早いもので、明日から11月ですね!
私は、非常勤先の授業も少しずつリズムがつかめて来て、楽しくやっております。
と同時に、刻一刻と修士論文提出期限が近づき、焦りつつもありますが(笑)。
友人から、『わが指のオーケストラ』という漫画を教えてもらいました。非常勤の行き帰りで一気に読んでしまいました。
とても良い作品だったので、ここに紹介させてもらいます。
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◆ 作品の紹介(1)
この物語の背景は大正~昭和にかけてのろう学校で、主人公は高橋潔という実在の人物です。(今は特別支援教育と言われていますが、当時はまだろう学校・盲学校などが分かれていた時代です。)
本作品は秋田書店版で全3巻となっています。第1巻は、高橋氏がろう学校に赴任するところから始まります。当初は音楽教員を志望していた氏でしたが、少しずつ子ども達と体当たりでコミュニケーションを取れるようになり、手話を(自身も学びながら)子ども達に教えることで、少しずつ子ども達が変化していく様子が描かれます。それはまるで、ヘレンケラーが「水」という語を覚えたときのように、子ども達にとっては1つ1つの手話によって、これまでの世界とは異なる見方ができるようになり、問題ばかり起こしていた子も落ち着いていきます。
第一巻の最後では、高橋先生が「ずし王」という絵本を手話で子ども達に伝える場面があります。文字を読めない子たちも、先生の手話を目で追っているうちに、次第に心が動き出します。高橋先生はここで、「手話で音楽をする可能性」というものに気づきます。
◆ 手話の魅力
閑話休題。
上で出てきた「手話と音楽」について、つい最近TEDで紹介された動画ですが、非常に啓発的でした。
「手話で音楽」など可能なのかと思われるかもしれませんが、ここでいう「音楽」は「空気の振動のまとまりが聴覚で受信されて感性的に把握される作品」という意味ではありません。むしろ、「リズムを伴って心が動かされるという事態」を指すのだと思います。
自分も学部生の頃に手話を少し習っていましたが、手話をするときは表情や体の動きをふんだんに使って表現するように言われます。
そのせいか分かりませんが、自分が授業やプレゼンなどで前に立つときは、ジェスチャーなどの表現が多くなります。イギリスの小学校で授業をした時も、子どもから、「先生は手話をやっているでしょ?だって身振りが多いもん」と言われたほどです。(やはり、子どもは侮ってはいけませんね。笑)
このように、指・手・腕の動きのみではなく、表情や身体全体、そして動きのスピードやリズムなどを組み合わせれば、可能な表現様式は無数になると思われます。その複雑な体系の中で、伝えたい思いにそって手話表現を行えば、たとえ耳が聞こえない方にも「音楽」が伝わるのかもしれません。
以前、「演劇大学 in さかいで」という企画でパントマイム体験のワークショップに参加したときも、パントマイムは声が使えない分全身を使えるだけ使え、といわれました。だから、動作だけでなく、目線や表情、息づかいなどもパントマイムの表現には含まれます(し、実は細かい動作のテクニックよりも、全身の表現力の方が重要だと学びました。)手話もそれと同じなのだと思いました。
◆ 作品の紹介(2)
第2巻では、米騒動や関東大震災などの対象自体の出来事を背景に、ろう教育の主流が手話法から口話法へと移り変わっていく様子が描かれます。
ここで簡単に紹介すると、口話法とは、先生が話すときの口の動きをよく見て(読唇術)、音を発する練習をし、最終的には話せるようになることを目指します。相手の唇の動きから相手の発話を理解して、それに対する返事を言葉で発することができれば、将来就職するときも有利になるのかもしれません。また、親としてはわが子が話す姿を見て、嬉しい気持ちになるのかもしれません
ただし口話法は、その指導法の特性上、手話の使用を禁止します。手話を使っても良い環境下にいると、意思伝達を手話で行うため、なかなか口話が身につかないと想定したためです。大正時代は、手話を使わないように体罰を与えたり手を縛ったりしたといいます。
口話法は日本全国で広まりますが、手話を奪われた子たちが次第に不満を募らすようになります。そこで、主人公の高橋先生が、手話法の復権を目指して奮起します。
第3巻のテーマは、手話法と口話法の対立にあります。どちらも子ども達のために行っていることは否めませんが、高橋先生は手話法の存続が子ども達のためになると信じて活動を続けます。
第34話「記念すべき日」では、高橋先生が全国聾唖学校校長総会で、口話主義の校長たちの前でスピーチをします。
◆ 高橋先生のスピーチから
まずは、言語の権力性に関わる以下の発言。これを敷衍すれば、外国で言語が話せない「言語弱者」にも当てはまるのかもしれません。
(だからこそ、看護学校の生徒さんには、ほんの少しでも、英語でのコミュニケーションに熟してもらいたいと願います。)
聾唖者は少数者であり手話は少数者の言語です
正常者は多数者であり音声言語は多数者の言語であります
故に少数者は多数者の犠牲になれと申されるのでしょうか
正常者の立場に立ち彼等に正常者の言語を強要し正常者と同様になれと申されるのでしょうか
聾唖者が聾唖者である事をなぜ恥じねばならないのでありましょう (pp.203-204)
また、子供の構築する世界を豊かにするためにも、手話が必要なのではないかと訴えます。
このへんの議論は自分が疎いのでなんとも言えませんが、説得力はあると思います。
(お詳しい方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。)
子供には子供の世界があります
我々教師は一日一日成長していく生活者としての彼等にその精神生活に糧をあたえてゆかねばなりません
それには彼等のことばであるところの手話に依らねばならないと考えます
彼等には手話こそ最も自然で解り易い言葉なのです (p.208)
◆ 英語教育と母語
私はこれらの箇所を見て、ふと英語教育を思い出しました。思えば、2013年から高等学校の英語の授業が「原則英語」と学習指導要領で指定され、着々と英語で授業をすることが(浸透した、とまでは言いませんが)当たり前になりつつあります。
予め断っておきますが、上の高橋氏の主張を機械的に英語教育に当てはめることは危険でしょう。すなわち、「英語の授業で日本語を禁止するのは、子供の世界を奪い取ることになる!」とか「だから英語の授業は訳読式教授法に戻るべき」と主張する気は毛頭ありません。可能な限り授業は英語で行うべきでしょう。
ただし、これが過熱すると、上の事態と似た状況になることも否定できません。英語という「他者の言語 (Fremdsprache) 」を押し付けられ続け、学習者の感性や生活経験が押し殺される事態があるとしたら?もはや象徴的には、手話を禁止して手を縛ろうとした大正時代の口話法とあまり変わりがないのではないでしょうか。
現代の特別支援教育の議論は追っていないので分かりません(し、今後勉強する必要があると思います)。しかし、殊に英語教育に限定すれば、私たちは英語を教える中で、「母語」の役割についてもきちんと検討すべきではないでしょうか。
それが訳読式教授法である必要はありませんし、わざわざ一単元を取って翻訳教育をすべきだとも思いません。自分も将来現場に出たときは、英語で行える部分ならもちろん英語で行う方が学習者のためになると思います。ただ、英語を学ぶ学習者が有す言語的背景にも留意した上で、英語を教える必要があるのではないかと思います。
◆ さいごに
山本おさむさんの作品は他にも、『どんぐりの家』などがあるようです!
まだ読めていませんが、時間ができたら読んでみたいと思います。
皆さんも読書の秋に漫画などいかがでしょうか? (^^)