、訳文の言葉遣いを教師が調整したり、教師自身が訳出したりすることも時に必要なのではないかとしました。

(もちろん現場で毎回そのようなことをする時間はないかもしれませんが、たとえば授業で英語の歌を作るときなど歌詞を先生が訳す場合もあるのではないでしょうか。)


(3) は、従来の「翻訳」「英文和訳」の定義にはない、認知言語類型論の枠組みを用いた分析になっています。この部分については、修士論文でさらに明確に分析できればと思います。


(4) は訳者のナラティヴを用いて、訳文プロダクトには反映されなかった訳者の思いをできるだけ汲み取ろうと試みました。まだ分析の目ができていないのですが、物語世界に視点を内置しようとしている姿を紹介できたのではないかと思います。


(5) の主張は暫定的なものです。この点については、後に先輩の先生方からもご指摘を受けました。今後は、データの解釈を進めて、そのデータから言えるリーズナブルな主張になるように気をつけようと思います。



ということで、まとめて言うと「途中段階」という恥ずかしい発表になってしまい、また言語学も生半可な理解で通してきたため、多くのご指摘も頂きました。(ご指摘・ご質問下さった皆様、本当にありがとうございました。)


ただ、これまでの学会発表の中で一番手ごたえがあったというか、少なくとも、自分の言いたいことがこれまでの中で一番伝わった、という気持ちになれました。

来年度からは学会に参加できる時間もなくなっていくのでしょうが、時間を見つけて、翻訳や英語教育関係の学会には顔を出しておきたいものです。




ちなみに、来月に開催されるJALT Hiroshima のmini-conference で、大学院生活最後の発表を行わせて頂くことになりました。(と、さりげなく宣伝。笑)

A Proposal of Teachers' Questions Using a Translated Text


発表テーマは「翻訳発問」にしました。M1の頃にためていたネタだったのですが、翻訳を題材にして、翻訳論的視点(等価理論や文化翻訳など)から発問を作ってみたらどうだろう、という提案ができればと思います。


当日は、自分が模擬授業を行った後、皆様と「翻訳発問」や英語教育における訳活動に関して議論させて頂ければ幸いです。


また、当日はたくさんの興味深い発表が準備されているそうですので、どうぞお時間のある方はお越しください。




最後になりますが、「日本翻訳ジャーナル」の皆様、特に記事執筆者の三宅様には、心より感謝申し上げます。