こんにちは、mochiです。
いよいよ2014年度もラスト1日ですね(泣)。
4月からが早速憂鬱ですが、ぼちぼち頑張りたいと思います。
さて、今回は内田樹先生の『街場の文体論』の紹介をします。翻訳に関する内田先生のお話に興味があって手に取ったのですが、翻訳以上に文章を書くということ、大学コミュニティの問題点、言語、などの多くの問題について考えさせられました。
以下、あくまで自分が気になった点をまとめます。特に、学部生でこれからレポートや卒論を書こうとしている皆さんに向けて、できるだけわかりやすく書こうと思います。自分の理解を確かめる意味でも時々見慣れない用語を用いていますが、その後に簡単な例を出すなどしています。よろしければ読んでみてください。
街場の文体論 | |
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■ 文章を書くときの読み手意識・他者意識
内田先生は、学生が書く文章の欠点を指摘した上で、文章を書くときに読み手との間に「距離」を感じることが重要だといいます。
敬意というのは「読み手との間に遠い距離がある」という感覚から生まれます。自分がふだん友だちと話しているような、ふつうの口調では言葉が届かない。教師に対して失礼であるとかないとかいう以前に、そういう「身内の語法」では話が通じない。自分のふだん使い慣れた語彙やストックフレーズを使いまわすだけではコミュニケーションが成り立たない。そういう「遠い」という感覚があると、自分の「ふだんの言葉づかい」から一歩外に踏み出すことになります。自分がふだん使わない言葉づかいで語るようになる。 (pp.15-16)
この「距離」は、他者性と言い換えることもできるかもしれません。柄谷行人の言い方であれば言語ゲームを共有しない者です。たとえば、大学生が友だちに対して話すときは友だち同士でのみ通じる文法があります。仲の良い友だちであれば、省略語を多用し、使う言葉もいちいち説明・定義を要さないでしょう。それに対して、同じ話しを、初めて出会う社会人にするとなれば、同じ話し方では居られなくなるはずです。先ほどまで省略していた語を正式な語で言いなおしたり、説明せずに使っていた言葉についても説明しなければならないでしょう。
我々は異なる言語ゲームを有する他者に対しては、友だちに話すとき以上の気配りをしなければなりません。村上春樹の言い方を借りれば「とびっきり親切になる」必要があります。この親切さこそが文章作成の際に必要になります。
教育哲学の授業を学部時代に受けたときも、授業の結論で「哲学は異なる他者と対峙する際に必要となる。自分の考えを受け入れない他者に対して、相手の目線で受け入れられるように語りなおすには、自分の考えを再度噛み砕く必要がある」といわれました。このときの「相手の目線で」という部分が読み手への「敬意」にあたるでしょう。
■ メタ・メッセージの宛て先性
ここから、もう1つのことが言えます。それは、言語に必ず宛て先があるという点です。この点を論じる前に、メタ・メッセージという言葉を導入しておきます。メタ・メッセージとは「メッセージの読み方を指示するメッセージ」 (p.164) を指します。たとえば、「おまえ、アホやな~」という発話は、場面・状況に応じて意味が大きく異なります。仲の良い友だち同士が、教科書を忘れた子に対して言う「おまえ、アホやな~」なのか、スマブラ(というゲーム)を一緒にしていて友だちが間違えて自滅してしまったときの「おまえ、アホやな~」なのか、はたまた教師がテストで悪い点数をとった生徒に対して低い声で薄ら笑いを浮かべながらの「おまえ、アホやな~」なのか。それぞれ受け取られるメッセージは大きく異なると思います。それは、これらの状況で発話された「おまえ、アホやな~」にはそれぞれメタ・メッセージが埋め込まれていて(あるいはひっついていて)、「今の『おまえ、アホやな~』は友だち同士の冗談だと思って受け取ってね」というメッセージが、友だちの笑顔や声の調子などから読みとめるわけです。逆に、教師の場合は、「おれの『おまえ、アホやな~』は本気で受け取れよ」というメタ・メッセージが付け加えられているために、生徒は傷つくわけです。
さて、このメタ・メッセージはひとつ重要な特性を持っています。それが、「宛て先性」です。
メタ・メッセージのもっとも本質的な様態はそれが宛て先を持っているということです。
それが自分宛てのメッセージだということがわかれば、たとえそれがどれほど文脈不明でも意味不明でも、人間は全身を耳にして傾聴する。傾聴しなければならない。もしそれが理解できないものであれば、理解できるまで自分自身の理解枠組みそのものを変化させなければならない。それは人間のなかに深く内面化した人類学的命令なのです。 (p.176)
メタ・メッセージに必ず宛て先があるということは、文章を書く者にとって重要な考えです。なぜなら、文章を書くときに、不特定多数に書いたり、どうせ誰も読みはしないだろうと重いながら欠いたりしては、読み手として困ってしまうからです。このブログ記事も、(たまにヤケクソで適当に文章を書くことはあるにせよ笑)、基本的には「この記事は学部生に向けて」とか「これは院生レベルの方々に」と、読者の想定をできるだけするようにしています。そうすることで、この文章の宛て先が自分の中ではっきりして、言葉遣いを選んだり、情報量や説明のタイミングを調整することができます。(できているかどうかは分かりませんが。。)
(参考)
バフチン言語学でも addressivity (宛て名性)という用語があり、そこでの議論に近いような気がします。桑野 (2011) 『バフチン』より以下を引用しておきます。
言葉とは、わたしと他者のあいだに渡された架け橋である。その架け橋の片方の端をわたしが支えているとすれば、他方の端は話し相手が支えている」 (桑野, 2011, p.58)
あるいは、関連性理論の「意図明示的刺激」も、発話が聞き手に対して宛て先性を有していると言い換えることも(ある程度)可能なのかもしれません。(参考記事:●関連性理論まとめ①)
■ 「大人」とは他者を意識できる者
ここまで読む限り、文章を書くということは他者を意識するということに非常に近いのかもしれません。もし書く媒体が日記であれば構わないのですが、他者に何かを伝えるための文章を書くというのはやはり大変な作業のように思えます。
内田先生はここで、他者との仮想的な同一化ができる人を「大人」という言葉で表します。 (p.228)
とりあえずは、他者との仮想的な同一化ができる人のことを「大人」と呼んだ。大人とは、自分たちがどういう状況にあって、何が起きていて、どこに何があって、どこに危険があって、どこに救いがあるか「わかる」人のことです。
自分の「立場」がわかっている人、自分の「分際」がわかっている人、自分がどういう場面で、どのような責務を果たすことを来たいされているのかがわかる人が「大人」です。...社会的成熟というのは、単に身体が大きくなるとか、知識があるとか、有用な技術を身につけているということではありません。同期できる他者の数が増えたことによって、上空から「自分を含む風景」を見ることができるようになることです。 (p.228)
では我々はいかにして同期できる他者の数を増やすことができるのでしょう。また、他者に同期するとは何を指すのでしょうか。
簡潔に言えば、自分のなかに「他者」の目をたくさん育てることです。たとえば、この『街場の文体論』という本について、中学三年生に伝えるには、中学三年生がこの話しのどこでつまづくか予想したり、彼ら彼女らが理解しやすいような順番で話しを並び替えたりしなければなりません。もしくは、これまで話してきたことの一部をカットして、もっと易しい内容にしてから伝えると思います。これができるのは、私のなかにいる中学三年生にわかる言葉を用いようとするからで、授業づくりのプロセスと少し似ているかもしれません。
これと同じ原理で、学部生に説明したり院生に説明したりすることは自分にとってはそれほど難しくないと思います(実際は難しいのですが、とりあえず可能ということにします。)しかし、この本についてを60歳の方に説明することは自分にはまだできないかもしれません。それは自分のなかに60歳の他者が十分に育っておらず、60歳の方がどのようなところでどう反応するか予想できないからです。あるいは宇宙人にこの本の説明をすることは自分にはできないでしょう。宇宙人の世界では「書く」という行為がどのような意味を持つのか、文体という概念を持っているのか、「街場」という日本語(地球語)独特のニュアンスが伝わるか、私には皆目検討がつきません。
このように、自分のなかには他者の目というのが少なからず育っています。自分が小学生のときは、今ほど他者の目が育っておらず、せいぜい自分が書ける文章といえば家族や友だちへの手紙や学校に配る全校通信、テストの採点者に読んでもらう答案くらいのものでした。しかし今では他者の目が当時よりたくさんあるため、その分「大人」に近く、より広い読者層に向けた文章を書くことができるようになったはずです。
■ 翻訳:原著者=他者と身体のリズムが同調するまで読み、そこで読み取ったことを読者=他者へと伝えること
ここからは翻訳実践をされている内田先生ならではの議論です。
先生がレヴィナスの翻訳をされるとき、原文の伝える意味がなかなかとれずにひたすら向き合っていると、ある日自身と原文の「呼吸が合っている」と感じることがあるそうです。レヴィナスが次に何を言うか、どう表現するか、どこで文が区切れるか、などが分かるようです。これは先生がいう「身体のリズムの同調」であり、これこそ道の思想に接近する唯一の方法としています。
身体が同期すると、自分の身体の内側に自分の知らなかった感覚が生じます。前代未聞の感覚だけれど、それが「僕の身体で起きている出来事」である以上、言葉にできないはずはない。現にそうやって自分の身体で起きている出来事を、思考にしろ感情にしろ、赤ちゃんのときから語彙を増やし、修辞や論理を学んで、言葉にできるようになったわけですからね。赤ちゃんにできたことが、大人にできないはずはない。 (p.236)
自分の知性の水準やスケールを超える知見を自分の言葉で表現しようと望むなら、どうしても、この「もどかしさ」の領域を通過しなければならない。でも、それは発生的にはごくごく自然なことなんです。幼児が言語を獲得してゆくプロセスは、まさにそのような「もどかしさ」の連続だったはずですから。 (p.237)
内田先生の議論はここまでですが、先ほどまでの「読み手への敬意」や「他者の目」といった論点を踏まえ、翻訳者の仕事が(1)原文の読み取り、(2) 訳文の作成、の2段階に仮に分けられるとすれば、以下のようにいえるのではないでしょうか。翻訳者は身体レベルでリズム同調を体験するほど原文と向き合ったあと、別の他者(読者)に対してそのリズムや原著者の思想・声などを再現しなければなりません。それも、新しい読者の目的や環境に合わせて。
今日も研究室にいるときに議論になりましたが、翻訳の評価を○か×かですることは難しく、△が連続していると考えたほうが良いかもしれません。ただ、翻訳者の方々はできるだけよい△をめざし、少しでも○に近づけるように言葉にこだわり続ける仕事と言えるかもしれません。
さらに話しを広げると、自分の関心である翻訳と英文和訳にも上の話を応用できる気がします。学校教育では翻訳という「読み手を意識した (2) の段階も重視した訳」が行われることはあまりなく、英文和訳という「読み取りが(それなりに)適切・正確かどうか、 (1) の段階のみしか考慮しない訳」を用いることが多いのではないでしょうか。もちろん目的によっては英文和訳を正当化することも可能なのかもしれません。受験者人数が多すぎて一度に採点する場合は英文和訳という評価方法はやはり優れているでしょう(妥当性の問題はおいといて。)
しかし、たまには翻訳活動というものを取り入れることも考えても良いのではないでしょうか。翻訳することで、言語に対して自覚的になり、外国語と母語とのつながりがより有機的になるよい機会だと思います。そうなると、外国語科と国語科が分断された科目ではなく両者の連携も視野に入れる必要があるかもしれません。
と話しが膨らんでしまいました。ちなみに、内田先生の翻訳に関するお考えは、大津・江利川・斉藤・鳥飼 (2014)『学校英語教育は何のため?』の巻末の鳥飼先生との対談にも表れていると思います。関心のお有りの方は、そちらも面白いと思います。
■ 借り物の言語から我々の言語は豊かになる
私たちは学校で「オリジナル神話」を教え込まれてきたといいます。
たしかに就職面接では自己PRが求められますし、小中学校でも「自分の言葉で」表現しましょうといわれます。しかしこの「オリジナル」「自分の言葉」というのは、無理に行うものではないはずです。(参考記事:「個性を捨てろ!型にはまれ!」)
内田先生もまずは他者の言語を借りながら自分の言語を豊かにすることが先ではないかと論じます。
できるだけ「できあいの言語」を借りずに、自分の「なまの身体実感」を言葉に載せれば、オリジナルな言語表現ができあがると思い込んだ。でも、これはたいへん危険な選択です。僕達の言語資源というのは、他者の言語を取り込むことでしか富裕化してゆかないからです。先行する他社の言語を習得し、それを内面化し、用法に合うような身体実感を分節するというしかたでしか僕達の思考や感情は豊かにならない。 (p.240)
ここまで読めば、バフチンの adaptation (換骨奪胎) の議論を思い出す人がいるかもしれません。自分もこの部分を読みながらバフチン言語論と非常に親和性が高いと感じました。バフチン言語論ではよく引用される以下の一節を紹介します。 (引用元はLaviosa 2014 Translation and Language Education)
As a living, socio-ideological concrete thing, a heteroglot opinion, language, for the individual consciousness, lies on the borderline between oneself and the other. The word in language is half someone else’s. It becomes ‘one’s own’ only when the speaker populates it with his own intentions, his own accent, when he appropriates the word, adapting it to his own semantic and expressive intention. (Bakhtin in Kramsch 2009: 115) (Laviosa, 2014, p.48)以下、日本語訳。
社会-イデオロギー的な実在生命体として、多様な意見 (言語) は、個人の意識にとって、自我と他我の境界線に存在している。ことばの半分は別の人の借り物であって自分のものではない。それが、話し手自身の意図、アクセントで述べられ、換骨奪胎し、自らの意味や表現意図に合うように調整されたときに初めて、話し手自身の言葉となる。
このように、我々は、他者の言語を借りてきて自分なりにアレンジしながら使ってだんだんと自分の言語にしていきます。ところが、どうも最近はオリジナル信仰が強い気がしてなりません。
でも、他人の言葉を模倣することを潔しとしない人たちがいる。...この言語についてのイデオロギーによって日本人の言語資源は恐ろしいほど貧しくなったと僕は見ています。そういう人たちの言語能力が劣化しているのは、身体実感をたいせつにしているからではないんです、身体実感を重んじるあまり、用法の拡大や精密化に興味を示さなかったからです。 (pp.240-241)
以前「生きる意味」という記事でも話題に上げましたが、どうも最近はオリジナル志向な言語活動や自己表現をする活動が多いように思えます。しかし、「他の人と違う」オリジナルさを追求したり、自己表現をさせられたりするのが果たして本当に良いのでしょうか。国語教育では芦田と友納の自己表現に関する議論があります。私は、自己表現を強いる活動では学習者の身体・こころに根ざした言語使用が生まれにくいと思います。ならばむしろ、「嘘日記」や「作り話(ストーリーテリング)」のような活動で言語使用を促すので悪くないと思います。
■ なぜ外国語を学ぶのか
最後に、「なぜ外国語を学ぶのか」という問いに対する内田先生の意見をご紹介します。「種族の思想」の檻の壁という言葉は、本書前半のエクリチュール・スティルなどの用語に対応していると読みました。つまり、母語を使っていることで無意識的に従っている思考の枠組みのようなものだと思ったらよいと思います。
理解できない言葉、自分の身体のなかに対応物がないような概念や感情にさらされること、それが外国語を学ぶことの最良の意義だと僕は思います。浴びるように「異語」にさらされているうちに、あるとき母語の語彙になく、その外国語にしか存在しない語に自分の身体が同期する瞬間が訪れる。それは、ある意味で、足元が崩れるような経験です。自分が生まれてからずっとそこに閉じ込められていた「種族の思想」の檻の壁に亀裂が入って、そこから味わったことのない感触の「風」が吹き込んでくる。そういう生成的な経験なんです。外国語の習得というのは、その「一陣の涼風」を経験するためのものだと僕は思います。「英語ができると就職に有利」といった「手持ち」の理由で外国語を学ぶ人たちは、どれほど語彙が増えても、発音がよくなっても、自分の檻から出ることができない。 (p.245)
簡単に言い換えれば、外国語という異なるものを学ぶことによって、自己を相対化することができるから外国語を学ぶということになります。自分がこれまで参考にしてきた『外国語学』や4人組の議論に似ているように思えます。
以下は外国語を学ぶ目的から少し離れますが、他者と関わるという人間の欲求を的確に表しているように思えます。
生き生きとした言葉を習得したいと願うのは人間の本性です。自分の外側にある他者に同期すること、それによってそれまでの自我がいったん解体して、より複雑でより精度の高い自我として再組織化されること、このプロセスは生命の自然にかなっています。だから、わざわざ利益誘導しなくても、人間は自然に他者の言語に仮想的に同一化して、他者に同期しようとするんです。 (p.247)
ここから、外国語を学ぶ理由を無理やり定式化すれば、
他者の言語である外国語を学び同化することで、自己を相対化し更新することができる(し、それが人間の自然な欲求である)。
となるでしょうか。
ただ、外国語を学ぶ実利的な理由を完全に否定することは今日は難しいかもしれません。現に検定試験や入試、就職試験などで英語の成績が貨幣的指標としての性質を持っている以上、実用的な目的で学んでいる学習者にも上のような他者への同化・自己の相対化/更新などの体験を積ませることが、より現実に即しているかもしれません。
以上、『街場の文体論』でした。
個人的な感想を述べると、本論には、内田先生らしくレヴィナスの他者論がベースにあるような印象を受けました。文章を書くという行為において「読み手」を想定せよ、というのは良く言われることですが、その読み手が「他者」であるという前提を改めて突きつけられた感じがしました。
レヴィナス以外にも、バフチンの思想が少し垣間見えたのが面白かったです。他にもエクリチュールの議論などは言語ゲームと絡めることもできるのではないかと思いました。
最後に昨日あったできごとについて。
昨日ゼミ教授との個人面談を終えましたが、教授も「日本語の文章をきちんと書けるようになりなさい」と仰っていました。印象的なのは、先生が何冊も本を書かれていて翻訳書も出されているのに、「いまだに自分の文章は分かりにくい」とお話されていたことです。
本書は文章を書くことに携わる全ての方にとって必読書だと思います。また、本書は言語論や翻訳論のみならず、他者意識に関する記述やフランス哲学の紹介、教育への言及などもあり、幅広い読者を想定されているのだと思いました。(だとすると、本書自体が内田文体論に自己言及しているようにも思えます。)
なにはともあれ、自分も読み手に配慮した文章を書けるようにしないと。。というわけで、新年度はもう少し記事の更新頑張りますので、よろしければご覧ください(笑)
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(追記) 2015/03/31
記事の最初の書名が間違っていたので訂正しました。大変失礼いたしました。
街場の教育論 → 街場の文体論
ご親切に訂正して下さり、ありがとうございました。